リナリアの惹起「ミチル!あっちから美味しそうな香りがしますよ!見に行きましょう!」
「わっ、リケ!待ってください!」
「おこちゃま共ー、あんまり遠くに行くなよー」
「「はーい!!」」
「ふふ、リケとミチルは今日も元気ですね」
「ですね」
太陽が煌々と輝く午後の昼下がり。人混みと喧騒が行き交う中、賢者である真木晶は、賢者の魔法使いであるリケ、ミチル、ネロ、レノックスと共に中央の市場へ買い出しに来ていた。本日の賢者に買い物の予定はなかったが、中央の市場に行きたいとねだったリケとミチル、2人の保護者として着いていくことにしたネロとレノックスの4人に玄関で偶然出会い、賢者様もよかったら是非、と誘われたのでせっかくだから着いて行くことにしたのだ。中央の市場自体は何度も訪れていたが、出店や品物は季節を追うごとに定期的に入れ替わっている上、かなりの規模だ。いつ来ても褪せないたくさんの魅力的な品々は、賢者の心をワクワクとさせるものばかりだ。
「賢者様。あちらには部屋に飾る置物の類が売っているようです。よかったら見に行きませんか?」
「わあ、いいですね!行きましょうか!」
レノックスが指指す方向を見れば、確かに様々な形をした色彩豊かな置物が目に入る。猫の置物はあるかな、ヒースが好きそうな工芸品なんかもありそうだ、お土産に買って行くのもいいかもしれない。そう思いながら、賢者はレノックスの後ろを追って、一歩足を踏み出す。
「賢者様!」
「うえっ!?」
しかし、踏み出すために浮かせた足は地面に着陸はせず、背後から引かれた力によって空中に放り出される。賢者の名を呼んだ人物は、賢者がいつも身につけているパーカーの裾を掴んでいるようで、進む方向とは真逆にかかった力は、賢者の身体を締め付ける。
「ああ!申し訳ありません賢者様!お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です……」
どうやら咄嗟に裾を掴んでしまったらしい背後の人物は、賢者の苦しそうな声を聞き、即座に謝罪の言葉を述べる。賢者はその言葉を聞きつつ、声の主を確かめるため、後ろを振り返る。するとそこには、指通りが良さそうなしなやかなブロンドのロングヘアが目を惹く女性が、眉を下げながら心配そうに賢者を見つめていた。彼女は裾や襟に白いレースがあしらわれた、蜂蜜を溶かしたような黄色いワンピースを身に纏っており、それが余計に彼女の可憐さを引き立てていた。
「申し訳ありません賢者様。咄嗟だったとはいえ無礼な真似をしてしまい……」
「い、いえ!気にしないでください!それより、私に何か御用でしょうか?」
目の前の少女は、自分の無礼な行動を恥じているのか、話をしながら少しずつ身体を縮こませてしまう。賢者はそんなしおしおと花が枯れるように肩を窄めてしまう彼女を励ますように、なるべく元気な声を意識しながら要件を聞く。
「あの、実は私、賢者様にお願いしたいことがあるんです!」
「お願い……?」
「はい!こ、これを………!」
そう告げると、彼女は肩から下げた淡いピンク色の可愛らしいポーチから、一枚の便箋を取り出し、賢者に突き出すように勢いで目の前に差し出す。その勢いに押された賢者が咄嗟に受け取ったそれは、可愛らしい花の模様が描かれていた。
「手紙、でしょうか?」
「そ、それを!カイン騎士団長にお渡しして頂けないでしょうか!」
───なるほど。
ようやく彼女の意図に気づいた晶は、納得したように心の中で頷く。
彼女は晶のことを「賢者様」と呼んでいた。つまり、晶が異界から召喚された賢者であることを知っている。そして、「賢者」である晶に用があるとするなら、それは大いなる厄災によって引き起こされている数々の異変への対応の依頼か、彼女が統率している(と思われている)賢者の魔法使い達に関わる事のどちらかである。今回はどうやら後者のようだ。
「私は構いませんが……カインなら直接お渡しした方が喜ぶと思いますよ?」
これがファンレターの類なのか、ラブレターの類なのか賢者には分からないが、どちらにせよカインなら直接渡した方が真摯に受け止めてくれるし、喜んでくれるだろう。しかし賢者の提案に、目の前の少女は千切れんばかりの勢いで、首と手を横に振る。
「無理です!無理です!直接お渡しするなんて心臓が持ちません……!」
「な、なるほど……」
カインは気さくで明るくて、誰にでも分け隔てなく笑顔で接してくれる優しい人だ。最初は警戒を見せていた因縁の相手であるオーエンにも、今ではすっかり気楽に話しかけている。そんなカインだからこそ、この世界に召喚されたばかりの右も左も分からなかった自分にとってはとても有難い存在だったし、何でも気軽に相談できた。しかし、例えば賢者と賢者の魔法使いではない、何も関係がない状態でカインと出会っていたなら、今のように気さくには話しかけられないだろう。そもそも、中央の国の騎士団長という肩書きを持っていたカインは、一般市民にとっては芸能人のような立ち位置なのかもしれない。ファンとして推しに直接何かを手渡しするのは、確かにかなりの勇気が必要だろう。そこまで賢者は考えると、彼女の菖蒲色をした瞳を見つめながら、優しく笑いかける。
「わかりました!この手紙は私の方からカインに渡しておきますね!」
「ほ、本当ですか!ありがとうございます賢者様!」
賢者が快諾の意を告げると、不安に揺れていた瞳は光が差し込んだように明るく輝く。その表情は百合の花の如く可憐に咲き誇り、その眩さに思わず賢者は目を瞑る。こんなにも可愛らしい女性に好意を向けられるカインのことが、ほんのちょっとだけ羨ましい気持ちになった。
少女は何度も賢者へ向けて頭を下げると、嬉しそうに足を弾ませながら去って行った。彼女が見えなくなるまで見送った後、少し離れた場所で2人の様子を伺っていたらしいレノックスが賢者の隣に歩み寄る。
「賢者様」
「あ、レノックス!すみませんお待たせしてしまって……」
「いえ、それは構わないのですが……よろしいのですか?」
「この手紙はちゃんと責任を持って、カインに渡しますよ?」
「いえ、そうではなく……」
「?」
「………何でもないです、では行きましょうか」
「はい!」
レノックスは何か言いたげに口を開くが、少し逡巡した後に結局口を閉じてしまう。そんなレノックスの様子を不思議そうに見ていた賢者だったが、その疑問は特に膨らむ事なく、賢者の思考は置物の事でいっぱいになってしまった。
────この一件が、後に賢者を苦しめる事態を引き起こすとは露ほども思わず。
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賢者はその後、レノックスと共に出店を回り、ネロやミチル、リケと合流。そして、少しの買い食いを楽しんだ後、何事もなく魔法舎へ帰ってきていた。置物の店では丸まって寝る可愛らしいネコの置物を買えたし、みんなで一緒に食べたフルーツ串が美味しかった。そんなことを思い出して多幸感に包まれつつ、ベッドに寝そべっていると、左隣の部屋からドアが閉まる音が聞こえる。部屋の主であるカインが、帰ってきたらしい。カインは数日前から、グランヴェル城で働くアーサーのサポートをしに行っていたので、隣から物音が聞こえるのは久しぶりだった。
「………そうだ、手紙!」
ここまで考えて、賢者はようやく市場での出来事を思い出す。そう、カインにあの女性の手紙を渡さなければいけない。微睡んでいた脳が一気にクリアになった賢者は、慌てて緩めていた身体に力を入れる。バッグに丁寧に仕舞っていた彼女からの手紙を取り出し、左隣の部屋へ向かった。
「すみませんカイン、晶です。今、お時間大丈夫ですか?」
「お?賢者様か!ちょっ………とだけ待ってくれ!」
