死が二人を別つまで(ああ、死ぬんだな。私)
月光に照らされた真っ白な雪のキャンパスに、広がる鮮やかな赤色の液体。それは今も尚広がり続け、余白を埋めるように雪の結晶を赤く染め上げていく。周りに自分以外の人間はいない。いても手遅れだろう。そう確信できる程、彼女は自分の現状をよく理解できていた。最早痛覚は機能していないどころか、全身の感覚はほとんど無くなり、唯一感じるのは寒さのみ。最初こそ少しでも溢れ出るものを抑えようと腹部に当てていた手も、最早意味等なしていなかった。どんなに抵抗しても、身体どころか指先一つも動かせない。じわじわと近づいてくる"死"に独り、その瞬間が来るまで彼女に出来る事は何もなかった。
(…………)
彼女は自身が思っていたよりも、目の前に迫り来る"死"に対する恐怖感が薄い事に気がつく。決して穏やかな最期とは言えない状況に反して、自身の心は至って冷静だった。とても怖くて辛くて寂しいものだと思っていたが、自身が思ってた程では無かった。寒さのせいで感覚が鈍っているのか、元々そういうものなのかは分からない。
ただ、後悔だけはあった。もっと沢山やりたいことがある。会いたい人がたくさんいる。伝えたい想いも、数えきれないほどある。何より、やらなくてはいけないことが沢山ある。しかし、ここで命の灯火が燃え尽きる以上、それらは全て叶わない。最期の時まで後悔として心に残ったまま、泡沫の夢のように消えてしまう。
(それでも…………)
不思議と、安心感があった。後悔は沢山あるけれど、それ以上にこの役割から解放される事を喜ばしいと感じている。なんて無責任なのだろう。なんと身勝手なのだろう。そんな自責の念はあっても、今ここに彼女を責める人間は、誰もいないのだ。
(…………………………)
段々と瞼の重さに耐えきれず、視界は少しずつ狭まっていく。このまま身を任せて閉じてしまえば、きっともう二度と開かない。分かってはいるが、抗おうとしても重みは増すばかりで、止める事は出来ない。
それならば、もう、終わらせてしまおう。この人生に幕を閉じてしまおう。脳裏に浮かぶのは、両親、友達、恩師。
────そして、21人の大切な私の魔法使い達。
────上手く出来なくてごめんなさい。
────役目を果たせなくてごめんなさい。
───────約束を、破ってごめんなさい。
賢者がその瞳を閉じようとした、その時だった。
「賢者様」
突然、静寂に満ちた雪原に声が響く。透明なガラスのように美しく透き通っているのに、鋭利で恐ろしいナイフのように鋭く刺すような声。
(オー…………エン………)
賢者が閉じかけていた瞼が、僅かばかりに開く。そこには周りの風景に溶け込む程白い肌をした美しい男が、色違いの双眸を妖しく歪めながら賢者を見下ろしていた。賢者は彼の名前を口にしようとするが、口を満たす赤い液体に阻まれ、音は気泡となって消えてしまう。かろうじて目は開いているものの、視界は変わらず狭く、輪郭はボヤけている。そのせいで、目の前にいる彼がどういった表情をしているのか、今の賢者には分からなかった。
「可哀想な賢者様。よりによって最期を看取るのが僕だなんてね」
「……………」
「他の魔法使いは今も君を探してるよ。とは言っても、もう間に合わないだろうけど」
「……………」
「ねえ、賢者様。今君はどんな気持ち?」
「……………」
「痛くて苦しい?」
「……………」
「死ぬのが怖い?」
「……………」
「─────僕達が、憎い?」
「…………………………………」
オーエンの問いに、賢者は答えない。
いや、答えることが出来ない。何とか声を発そうとしても、最早気泡すら発生しない。今の賢者は瞼を閉じないように開けているのが精一杯で、それ以外に出来ること等なかった。
「…………つまんないの」
口どころか眉一つ動かすことすらしない賢者の様子に、オーエンは眉を顰める。オーエンは人の負の感情を好むから、何も反応を示さない賢者に不服なのだろう。しかし、不思議と彼の声は泣いているようにも聞こえた。声が震えている訳でも、その瞳から涙を溢している訳でも無いのに。
───それでも賢者は、何も出来ない。
苦痛に顔を歪めることも、悲痛な叫びを聞かせることも、彼の望む恨言を吐くことも出来ない。
声をかけることも、笑いかけることも、彼の手を握ることだって出来やしない。
(…………………あ)
オーエンの出現により僅かに伸びた時間も、精々数十秒程度。今度こそ、本当の終わりが訪れる。
(…………オー……エ………ン)
最期の力を振り絞り、真上に向けるしかなかった視線を、赤と黄色の瞳に移す。オーエンもそれに気づいたようで、僅かに息を呑む音が聞こえた気がした。
彼に伝えたいことは沢山あった。でも、それを伝えるための口は動かないから、結局何も伝えることは出来ない。
───だから、一つだけ。たった一つの感情だけを、瞳に宿す。別に伝わらなくていい、むしろ伝わったら怒られてしまいそうだから、伝わらない方がいい気がする。でも伝わったらいいな、なんて矛盾した感情を持ちながら、最期に熱を宿した瞳を彼へ向ける。もう、視界は滲んでいて彼がどういう表情をしているか分からないから、結局"これ"が伝わったかどうかは分からない。分からないけれど、後悔の一つを無くすことが出来たから、良かったということにしよう。満足そうに、幕を閉じるように、彼女はその瞳に映る世界に別れを告げる。
賢者は気づかない、気づけない。
彼の深い憤りも、悲痛な面持ちも、内に宿る熱情も。もう、何も見えない。
でもやっぱり、もう少しだけ、一緒にいたかったな、なんて。
そうして、彼女の瞳は永劫に閉じられる。
1つの死体と、1人の魔法使い。かつて賢者と呼ばれた女の死体を前に、魔法使いは歪な瞳を歪ませながら、それに身体を寄せる。五月蝿い鼓動も、忙しない息遣いも、耳障りなあの声も、この抜け殻からは二度と響くことはない。いい気味だ、清々する。このまま死体で遊ぶのも良し。獣の餌にするのも良し。他の魔法使い達からは見捨てられた。こいつをどうしようと、それを知る者はいない。
ずっとずっと、この女が目障りだった。
今までの賢者のことなんて殆ど覚えてないけれど、それでもこの女が異常だった事だけは確かだ。
気安く話しかけるところが嫌い。
友達になんてなれる訳がないだろう。
善人ぶるところが嫌い。
自分が良い気分になりたいだけだろう。
まるで愛しいものを見るように、自分を見るそのチョコレートのような甘ったるい瞳が嫌い。
あの瞳に見られるたびに、心が騒つく。
嘲笑ってやろうと思った。死への恐怖と苦しみに歪む顔を愉しもうと思った。
それなのに、あの女は、最期に。その瞳に。
「…………………………本当に、最悪」
オーエンはまるで造り物のような美しさを持つその顔を、青白く生気の無い顔に近づける。
やがて、月光に映し出された二つの影が、一つになって、混じり合う。
痛い
痛い
苦しい
痛い
気持ち悪い
苦しい
苦しい
苦しい
深い深い暗闇の底。痛み、苦しみが身体中を駆け巡る感覚にもがく。自分がどうなっているのか分からない。いや、そもそも自分とは何だっただろうか。分からない。分からない。ただただ今自分に不愉快なものが巡っていることしか分からない。早くこの感覚から逃れたいのに、どうすれば解放されるのかも分からない。助けてほしい、一刻も早く解放してほしい、終わらせてほしい。
「ダメだよ」
…………誰?
