Bパート(遠掛けとピクニック) ユリウスがこの施設に訪れてから、ふた月が立とうとしていた。時折三姉妹がアルベールの手紙と仕事を持ってやってくるのだが、本日ミイムが持ってきた手紙に、近日中に遊びに行くと書いてあった。
――遠駆けに行こう。
本当はあの店のサンドイッチを持って行きたいのだが、朝王都を出ていく時間には店は閉まっているし、かといって店の開店を待っていたら夕暮れになってしまうから、そちらで昼食の手配を頼む。
約束したとおり葡萄酒を持って行くよ。お前も久しく飲めてないだろう?
会える日が晴れるといいんだが。
恙(つつが)ない日常の報告の合間に、そう差し込まれた文章は優しい。ユリウスが思うに、アルベールの手紙は読んでいると彼の表情のひとつひとつや声が浮かんでくるような書きぶりだ。報告書の文面と筆跡は同じである筈なのに、単語のとめ、はね、それだけでまるで彼がたのし気に目の前で話している情景が浮かんだ。
ユリウスは侍女らに馬の手配を伝え、当日の食事処を探してくると施設を出た。
時にはユリウス一人で昼餉を出店で済ませる事もある。
それくらいには、この街の治安は良い。侍女らが食事のを用意することが大半であったが、ユリウスが根を詰めているのを見計らって「お元気な姿を民たちに見せてあげてください」と声を掛けてくれるので、急ぎの仕事でない限りはなるべく街に出歩いて息抜きをするように心掛けていた。
*
「ユリウス様! 今日はこちらで休んでいかれませんか」
「ユリウス様! この間アドバイス頂いたものの改良品です! 是非召し上がって行ってください!」
固定客が珍しいのか宿場街で働く者たちもすっかりユリウスの名と姿を覚えていた。
レヴィオンはそれほど大きな島ではないので、ユリウスの犯した罪について知らぬ者はいない。それでも――意外にもユリウスを慕う者は多かった。
レヴィオンは先々代の王の御代より武を奏する政策がおよそ二百年続いている。つまり、土地を耕す若者の力は徴兵で王都に奪われていた。それなのにも関わらず、一定の量を納めない村には金銭での納税を命じるという愚かな罰則が科せられている。
そういった理由で王都より離れた、貴族所管でない農村ほど先王への憎しみは大きかった。この宿場街も同じで、先王の政策によって打ち捨てられた街の一つだ。
そこを湯治場として復興を決めたのは、ぶどう農園が近い事や、酒造に適した蔵が造れる場所が在る等が重なったからではあったが……。
全てが順風満帆とは言い難かったが、それでもユリウスのこれまで歩んできた人生の中で、今が一番穏やかであると懐古してしまう。無人島で独り過ごしていた時とも違う、不思議な時間だ。
自分の努力が、目の前で証明される。ただそれだけの事なのに。
「すまない。今日は予約できる店を探しているんだ」
しおらしく松葉杖をついて歩くユリウスであったが、大怪我を負っているという建前もあるので、申し訳なさそうに眉を下げた。あまり歩き回っている姿を本当は見せたくないのが本心ではあるのだが。
「ユリウス様おひとりぶんくらい空けてみせますよ! ……え?昼餉じゃない??」
気前のいい大将が不思議そうに小首をかしげた。
アルベールの名を知らぬ者もいないので、ユリウスは率直に二人分を予約できる店を探していると話す。
「ええ⁉ アルベール様がいらっしゃるんで⁉ てえへんだ、それなら街中の奴らに声を掛けねえと!」
「あ……いや、遠掛けに行こうと誘われててね。多分街にはそう長くは滞在しないよ」
「そうなんですね……。ちっとばかし残念です。あ!でもコレ‼ ユリウス様試案の新作です! 持って帰ってください‼」
そう言って大将は一つ蒸しパンを出した。小麦の配分を変えてねっちりと重めの生地。中まで熱が通るか心配であったが、熟練の料理人の勘でどうにか形になった。
「ありがとう。これをいつかアルベールに食べさせられるよう励んでくれ」
蒸しパンを受け取って、ユリウスは代金を払おうとしたが断られてしまった。まだ中にいれる餡が決まっていないとのことで、結果ユリウスは蒸しパンを持って歩く事になってしまった。
「うん、美味しい」
独り言だったが、レヴィオンにしては珍しいからりとした風が吹いて気持ちがいい。
昔アルベールに食べさせたとんでもなく不味いクッキーとは大違いだな、と内心で笑う。
結局ユリウスは悩んだ結果、馬に乗っていった先で食べるなら温かいも冷たいもないサンドイッチしかないな、と施設の方向へ踵を返した。