賢者は扉の前に立ち、、数回程心地良いリズムでカインの部屋へと通じるドアをノックする。部屋の主は、訪問者が賢者と分かると嬉しそうに返事をしたのも束の間、室内からは何やらゴトゴトと何か物を動かすような物音が聞こえるカインの部屋は何度か訪れた事があるが、汚いとまでは言わないものの、例えばヒースクリフの部屋のように整理整頓されている部屋、とは言い難い部屋だった。恐らく今、扉の向こうでは慌てて片付けをしているカインがいるだろうことは容易に予想が付く。賢者が扉の前で待っていると、数十秒程経って、ようやく閉じられていた扉が開く。
「待たせてすまない、賢者様」
「いえ、こちらこそいきなり訪ねてしまってすみません」
勢いよく開かれた扉からは、額に汗を浮かべたカインが出てくる。カインの背後に映る部屋は、パッとみた感じではきちんと整頓されているように見える。以前訪ねた時のように、魔法でぎゅっとまのめたのだろうか。
「いや、俺はあんたに会えて嬉しいからな、気にするな!」
「そ、そうですか」
「?」
市場であった少女の笑顔はマリーゴールドのように華やかで可愛らしいものだったが、カインの笑顔は向日葵のように大きく朗らかで、なによりも眩しい。カインの笑顔を直視した賢者は、太陽の光を直接見たかの如く目を細める。そんな賢者の様子は特に気にせず、カインは人懐っこそうな笑顔を浮かべながら首を傾げる。
「それで、どうしたんだ?」
「あっ、そうでした」
カインの一言で我に帰った賢者は、手元にある手紙をカインの前へそっと差し出す。先程少しだけ強く握ってしまった気がするが、見える範囲では特に皺や汚れはない。賢者は心の中でこっそりと安堵の息を吐く。
「これは、手紙か?」
「はい、実は───」
賢者は昼間に中央の市場で起こった出来事をそのままカインに伝えた。買い物の途中で少女に呼び止められた事、少女からカインへ手紙を渡して欲しいと頼まれた事、あと少女がめちゃくちゃ可憐で可愛らしい子だったことも一応付け加えておいた。
「───というわけです。この手紙、受け取って頂けますか?」
「ああ、分かった。わざわざすまないな、賢者様」
「いえいえ、大したことじゃないですよ。では私はこれで………」
「なあ、晶」
カインに無事、手紙を渡せたことに安堵した賢者は、カインも疲れているだろうし、ということでそそくさと自分の部屋へ戻ろうとする。が、それを告げる前にカインに名前を呼ばれ、自然と足が止まる。
「はい、どうしましたか?」
「晶はその……」
そう言うと、カインにしては珍しく口をもごもごと、まごつかせるように動かす。いつも思った事をすぐに口に出してしまうカインの珍しい様子に、賢者は首を傾げつつカインの次の言葉を待つ。
「この手紙をもらった時、あんたはその、どう思った?」
「手紙をもらった時、ですか?」
カインの質問の意図が分からず、ますます賢者の首の角度は増していく。もらった時と言っても、これは晶にでは無くカインへの手紙なので、どう思う、と言われてもピンとこない。
「うーん。カインは凄いな、と思いましたかね……?」
結局、晶は意図が理解できないまま、貰った時に思った事を脚色することなくそのまま言葉にする。そんな晶の言葉に、カインは一瞬悲しそうな、がっかりしたような表情を見せた、ような気がした。しかし、賢者が瞬きする間にいつもの表情に戻り、再び笑顔を見せる。
「……そうか!変なこと聞いて悪い」
「いえ……?私もすみません、ちゃんと答えられなくて」
「謝らなくて良いさ!じゃあ、また夕飯の時に」
「は、はい。また後で」
そのままカインは自室の扉を閉め、賢者は1人廊下に取り残される。
(私、何かカインのことを傷つけることを言ってしまったのだろうか……)
気のせいだと思うほど一瞬だったが、確かにカインの表情には悲しみと落胆の色が含まれていた。お気に入りのグラスが割れてしまった時のような、楽しみにしていた旅行が中止になってしまった時のような、そんな表情だった。しかし賢者はカインとの会話を思い出すものの、カインを傷つけてしまうようなことは、言っていないはずだ。しいて言えば最後の会話だろうが、どんなに考えても結局彼の意図は晶には分からなかった。何か傷つけたなら謝りたい、しかしなぜ傷つけたのかが分からなければ謝ることも出来ない。
手紙を渡すという一仕事を終えたはずの晶は、突如降って沸いた別の大きな問題に、頭を抱えるしかなかった。
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数日後、賢者は再び中央の市場へ来ていた。今回の同行者はルチル、クロエ、ヒースの3人。クロエの衣装作りに使う布や装飾品などを見繕うためだった。
「賢者様、なんだか元気ないね。大丈夫?」
「えっ、元気ないように見えますか?」
キラキラと輝く煌びやかな装飾品を前に、目を輝かせながらあれもこれもと吟味していたクロエだったが、ふと目に入った賢者の表情が気になったのか、賢者に優しく声をかける。賢者は自分が無意識のうちに暗い表情をしていたことに気がつき、慌てて笑顔を取り繕ったが、その顔はどこかぎこちないもので、沈んだ表情を隠しきれていなかった。
「賢者様、何か悩み事があるんですか?私で良ければお話聞きますよ」
「お、俺も!お役に立てるかは分かりませんが、お話ぐらいなら聞けると思います!」
「ルチル、ヒース……。ありがとうございます」
ルチルの優しく温かな言葉と、ヒースのぎこちないながらも気遣わしげな言葉に、賢者は心が温かくなるのを感じる。
賢者はあれ以降、ずっとカインの言葉の意図について考えていたが、結局その意図は分からずじまいだった。悩むぐらいなら謝ろうと一度はカインに声をかけたものの、あの時見た表情は自分の気のせいだったのかと思うほど、カインはいつも通りだったので、謝ることは出来なかった。賢者の中には、あれは気のせいではなかったという確信はあるものの、余計なことを言ってむしろ困らせるようなことになったら──そう思うと賢者は動く事ができず、心にはモヤモヤとした重りが増えるばかりだった。3人の買い物について行ったのも、この心の蟠りが少しでもとければ、という気持ちがあったのだが、3人に余計な心配をさせてしまい、申し訳ない気持ちになる。
しかしこれ以上自分だけで考えても分からないのなら、いっそのこと第三者の意見を聞いた方が良いのではないだろうか。そう考えた賢者は、気遣わしげにこちらを伺う3人に、事情を話そうと口を開く。
「───実は、」
「あ、いたいた!いたよ!」
「賢者様、ですよね?はじめまして!」
「えっ?」
賢者の口から発されたはずの言葉は、第三者の声によってかき消されてしまう。突然名前を呼ばれ、驚きながらも振り返ったそこには年若い少女が3人、興奮した表情で賢者を見ていた。
「見つけられて良かった〜!」
「やっぱこっちに来て正解だったよ!」
「あ、あの?」
「あっ、すみません!つい興奮しちゃって!」
3人の少女は賢者と3人を置いてけぼりに、楽しく仲睦まじげに話をしている。このままでは話が進まなさそうだと感じた賢者が、恐る恐る声をかけると、3人の中の1人がこちらから漏れ出る困惑を感じ取り、未だに興奮中の2人を宥める。
「ごめんなさい!見つけられるとは思わなかったから盛り上がっちゃって!」
「い、いえいえ。それは構わないんですが……私に何か用があるんでしょうか」
似たような会話を数日前にしたが、まさか……?そんな賢者の予感は、少女達の言葉で一つの確信に変わる。
「あのあの、賢者様からカイン様にこれを渡して欲しいんです!」
賢者の感じた既視感がそのまま現実へと変わる。少女達は、3人揃って賢者の前に手紙を差し出す。3人それぞれで違う模様、違う色をしていたが、どの便箋もとても可愛らしいものだった。
「え〜と、どうしてですか?」
「実は、ちょっと前に綺麗な女の人が、賢者様にカイン様へこれを渡して欲しい!って手紙を渡しているのを見いたんです!」
「この子からその話を聞いて、私達もカイン様に渡してもらいたいな〜って思って!」
