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    absdrac1

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    創作スタンプラリー企画(https://twitter.com/sousakustamp)様主催の企画(※)に参加したときのお話です。
    ※登場人物の行動が「見つける」「話しかける」「懐かしむ」「約束を破る」を満たしているお話を書く企画です。
    作家(小説家)夢野幻太郎先生に山の霊異覚が絡むお話です。

     作家は物語を探していた。
     彼が作家であるという理由の他に、病気で入院している親友の為にも物語が必要だったからである。物語は作家の愛用している文机にも、大量に本を収納してある彼の書棚の中にも、無論、未だ白い原稿用紙の上にも無かった。
     では、一体何処にあるのだろうと、作家は考えた。物語の断片なら、屹度自分の頭の中に、まだ未成熟な状態で存在するのかも知れない。それを見つけ、成熟させて頭の中から引っ張り出してこなければならぬ。
     しかし、自分が考えていることなど、そして、これから考えようとしていることなど、自分自身には把握出来ないものではないか。自分は今斯う考えている、これから斯う考える、という考えは想像上の近似解だ。
     数理論理学での推論体系は、仮定と推論規則から構成される。仮定を推論規則に適用することを続けて結論の文を得る。人の思考を表す推論体系が存在するか否かは知らないが、仮に存在するとしよう。推論規則は有限だとしても、仮定は無限にあるのだろう。それを、どの程度の実行速度か分からないが、推論規則へ適用していく。無意識の裡に仮定を選び、無意識の裡に推論規則を選ぶ。複雑で膨大な証明木が描かれる。自分の思考をトレースするなど不可能である。そして、それは自分自身の思考だからという意味でも無理なのである。自分で思考をトレースするということ自体が、既に証明木を作り出しているからだ。
     従って、これから考えようとしている物語の断片など、自身の頭から出て来る筈もなければ、成熟させることなど出来ない話である。自分が何を考えているのか把握出来ない、把握出来ないものは考えではない、即ち、自分は何も考えていない、ということを考えている、という逆理―――。
     作家はそのようなことを考えながら、自宅から程近い渓谷の遊歩道を歩いていた。この渓谷は執筆中の気分転換の散歩によく訪れる場所だった。作家が想像で思い描いた自身の思考の証明木のように、木々が生茂っている。空を見上げれば、繁茂する枝や葉が黒い影を作っていた。真夏の涼しげな渓流の水音に混じって、オオルリの鳴く声が聞こえてくる。
     作家は遊歩道から離れて林の中へ入り、自身の思考の導出過程を辿るように木々の合間を歩いていった。日光が遮られた少し暗い空間を、とるべき道を見付けながら足を進めていく。
     そうして、彼は見つけた。

         * * *

     そう、私は物語を探していた。そして、は人の形をしていた。そして、偶々は自分と同じ姿で現れた。

     木の向こうに人の気配がしたのだ。私は少々驚いたが、いつも山で人に会う時のように挨拶をしようとした。
    「こんにちは」
     林の中に静かに響いた声は確かに私の声だった。しかし、話しかけたのは私ではない。木の向こう側に居る人物だった。その人は私との間にある木々を縫いながら、此方へとやってきた。その姿を見て私は驚いた。その姿は私に瓜二つであったからだ。
     自分の容姿など実はよく把握していない。それが自分であるというだけで、認識することに何らかの制限が設けられているかのようだ。まず、自分の眼に近い部位は見えない。顔など他人がよく見る筈の部分が自分には把握出来ない。見えている部分が自分の一部だと信じられるのは、自分が動かそうと思って体を動かすと、実際それが動くからである。鏡を見ることで、自分自身の姿を確認することが出来るが、光が鏡に反射して網膜に映った像を、自分自身の姿と信じるならばという条件付きだ。
     声に関しても同様だ。自分が実際に発しているときの声は、録音したものと随分と違う。しかし、私は録音した自分の声を聞いたことが何度もあるし、よく知っている。こういった渓谷を歩きながら思い付いたことを、私は音声で録音し、後の執筆用のメモとして使用しているからである。話した通りに再生される。だからそれは私の声だ。そうして、異質に感じられるその音を、自分の声だと信じようとしている。
     今のこの状況は、まるで鏡を見ているようだった。
     だが、を自分自身だと信じることは出来ない。こんな場所に鏡、或いは、鏡のような現象を生じさせるものがあるとは思えないからだ。とにかく、は私にそっくりな何かであった。
     そして、眼前のが自分でないことを示す証拠があった。服装が異なるのだ。私はパーカーと綿パンという軽装だったが、眼前の人物は私が街へ出掛ける時のように和装だった。
    「あなたは、一体何者ですか」
     私は思った。が、声を発したのはやはり眼前のだ。私と同じ声で、恐らく私と同じ様な話し方なのだろう。
     私の驚いて声を発せない様子を見ながら、はくすくすと笑った。しかし――。
    「あなたと私が同一でないからといって、それが一体どのような問題を生じさせますか」
     私は思った。は言った。
    「あなたは私の思考をまるで読んでいるかのように話す。私の考えていることが分かるのならば、私の作る物語のことも知っているのでしょう」
     同様に、私は思い、は私の些か決定論的な考えを口にした。
     私は私の物語を見付けたのだと思った。しかし、は何も言わなかった。そういうときもあるのだと思った。