「お前はこれから死ぬまで、いや死んでも解放されることはないんだ。可哀想にね」
どうして?
「さあ?自分で考えてみなよ」
知らない。そんなの知らない。早く解放して。助けて。ここから出して。
「……お前、死にたくないんじゃなかったの」
え?
「解放されたらお前は死ぬけど、それでもいい?」
し、死にたくないです……!
「じゃあ、諦めて」
そ、そんな………。
誰とも分からない声の主に突きつけられる無慈悲な選択。それは永遠に囚われ続けるか、解放されて死ぬかの二択。自分が何者か、どこにいるかすら分からないけど、声の主の通り“死にたくない“。この答えだけは確かだ。それでもこの苦しみ、不快感は許容し難い。まるで自分の中に自分ではない何かが無理やり入り込んでるような、異物感。
「僕だって嫌だよ。お前なんかに預けるなんて」
え?
「精々みっともなく苦しんで、のたうち回って、もがく様を僕に見せて」
待ってください。どう言う意味ですか?
「さっきから言っているだろ、自分で考えて。じゃあ僕は行くから」
待ってください!あなたは、あなたの名前は?
手を伸ばす。いや、何も見えないから実際に手を伸ばしているのかは分からない。そもそも自分に伸ばす手が着いているのかも分からない。それでも、尚、伸ばさずにはいられない。
声の主は、そんな自分を嘲笑うかのように小さく息を吐き、微笑んだような、気がした。
「僕を見つけて」
「…………………」
重い、瞼をゆっくりと開く。視界にはいつからかすっかり見慣れてしまった天井。どうやら自室として当てがわれた賢者の部屋のベッドに寝ているらしい。それだけならいつもと変わらない日常なのだが──。
(何を……していたか、思い出せない……)
ベッドに入った記憶がない。それどころか自分が寝る前に何をしていたのか記憶もない。何か大事な夢を見ていた気もするが、穴が空いたようにすっぽりと抜け落ちて、夢を見ていたということ以外何も覚えていない。ただ、このまま寝そべっていても何も進展しないのが確かだ。腕に力を込め、起きあがろうとする───。
(………?力が、入らない………?)
いつものように腕に力を込めても、腹に力を込めて上体を起こそうとしても、少しも動かない。まるでこれが、自分の体では無いように、言うことを聞かない。しかし、自分の身に起こった異変はそれだけではなかった。
(声が、出ない)
喉は干上がったようにカラカラで、声を出そうとしても気の抜けた空気が吐き出されるばかりだ。自分の口から、音と言えるものを発することができない。つまりこれでは、助けを呼ぶことすら出来ない事を指す。記憶がポッカリと抜け落ちていることも、体が鉛のように重たいのも、声が一切出ないのも、明らかにおかしい。もしかしたら、抜け落ちた記憶の間に何か重大なことが起きたのかもしれない。そう考えると、全身に嫌な汗がドッと溢れ、自然と体が小刻みに震え始める。
(とりあえず、誰か、誰かに会わないと)
最悪な事態を考え、恐怖に身がすくむ。しかし、待っていても事態は好転するわけではない。とりあえずみんなに会って、みんなの無事を確認したい。嫌な想像のまま、終わってほしい。
(横に動かすぐらいなら、出来そう)
身体を起こすことは出来ないものの、寝返りぐらいなら何とか出来そうだった。起き上がることが出来ないということは、恐らく立ち上がることも出来ないだろう。だから少しはしたないが、ベッドから落ちて床を転がり、部屋から脱出を試みることにした。今の自分の身体には、身体の上にかかる布団すらとても重く感じる。しかし、少しずつだが何とか身体を横にずらし続け、身体をベッドの端まで寄せる事に成功する。賢者は視線をベッドの下へ向ける。寝台から床までの距離はそう高いというわけではないが、低いわけでもない。多少の痛みは覚悟しなければいけないが、音や振動で誰かが気づいてくれる可能性もある。賢者は寝相の悪さから、ベッドから床へ落ちたことは数回あったが、自ら体を放り出したことはない。そこまで大した行為ではないにしても、緊張から賢者は唾をごくりと飲み込む。そのまま意を決して、布団ごとベッドから空中に身を投げた。自身の身に走る衝撃と痛みに備え、目をギュッと瞑る。
《レプセヴァイブルプ・スノス!》
「!」
賢者の身体に走る筈だった衝撃は来ず、代わりに不思議な浮遊感と、優しい雨のような声が鼓膜を揺らす。恐る恐る晶が目を開けると、自分の身体とその身体を包んでいた布団が床から僅か数センチの所で、まるで時が止まったように静止していた。そしてそれと同時に、ドアがある方向から慌ただしい足音が近づいてくる。
「賢者様!!」
声の主が駆け寄ると同時に、自重を支えていた浮遊感は抜け、代わりに2本の腕が賢者の身体を支える。所謂お姫様抱っこのような状態だ。身体を殆ど動かせない賢者はは、そのまま駆け寄ってきた人物の顔を見上げる。
(ヒース……!)