「それでもし会えたら、渡してもらおうって探してたんですけど!まさか本当に会えるなんて!」
やはりそうだった。どうやら1人があの現場を目撃しており、その話を共有した結果として、自分達の手紙も渡してもらおうと、賢者のことを探していたようだ。
そして3人の言葉を受けた賢者は、どうしようかと悩んでいた。一度ならともかく、立て続けにこのような事を頼まれる事になったのもそうだし、何より今は一方的にだがカインとは少し気まずい関係になっている。それに気まずくなったのは他者からの手紙を渡した事が原因だ。正直断りたい気持ちでいっぱいだったが───。
「いや〜本当ラッキーだったね!」
「ね、ね!私の言う通りにして正解だったでしょ!」
「も〜何回その話するの!」
まさか断られるとは微塵も思っていない目の前の少女達の前で、NOとは口が裂けても言えなかった。
「な、なんだかすごかったね……」
「ね!俺びっくりしちゃって一言も喋れなかったよ!」
「カインさんは有名人さんなんですね〜」
賢者が手紙を受け取ると、3人はお礼を告げた後、瞬く間にいなくなってしまった。口を挟む隙を与えない怒涛の喋りを見せた3人の少女を前に、ヒースクリフは怯え、クロエは興奮した様子を見せ、ルチルは感心していた。対して、渦中にいた賢者はというと───。
「賢者様、少し顔色が悪いですよ。どこかで休憩しましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です。少し呆気に取られちゃっただけなので……」
3人の少女の勢いは、元々考え事をしていて削られていた賢者の精神を大きく削り取ってしまい、疲労と困惑から賢者の顔色は病的な青白さを見せていた。3人は気遣わしげに賢者の様子を伺伺う。
「あ、ところで賢者様。さっき何か言いかけてたよね……?」
ふと思い出したようにクロエが賢者に問いかける。そこで賢者も、カインについての相談をしようと口を開いていた事を思い出した。しかし──
(今のタイミングじゃ気を遣わせるよな……)
先程までならともかく、賢者には今新たに3人の少女の手紙をカインを渡すと言うミッションが課されてしまった。このタイミングでカインを傷つけたかもしれない……なんて相談を持ちかけたらどうなるのかは分かりきっていた。
「──最近ちょっと寝つきが悪くて、安眠の秘訣があれば教えて貰いたいなと思ったんです」
「まあ、そうなんですか?ミスラさんに渡している安眠用のハーブ、賢者様にもお渡ししますね」
「眠れるように枕を変えてみるといいかも?今度作ってみるね!」
「心地の良い音楽を聴けば眠くなるかも……。オルゴールは如何でしょうか?」
「3人とも……ありがとうございます」
3人の優しい気遣い触れ、心にポカポカとした温もりを感じると同時に、そんな心優しい3人に嘘をつくのは胸が痛んだ。しかし、なんとか上手く誤魔化せたようだ。3人に聞こえないよう、こっそりと安堵の息を吐く。また頃合いを見て誰かに相談してみよう。魔法使い達の優しさに触れ、賢者はそう決意する。しかし、その決意が叶う日が賢者に訪れることはなかった。
✳︎
✳︎
✳︎
「賢者様ー!これカイン騎士団長に渡してくださいます?」
「賢者様!あの、これ!カイン様に!」
「貴方が賢者様?これ、カインに渡しておいてくれない?」
「賢者様、これを騎士団長様に届けてくださる
?」
「これ!絶対に絶対にカイン様に渡してくださいね!絶対ですよ!」
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「お疲れ、賢者さん。はいこれ」
「ネロ………………ありがとうございます…………」
賢者は食堂に入るなり、設置されたテーブルの一つにそのまま身体を投げ出す。リケがいれば行儀が悪いですよ!なんて怒られてしまうかもしれないが、その懸念を憂慮出来る気力は、今の賢者には無かった。そんな賢者を特に咎める事もなく、ネロは晶の前に暖かなホットミルクを置く。そんな彼の気遣いに、賢者は目頭が熱くなるのを感じた。
「しっかしまあ………」
ネロはちらりと賢者の横に積まれた箱や紙の束を視界に入れる。
「今日も大量だな………」
「ええ………本当に………」
色とりどりで形も様々な紙や箱にはある一つの共通点があった。それは───
「これ全部、騎士さんへのプレゼントだもんな」
「はい………」
全て、カインへの贈り物だという点である。
あの日、3人の少女への手紙を受け取って以降、中央の国の女性達から賢者へカインへの贈り物を頼まれる回数が急増していた。しかも、最初こそ手紙のような受け取っても嵩張らないものが多かったが、段々と手紙以外の贈り物も増えていった。それこそ、贈り物で手が塞がり、自身の買い物もままならないぐらいには。
「こら、賢者。はしたないよ」
「あ、ファウスト………」
ファウストは食堂に入ってくるなり、だらし無く食堂のテーブルに突っ伏している賢者を軽く注意する。賢者は顔を少しあげ、ファウストの顔を見るとその顔には呆れの他に、心配の色も見えた。
「まあまあ先生、これぐらい許してやんなよ」
「……こんなところで休む方が身体に悪いだろう。ほら賢者、送るから休むなら自分の部屋に戻りなさい」
「いえ……大丈夫です起きます……」
賢者の意志を尊重するネロと、心配だからこそ率直な意見を言うファウスト、2人それぞれの優しさにじんわりと目頭が熱くなる。とはいえ、2人に甘えてずっとこうしているわけにもいかない。鉛のように重たい上半身をずるずると引きずりながらも、なんとか身体を天井に向けて真っ直ぐに伸ばす。が、垂直に立てた身体はふらふらと覚束ず、不安定に揺れていた。
「どう見ても大丈夫じゃないだろう……ほら、ここに座って」
「ホットミルクも冷めないうちに飲んじまいな」
「うう……2人とも、ありがとうございます」
2人の言葉に甘え、椅子に腰を落ち着けた賢者は、湯気が立つホットミルクをそっと口に入れる。温かなミルクの味と柔らかな蜂蜜の甘さはじんわりと舌に溶け、賢者の疲れをそっと癒してくれる。賢者が落ち着いたのを見ると、ファウストもまた、横にあるプレゼントの山を一瞥し、深いため息を吐く。
「……なんだか前より増えてない?」
「今日は10人に声をかけられました……」
「うわ……」
ネロは腕を抱え軽く身震いをする。人間嫌いの東の国の魔法使いにとって、見知らぬ他人に声をかけられまくるのは身も毛もよだつ程、御免蒙りたいことなのだろう。
「前にも言った気がするけど、断った方がいいんじゃないのか?」
ファウストは眉間に皺を寄せ、サングラスをいじりながら呆れた様子で賢者に提案する。しかしそんなファウストの提案に、賢者は苦笑しながら言葉を返す。
「……実は前に一度、断ろうとした事があるんです。でも───」
✳︎
───賢者は思い出す。
それは、目に見えてカインへの贈り物を渡される頻度が増え、流石におかしいと思い始めている時だった。この異常事態に関して、心当たりがあるとすれば、あのお喋りな3人組の少女達だったが、何をどうすればこんな事になるのかは皆目見当も付かなかった。確かに最初は、勇気が出せない少女の助けになればと引き受けたことだったが、流石に量と頻度が多すぎる。魔法使い達と人間達を繋ぐ橋渡しになれたらと思ってはいるものの、決して今みたいにプレゼントボックスのような存在になりたい訳ではなかった。
「……次からは断ろうかな」
ちょうど翌日に、クロエと一緒に掘り出し物を探しに行こうと話をしていたところだ。声をかけられないならそれに越した事はないが、たとえ頼まれても受け取らず、毅然とした態度で断ろう。
───そう、思っていたはずだったのだ。
翌日、クロエと共にこのボタンかわいいね、リケに似合いそうです、こっちはシノっぽいね、なんて2人で談笑しながら掘り出し物を吟味している時だった。
「あ、あれ賢者様じゃない?」
(…………来た!)