     さとりという山に住む霊異がいるらしい。佐藤春夫『山妖海異』では、『こちらの思う事を何でも見抜きさとるというので「さとり」と名付けている』という記述がある。
     私はひょっとするとこの覚に遭遇しているのかも知れない。
     覚は微かな笑みを浮かべ、私の翡翠色の眼で私を見詰めた。その瞳に映る私の姿は、眼前の覚の姿と同じであった。恐らく私の瞳にも、私と同じ姿が映っているのだろう。
    「では、私のことを書けば宜しい。その代わり……」
     私のことを忘れないで欲しい、と覚は言った。
    「私が生まれ育ったのは、青い山々が連なる北の地の古い街でした……」
     覚は話し始めた。
     それは私が親友と出会った街の話でもあった。私は懐かしさで胸がいっぱいになり、涙を一筋頬に零した。

         * * *

     私が生まれ育ったのは、青い山々が連なる北の地の古い街だった。元は城下町で、街の中心部には、今は公園となっている城郭の跡地がある。街は城址を中心として幾つもの通りが格子状に並んでいた。街の中心部には大きな川が流れており、その支流も街の随所へ流れ込んでいる。街を分断する幾つもの川には橋が架けられ、それらの橋にはそれぞれ特徴的な名前が付けられていた。
     私は天気のよい春先のある日、そのような橋の一つの上に立ち、城下町らしい古さを残す街並みと、それを囲む広い空を見上げた。街を囲むように迫る遠くの山脈は空の青さから浮かび上がり、その中からとりわけ不思議な形をした高い山がひとつ、厳かな存在感を示していた。桜の時季はもう少し先だった。
     この街の桜は綺麗だった。城址にある樹齢数百年の桜の木も、大きな池のある公園に植えられている沢山の桜の木も、北の遅い春に合わせて蕾を開いた。この土地の青く澄んだ空気の中を、静かにその薄紅色の花弁は舞っていた。まるで時が止まったような街の風景を背に、ゆっくりとゆっくりと花が散っていく。眼を閉じると、そのような光景が瞼の裏に浮かぶ。しかし、実際その光景を見たのだろうか。いや、屹度違うのだろう。――過去とは夢幻の類なのだ。
     私にとって夏は最も印象的だった。人生に於いて掛け替えのない友人に出会ったのだから。高校の夏休み直前のことだった。声を掛けたのは彼からだった。人見知りな私が彼と親しくなるにはそれなりの時間が必要だったが、彼は辛抱強く私に接した。私が、自分は物語を作っているのだと言うと、彼はこう答えた。
    「じゃあ、俺のことを書けばいいよ。その代わり……」
     自分と友人にならないか――。
     彼が難病を患い、入院してしまったのはそれからすぐ後のことだった。私は彼の入院した病院に駆けつけ、そうして、私たちは――。私たちは……。……。

