噛みグセ体が重い。だるい。いつも肌を重ね終わったあとはこんな状態になる。体が重すぎて、マシュマロみたいな柔らかい布団に沈んでいくような。
「…」
ぎし。軋む音を聞いてどうにか体を起こし、わたしに背中を向けてベッドの縁に座る彼を見る。いつもきれいにまとめてある長くて艶やかな髪は、このときだけはほどかれている。
(…ボサボサ)
情事の後だから仕方ないのかもしれないけど、まっすぐな髪の毛は少しだけボサボサしている。そのまま見つめていると彼は群青色の髪の毛を邪魔そうに前へ流して、男の人らしくほどよく筋肉のついた背中が露になった。
(あ、)
白い肌にくっきりと残る赤い線。何本も細く残るそれは、わたしが引っ掻いてつけたものだ。
赤くみみず腫れになっているものもあれば、わずかに血が滲んで真っ赤になっているものもある。抱かれている間のことはあまり記憶にないせいか、いざこうして自分がつけた跡を見ると むず痒い。
(痛そう)
それにしても、あんなに引っ掻いていただろうか。
そっと腕を伸ばして背に触れようとすれば、その瞬間整った顔立ちが振り向く。驚いてつい反射的に腕を引っ込めると、服を着ないのか と声をかけられた。
「あ、そっか…」
「そのままでいられたら困るだろう。ほら」
「…ありがとう。小次郎」
床に投げ捨ててあった黒いタンクトップのインナー。それを拾った小次郎はわたしに投げて寄越して、もう遅いけど体を横に向けていそいそと着込む。横目でこちらを見つめる彼を見て、髪の毛の隙間から傷跡の無くなった背を見た。
「…小次郎、背中」
「背中?」
「うん」
よく分からず答える声に近づいて、そっと背に触れて覗き込む。…やっぱり、もう引っ掻いた跡はなくなっていた。
「…無くなっちゃった」
「引っ掻き傷か?」
「うん」
「でも立香には残ってる」
少し悲しげに話すと小次郎はそう答えて、さらに体の向きを変える。タンクトップの隙間から見える鎖骨や胸元に指先でそっと触れて、わたしも視線を下に向けてみる。少ししか見えないけど、わたしの肌には赤い斑点がいくつも残っていた。
「…小次郎にもなにか残したい」
「何かとは?」
「…分かんないけど……わっ」
唇を尖らせて少し拗ねてみれば、腕を引っ張られてぎゅっと抱き締められる。ふわりといい香りのする体に頬擦りすると、首筋に彼の顔が埋まる。
「小次郎、相変わらずいい匂い」
「どうも。…立香は甘いな」
話しながら小次郎の背中に腕を回して、長い髪をかき分けて背中に触れる。指先で本当に傷がないのか探り、肩甲骨のあたりをつとなぞる。
「…こそばゆい」
「あ、ごめん」
「…残っていたか?」
「……ううん。…何もない」
まっさらできれいな背中。たくましい背中。いつもわたしが見つめることの多い、大好きな人の背中。いつもこの背を見るたびに、なにか残せたら と思う。
「……」
「り、…む」
名前を呼ばれたのとほぼ同時。わたしは、小次郎の首筋に軽く歯を立てた。
「…」
ほどよい弾力。固さ。そこまで筋肉のついていない皮膚は、恐らくわたしが思う男性的な首筋よりも柔らかく、歯を少し食い込ませただけで血の通った暖かさを感じる。しがみつく体から響く心音にあわせて、不思議と口元から血が流れる動きが伝わる気がするのだ。
「……美味いのか?」
「美味しくは、ない」
甘噛み程度とは言え、小さく歯を立てた。わずかに固めの皮膚に歯を食い込ませて、ほんの少し力を込めた。
(…これも残らないって、分かってるのになぁ)
それでも噛みついたところを確認したくて、頭を離して首筋に視線を向ける。引っ掻き傷ほどではないにせよ、しっかりと歯形が残っていた。
「意外と乱暴だな」
「そんなことないよ」
「このままではそのうち…立香に喰われてしまうかもしれんなぁ」
「食べないよ!」
失礼な。わたしにはそんな趣味はない。ムッと頬を膨らませるとその隙に首筋に顔が埋まり、肩口に舌が触れる感触がする。少しだけぞわりと背筋が粟立てば、ぺろりと舐める仕草に肩が震えて、がぶりと噛みつかれた。
「ひっ、」
「…、……」
「こ、こじろ…」
自分でもビックリするぐらい声が震えている。背中に回した腕が、すがるように震えている。徐々に力のこもる噛みついた歯に、喰いちぎられてしまうんじゃないかと思ってしまう。
「こじ…あ、」
「…柔いな」
恐ろしくなってきたところで、ようやく。軽く痛みを感じたところで彼は噛みつく力を緩めて、またぺろりと舌の這う感触。触れる指先はつけた歯形をなぞって、思ったよりもくっきり跡が残っているようだった。
「食べられちゃうかと、」
「美味そうだからありかもな」
「えっ」
「冗談だ」
小次郎はくすくす笑ってそう話すも、冗談か冗談じゃないのか…とても分かりにくい。渋い顔をして彼のきれいな首筋を見ると、もう一度噛みつきたいのか?と言われて首を横に振る。もうなにも残ってないのは悲しいけど、何回もそう…噛みつくものではないと思うから。
「また噛みつくぐらいなら違うことしたい」
「違うこと?……終わったばかりなのに元気だな」
「元気じゃないよ。…本当は体だって怠いし疲れてるし…重くて眠い」
「…」
「でもそれよりも、小次郎と少しでも同じ時間を共有したいんだ」
へにゃりと腑抜けな顔で笑いかけると、群青色の瞳がぱちくりとまばたきを繰り返す。たまに彼はわたしのこういう反応に、意外そうに顔を変えるのだ。
「…それにね、わたし…小次郎とエッチなことする度にね、わたしの心と体にはしっかり小次郎の愛情…が残ってるのに、小次郎の体にはなにも残らないのが嫌だったの」
「なにも残ってないわけではないんだが…」
「それは分かるけど…」
「表面上の話だろう?」
「…まあ…うん…。うわっ」
返事をすればまたマシュマロのような柔らかい布団に押し倒されて、長い髪が暖簾のように視界を遮る。さらさらと肌に触れる小次郎の髪は布団みたいで、包まれると繭のように心地いい。
頬を撫でる手のひらにうっとりまぶたを閉じて、着たはずのタンクトップが捲れる感触がする。…このままだと寝てしまいそうだから、早くきつく 抱き締めて欲しいな。
「抱いてる途中に噛みついたらすまんな」
「そのときはわたしも噛みつき返すから」
「それはそれは。お互い喰いちぎられぬよう気を付けねばな」
どうせ噛みついたところで、彼の体にはその事実さえ残らない。…それなら。今ここにいる間だけでも、小次郎の心になにか残せるものを与えられたら。
(…ううん。難しい)
人の心に自分を刻み付けるなんて、よほどのことだ。それは、かなり厳しいことだろう。簡単に出来ることじゃ…ない。
だから結局。今日もわたしは彼の背中に爪を立てて、首筋に甘噛みするのです。
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