確信を持った賢者が振り返ると、そこには大人しそうな少女が2人、もじもじと気恥ずかしそうな表情で賢者を見ていた。
(落ち着け、昨日練習した通りに……)
賢者はカインへのプレゼントに関するお願いは全て断ろうと決意してから、なるべく相手を傷つけないように、穏便に断るようシュミレーションをしていた。かなり優しい言葉になるように心掛けたから、その練習通りに話せれば大丈夫だろう。そんなことを思いながら、賢者は少女達に用件を聞くことにする。
「私に何か御用でしょうか?」
「……あ、あの、カイン様に、このお手紙とお菓子を、渡して欲しくて……」
そう言って少女のうちの1人がピンク色の可愛らしい便箋と丁寧にラッピングされた焼き菓子を賢者の前へ控えめに差し出す。どうやら目の前の少女は引っ込み思案な性格のようで、賢者に声をかけるのもかなりの勇気を振り絞ったことが伺える。そんな彼女の期待を裏切り、断るのは大変心苦しいが、断ると決めたものは決めたのだ。心を鬼にして賢者は口を開く。
「……大変申し訳ないのですが、こういったプレゼントはもう受け取らないことにしたんです」
「………………えっ?」
賢者の申し出に、少女の瞳が揺れる。
「あっでも私からは受け取れませんが、カインなら声をかければ───」
フォローをするつもりで、賢者は優しく諭すように言葉を紡ぐ。しかし、賢者の次の言葉が発される事はなかった。
「ふっ…………うっ…………」
目の前の少女の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れていたからだ。
「えっ!?」
「ちょっとミオ!大丈夫!?」
「うっ……うう………」
付き添いで来たであろうもう1人の少女が、自身の友人の異変に気づき、慰めるように優しく背中をさする。ミオと呼ばれた少女は涙を止めようと必死に手で拭っているが、その瞳から溢れる涙はどうしたって止まらない。賢者とクロエは突然泣き出した少女に何と声をかけていいのか分からず、狼狽えてしまう。
「ちょっと賢者様!酷いじゃないですか!今まで受け取ってたのに!ミオの時は断るなんて!」
「お、落ち着いて!ね?」
友人の少女はミオの涙が止まらないのを見るや否や、眉を大きく吊り上げ賢者へ向けて怒りの言葉をぶつける。不穏な空気を感じ取ったクロエがフォローしようとするものの、友人を泣かされた少女の怒りは収まらないようだった。
泣いている少女に彼女を庇う怒った少女。最初は素通りしていた通行人も、段々と異変に気づき何事かとこちらの様子を伺っている。
──もはやこの場を収める手段は、一つしかない。
「わ、分かりました!受け取ります!カインには責任を持ってお渡ししますから……!」
幼気な少女の涙を前に、賢者の鋼の意志は無力であった。賢者の言葉に、しゃくり上げていたミオはゆっくりと顔を上げる。その瞳にはいまだに涙が溜まっており、今にも決壊してしまいそうだ。
「ほ、本当ですか?」
「はい、本当です!」
ミオの問いに賢者はこくこくと頷く。すると悲しげな顔をしていたミオの顔は明るくなり、笑顔の花が咲く。
「よかったね!ミオ!」
ミオの笑顔を見た友人の少女は、ミオ以上に嬉しそうに顔を綻ばせる。先程の怒りようといい、友人思いの優しい子なのだろう。ちょっと怖かったけれど。
賢者がミオからの手紙とラッピングされたお菓子の袋を受け取ると、2人は礼を告げながら去っていった。彼女らを見送っていた賢者は、2人が見えなくなるのを確認した瞬間、どっと疲労感が錘となって全身にのし掛かるのを感じる。そんな賢者を、クロエは心配そうに見つめる。
「賢者様、あれで良かったの?」
「はい。恐らくあの場ではああ言うしかなかったので………」
こうして、断り切ることが出来なかったり賢者は、引き続きカインのプレゼント係の任を続けることになったのだ。
✳︎
「と、いうことがありまして……」
「うわあ……」
「災難だったな……」
「いえ、私も彼女達には悪い事をしてしまいました……」
「いや、きみは悪くないだろう」
賢者の話を聞いていたネロとファウストは、全てを聞き終わった後に、憐れむような労わるような目で賢者を見つめる。断る際に一言二言文句を言われる事は想定していたが、まさか泣かれてしまうとはつゆほど思っていなかったのだ。
ファウストは徐に賢者の掌に自分の手を載せると、小さく呪文を呟く。ファウストが手を避けると、そこにはファウスト特製のシュガーが手のひらを転がっていた。
「わあ、ファウストのシュガーだ!ありがとうございます!」
「礼を言われるようなことじゃないよ。………しかし、断るのが難しいとは、随分と面倒な……」
ファウストのシュガーを口に含み、舌でゆっくりと溶かしつつ、賢者は口を開く。
「ここ暫くは中央の国の街中には行かないようにしていたんですけど、今日久しぶりに行ってもこの結果でしたので……」
賢者は机に並んだ山積みのプレゼントに目をやる。
「会えなかった分、プレゼントだけが溜まってたのかもな」
「多分このブーム?はその内収まるとは思うんですけど……。そもそもなんでこんなことになっているんでしょうか?」
賢者の言う通り、いくらカインが騎士団長の任を解かれた今でも中央の国民達から絶大な人気を誇るとはいえ、正直今の状況は異常であった。そもそもカインは姿を隠しているわけではなく、普通に中央の街自体は歩いているはずだ。勇気が出ない者もいるだろうが、今日プレゼントを受け取った中には、カインの事を呼び捨てで呼ぶ親しげな女性もいた。一言二言話した程度ではあるが、彼女が直接カインに渡す事が出来ないような人には見えなかった。
3人で原因を探るべく、首を傾げうんうんと唸っていると、そこに第三者の声が加わる。
「賢者様、その件についてなんですけど……」
「ルチル!ミチル!授業は終わったんですか?」
声がした方へ視線を向けると、そこには練習着を着たルチルとミチルが並んで立っていた。今日は昼から新しい魔法の練習をするとフィガロが言っていたが、そのせいか練習着には若干土埃が付着しているのが見える。
「はい、先程ちょうど。すみません、立ち聞きするつもりはなかったのですが、ちょうど聞こえてしまって……」
「いえ、内緒話をしていた訳ではありませんから、気にしないでください。それでミチル、もしかして何か心当たりがあるんですか?」
「はい。実は一昨日、兄様と2人で街に本を見に行っていたんですが──」
ミチル曰く。自分たちが気に入った本や、リケの勉強用の本を見繕った後に、魔法舎のみんなへお土産を買って行くために、ケーキ屋へ寄ったらしい。その立ち寄った店の店員の女性と立ち話をしている際に、自分たちが賢者の魔法使いであると言う話になったそうだ。そして、その話を聞いた途端、その女性が突然賢者様はご一緒じゃないのですか?と聞いてくるため、その理由を聞いたららしい。すると───
「『賢者様にカイン騎士団長への贈り物を渡すと、願いが成就する』という噂がいま中央の国の女性達の間で広まっている、と言っていました」
「は?」
「は?」
「ええ………」
東の国の魔法使い2人はドン引きしていた。賢者はというと、この世界にもそう言う迷信みたいなの流行るんだな……と逆に感心していた。
「しかも、噂話は1つだけじゃないみたいなんです。『賢者様からカイン騎士団長に贈り物を渡せば幸運が訪れる』『恋が成就する』『カイン騎士団長に3日以内に会える』みたいに、いくつか種類があるらしいと教えてくださいました」
「なるほど……」
そんな馬鹿な、とか何だそれは、といった噂話ばかりだが、これでようやくこの異常なまでのカインへの贈り物の量に納得がいった。
「噂に尾ひれがつきまくっていたんですね……」
「それにしても尋常じゃないだろ……」
恐らく最初は『賢者に渡せばカインに贈り物を届けてもらえる』程度だったはず話に、どんどんと尾ひれがついていき、更にそれが派生して、どんどん話が混じり合った結果が今この現状なのだ。
「原因は分かったが、噂話ともなると対処のしようがないな……」
そう、噂話とは空中に漂う煙のようなもの。掴もうとしても、手からはすり抜けてしまうし、発生源をどうにかしても、一度立った煙はなかなか消えない。
「まあ噂話でしたら、いつかみんな忘れるか、関心がなくなっていくとは思いますが……」
「だとしても、それがいつになるのかは分からないだろう」
「そうなんですよね………」
原因が分かったのは大きな一歩だが、だからと言って解決策が出てくるわけではなかった。噂話が落ち着くまで街中には変装をして行くか、魔法使いに頼んで違う容姿に変化させてもらうか。とはいえ、街へ行くのにいちいちそんなことをするのも面倒な話だ。全員で何か解決策は無いものかと頭を唸らせていると、食堂の入口のから声が聞こえる。
「なになに、みんなで考え事?フィガロ先生も混ぜてほしいな〜」
「フィガロ先生!」
