数ヶ月に渡って、ストーカー行為を受けている。朝から晩までずっと、一人の人間に。
「おはよう、跡部くん♪」
「跡部くん今日何食べるの? わー美味しそう! 隣いい? 座るね〜」
「こんばんは。今日も遅くまで頑張ってるねぇ、付き合おうか?」
入江奏多。いつぞやのコート入れ替え戦で当たった、ムカつく相手。
アイツには何を言っても無駄だった。どれだけ冷たくあしらおうが迷惑そうにしようがアイツは構いやしなかった。
俺がアイツを追い払うのを諦めるまでに時間はかからなかった。入江からのアクションを半分無視するような形に落ち着き、その状況に慣れてしまうのにも時間はかからなかった。
慣れてしまえば日常の一つでしかなく、煩わしいものでもなくなっていた。
……そう、それがあまりにも日常に溶け込んでしまい、それが当たり前になってしまっていたから。俺様は何も気づいていなかったのだ。自分の変化にも、そして、相手の変化にも。
***
静かだな、と思った。少しの違和感を辿り、すぐに合点がいく。今朝は入江に話しかけられていない。毎日どこからともなく現れ俺に声をかけてくるアイツと今朝はまだ会っていない。
寝坊だろうか。いや、あの人は徳川さんに毎朝叩き起こされているはずだ。
どうでもいいことではあるが、気になり始めるとなんとなく気にしてしまう。あたりをゆっくり見渡していると、遠くに小さな人だかりができているのが見えた。誰かが誕生日らしい。大所帯であるこの合宿所では、誰かの誕生日は頻繁に訪れており、チームメイトが祝う姿はしばしば見られるものだ。
その人だかりの隙間から、ブロンドの髪がふわりと動く様が見えた。ああ、あの人の誕生日なのか。小柄なその人の髪が、ふよふよと動く様を遠くからしばらく眺めていた。
案外……いや、意外でもないか。同級生だけでなく、後輩たちからも声をかけられている。あの人は確かにうるさい時もあるけれど、いやうるさい時が多すぎるとは思うけれど、面倒見が良く穏やかな人である。存外慕われているのだろう。ちょっとしたお菓子などを与えられては、にこりと笑顔を浮かべている。
てっきりこちらに来ると思っていたけれど、しばらくするとあの人はどこかへ引っ込んでしまった。あれこれ貰っていたから、自室に置きに行ったのだろうか。
「……」
どこか落胆している自分に気づいて、どきりとした。とっくの昔に空になった食器を前に、ずっと何をするでもなくぼんやりとしていたことにも今更気づく。
待っていたのか。俺が? あの人を? あまりに毎日声を掛けてくるものだから、急にそれが無くなったことを気持ち悪く感じているのだろうか。
「……バカらしい」
そう呟いた声は、思っていた以上に弱々しい。いたたまれなくなって、チッと舌打ちをして乱暴に席を立った。
***
「跡部くーん!」
「……アンタか」
「うん、こんにちは。今日は何食べてるの〜?」
慣れた様子で入江が俺の隣に腰を下ろす。美味しそうだねえと微笑んでから、いただきますと手を合わせていた。
「今日の午後の練習、いつもと違うものになるらしいよ」
「そうなのか?」
「うん、コーチ達が何やら話してるのをたまたま耳にしてね」
食事をしながら、何気ない会話が続いていく。入江の話す内容に相槌を打ちながら、内心拍子抜けしていた。
「キツくないトレーニングだといいなぁ」
「そんなメニューあるかよ……だいたい、アンタなら余裕だろ」
「んー? ふふ、キミにそう言われちゃあ弱音吐けないなぁ」
「アンタのそんなところ、見たことねーけどな……」
てっきり、今日は誕生日なのだ、祝えと迫られると思っていたから。入江はそんな様子をおくびにもださず、いつも通りの気の抜けた会話を続けている。
あっという間に食事は空になり、入江はごちそうさま、と手を合わせた。