     ――物事は、全体を見ようとすると大き過ぎて何かが欠ける。局所ごとに観察すれば、後からそれらをジグソーパズルのように組み立てる必要が生じる。しかし、部分の集まりが全体とは限らない。
     何かががちぐはぐだった。一つの思い出として纏まらない。エッシャーの絵画のように、ある階層の上に行ったと思ったら、再び同じ階層を歩いている。
     自分の過去のことなど実はよく把握していない。それが自分に関わっているというだけで、把握することに何らかの制約が設けられているようだった。まず、自分とは何かという定義がない。あるのは如何にもトートロジー的なものばかり。一連の「私は斯う行動した」という類の多数の仮定の文だけが、自分が何かであることを表現している。過去を持つことが自分を支えている。だが、それが一連の文であること、そこに記述された「私」が同一の誰かであることなど、厳密には説明出来ない。ただ、私がそう信じているだけだ。多数の主体の多数の離散的な体験を、誰かが其処に物語を作ることによって補完し、同一人物の連続的体験に変えている。「誰か」とは誰か。それは現在の――この一瞬だけ存在している「私」だ。
     私の過去のことを話している筈であるのに、まるで現在のことのように感じる。私の作っていたのは、彼の物語か、覚の物語か――。

    「そうして、私たちは友人となりました」
     覚は静かに言った。
     私は何かが引っ掛かっているように感じた。彼は本当に私の友人なのだろうか――。過去とは夢幻の類なのだ。私は夢幻を見たのではないだろうか。私が親友として愛した人物は本当に存在したのだろうか。では、私は現在、一体誰のために物語を作っているのか。
    「――嘘だ」
     私は思わず口に出した。覚は何も言わなかった。ただ、じっと私を見詰めている。その姿が、過去の私の友人の姿に重なった――。

         * * *

    「嘘ではありません。あなたは忘れていただけです」
     覚は作家の涙を、作家と同じ白く細い指先で掬った。渓流の音と夏鳥の囀る声が遠くに聞こえた。微風が肌を掠め、木々の小枝と葉が揺れる。木漏れ日の形が変わる。覚の姿も揺らめいて見える。
     夏休みには親友の病室に通い詰めたこと、宿題を教えてあげたこと、デタラメな物語を作っては彼に話して聞かせたこと、彼の笑顔が眩しかったこと、作家になるよう勧められたこと――。一連の記憶である筈なのに、それらは分離し、揺らいでいた。
     彼は言った筈だった。自分の物語を書けばよいと、その代わり自分のことを忘れないで欲しいと。彼は覚だったのだ。しかし、作家は忘れていた。覚の物語は、彼の紡ぐ親友との美しい思い出に置き換わっていた。そうして、覚は今、作家とその親友との物語を語っている。
     しかし、彼との約束は疾うに破られていたのである。

     は酷く動揺し、混乱している。は漸く思い出した。物語は途中から失われてしまっていたのだ。自分の過去という物語が。
     証明木が複雑に広がっている。それが推論規則の適用の結果であるのか、それとも単なる無意味な記号の羅列であるのかどうかも判断できない。
     物語の「語り手」が探している物語も、無意味な文の羅列なのだろうか。そこには「作家」と「私」と「語り手」が混在している。物語内の物語と、物語内の現実と、物語外の物語が錯綜している。

    「『作家』と『私』と『語り手』が同一であるとして、どんな問題が生じるんだい」
     眼の前のが言った。
     覚は、明瞭はっきりと分かるほど、私の現在の親友の姿になっていた。現在も病院に入院している筈の彼が、患者衣の姿の儘で此処に居る。
    「俺はもう一度君の物語を聞きたくて来たんだよ」
     親友はそう言って、子供をあやすように私の髪を撫でた。
     では、あの高校時代の夏は、何故私に話し掛けたのだろう。親友は私が疑問を口に出す前に答えた。
    「君に一目惚れをしたんだ」
     ――しかし、私は君との約束を破ってしまいました。
    「いいよ。だって、今まで君はずっと俺だけを見てくれていたしね」
     そう言って、木漏れ日の下で覚は眩しく笑った。

     覚は、親友は、作家の描く物語であり、私は彼らの為に物語を紡ぐ。その円環がまた語り手の物語になっていく。
     過去と現在、夢幻と現実が交錯している。物語の入れ子が存在する。そのような世界の文を表す推論体系は存在するのだろうか。これはナンセンスな疑問だろうか。
     私はそんな世界で物語を探している。
     作家はそのような物語を探していた。
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