賢者の想像通り、ドアから現れ床に激突する寸前の賢者を助けたのは、東の魔法使いであるヒースクリフだった。彼の美しい造形に見惚れながら、賢者は不思議な感覚を覚える。毎日見ている筈なのに、やけに彼の顔を懐かしいと感じるのだ。対してヒースクリフは賢者の顔を見ると、安心したように顔を綻ばせる。しかし次の瞬間、その美しいサファイアの瞳に涙が一滴溢れ、賢者はの頬を濡らす。
「……けんじゃ、さま」
(……!?!?)
賢者が驚く間にも、ヒースクリフの瞳からはポロポロと涙が溢れ、賢者の頬を濡らしていく。理由を聞こうにも、賢者の喉は震えることが出来ず、音のない空気を吐き出すことしかできない。自分で理由を探そうにも、記憶がない賢者には心当たりを探すことも出来ない。とりあえず自分が原因で泣いているのは間違いないようだ。
(だ、誰か、誰か……)
顔を伏せ、声を押し殺して泣くヒースクリフに、声を出せず身体を動かすことも出来ない晶。この状況を打開するには第三者に介入してもらうしかない。願わくばファウストやネロ、スノウとホワイトあたりが望ましいが、この状況で真っ先にこの場に駆けつけそうなのは───。
「おい、どうした!ヒース!」
賢者の想像通り、駆けつけたのはヒースの従者であるシノだ。恐らくヒースが呪文を唱えた声が彼の部屋まで聞こえていたのだろう。ヒースクリフを泣かせてしまったこの状況的に彼の登場がどう事態を動かすかは分からないが、こう着状態である今の状況を打開出来るのなら、シノからのお叱りを受けるのは覚悟の上だ。しかし、そんな賢者の考えとは裏腹に、シノは部屋に入ってきてこちらを見た瞬間からピタリとその動きを止めてしまった。鮮烈で壮麗な赤い瞳を大きく見開き、ヒースクリフ……ではなく、賢者の顔をじっと見つめている。
(シ、シノ………?)
シノの様子がおかしい事に気づき、賢者は眉を下げながらも、シノを見つめ返す。彼の表情は、まるで幽霊でも見ているかのように、驚愕に満ちていることが分かる。暫くして、ようやく宙に彷徨っていたシノの視線が、パチリとあった。
(……!?)
そしてそれを合図としたように、身体を静止していたシノがズンズンと突進する猪のように賢者とヒースに向かって近づいてくる。そしてそのまま、シノの両手は賢者の顔に向かって差し出される。
(えっ、なっ、なんで!?)
賢者は迫り来る掌に、反射的に目を瞑る。しかし、賢者の顔に伝わったのは、痛みや衝撃の類いではない。温かなものが、両頬を包み込んでいる。
(…………?)
恐る恐る、賢者は両目を開く。するとそこには、先ほどより近く───文字通り目と鼻の先にあるルビー色の瞳とかちあった、
(ち、近……!)
シノはその両手で賢者の顔を両側から包み込み、至近距離で賢者の顔をジロジロと眺めていた。しかし、次の瞬間には顔を包み込んでいた両手で晶の目、鼻、耳、口………あらゆるパーツをペタペタと触り始める。まるで、そこに確かにあるのを確認するかのように。
魔法使い達は、晶が元いた世界の住民に比べると、確かに異様に距離が近い者もいる。が、東の魔法使いは基本的には近くに寄らないどころか、他人に踏み入られるのを嫌う。シノは東の魔法使いの中ではまだ社交的な方ではあるが、それにしても今までここまで距離が近くなることもなかった。ただでさえ分からない状況が、より一層不明瞭で不可解なものに変わっていく。困惑で頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった賢者は、この後駆けつけてきた他の魔法使い達によって余計に混乱の渦に飲み込まれることを、まだ知らない。
✳︎
✳︎
✳︎
✳︎
✳︎
「落ち着いた?」
「はい……ありがとう、ございます」
先程まで喧騒に包まれていた賢者の部屋は、今は静寂に包まれていた。それもそのはず、先程までは殆どの全ての魔法使いが賢者の部屋に詰めかけていたが、現在はフィガロと賢者の2人きりだ。フィガロはベッドの側に椅子を寄せてそこに座り、賢者はヘッドボードに背中を預けた状態で身体を起こしていた。
賢者が目を覚まし、ヒースクリフとシノが部屋を訪ねてから数刻後、騒ぎを聞きつけ賢者の部屋に他の魔法使いがやって来てからは、それは本当に、本当に凄かった。ヒースのように泣き出す者、シノのようにそこに晶がいるのを確認するように触れてくる者、安心したように微笑む者。反応はぞれぞれだが、皆が一様に賢者の目覚めを喜び、安堵しているのは共通だった。暫くは声も出せないままもみくちゃにされていた賢者を助けたのは、ここにいるフィガロと双子だ。まだ病み上がりだから、と皆を宥め落ち着かせてくれた。その際に枯れた喉や動けない筋肉も多少だがマシにしてもらい、今はこうして話すことが出来ていた。
「ごめんね、みんな君が目を覚ましてくれたことが嬉しかったんだ」
「いえ、そんな!」
確かに混乱こそしたものの、皆の行動を迷惑に思ったわけではない。晶がその気持ちを込めて全力で首を振ると、フィガロはホッと息を吐く。そんなフィガロの反応が少しだけ意外で、賢者はついフィガロを凝視する。いつも余裕で虎視眈々とした彼が、心の底から安心したように微笑んでいるのだ。そんな賢者の視線に気づき、フィガロは自虐じみた笑みを浮かべる。
「これで俺も、君が目を覚ましてくれたことに安心しているんだよ」
そう言うと小さな声で5文字の呪文を唱え、いつの間にか手に持っていたマグカップに、星屑のような砂糖の欠片を入れ、スプーンでくるくると回す。そんなフィガロの様子に、賢者は意を決して、ずっと気になっていた事を口にする。
「フィガロ……。あの、私は、どれくらい眠っていたんですか?」
「…………」
目を覚ましてからそれなりに時間は経ったが、未だに目を覚ます前の記憶はない。だが皆の様子を見るに、1日2日ずっと眠っていた、という程度の話ではないことは分かる。フィガロは晶の言葉に、少し考えるような───晶の心中を図るように顔を少し伏せ考え込んだ後、ゆっくりと口を開く。