悩める賢者と魔法使い達の前に現れたのは、南の国の魔法使い、フィガロであった。どうやら授業の片付けを終えた後、ルチルとミチルを追って食堂に入ってきたらしい。その姿を見たファウストは、あからさまに嫌そうな顔をしている。
「フィガロ、こんにちは」
「はいこんにちは。みんなで難しい顔してどうしちゃったの?」
「ええと、実は──」
賢者はフィガロにこれまでの経緯を伝える。フィガロにもなんとなくその話は伝わっていたようで、賢者の話を全て聞く前にほぼ全容を理解できているようだった。
「うーん、なるほどね」
「何か良い案はないでしょうか」
「ん?あるよ」
「あるんですか!?」
フィガロはさも当然のように解決策は「ある」と言った。5人はいくら考えても、これといった案は思いつかなかったというのに。流石は2000年以上生きているだけのことはある。
「うーん教えてもいいけど……。賢者様、困っちゃわない?」
「困る?」
噂話に振り回されている今の時点で十分困っているが、更に問題ごとを増やされるような案なのだろうか。そんな賢者の不安を感じ取ったのか、フィガロは、安心させるように笑いかける。
「ああ、いやいや。別に変な事をするわけじゃないよ。ただ──」
この案には彼の協力が必要だからさ。そう言ってフィガロは、悪戯っぽく微笑んだ。
✳︎
✳︎
✳︎
翌日、賢者は中央の国の街中にある広場を訪れていた。彼女の周囲に魔法使い達の姿は見当たらず、賢者自身が変装をしている訳でもない。誰かを待っているのか、広場に設置されたベンチに腰をかけ、きょろきょろと辺りを見回していた。
「あのう、賢者様………でしょうか?」
「!」
すると、賢者の正面に20代ぐらいの華やかな服を見に纏った3人組の女性が、賢者を囲むような形で近づいてきた。
(……カイン、相手は3人。正面横一列に並ぶ形で立っています)
(ああ、分かった)
小さな声で行われたやりとりは、彼女達の耳には届かない。
「こんにちは。はい、私が賢者です。良かったら親交の証に、私と握手をしてくれませんか」
「?ええ、勿論」
賢者は自身の手を3方向に差し出し、それぞれの女性と握手をする。ニコリと彼女達に笑顔を向けた後、賢者は会話を続ける。
「それで、私に何か用があったのではないでしょうか?」
「ええ!実はカイン様にこちらのブローチを渡してほしくて……」
「私はこちらの焼き菓子を……」
「私からは手紙を……」
三者が三様にそれぞれカインへの贈り物を賢者へ差し出す。すると、賢者は突然ベンチから勢いよく腰を上げる。3人が賢者の挙動に目を丸くしていると、賢者は先程の控えめなものとは違う、太陽のような笑顔を浮かべた。
《グラディアス・プロセーラ》
「えっ?」
賢者の口から、呪文が唱えられる。自分達と同じぐらいの背丈の女性だった筈の目の前の女が、瞬く間に頭一つ分の身長差がある、赤髪の男性へと変わっていた。
「「「カ、カカカカイン騎士団長!?」」」
「あはは、元・騎士団長だけどな」
「ほ、本物!?」
「ああ、本物だよ。何なら触ってみるか?」
「「「キャーーーー!!」」」
3人の黄色い歓声に、徐々に周囲の視線がカインの方へ集まり始める。
(カイン、周りの人はみんなこちらを見ています。やるなら今かと)
(分かった)
2人の会話は、喧騒に紛れて溶けていく。
「これはブローチか、綺麗な色をしているな!」
「は、はい!カイン様にお似合いのものを選べたと自負しています!」
「俺のことを思って選んでくれたんだな!ありがとう、嬉しいよ!」
「これは、クッキーか?」
「これはフロランタンと言うお菓子で……私が行きつけのお店のものなんです」
「ありがとう!早速今日のお茶菓子に頂こう」
「あ、あの、私!以前遠征に行かれる姿を拝見した時から、カイン様のことが忘れられなくて!その時の気持ちをこの手紙に込めました!」
「そうか、見ていてくれたのか!ありがとう!大切に読ませて貰うよ!」
カインはスマートに、且つ丁寧に3人のプレゼントを受け取っていく。
「しかし贈り物は嬉しいが……なんで賢者様に渡そうとしていたんだ?」
カインの言葉に、興奮冷めやらぬ様子ではしゃいでいた3人は、途端に気まずそうに顔を見合わせごにょごにょと口を動かす。本人を目の前にして「噂」の話は流石に言いづらいらしかった。
「言いたくないなら理由はこれ以上問わないが……。俺個人への贈り物は賢者様ではなく、俺に直接渡してほしい。その方が嬉しいし──」
そう言うとカインは少し身をかがめ、3人と目線の高さを合わせる。
「こんな素敵なプレゼントをくれたあんた達の顔を、しっかりと覚えていられるからな」
そして今日1番の特大スマイルを真正面から浴びせる。
「「「ひゃ、ひゃいっ!!!!」」」
「あ、あと同じように俺に贈り物をしたいと考えている人がいたら同じように伝えておいてくれないか?」
「ま、任せてください!」
「命に換えても!」
「お伝えします!」
「あはは、ありがとう!」
カインの大きな声は広場全体へと大きく響き渡っていた。遠くから様子を伺っていた女性達は顔を見合わせながら、こそこそと何かを話し合っている。
───これだけの人数が聞いていれば、新しい噂話が広まるのは、時間の問題だった。そして、この日以降、賢者は中央の街を歩いていてもカインへの贈り物を受け取る事はなかった。
✳︎
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✳︎
中央の街でカインが新しい噂に塗り替えた数日後、賢者はカインの部屋の前に立っていた。軽く深呼吸をした後、カインの部屋に通じるドアを数回ノックする。
「カイン、晶です。今大丈夫でしょうか?」
「賢者様か!今開けるからちょっと待っててくれ!」
ドアの向こうで軽く物音がした後、賢者の予想よりも早い段階で目の前の扉は開かれた。
「待たせてごめんな、賢者様」
「全然待ってないので大丈夫ですよ」
「はは、今日はあまり散らかっていなかったからな!」
カインは快活に笑い飛ばす。そんなカインの笑顔に釣られて、晶も自然と顔が綻んだ。
「それで、何か用があったんだろ?どうしたんだ?」
「あ、実はカインに少しお話したいことがあって……」
「そうだったのか。立ち話も何だし、よかったら部屋の中で話さないか?」
「すみません、お言葉に甘えてお邪魔しますね」
カインに部屋を通され、促されるままソファに座る。部屋の内装は特に以前と変わった様子は見られず、ちゃんと整頓されているように見えた。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。ちょうど掃除したばかりだから問題ないとは思うが、照れちまう」
「ふふ、今回は魔法でぎゅっとしていないんですか?」
そう言って珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべる賢者に、カインは一瞬呆けたような表情を見せるも、すぐにいつもの笑顔を戻って晶の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫で回す。
「はは、賢者様も言うようになったな」
「わっ、あはは。やめてください!」
2人でひとしきりじゃれ合った後、カインが入れてくれたお茶を口に含みながら、賢者は本題について話し始める。
「今日は、改めてカインにお礼を言おうかと思いまして」
「お礼?」
「この間協力してくれた、噂の上書きの件です」
「ああ、あれか!」
───数日前、食堂で悩む賢者と4人の魔法使いを前にフィガロはこう告げた。
「噂を完全に消し去ることが出来ないなら、上書きしちゃえばいいんだよ」
「上書き?」
「そう。噂って言うものは決まった形はないし、更に時間の経過と共に形を変えて伝わっていく。だからこそ完全に消し去るには、中央の国の国民全員の記憶を消すぐらいの荒事をしなくちゃいけない」
「それはちょっと、流石に難しいんじゃないでしょうか?」
「まあやろうと思えば出来なくもないけど……。だからこそ、上書きをするんだ。今流れている噂よりも、更に信憑性の高い噂を流して都合の良い方に塗り替えてしまえば良い」
「でも、私たちに噂の上書きなんて出来るんですか?誰か広めてくれる人が必要ってことですよね?」
「だからこそ、『彼』の出番だよ」
フィガロはそう言ってにこやかに笑うと、賢者に向けて軽快なウインクをした。
フィガロの作戦はこうだ。
中央の国の都心で、人が多く、且つ注目が集まりやすい場所で、カイン本人が噂の上書きとなりうる内容をなるべく多くの人に聞かせる。出来れば噂の通り道となっている、若い女性に伝わればベスト。それならば、カインに賢者の姿へ化けてもらい、実際に噂を信じてやってくる女性を誘き寄せれば良い、ということになった。賢者はカインの厄災の傷のフォローと、念の為に本人もいた方が良いと言うことで、フィガロに魔法をかけてもらい周囲から姿が見えない状態で、カインと共にいたのだ。