ふと視線を感じ、入江の方を向くと、入江が黙ったままじっと俺を見つめている。穏やかに微笑む表情はいつも通りにも思えるが、何となく、どこか嬉しげに見えた。
「……何だよ」
「んー……うん、ほら、跡部くんの顔を、拝んでおこうかと思って?」
「ハァ?」
「元気でるし……あは、ごめん、何言ってんだろ? ごめんね、じゃあまた、練習で」
話しながら何を言っているのか自分でも分からなくなったのだろうか。誤魔化すように入江は笑って、席を立ちどこかへと行ってしまった。
唖然としたまま一人席に取り残された俺は、先程の入江の奇行を考えた。アイツは変な奴ではあるが、あそこまで意図の読めない変な行動を取るやつではなかったはずだ。
……やはり、祝われたかったのだろうか? けれど、それを要求することを躊躇するような人にも思えないけれど。
悶々と考えても答えは出ない。そりゃあそうだ、あの人の心中なんて分かるわけがない。
「……なら、試してみるか」
***
「入江さん」
「あれ? 跡部くん?」
「探したぜ」
練習も終わり、日も暮れる頃。探し求めていたその人は、人気のない東屋でぼんやりとしていた。
隣に腰を下ろすと、どうしたの? と不思議そうな顔で入江が微笑んだ。
「アンタこそ。風邪引くぞ」
「そうだね、寒くなってきたよね」
それからしばらく会話は途絶えて、沈黙が訪れる。入江は俺を急かすでもなく、やっぱりぼんやりとしているようだった。
「……おめでとう」
「……え?」
「誕生日なんだろ? アンタ」
「え、う、うん?」
「誕生日おめでとうございます、先輩」
「……」
入江がこちらを見ている様子が視界の隅に映ったけれど、なんとなく居心地が悪くて、真っ直ぐ前を見たままそう言った。
入江は何も言わずに黙り込んで──あまりにそれが長いものだから、どうしたんだとたまらず入江の方へと顔を向ける。
入江は随分と驚いているようで、目を見開いたまま硬直しているようだった。俺と目が合ったことで硬直が解けたのか、ぱちりとその大きな瞳が瞬きをする。
途端、ぶわりと入江の顔が紅潮して、眼鏡が曇る。俺が驚いている間にさっとその顔は伏せられ、入江の表情は分からなくなってしまった。
「おい……」
「いや、ごめん、ええっと、驚いちゃって」
それは見れば分かる。そんなに驚くことなのか?
「……びっくりした。キミが祝ってくれるなんて思わなかったから……」
入江が顔を上げる。まだ少し頬が赤いけれど、おおむね普段通りの顔がふにゃりと歪む。
「すごく嬉しい。ありがとう、跡部くん」
その屈託のない笑顔にどきりとする。入江は、本当に嬉しそうに笑っていた。
こんな言葉一つでそんなにも嬉しげにされるとは思わず、今更ながら、彼に贈るものを何も用意していないことを後悔した。
「……そんなに喜ばれるとは思わなかったぜ」
「ふふ、ボクも知らなかった、キミに祝われるのがこんなに嬉しいなんて」
はにかむ笑顔を見て、ようやく、ああこの人はどうやら俺のことが相当好きらしいと腑に落ちる。
いつからそうなのだろう。最初はそうではなかったはずだ。からかうような、こちらの反応を楽しむようなつきまといの行為は、いつからただ俺に会いたくて俺の元に来ていたのだろう?
「そんなに嬉しいなら、来年も祝ってやるよ」
「……ほんと?」
思わずポロリと溢れた言葉に、入江が顔を輝かせる。
「……嬉しいよ、最高のプレゼントだ」
入江はそう言って、また俯いた。今度は髪の毛の隙間からほんの少し表情が見える。にっこりと笑う口元に、ああ本当に嬉しいのかこの人は、とくすぐったい気持ちになる。
ぱっと顔を上げ、入江は立ち上がった。くるりと振り返り、俺に向かって手を伸ばす。
「さ、もう戻ろう。寒くなってきたしね」
「……ああ」
その手を取ると、確かに冷たくなっていた。温めるように両手で包んでやると、入江は嬉しそうに笑った。