「ざっと3ヶ月、ってところかな」
「さ、3ヶ月!?」
これには流石の晶も驚いた。数週間か長くても1ヶ月程度だと思っていたのだ。そこまでずっと寝たきりだったのならば、これだけ筋肉が衰えていた事にも、皆の喜びようにも納得はいく。
「驚いた?でも正直俺は早くても1年後か、寧ろこのまま寝たきりになることも考えていたから。少し、驚いているよ」
「……えっ?」
そう言って、フィガロは手に持っていたマグカップを賢者に渡す。湯気が立つそこには白いホットミルクが湖面を揺らしていた。しかし賢者は貰ったそれに口をつける余裕はない。今フィガロが言った事の真意を、問いたださなければいけないからだ。
「待ってください。それってどう言う意味ですか……?1年……って?」
「君の身に起きたことを考えれば当然だよ」
ドクンと、心臓が大きく跳ねる。そう、結局はそこに至るのだ。
─────自分の身に、何が起きたのか。
身体中の穴という穴から汗が吹き出し、晶の身体に纏わりつく。鼓動は警鐘を鳴らすかの如く速くなり、呼吸も浅く、息苦しい。不快で形容し難いその感覚に、全身が震える。
「………この話はまた日を改めよう。今君に必要なのは健康的な食事と、休息だ。みんなにも言っておくから、今は休みなさい」
「……ッ待ってください!フィガロ!」
フィガロは賢者の肩を軽く叩くと、部屋から立ち去ろうと腰を上げる。そんなフィガロに、賢者は縋る様に彼の服の裾を掴む。こんな状態では、到底休むことなんてできない。
しかし、振り返ったフィガロの顔を見て賢者は息を呑む。その顔は微笑んではいたが、笑ってはいなかった。フィガロはそのまま表情を変えることなく、その手を賢者の頭の上にかざす。瞬間、背筋にゾッと悪寒が走る。フィガロが何をしようとしているのか、分かったからだ。
「待って!フィガロ!話を───」
「おやすみ、賢者様」
賢者がいやだと首を振る間も無かった。
───無機質な声で、呪文が紡がれる。
瞬間、賢者の瞼はカーテンを閉じるようにストンと閉じる。フィガロはそのまま傾く身体を受け止め、そっとベッドに寝かせる。賢者はすうすうと規則的な寝息を立てながら、穏やかな眠りについている。
「………ふう」
賢者が眠りについたのを確認したフィガロは、大きく息を吐きながら肩に手をやる。10分程度しか話をしていないのに、ここ最近で一番疲れたような気がした。
「フィガロ」
「フィガロや」
「………スノウ様、ホワイト様」
いつの間にやらフィガロの背後には彼の育ての親であり、師でもある北の魔法使い、スノウとホワイトが立っていた。やや頬は膨らんでおり、少し不満げだ。
「何も無理やり寝かせなくとも良かったのではないか?せっかく起きたばかりだと言うのに」
「このまま話をしても余計に疲弊させるだけでしたよ。賢者様も案外頑固なところがありますし」
「しかしのう、次に起きた時にどちらにせよ説明を求められるのではないか?」
「そうですね。なので少しだけ記憶をいじろうかと」
「うわ、悪い子じゃのう」
「親の顔が見てみたいのう」
「はいはい、何とでも言ってください」
そう告げると、再びフィガロは賢者の頭に手を翳す。傍には、彼の魔道具であるオーブがゆらゆらと揺れていた。スノウとホワイトはぶうぶうと文句を言いながらも、フィガロを止めるつもりはないようだ。
「しかし、何度見ても不思議な感覚じゃ」
「うむ。このような事が起こるとはのう……しかもあのオーエンが」
「長生きはするものじゃ」
「ま、我はもう死んでるけど」
「むむっ」
「ちょっと、集中しているんだから静かにしてください」
「「はーい」」
そう言って、フィガロは再び賢者に意識を向け、呪文を唱える。スノウとホワイトは何をする事もなく、その光景をただ眺めている。
猫が何処かで、鳴く声が聞こえた。
*
*
*
*
賢者が長い眠りより目を覚ましてから、早3ヶ月。賢者は徐々にだが日常を取り戻しつつあった。最初こそ3ヶ月間使っていなかった筋肉を動かすためのリハビリだったりとか、固形物を食べていなかった胃のための療養食だったりとか、魔法使い達には沢山苦労をかけてしまった。何よりも一番大変だったのは、自分の意志に関係なく寝てしまうことだった。ずっと眠っていたせいなのかは分からないが、ふと気づくと自室のベッドにいる、なんてことが何度もあった。ベッドに運んでくれた魔法使いによると、眠ってしまうらしい。立っていようと話していようと、関係なく。しかも眠りにつく時間は、数時間程度という時もあれば、丸3日眠りについていた事もあった。目が覚めた時に、今度こそ起きなかったらどうしようかと、リケとミチルに泣きつかれた時は本当に心が痛んだ。しかし、時間がたつにつれ、少しずつその頻度も減りつつあった。
とはいえ、以前と完全に同じというわけでもない。自分の意思と身体の動きが噛み合わなかったり、無性に甘いものだけが食べたくなったり。あとたまに、誰でもない誰かの声がする時もあった。声に反応して、辺りを見回しても誰もいない。しかも毎回違う声。共通しているのは、いつも自分の名前を呼んでいることと、決まって外にいる時だけ聞こえると言う点。正直奇妙で不気味としか言えないが、不思議と賢者は怖いものだと感じたことはなかった。寧ろ、応えることが出来ないことが申し訳ないとさえ思うぐらいだ。
そしていつも、賢者には形容し難い喪失感のようなものが常に付き纏っていた。何か足りない、何か忘れている。とても、とても大事なことを。しかしいくら考えても、視界に靄がかかったように何も思い出すことはできない。確かにそこにあるはずなのに、手を伸ばして掴もうとしても、すり抜けてしまう。漠然とした不安と後悔だけが、喉の奥で引っかかっている。その感覚が、どうにももどかしくて、苦しい──。