「いやーいきなり賢者様になってくれ、って言われた時は驚いたよ」
「あはは、いきなり言われるとびっくりしましたよね。それに、大変なことを任せてしまって…」
「いやいや、元はと言えば俺が原因で賢者様に迷惑をかけたようなもんだしな……。俺こそ、気づいてやれなくてすまなかった」
「いえ、隠していてのは私の方ですし、私も早い段階で断れていたらこうならなかったので」
賢者はプレゼントの量が多くなった後、カインに手渡す日時を分けたり、他の魔法使い達からも渡してもらうようにしていた。当初はここまで大事になるとも思っていなかったので、カインに気を遣わせてしまうのは悪いと思い、隠していたのだ。まあ、事前に不審なものが無いか検閲した後、ヴォクスノクされた物も少なく無かったというのもあったが、これはオフレコである。
「それで、効果の方はどうだったんだ?」
「はい!もうすっかり声をかけられることはなくなりました!」
「そうか、それは何よりだ」
賢者に迷惑をかけていた罪悪感があったのか、賢者の言葉にカインはホッと息を吐く。カインは優しい人だ。元はと言えば賢者の行動がきっかけで、カインにも負担がかかってしまったというのに、迷惑に思う素振りも見せず、むしろ自分のせいだと気に病んでしまう。
「あの、カイン」
「どうした?」
「実はご報告以外に、カインに伝えておきたいことがあったんです。とは言っても、今の話の続きみたいなものですが」
「……また何かあったのか?」
若干の警戒を顕にしながら、カインは苦虫を噛み潰したような顔で賢者を見る。しかし、カインの表情を見た賢者は、慌てて腕を振り否定する。
「い、いえいえ!そうではなくて。……あの、最初にカインへ手紙を持って行った時に話をしたこと、覚えていますか?」
「最初?ああ、勿論覚えてるよ」
「カインは『手紙をもらった時、どう思った』って私に聞いてきましたよね」
「………ああ」
「あの時、私の答えにカインが悲しそうな顔をしていたように見えたんです」
「!」
賢者は気まずそうに手元に目線をやり、行き場のない手をいじる。
「最初は気のせいかと思ったんですけど、時間が経てば経つほど気のせいじゃないなかったんじゃないかって確信が強くなっていって……
「………」
「でもカインはいつも通りだったから、余計にどうすればいいのか分からなくて」
「晶……」
カインが何かを言おうと口を開きかけた時、賢者は下げていた目線を勢いよく上げて、真っ直ぐにカインを見つめる。
「だから私、カインに手紙を書いたんです!」
「て、手紙?」
「はい!」
そう言って賢者は懐から1枚の手紙を取り出す。その手紙は淡い黄色をベースカラーとしており、封筒の端の方には1匹の黒猫がお行儀よく座っている、いかにも賢者が好んで選びそうな柄だった。
「この前の答え……になるんでしょうか。カインへのプレゼントを受け取っていた時、確かに大変ではあったんですけど、同時にとても嬉しくて誇らしい気持ちになったんです。ああ、カインは本当に街の人たちから慕われる立派な騎士団長だったんだなって」
賢者はカインの向日葵のような爽やかな黄色の瞳と、鮮やかに咲く薔薇のような瞳を見つめ、柔らかく微笑む。
「私は賢者の魔法使いのカインしか知りませんし、カインの全てを知っているわけではありません。でも街の人たちに負けないくらい、カインのことが好きですし、尊敬しているつもりです」
「晶……」
「だから、街の皆さんに倣って、私もカインへの感謝の気持ちを伝えようと、手紙を書いてみました。こちらの世界の文字はまだまだ勉強中ですので、所々単語とか文法が間違っているかもしれませんが……受け取ってくださいますか?」
賢者はおずおずと黄色い便箋をカインの前へ差し出す。カインが拒否するような行動を取るわけがないことは分かっていても、やはり対面で渡すのは緊張しているのか、その手は僅かに震えていた。カインは賢者と便箋を交互に見比べた後、賢者の震えごと包み込むように賢者の手ごと便箋を包み込んで受け取る。
「ありがとう、賢者様。……大切に読ませてもらう」
「……はいっ!」
「ははっ、俺は幸せ者だな。あんたに会えて、──晶の魔法使いになれて」
「そんな、大袈裟ですよ」
「……そんなことはないさ」
カインの熱を帯びた瞳に、艶を帯びた声に、賢者はたまらず目を逸らす。これは賢者と賢者の魔法使い同士の会話で、それ以上の意味があるわけがないとは分かっているのに、その視線と言葉がじわじわと熱となって心の奥の方に侵食していく。
「……っ!そうだ、もう一つ!カインにお渡ししたいものがあるんです!」
賢者は全身に広がる熱を振り払うように、カインの手から自身の手を離すと腰に下げた鞄から2枚の紙を取り出す。
「……!これ、入手困難で有名な舞台の観戦チケットじゃないか!どうしたんだ!?」
「実は……」
* * *
2日前、中央の国。賢者は恐る恐ると言った表情で1人市場を訪れていた。以前までは市場に出て数分も経たないうちに誰かしらに声をかけられてた賢者だったが、フィガロの案はどうやら見事に功をきしたようで誰からも声をかけられることなく買い物をすることが出来ていた。
「平穏だ……」
誰に声をかけられることもなくゆっくりと過ごすことが、こんなにも有難いことだとは思ってもいなかった。元の世界に帰って道端で有名人を見かけても声をかけるようなことはやめよう。そんな少しズレた誓いを心の中で誓った賢者は、背後から近づく人物に気づいていなかった。
「賢者様!」
「うわあ!?」
完全に油断していた賢者は驚きのあまり、手に持っていた群青レモンを落としそうになる。
「も、申し訳ありません、賢者様!」
「い、いえいえ!ギリギリセーフです!」
群青レモンをなんとか地面に落とすことなく元のカゴに戻した賢者は、なんだか前もこんなことがあったなあなんて思いながら、声の主を確認するために後ろへ振り返る。
「………えっ!」
そしてそこにいた人物に賢者は再び驚きの声をあげることになる。
*
「よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
場所を広場のベンチに移した賢者は、先にベンチに腰を下ろしていた人物に露店で買ったレモネードを手渡す。
隣に座った賢者は一先ず買ってきたレモネードをストローで啜る。場所を変えようと広場まで来たのはいいが、さてなんて切り出したものか……。賢者のそんな空気を察したのか、隣に座る人物はレモネードを握ったまま、上半身を賢者へと向ける。
「賢者様!申し訳ありませんでした!」
「!?」
そしてそのままの勢いで頭を深く深く、それはもう頭がベンチに着いてしまうのではないかと言う深さで頭を下げる。
「私、賢者様になんとお詫びすればいいのか……」
「あ、頭を上げてください!綺麗な髪が汚れてしまいます!」
「私の髪など、賢者様におかけしたご迷惑に比べれば!」
「と、とりあえず、お話をしましょう!ね?」
賢者が3度ほど頭を上げるように呼び掛けたところで、目の前の少女は渋々と言った形でようやく頭を上げる。その瞳は僅かに潤んでおり、今にも溢れてしまいそうだ。
「あの、間違っていたら申し訳ないのですが……。貴方は以前、私にカインへ手紙を渡すようにお願いをした方ですよね…?」
「…………はい」
目の前の少女はブロンドの髪を揺らしながら、力無くこくりと頷く。
そう、目の前の彼女は一番最初に賢者へカインに手紙を渡すようにお願いをした少女であった。あの時と服装は違っているが、一番最初に頼まれた相手だったことと、美しいブロンドの髪や礼儀正しい立ち振る舞いが印象に残っていたから、すぐに分かったのだ。
少女は目を伏せながら、ぽつりぽつりと賢者へ声をかけた理由を話し始める。
「賢者様にお会いした数日後、友人に教えて貰ったんです。中央の国で流行っている噂話のことと、賢者様の状況を……」
「………」
恐らく以前ミチル達に教えてもらった『賢者様にカイン騎士団長への贈り物を渡すと願いが成就する』、『賢者様からカイン騎士団長に贈り物を渡せば幸運が訪れる』奴のことだろう。口伝に口伝が重なり、かなり多岐に渡っていたようだから、実際にどの噂を聴いたのかは定かではないが。
「タイミングがタイミングでしたので、絶対に私の行動が原因だなって思ったんです。私の勇気が足りないばかりに、賢者様にご迷惑をおかけしてしまったんだなと」
「そんな……」
少女の懺悔に賢者はなんと返したものかと唸ってしまう。彼女のせいだとは思っていないが、二番目に贈り物を渡してきた少女達は、確かに目の前の少女の行動を目撃したことがきっかけになっているようだったから、一概に否定もできない。
「だから私、ずっと賢者様に謝りたいと思っていたんです。……私の軽率な行動のせいで……本当に申し訳ありませんでした」
