身を知る雨「皆、真希みたいになっちゃ駄目よ」
「「はぁい」」
たったひとことで散っていった子どもたちと、振り返りもしない母の背。それらを視界から追いやるように、真希は俯き押し黙った。
一瞬前まではきらきらとして見えたはずの平らなガラスは、今や美しく透き通って見えるほどに虚しい。真希はひとり、畳に並べられたおはじきの群れに向かって手駒の一粒を弾こうと指を構え、……視界が滲んでいることに気づく。
次の瞬間、何故か真希は今し方弾こうとしたおはじきを拾い上げていた。その小さな一粒を握りしめた手を胸に抱きしめると、不意に誰もいなかったはずの頭上から声が落ちてくる。
「かわいそうになぁ。俺が慰めたろうな」
びくりと肩が揺れた。聞いたことのない男の声。けれど優しげな言葉とは裏腹な愉しむような声音は、この家の男だろうと名前を聞かずともわかる。
嫌悪感が背筋を滑って産毛が逆立つ。弱みを見られるわけにはいかない、反射的に思って咄嗟に目元を拭おうとした腕はしかし、その男に掴まれる。そうしてもう片方の手で前髪を掴み上げられてしまえば、無様な顔を男の前に晒すほかなかった。
「なぁ真希ちゃん、身を知る雨って言葉知っとる?」
なぜこの男は真希の名前を知っているのだろう。不信感と嫌悪感に全身を支配され、真希は毛先の黒い金髪の男を思い切り睨みつけた。
しかし幼子の、しかも女児の僅かな抵抗など禪院家の男たちにとっては何の感慨ももたらさないものだと再確認させられるだけだった。真希の視線をせせら笑うと、彼は前髪を引く手に更に力を込め、真希の顔を己の眼前へと近づけてからニッコリと笑った。
「ベソベソ泣いとる惨めったらしい真希ちゃんにお似合いの言葉やで。良かったなあ、今のうちに身の程知れて」
「っ、泣いてねーよ!!」
バシッ、と。思わず飛び出た手が男の頬を打った。すると彼は笑みを歪め、容赦なく真希の身体を畳へと打ち付ける。
「痛っ!!」
「アカンで、真希ちゃん。せっかくママが身の程教えてくれたんやから、ちゃあんと分を弁えんとな?」
ニコリ、先程の笑みを貼り付けた男が言い含めるように告げる。それは嘲りの笑みだ。見下すことに快を覚える、この家の男たちの笑みだ。ひらひらと後ろ手に手を振って歩み去っていくその姿にまで滲み出る優越感を認めて、真希はきつく唇を噛み締めた。
「くっそ!!!」
ダン!!と思い切り畳を殴りつける。腹に煮えたぎる悔しさと怒りが、真希の瞳を燃え上がらせる。
(ぜってー、見返してやる!!)
父も母も、見知らぬ大人も同年代の子どもでさえも真希を嗤うこの家で、ひとり、真希は立ち上がる。
自分だけは爪弾きにすることができなかった、自分という存在を抱きしめて。
身を知る雨とせせら笑われるばかりの弱さを──涙を投げ捨てて。
「僕は、真希さんみたいになりたい」
遠い日に投げつけられた母の声と対極にあるその声と言葉は、あの日たったひとりで己を抱きしめた幼い真希にまで語りかけるかのように、心の奥深くに入り込む。あたたかく、優しく、真希自身が投げ捨てたものさえ掬い上げてしまいそうな、大きな掌で心にふれる。
「強く、真っすぐ生きたいんだ」
強く、真っすぐ。そう在ろうとしてきた真希のあの日の選択を。誰からも認められなかった幼い日の決意を。それから今に至るまでの歩みを、生き様を、心を。投げつけられ続ける否定から自分ひとりで守ってきたそれらを今、いとも容易く心の底から肯定してみせる真っすぐな言葉が、真希を照らし、包んでしまう。
(──オマエのが、よっぽど、)
ギュッと唇を噛み締めて、こみ上げたものを押し留める。ぎゅうと詰まった胸はあたたかさで満ちているのに、あの日のような悔しさも怒りも屈辱も感じていないのに。なぜ今こんなにも、目頭が熱くなってしまうのだろう。これも自分がまだ弱いからだというのだろうか。
──否、それは憂太への侮辱だ。ここに来る前は死のうとまでしたこの男が、一片の陰りもない笑顔で真希のように生きたいと言った。この言葉に感じるものを、直哉のようなクズの言葉と一緒にしていいはずがない。
そうして受け入れた心が胸に落ちると、ほろ、と、心の奥底に閉じ込めた幼子の真希の心から涙がこぼれ落ちたような心地がした。その雫が染み渡る胸の奥、生まれた熱がとくりと音を立てて広がっていく。
──その涙もが『身を知る雨』だというのなら。今真希が知ったこの身の上は、あの時のような惨めなものでは決してない。熱い胸が知ったのは、全幅の信頼と曇り一つない肯定。真希がただひとりで守り続けてきたものを純粋な心で尊んだ、いつの間にか目の前に、時には隣に立っていた人がいるという事実。
一瞬、目の前の笑顔以外の何もかもが真希の前から消えそうになる。熱い胸の裡に、憂太の言葉が反響する。
そんな真希を現実に引き戻したのは、脳裏をよぎった妹の影だった。
ギュッと唇を引き結ぶ。揺れそうになる視界を睨んで、瞳まで上りそうになった熱を押し込める。
「……バーカ、一人でやるから意味があんだよ」
けれど今、涙を堪えたのはあの日に弱みを見られまいとした惨めな自分とは違う。それだけは強く断言できる。
それでも真希は、こんな小さな承認で満足するわけにはいかないから。憂太ひとりに認められた程度で満足するなと、自分に釘を刺す。自戒する。
「……認められた気になってんじゃねーよ」
見返したい人間たちは誰一人として、未だ認めさせられていない。まだ真希は、なにひとつ成せていない。禪院という世界を変える力は未だこの手にはない。
それでも、あの日小さな手に抱きしめた小さなガラスには確かに光が差して、再びきらきらと透き通って色を取り戻したように感じたから。
──だから、だからだ。
こんなに頬も耳も、胸の裡までも熱いのは。涙の意味を憂太が変えたから。幼い真希の傷を、本当の意味で慰めたから。だから、不覚にも憂太の言葉に胸を打たれてしまったのだ。ただそれだけ。……それだけ。
言い聞かせながら、真希は奥歯を噛む。揺れ潤みそうになる瞳に力を込めて、虚空を睨む。
そうしてギュッと握りしめた拳の中に、まだ認めたくない高鳴りと二文字の予感を握りつぶして。