少しずつ元の生活に戻る上で、賢者は以前のように魔法使い達と各地の異変解決に向けた依頼の数々をこなすようになっていた。とはいえ、まだ万全の状態ではない賢者を危険な任務に連れて行くわけにはいかないので、なるべく簡単そうな依頼にのみ付いていき、徐々に以前のような状態に戻そうという流れだ。そして今日は、そろそろ危険度を少し上げてみようと言うことで、久しぶりの北の国への任務だった。とは言え、ミスラとブラッドリーがあっという間に討伐対象の魔物を倒してしまったから、着いて早々に帰路に着くことになった訳だが。
「《アルシム》」
いつものようにミスラが気だるげに呪文を唱えると、目の前に扉が現れる。扉の向こうには、魔法舎の玄関の光景が広がっていた。そしていつものように、他の魔法使い達に続いてその扉を潜ろうと足を踏み出す。
『───────』
「えっ?」
反射的に後ろを振り向く。後ろにいたブラッドリーと目が合う。ブラッドリーは突然振り返った賢者に目を丸くしていた。
「おいどうした賢者、早く行けよ」
「……今、声がしませんでしたか?」
「あ?声?」
賢者の言葉に、ブラッドリーは辺りを見渡しながら耳を澄ませる。しかし、聞こえるのは精々風の音ぐらいで、賢者の言うような声は聞こえない。
「気のせいじゃねえか?」
「そう、でしょうか………でも……」
「風の音か何かを聞き間違えたんだろ。まだ本調子じゃないんだから、とっととズラかるぞ」
「……分かりました」
言葉は少々乱暴だが、ブラッドリーの言葉は賢者を気遣ってのものだ。どこか釈然としない気持ちを抱えながら、再び前を向き扉をくぐろうとする。
『────!』
「!」
気のせいではない。確かに声が聞こえた。
───『見つけて』と、叫ぶ声が。
「!?おい、賢者!どこ行くんだ!」
賢者は思わず駆け出す。行かなければならないからだ。声の主の元に。
制止するブラッドリーの手を振り払うと、独り無謀にも雪が広がる森の中へ向かう。
「ハア、ハア………多分、この辺………」
数刻後、賢者は森の中を駆けていた。声が聞こえる方を頼りに、辺りを注意深く見回しながら進む。しかし進むにつれて、声は大きくなるどころかむしろ徐々に小さくなっていく。それが何を意味するか理解した、賢者は雪に足を取られながらも懸命に姿を探す。
───紅が、視界を掠る。
「いた……!」
賢者は急いで彼の元に向かう。真っ白な世界に、その紅は良く映えていた。
「ひどい……」
賢者を呼んだ主は、浅く速い呼吸を繰り返している。身体のところどころから紅の液体が大量に溢れていて、じわじわと地面の白を侵食していた。医学に精通していない賢者でも分かる。───これは、もう。
「………っ!」
そんな思考を振り切るように、賢者は肩からかけていたショルダーバッグをひっ繰り返し、中身を全て拡げる。その中から緊急用に入れていた包帯、タオル、消毒液を取り出し、懸命に手当を試みる。
しかし────。
「止まらない…………」
身体の重大な部分に及んでいるであろうその傷は、付け焼き刃に巻いた包帯程度では止まるはずもない。呼吸も浅く速いものから、だんだんと不規則なものに変わっていく。それに伴い、大きく開いていた瞼も徐々に細まり、今にも閉じてしまいそうだ。
「ダメ!閉じちゃダメ!」
賢者は出血元を強く抑えつつ、懸命に呼びかける。もう何をしても無駄だと分かっていても、自己満足なのだとしても、最期のその時まで諦めたくなかった。
『────』
「えっ?」
小さなかすり声で、言葉を紡ぐ。それはなんてこともない、小さなお願い。賢者は血だらけになったタオルから手を離し、すっかり冷たくなったそれを優しく握る。
「こう、ですか………?」
返事はない。けれど、顔がほんの少しだけ、穏やかなものにか変わったような気がした。
そのまま躍動が、止まる。
「おい賢者!危ねえだろ!勝手に……って」
背後から数人の気配と話し声が聞こえる。どうやら自分を追って探しに来てくれたのだろう。
「そいつは……狼か?」
白銀に輝く毛並みに、大きくしなやかな体躯。しかし身体には所々に赤黒い液体が付着しており、もう動かない。賢者は狼の前足を包むように掴んでいた。
「賢者!」
「賢者よ!無事であったか!」
「スノウ、ホワイト……」
ブラッドリーの後ろから黒髪と黄金の瞳を持つ、うり二つの小さな魔法使いが顔を出す。2人は賢者と、その傍にある亡骸を見ると事態を察したようで、揃って賢者に駆け寄り両側から賢者を抱きしめる。
「よしよし、辛かったのう」
「可哀想に、こんなにも震えておる」
「う、ううう………」
2人に優しさに触れ、自然と涙がポロポロと溢れる。不思議と涙は凍ることなく、2人の服を濡らしじわじわと広がる。2人はそれを気にすることなく、より一層強く抱きしめてくれた。その優しさがどうしようもなく温かくて、苦しくて、涙が止まることはなかった。
✳︎
「………………………」
その晩、賢者は自室のベッドに腰掛けながら、自分の掌をじっと見つめていた。あの後、涙が止まるまで待ってくれた3人に協力してもらい、彼の墓を作った。去り際に守護の魔法もかけてもらったから、早々に荒らされることはないだろう。
「……冷たかったな」
あの感触が、徐々に命が失われていく感覚が忘れられない。最期の瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。あれで良かったのだろうか。自分に出来ることがもっとあったのではないだろうか。ぐるぐるぐるぐると後悔が身体の中で渦巻いて気持ち悪い。
「……ううん、あれで良かったんだ」
深く暗い水底に落ちそうな意識を振り払うように首を振る。考えてもしょうがないことだ。あの時あの場で人間の自分に出来たことなんて限られている。それに、彼の望みは自分を見つけてもらう事だった。それが叶えられただけでも───
「あれ?」
────なんで私、狼の言葉が分かったんだ?