そう言って彼女は再び深く頭を下げてしまった。その様子に賢者は俯いた彼女に近づき、優しく、震える彼女の手を包む。レモネードの冷気のせいか、彼女の手はやけに冷たかった。
「……あれは貴方のせいなんかじゃありません。勿論、誰のせいでもありませんよ。みんな悪気があったわけではありませんから」
「ですが……」
「大変だったことは否定しませんが、中央の国の人達は本当にみんなカインが好きなんだなってことが分かって、むしろ嬉しかったんです。だからあまり気にしないで、顔をあげてください。ね?」
「賢者様……」
「よかったらレモネードも飲んでください。冷たくて美味しいですよ」
「……はい、ありがとうございます、賢者様」
涙を啜りながら少女はレモネードを一口含む。もうすっかり氷が溶けて味は薄くなってしまっていたけれど、少女の口には不思議と美味しく感じた。
「……賢者様」
「はい、なんでしょうか?」
すっかり涙は収まり、少し吹っ切れたような表情をした少女は、神妙な面持ちで改めて賢者へ向き合う。
「賢者様は寛大な心で許してくださいましたが、これでは私の気は治りません」
「は、はい」
「ですから、何も言わずにこれを受け取ってください」
「……これは?」
少女の手には細長い便箋のようなものが握られている。彼女の言い分的に手紙、ではなさそうだ。
「大丈夫です!誓って変なものではありませんから」
「い、いやいや流石に高価なものとか貴重なものだったら受け取れませんよ!?」
賢者の静止をものともせず賢者の手にぐいぐいとそれを押し付ける。会話をしていて感じていたが、どうやら彼女は相当実直な性格のようだ。受け取るまでやめないと言った圧を感じる。
結局、賢者は少女の圧に押され、便箋を受け取ってしまう。少女は大変満足そうに微笑んでいた。
一先ず受け取った以上、念のため中身を確認する。札束だったらどうしよう…そんなちょっとの期待と恐怖を感じながら便箋から中身を引き出すと、そこには何やら文字がたくさん書いてある紙が出てくる。賢者はこの世界の文字が読めないので具体的に何かは分からなかったが、それはどうやらチケットのようだった
「これは……チケット、ですか?」
「はい、今度中央の国を訪れる歌劇団の観劇チケットです」
「……!それって、完全抽選制で入手困難なやつじゃ……」
先日、アーサーやクロエと話している際に聞いたことがあった。各国を不規則に不定期に回るその歌劇団の歌声は、北の国の魔法使いも魅了される程だとか。ただし座席数はかなり少なく、おまけに関係者席のようなものもないのだとか。
「そうかもしれませんね」
「そんな貴重なもの頂けないですよ!」
入手困難なのもそうだが、不定期にしか訪れないその歌劇団が中央の国に来るのは3年ぶりだと聞いた。魔法使い達と一緒に各国に頻繁に訪れていると忘れがちになるが、魔法使いでもない人間は気軽に他国に行けるわけではない。この機会を逃せば次に来るのはまた3年後かそれ以上先になるかもしれない。
「いえ、私が賢者様に差し上げたいと思っているのです。受け取ってください」
「でも…。これ、2枚あるってことは貴女の他に一緒に行く方がいるんじゃないですか?」
「………それは」
ここで初めて彼女は口ごもる。賢者の言ったことは図星だったようだ。じゃあやっぱり貰うわけには…賢者が口を開きかけた時だった。
「いえ、賢者様。これは僕の意志です」
「えっ」
突如日光が遮られ、ベンチの前に影がさす。賢者が影の伸びる方へ視線を向けると目の前には見慣れない長身の男性が賢者と少女の間ぐらいの位置に佇んでいた。黒くさっぱりとした髪に日によく焼けた健康的な小麦色の肌が特徴的だ。
「ベン……!どうして」
「リナリアが心配で、一応着いてきてたんだ。盗み聞きするような真似してごめん」
「そんなこと……!元はと言えば私が……」
ここで賢者は初めて目の前の少女の名前がリナリアというらしいことと、恐らくこの目の前のベンと呼ばれた男性と彼女は恋人関係にあることを察する。
(リナリアさん。恋人、いたんだな……)
賢者は驚きで混乱したまま、2人のやり取りを眺める。てっきりカインに渡した手紙は恋文だと思っていたのだ。
「賢者様」
「っはい!」
賢者が呆けている内に2人の話し合いは終わったようだ。ベンは膝を折り、目線を合わせた状態で真っ直ぐ賢者を見据える。
「そのチケットは、元は僕が手に入れたものなんです」
「えっ」
思わずリナリアの方を見ると、リナリアはこくりと頷く。
「リナリアが酷く落ち込んでいたので何があったのかと聞いたところ、例の話をお聞きしました」
「は、はい」
「何か賢者様にお詫びをしたいと悩んでいたようだったので、僕がお詫びの品として渡すようにそのチケットを彼女に渡したんです」
「そ、そんな……リナリアさんにも言いましたけど、あの噂はリナリアさんのせいではありませんし、私は気にしていませんから」
「でも、彼女が気にしているんです」
「!」
賢者はベンの言葉にハッとする。貴重なものを貰うなんて申し訳ないと思うばかりで、リナリアの気持ちを考えていなかった。
「申し訳ないと思う賢者様の気持ちも分かりますが、どうか彼女のためを思うなら、受け取ってくださいませんか。確かにこれは貴重なものかもしれませんが、これで彼女の気持ちが晴れるなら安いものです」
「ベンさん……」
素敵な2人だな、賢者はベンの真剣な面持ちに思わずそう思う。リナリアの実直さも、ベンの恋人がある一種で身勝手な行動も、好感が持てる。
「……わかりました、お二人がそれで気が晴れるのであれば、これは頂きますね」
「……賢者様!」
「ですが、これでもうこの話は終わりです。リナリアさんは、これ以上この件で私に詫びる必要は有りませんよ。いいですね?」
「はい……!ありがとうございます、賢者様!」
賢者がそう告げると、リナリアは嬉しそうに顔を綻ばせ、ベンは安心したようにホッと息を吐く。その様子に、もっと早くに受け取ってあげれば良かったかなと思いつつ、不謹慎ながら素敵な関係が見れたことを嬉しく思う。
「賢者様、是非僕たちの代わりにカイン騎士団長と楽しんできて下さいね」
「はい、お二人の分も精一杯楽しんで聴いてきます!」
「それと」
「?」
「頑張ってくださいね、賢者様」
「?はい、頑張りますね……?」
* * *
「──といったことがあったんです」
「成程な……」
賢者の話を聞きながら、カインは少し難しそうな顔をしていた。
「というわけで、これはカインに差し上げますね」
「そうか……少し申し訳ない気持ちもあるが、2人の気持ちを汲むなら有り難く頂こうかな」
「はい、是非そうしてください!」
しかし、カインは次に続く賢者の言葉に面を食らう。
「私の代わりに楽しんできてくださいね!」
「………………は?」
思わず賢者の目では出したことがないような、ドスのきいた声がカインの口から漏れ出る。賢者もその声には驚いたようで、一瞬体をびくりと震わす。
「ちょっと待ってくれ賢者様、話の流れだと俺と賢者様が一緒に行くって話じゃないのか?」
「あ、ああそれなんですけど、私も最初はそのつもりだったのですが……」
賢者は少し躊躇いがちに口を開く。
「そのチケット、恋人専用チケットだったみたいで……」
そう、実は賢者はカインにこのチケットを渡す前に、チケットに記載の内容を把握しておこうとクロエに記載内容を教えて貰っていたのだが、どうやらこのチケットは恋人もしくはそれに近しい関係の2人専用らしく、このチケットの座席はキャストから恋人達に向けた特別なパフォーマンスが受けれるらしい。そしてそのパフォーマンスを受けた2人は、永遠の愛が約束される、なんてジンクスがあるらしい。それも相待って、このチケットはただでさえ入手困難なチケットの中でもさらに幻とも言われる程の希少性があるらしい。正直、その話を聞いた賢者はやっぱりベンとリナリアに返した方が良いのでは……なんて思ったが、あの話はもう終わりと自分が告げた以上、やはり自分で行くことにしようかと思ったのだが。
「勿論、絶対に恋人でなければいけないわけではなく証明さえできれば問題ないらしいのですが……。カインと私はそう言う関係じゃありませんし、私には恋人もそれに近しい関係の人もいませんし……。カインも今は恋人はいないと聞いていましたが、今回の件で気になった方なんかがいれば誘うきっかけにもなるかと思ったので……」
「…………」
「あ、私のことは気にしないでください!見れないのは残念ですが、私が行っても勿体無いですし……」
「………………」
「………あの、カイン?」
賢者が言葉を紡ぐたびに、カインの表情はどんどん険しいものになっていく。いや、表情自体は笑顔と呼ばれるものなのだが。流石に賢者もカインの様子が明らかにおかしくなっていることには気が付いたようで、気遣わしげにカインの顔を覗き込む。
「……わかった、賢者様のお言葉に甘えて俺が貰うよ。ちょうど誘ってみたい人もいたしな!」