それは、何気なく抱いた違和感。いや、何気なく抱くこと自体がおかしい違和感。本来ならすぐ気づく事なのに、自分は動物の言葉が理解できることが当然の様に認識していた。そうだ、普通人間は、動物の言葉は理解できない。いや、魔法使いですら、動物とは対話は不可能だ。
─────たった一人を、除いて。
「うっ……!」
頭が割れるように痛い。全身の鳥肌が逆立ち、心臓はまるで何かを急かすように強く共鳴する。何か、何かを忘れている。自分にとって大事な事、忘れてはいけない事、────果たさなければいけない、約束。
思い出さなければいけない。思い出さなければいけない。思い出さなければいけない。思い出さなければいけない。思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ───────。
氷の様な肌。赤と黄色の双玉。銀雪のような髪。妖しく微笑む口元。三ツ首の獣。古びたトランク。
飛び散る鮮血。真っ赤な手。白い吐息。ぼやける視界。震える身体。
──最後に見た、美しいモノ。
「オーエン」
その言葉に応えるように、心臓が一際大きく高鳴った。
✳︎
✳︎
✳︎
✳︎
✳︎
コンコンコン。軽快なノック音が、深夜の魔法舎に響く。殆どの魔法使いは寝静まるこの時間。本来であればとっくに就寝している賢者は、とある魔法使いの扉のドアを叩いていた。
「はーい、どうぞ」
夜も深いこの時間だと言うのに、ノック音とほぼ同時に返事が返ってくる。まるで賢者の来訪を、予め知っていたかのように。
「……失礼します」
控えめな声でその扉を開き、部屋の中へ入る。目の前には、待ってましたと言わんばかりにニコニコと人の良い笑みを浮かべながら、此方を向いている部屋の主がいた。
「いらっしゃい、賢者様」
「……お邪魔します、フィガロ」
賢者はフィガロに勧められるままに、向かい合う形で置かれた椅子に腰を落とす。フィガロが小さな声で呪文を唱えると、手元にマグカップが現れ、横から宙に浮いたポットが黒い液体を注ぐ。
「賢者様はシュガーとミルク、いるよね?」
「………いえ、今日はこのままで大丈夫です」
そう?と答えながら、フィガロは宙に浮いていた陶器達を机の上に置く。賢者は注がれた黒い液体に映る自身を見つめながら、控えめに口に含む。香ばしい香りと強い苦味が、脳に響くように全身に広がる。
「……フィガロ」
「…………」
一言、名前を呼ぶ。彼はその先の賢者の言葉を待つように、口を閉じたままだ。
「オーエンは、何処にいるんですか」
オーエン。北の国の魔法使いにして、賢者の魔法使いの一人。言葉で人を巧みに操り、人の苦しむ様や恐怖を愉しむ恐ろしい魔法使い。賢者は目を覚ましてから3ヶ月もの間。一度も彼のことを思い出すことも、彼がいない事に違和感を抱くことも無かった。賢者の魔法使いは20人で、北の魔法使いは4人。その現状こそが当然のことだと、賢者は認識していた。認識させられていた。
賢者の言葉にフィガロは動揺することなく、表情は変わらない。顔は笑っているけど、怒っているように見えるし、悲しんでいるようにも見えるし、どこか懐かしんでるようにも見えた。
「ここにはいないよ」
「そっ……」
「まず、君の話をしようか」
そんなことは分かっている。反射的に言い返そうとした言葉は、即座に遮られた。しかし、フィガロの言わんとしていることを理解した賢者は、そのまま口を噤む。
「6ヶ月前、君は突然俺たちの前からいなくなった。何の前触れもなく、突然」
「勿論、賢者の魔法使い達が総出で君を探した。でも、どれだけ探しても君は見つからなかった」
「やがて、誰かが君は元の世界に帰ったのだと言った。その言葉に皆が賛同し、そうだったのだと結論付けた。そうあって欲しいと願った」
「その日から、オーエンは姿を消した」
「……………」
「そしてオーエンと入れ替わるように、君が戻ってきた」
「君はそのまま3ヶ月もの間眠り続け、目を覚ました」
「これが俺が知っている君のこと」
賢者は黙ってフィガロの言葉を聞いていた。驚きもあったし、成程とも思った。頭の中が混乱したし、すっきりもした気がする。
「さあ、今度は君から君のことを聞かせて欲しいな」
「……私は」
フィガロの瞳が賢者を射抜く。その瞳にはたまに彼が出す威圧感があった。賢者は大きく息を吸い込み、口を開く。
「私は、一度、死にました」
空気が揺れる。目には見えない何かが、ざわめいているようだ。
「死ぬ直前のことは覚えていますが、その前の事は思い出せません。だから、どうしてみんなの前から姿を消したのかは、分からないです。ごめんなさい」
「ただ、死ぬ前は、ずっと寒くて寒くて仕方がなかった。気がついたら全身が寒くて、息が苦しくて、手は真っ赤になっていました」
「ああ、自分は死ぬんだなと、思いました」
「そのまま目を閉じようとした時に、オーエンが現れて」
「………その後は、覚えていません。そのまま死んだんだと、思います」
「なのに、気がついたら私は魔法舎の自分のベッドに寝ていて、こうして今までと同じように暮らしている……」
大きく、息を吸い込んで、吐き出す。
「フィガロ、お願いです。オーエンは、どこにいるんですか」
目の前の灰色の瞳を見つめる。そこにある感情は賢者には分からない。チクタクと時計の音だけが、この部屋に鳴る音だった。数秒間か、数十秒間か。もしかしたら数分間2人は互いに見つめていたかもしれない。
──先に折れたのは、フィガロだった。大きく息を吐きながら、やれやれと言わんばかりに首を振る。珈琲を一口だけ含み、賢者の目を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「………まず結論から言うと、オーエンは生きている」
「!本当ですか」
フィガロの言葉に、反射的に腰が上がる。最大の懸念点が解消されたことに、安堵の息が漏れる。
「ただし、どこにいるのかは分からない」
「それは、どうしてですか?」
「………探しても、見つからないから、かな」
「……?場所は分からないのに、生きていることは分かるんですか?」
フィガロの言い方に違和感を覚え、首を傾げる。探しても見つからないのに、生きていることは分かる。なんとも奇妙な状況だ。しかし、急かしても意味はない。フィガロの言葉を大人しく待つ。
「それはね、君が生きているからだよ。賢者様」
「……どういう、ことですか?」
身体の奥が大きく跳ねる。フィガロの言わんとしていることが分からない。自分が生きていることと、オーエンが生きていることに繋がるなんて、そんなの──。
「賢者様、今の君の中には」
「オーエンの魂が入っているんだ」
その言葉を肯定するように、一際大きく心臓が高鳴った。
「魂………?」
「そう、魂。オズやスノウ様、ホワイト様、ミスラも口を揃えて言っているから間違いないよ」
「そん、な……でもだって、オーエンの魂は……!」
「そう、身体から取り出してどこかに隠していた。だからオーエンは殺しても死なない」
「でも今はここに、君の中に入っている」
そう言いながらフィガロは賢者の身体の中心を指差す。ドクドクと身体の奥で鼓動するそれが、危険信号のように耳の奥で騒いでいる。
「……ここからは、俺の推論だけど」
「オーエンは、君を生かすために、危険を冒してまで自分の魂を君の中に入れた」
「身体が死に離れゆく君の魂を、自分の魂を入れることで無理矢理引き留めて、この世に置いた」
「死んだ身体に魂は残らない。でも身体に魂が残っているのなら、逆説的に君は生きていることになった」
「正直、信じられない。ホワイト様の時にも思ったけど、よりにもよって君とオーエンが、なんて」
その顔は笑っているようで、笑っていない。愚かだと嘲るように、それでいて何処か羨むように揺れている。
「とはいえリスクは勿論大きい。当然だよね。別の魂が突然入った上、共存し始めるんだ。そう簡単にいくわけがない」
「現に君は3ヶ月間眠ったままだったし、オーエンはどこかに消えてしまった」
「ただ、君が生きていると言うことは、オーエンが生きていることの証でもある」
「オーエンが死んでいたら、無理矢理引き留めている君の魂は、この世に止まることはできないからね」
お互いの呼吸だけが、聞こえる。フィガロは穏やかに微笑み、反対に賢者の顔色は酷く青ざめていた。
「……………訳が、わからないです」
「まあ、そうだろうね」
頭の中をスプーンか何かでぐちゃぐちゃにかき混ぜられたようだ。内容もそうだし、オーエンが、と言うのもそうだ。フィガロが嘘を言っていないことは分かるが、脳は理解を拒んでいる。
ただ、一つだけ分かることはある。
「オーエンに、会わなきゃ……」
オーエンに会いたい。話をしたい。何故こんなことをしたのか。何故ここまでしてくれたのか。彼の顔を見て、声が聞きたい。
賢者は改めてフィガロの顔を見る。
「フィガロ………本当に、オーエンの場所は分からないんですか……?」
「いや?分かってはいるよ」
「そうですよね………ってわ、分かるんですか?」
驚きのあまり椅子から落ちそうになる。しかし、場所が分かるなら尚更何故見つからないのか分からない。
「場所はね。カインが教えてくれたんだ」
「カインが?」
「そう。ほら、彼オーエンと瞳を交換しているだろう?」
「正確には奪われているんですが……」
一応の賢者の訂正を無視して、フィガロは話を続ける。
「その交換した左目が、たまにオーエンの見る景色を映す事があるらしい」
「そしてオーエンが消えて以来、いつも見える景色は同じなんだそうだ」
予想だにし得ない見つけ方に驚きつつ、恐る恐る、賢者はフィガロに問う。
「それは……どこなんですか?」
フィガロは口角を上げ、ゆっくりとその場所の名を口にする。
「夢の森」
*
*
*
*
*
「送ってくれてありがとうございます、ミスラ」
「はあ……どうでもいいですけど、早く帰ってきてくださいね。あなたがいないと眠れないので」
「あはは……善処します」
賢者はミスラと共に閉じゆく扉を見届けると、改めて正面を向く。目の前に広がるのは不気味で幻想的な木々や植物が広がる場所。見た目は不可思議でまるで童話の世界のようなのに、その外観とは裏腹に常に致死性の毒を放つ場所。そしてオーエンが好んで訪れていた場所でもある。
───この場所に、オーエンがいる。
「よし………」
賢者は意を決して歩き始める。夢の森から放たれる毒から自分の身を守れない人間の賢者には、1人では到底踏み入れることができない場所だ。しかしフィガロ曰く、今の賢者は常にオーエンの魂に守られているようで、守護の魔法をかけずとも問題ないらしい。それでもここは北の国だ。最低でも1人は護衛を付けるべきだとカインやファウストには反対されたが、1人で行かせてほしいと頼み込んで、渋々だが納得してもらえた。何となくだが、オーエンは賢者1人に来て欲しいと思っているような気がした。もしかしたら、自分の願望かもしれないけれど。
一歩ずつ慎重に、見逃さないように辺りを見渡しながら散策する。夢の森には目立った目印がないから、カインの視点だけでは正確な場所の特定は難しい。ただ、何度か見えた景色は常に一緒の場所だったから、同じ場所に留まり続けているのではないかと言っていた。もしかしたら動けない状態なのかもしれない。少しでも早く見つけたいが、急いで見逃せば本末転倒だし、体力も消耗する。自身に言い聞かせながら、森の奥へ奥へと進んでいく。
魔法使い達も、賢者が寝ている間、賢者が起きてからも定期的にこの森へオーエンを探しにはきていたらしい。しかし、いくら探してもオーエンの姿は見つけることは叶わなかった。広大な森とはいえ、殆どすべての場所を探索したはずなのに、彼の姿は見当たらない。場所は移動していないというカインの証言を信じるならば、もしかしたらオーエンは姿を隠しているか、他者からは見えない状態になっているのかもしれないと言うのが、先生役の魔法使い達の見解だった。
ザクザクと土と草を踏む音だけが耳に入る。オーエンはこの場所を居心地の良い場所だと言っていたけれど、1人で歩くにはやはり不気味で恐ろしい場所だった。不安に駆られ、泣き出しそうになるのをグッと堪えながら、前に進み続ける。
(そういえば、この前の時もそうだったな)
あの銀色の美しい狼を思い出す。彼の時も、不安に押しつぶされそうになりながらその姿を探した。彼はあの時見つけてほしいと願っていた。恐らく群れから逸れ、魔物に襲われ息絶えた彼は、誰かにそばにいて欲しかったのかもしれない。
(私も、そうだった)
1人孤独に息を引き取るはずだった賢者の目の前に、オーエンが現れた。彼の表情も言葉もわからなかったけれど、ひどく安心したのだけは覚えている。彼は私を看取った後に、何を思ったのだろうか。彼は私を苦手だと言っていた。嫌われてはいなかったと思うけれど、彼の内面は誰よりも理解がし難かった。
(あなたのことを、知りたい)
オーエンのことを、もっと知りたい。
(あなたに、会いたい)
オーエンに会って、お礼が言いたい。
(あなたの声が、聞きたい)
オーエンと、話がしたい。
「オーエン…………」
足を一歩進めるたびに、彼への思いが溢れる。彼にとっては不必要で鬱陶しい感情かもしれないけど、それでも。この感情は、この感情だけは────。
「うっ」
森の中を抜け、開けた場所に躍り出る。目の前には大きな大きな木が神々しく聳え立つ。
───その根本に、見慣れた色彩があった。