「……よかった!感想、聞かせてくださいね!」
この時、賢者はカインの言葉に心の柔らかい部分に針が刺さったような、そんな感覚を覚える。それが何を指すのかは、今の賢者には分からない。
「では、無事に渡せましたし私はこれで……」
突如湧いた感覚を振り払うように、賢者はカインの部屋を去ろうとソファから立ち上がり、ドアへ向かおうとする。
「ああ、ちょっと待ってくれ、賢者様」
「?はい、なんで……」
しかし、賢者がこの部屋から去ろうとする前に、カインの声が賢者を呼び止める。その声に促されるように賢者が振り返ると、そこには恭しく膝を突き、賢者の瞳を真っ直ぐに見据えるカインの姿があった。予想だにしないカインのその姿に、賢者は思わず息を呑む。その姿だけ見れば、いつもカインがアーサーにするように、騎士が自身の君主に向かっているように見える。しかし賢者には何故か、カインのその姿は騎士というよりも、───今から愛しい人にプロポーズをするような、そんな印象を受けた。
「カ、カイン?どうしたんですか?」
「賢者様……いや、晶。これを、受け取って欲しい」
カインの手から差し出されたのは、まさに先程賢者からカインへ渡した歌劇団のチケットだ。賢者は一瞬、思考が真っ白になり、先程自分が言った言葉が脳裏を駆け巡る。
「恋人限定」「気になる人」「ジンクス」
それらを伝えた上でのカインの行動。それが何を指し示すか分からないほど、賢者は鈍感ではなかった。
「カ、カイン。さっきも言いましたけど、私に気を遣わなくても───」
「晶」
「っ!」
逃さないと言わんばかりに、カインは賢者が言い切る前にその言葉を遮る。そしてこうなっては、賢者も否が応でも彼の太陽のような熱視線と言葉に、正面から向き合うしかない。
「勿論、嫌なら無理にとは言わない。それこそ俺や彼女達を気遣う必要もない。晶が、決めてほしい」
「で、でも、だって、そんなの───」
そんなの、決めてしまったら、カインとの関係はどうなる?仮に断ってもカインは気にするな、なんて言って今後も何もなかったように振る舞ってくれるだろう。それこそ、最後のお別れの時まで。でも晶は違う。気にするし、気まずいし、避けてしまうかもしれない。そもそもカインのことをどう思っているかなんて、分からない。カインのことは好きだ、大好きだ。でもこれは、恋なのだろうか、友愛なのだろうか。分からない、分からないのだ。
「わ、分からないです。どうすれば良いのかも、自分の感情も、何も……ッ!」
たまらず晶の瞳からはポロポロと大きな雫が溢れ出す。
「……すまない。そんな表情をさせたかった訳じゃないんだ」
カインは無理に擦り上げる晶の手を抑えると、溢れる雫を丁寧に一粒ずつ、取りこぼさないように掬う。彼女の感情一つ一つを大事にするように。
「……チケットの日付は1週間後、か」
「………」
「晶、5日後。………5日後にもう一度あんたを誘う。その時に、決めてくれないか」
「……5日後」
「ああ、流石に譲って貰った席を空けるわけにはいかないからな。その時はチケットをくれたベンとリナリア、だったか。2人にチケットを返そう」
「………わかり、ました」
晶は力無く頷く、その目は赤く腫れていた。そんな晶の痛ましさに、カインは苦しげに目を細める。それでも、カインは自身の行動に、後悔はしない。好きな人の前では、少し、我儘になってしまうのだ。こっちを見て欲しい、自分だけを見てほしい、自分のことだけを考えてほしい、なんて。
「晶、さっきも言ったが。俺や、2人に気を遣うようなことはしないでくれ。あいつらも、それは望んでいないはずだ」
「………はい」
「じゃあ、おやすみ。良い夢を」
「おやすみなさい、カイン」
晶はいつものようにカインの瞳を見れない。カインも、無理に覗き込もうとはしない。静かに、カインの部屋の扉は閉じられ、晶は1人廊下に取り残される。
「私の、気持ち………」
祈るように呟かれたその言葉は、廊下の奥に吸い込まれ、溶けていった。
*
*
*
───5日後。2人の、いや、カインにとっての運命の日。日時や場所は指定していない。晶の意志で、決意が出来た時に来て欲しかったから。あの日以来、カインと晶はろくに言葉を交わしていなかった。晶が避けた、のではない。カインが、今の晶の決意を揺るがないように、あえて城に篭って会わないようにした。カインは自身の行動によって晶が苦しむことに心を痛めてはいるが、後悔はしていない。好きな女に恋愛対象として見られていないのは、結構キツいものなのだ。たとえ振られてしまったとしても、自分の事を意識して欲しかった。ただ彼女を泣かせてしまったことに対しては、言い逃れもできない程最低であると自覚はしているので、全てが終わったらオズに雷でも落として貰おうか、なんてことを考えていると、控えめにドアから小さなノック音が聞こえる。間違いない、晶だ。
「晶、空いているから、入ってきてくれ」
「………失礼、します」
恐る恐る、と言った様子で晶は部屋に入ってくる。およそ5日ぶりに見た彼女は、目こそ腫れてはいないものの、うっすらと隠しきれない隈が見える。
「好きに座ってくれ、今お茶を淹れるから───」
「───いえ、このまま、お話しさせてください」
「……!」
目が、合った。彼女の瞳は、揺らいではいない。真っ直ぐに向き合って、向き合った上でこの場に来ているのだ。
「ああ、分かった。聞かせてくれ、賢者様」
カインは緊張が彼女に伝わらないよう、全身を引き締める。彼女は逃げずに、覚悟を決めてこの場に足を運んでくれたのだ。自分も覚悟を決めなければならない。その答えが、たとえ自分の望む答えではなくても。笑顔で、彼女をこれ以上苦しめないよう。今までと完全に同じ関係は難しくても、これからも快い関係でいられるように。
「私、あの後、ずっとずっと、考えました。自分の気持ちとか、自分がどうしたいのか」
「……………」
カインは彼女が話し終えるまで、黙って聞き続ける。晶もそれを察し、返答や相槌を待たずに一方的に話し続ける。いつもの彼女とは違う。彼女はどこまでもカインの、ひいては魔法使い達の言葉に耳を傾け続ける人だったから。
「カインから貰った言葉、贈り物、思い出を頭に浮かべました。どれもとても素敵で、楽しくて、絶対に忘れたくないことばかりでした。……いえ、絶対に忘れません。たとえ、私が元の世界に戻って、貴方が私の名前も顔も忘れてしまったとしても、私だけは覚えていたい」
「でもそれは、他の皆さんも同じです。誰との思い出も、素敵で、楽しくて、忘れたくないことばかりです。勿論、大変なことも傷ついたこともありましたが、それら全てを含めて私は皆さんが大好きで、大切なんです」
「晶………」
彼女の言葉を聞きながら、カインは思う。嗚呼、この人が自分達の賢者様でよかった。
───彼女を愛せて、よかった。
あとは、彼女の最後の言葉を待つのみだ。その言葉をもって、この感情は終わるのだ。
「だから、やっぱり、私はカインとそういう関係になることは、できません」
「………そうか」
こうなることは予想できていた。それでもやはり、いざ言葉として突きつけられると堪えてしまう。それでも、彼女のためにも、自分のためにも───。
「────と、思っていたんです」
「……晶?」
彼女が結論として出したそれに、応えようと開いた口はそのまま彼女の名前を紡ぐ。間違いなく今の言葉で終わるはずだったそれに、彼女自身が待ったをかけたのだ。カインの頬に一滴の雫が流れ、落ちる。
「それが、私の、“賢者“の私の、答え、だったんです」
「それは───」
「でも、でもね、カイン。わたし、だめ、なんです。貴方を見ると、見たら──」
先程までには白く透き通っていた晶の肌は、みるみる内に彩られる。深緑の葉が、燃え上がるように
「こんなの、知らなかったのに。知りたくなかったのに。知らないままで、いたかったのに」
「…………晶」
カインは立ち上がり、ゆっくりと晶に近づく。一歩一歩を踏みしめながら。晶は顔を伏せ、隠すように手で覆いながら動かない。カインが近づいてきているのは分かっていた。それでも逃げない、逃げるべきだと脳が警鐘を鳴らしていても。
「晶、顔を見せてくれないか」
「………いやです」
「頼む、晶」
「…………………」
カインの言葉に、ゆっくりと、躊躇いがちに扉は開かれる。その顔は、彼女自身も、カインも見たことはなかった、新しい彼女の顔。カインはその顔を焼き付けるように、瞬きすら惜しいほどに真っ直ぐと見つめる。晶はその瞳から、彼からはもう逃れられないことを悟る。目が合ってしまえば、もう、だめなのだ。
「ははっ」
「!い、今笑いました!?」
「悪い。晶が、────俺の恋人があまりにも可愛くて」
「こ、恋人じゃありません!」
「───そっか」
カインは、優しく、愛おしげに彼女の頬を撫でる。その手があまりにもこそばゆくて、むず痒くて、思わず目を瞑り身じろぎをする。
「晶」
こっちを見て。