「オーエン!!」
居ても立っても居られず賢者は駆け出す。早く早くと腕も足もがむしゃらに振ってかの魔法使いの元へ駆け寄る。
「オーエン、オーエン!大丈夫ですか!?」
さっと全身を見渡した限りでは、目立った傷もない。むしろ不気味なぐらい綺麗だった。白いマント、白い軍帽にストライプ柄のスーツ。いつも妖しげに光る色の違う双眸は閉じられ、微かにだが呼吸を繰り返していた。
「良かった、生きてる………!」
生きているとはフィガロから伝えられていたが、実際にその目で見るまではずっと不安で仕方がなかった。
「オーエン、起きてください!オーエン!」
穏やかな寝息をたてているオーエンを揺り動かす。あまりやりすぎると反撃されかねないため、最初こそ控えめに揺らしていたが、いくら揺らしても起きる気配はない。徐々に徐々に力を大きくしても、結果は同じだった。
「全然、起きない………」
その後、賢者は思いつく限りの事を行った。
揺する。耳元で大きな声を出す。大きな音を出す。強めの力で叩く。擽る。つねる。鼻をつまむ……等その他たくさん。オーエンに知られたら間違いなく怒られそうな事も意を決して行った。しかし、待てども暮らせどもオーエンがその目を開けることは無い。賢者は途方に暮れるしか無かった。
「あとは…………」
他に思いついた案がないわけではない。むしろすぐに思いついたけど実行しなかった案はある。とはいえ、これに関しては緊急事態とはいえ気は進まない。賢者の元の世界では、起きない相手を起こすといえばこの行為であるが、この国にこのセオリーがあるのかどうかも分からない。仮にこれで起きたとして、オーエンの心を傷つけてしまっては本末転倒だ。
「オーエン、どうして起きないんですか?」
縋るようにオーエンに問いかける。勿論オーエンからの返答はない。変わらず穏やかな顔で呼吸のみを繰り返している。そもそも何故オーエンは寝たままなのだろうか。原因があるとすれば、賢者の身体に魂を入れた事に他ならないだろうが。
「………あ」
賢者は出立前にフィガロと交わした会話を思い出す。
『オーエンの魂と、君の魂は今、複雑に絡み合い混じり合って殆ど一つの状態になっている』
『だからこそ、その適応のために君の身体は暫く目を覚まさなかった』
『そしてオーエンは、自身の身体から常に魂が離れている。そして更に君の魂という異物が混じった事で、より不安定になっている』
『オーエンが姿を表さないのは、きっと──』
そっと自身の胸の上に手を当てる。ドクンドクンと規則的に鼓動するそこに、二人分の魂があるなんて未だに信じられない。反対に、オーエンの中心に手を当ててもそこが鼓動することは無い。服の上から触っているのに、こちらの身も凍らせるような冷たさを感じる。
「オーエン………失礼しますね」
賢者は断りを入れてオーエンの背中に腕を回し、自身の身体の中心とオーエンの身体の中心が重なる様に抱きつく。力の入っていないオーエンの上半身は賢者の身体にそのままの体重を載せる。その重さに呻きながらも、全身に力をこめて支える。緊張のせいか、それとも自身の身体に反応しているのか、鼓動は共鳴する様に大きく大きく動く。自身の身体は燃えるように熱いのに、抱き締めているその身体は氷を抱いている様にとても冷たい。
(オーエン、オーエン……)
目を強く瞑り力をより一層込めながら、苦しいぐらいに抱きしめる。願いを、祈りを込めて。
あの時に言えなかった言葉を、瞳に込めた感情を、もう一度、貴方に。
──今度こそ、直接言葉で伝えたいから。
「………………………………晶」
耳元で声が聞こえる。凍てつく冬の寒さの様に、美しくも恐ろしい声が。思わず身体を離し顔を見つめたそこには、先ほどまで損なわれていた赤と黄色の瞳が、色褪せぬ姿でそこにあった。
目頭が燃えるように熱くなるのを感じる。
「……お待たせしてしまってごめんなさい。オーエン………」
「…………………………遅い」
オーエンは眉を顰め、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、胸元にいる賢者を見つめる。オーエンの視線に、賢者は自分の現在の体勢がそれなりに恥ずかしい状態になっていることに気がつく。
「すみません!今すぐ離れますか……わあっ!?」
賢者は慌ててオーエンから距離を取るために腰を上げようとした瞬間、オーエンは突然賢者の腕を掴んでそのまま引き寄せる。不安定な体勢だった賢者はなすがままに身体を引っ張られ、再びオーエンを抱きしめる様な形に戻る。
「あの、オ、オーエン?」
「寒い」
「えっ、でもあの」
「うるさい。静かにして」
「は、はい………」
そのままオーエンは口を閉じ、二人の間に再び静寂が訪れる。賢者は腕と身体をガッツリと固定され、身動きを取ることは難しかった。
(………このままでいろ、ってことなのかな)
元々抵抗する気はあまり無かったので、賢者も同様に腕に力を込める。身体は二つ重なっているのに、聴こえる鼓動はひとつだけ。それが何とも奇妙で、不思議な感覚。起きても尚、オーエンの身体は人形を抱いているかの様な冷たさだった。しかし、じわじわと自身の熱が伝わっているのか、徐々に温もりが広がるのを感じた。
心地よさから段々と微睡始める意識の中、賢者はオーエンに問いかける。
「オーエン」
「…………」
「オーエンはどうして、私を助けてくれたんですか?」
「…………」
賢者の問いに、オーエンは答えない。賢者も別に答えが欲しかった訳ではないから、そのまま目を瞑る。
「……………から」
「えっ?」
オーエンの言葉に、薄れていた意識が引き戻される。掠れたように小さなその声が、何を紡いだのかは分からない。聞き返す様に声を上げると、わざとらしい大きなため息が聞こえてくる。しかしそのまま待つように黙ったままでいると、やがて諦めた様に彼は口を開いた。
「お前が、笑っていたから」
「……………」
それ以上、オーエンは何も言わなかった。賢者もその言葉に答えることもなく、代わりに、彼を抱く腕の力を、少しだけ強くした。
「オーエン」
「………何」
「…………ありがとう」
そのまま、賢者はその身をオーエンに預ける。恐ろしく残忍で狡猾な魔法使いの腕の中で、穏やかな顔をして眠りにつく。
「……………………………本当に、最悪」
不気味で不可思議で幻想的な森の奥深く。1人の魔法使いと、1人の人間。2人は溶けて混じり合って、やがて一つになった。
人間は魔法使い無しでは生きていられず、魔法使いもまた、人間がいなければ死んでしまう。しがらみを拒んだはずの魔法使いに、何よりも強い繋がりが出来たのは、何とも皮肉なものだった。
それでも、尚。魔法使いは願う。
この小さな温もりが、いつまでも側に在る事を。