サンドイッチを贈られた時の事を思い出して、ふと笑みが溢れた。……親友殿の鈍感さを笑ってられないな。そうユリウスは自嘲する。
――早くおいでよ、親友殿。この街に。
ミイムに託した手紙を思い出す。早く彼に見て欲しい。
他の誰でもない英雄を歓待する街を思い浮かべて、ユリウスは歩きながら目頭が熱くなるのを感じた。
――この完成された街に、私はもう必要がないようだから。
初めての感覚だった。人生で初めての充足感。
何かを成した、満足感。
人としてやっと一歩を踏み出したように感じる。
アルベール。君がいないと物足りない。
そこではた、とユリウスは立ち止まった。街往く人々の波の中、ユリウスは気付く。
ここに至るまで一体どれ程の時間を要したのだろう。
ここに至るまでに、いったいどれほどのものを失ったのだろう。
自分に足りなかったものの正体にユリウスはようやく気付く。
天雷剣の誓いの意味が、ようやく理解かった。
空を見上げてみる。雷雲は遠い。遠駆けに行く日もこのように晴れてくれるといいのだが。
***
約束の日が訪れた。結局のところユリウスは手作りのサンドイッチを作る事に決めた。
思い入れがある味にはならなかったが、特別不味い訳でもなく、出来不出来だけなら上出来の部類だろう。
ランチボックスにサンドイッチと惣菜を詰めるのを侍女に任せて、ユリウスはエプロンから着替える。
「纏めていた方がいいかな……」
鏡を見てユリウスは考えた。料理をする際に簡単にまとめただけであったが、風が吹くと邪魔になるので一度降ろした後思案した。
しかし身綺麗に整えたからといって、何かが変わるわけでもない。もしかしたらと期待を出来る相手ではないのだ。
思い返してみればアルベールに知識や研究の成果を褒められた事はあっても、見目や衣服を褒められた覚えは無かった。
それを特別残念に思う事は無かったが、やはり、身綺麗に見せたいと願ってしまうのは惚れた弱みなのだろうか。
そこまで考えて、そういえば自分は親友の好みの女の顔すら知らないな、と自嘲の笑みが溢れた。
アルベールが仕立て直してくれた私服の中から乗馬に合うものを選んだ。淡いベージュ色のチェックベストの上から深い緑のペプラムジャケットを羽織る。
前を締めると少しだけチェック柄が見えるのがフォーマルとカジュアルが折衷される。
袖口と裾は普段のものと同じふち飾りで揃えられていて、いつもよりかは優しい雰囲気に見えるだろう。ボトムはアイボリーの柔らかい生地で動き易いものだから、遠掛けにはぴったりだ。
履きなれた赤茶のブーツを合わせて、ユリウスは鏡の前に立ってみせた。長い癖髪はまだ、降ろしている。
「お似合いですよ。本日の風は少ないですが、髪も結い上げてしまいましょう」
仕上げにシャツとは素材違いのリボンを襟に巻いて、タイのように簡単に纏めた。
「……派手じゃないかな」
「まさか!おろし立てですもの、見慣れていないだけですわ」
ジャケットは元より自分の持っていたものと同じデザインであったが、改めて全て着付けてみると気後れしてきた。気取っているとは言われ慣れているが、とうのアルベールがいつもの成りでやって来たら、恥ずかしい。
遠慮しているのかと思った侍女は髪に櫛を通して微笑む。
腰掛けたユリウスの髪を後ろに流して細い髪ゴムでいくつかの房を作った。顔周りと首に少しおくれ毛が作られる。後頭部の一番大きい房を編んでくるくると巻いて、みつあみを作った細い房でそれを支えるようにピンを使って差し込まれた。
見慣れない乗馬服もそうだが、侍女らは異様に髪に熱を入れる。
果てには化粧もしましょうかと言われたが、流石のユリウスもそれは丁重に断った。
「――ユリウス‼」
仕上げに髪にスプレーが噴き掛けられる。
ほんの少しあくびをしていると、何処までも突き抜ける、耳さわりのいい声が聞こえた。
蹄鉄が土を蹴り上げる音。吐き出し窓を開けていたとはいえ、良く通る大きな声だ。蹄の音が施設前で右往左往している。
「ユリウス! いないのか?」
基本馬は入り口で止められるのだがここまで入って来たのか、とユリウスは思いながらバルコニーから階下をのぞきこんだ。
温泉街は大きな道を中心に左右に分かれており、階下のそこには予想通り、馬に跨ったアルベールの姿が見えた。
「私はここだよ、親友殿」
階下まで聞こえるように、少し大きい声で呼びかけた。辺りを見回していたアルベールが、バルコニーから覗き込んでいるユリウスに気付く。
「ユリウス!」
恋心に気付いたユリウスからすれば、ぱぁあっと太陽のように喜ぶアルベールの様子はまるで仔犬か何かのようで、無意識にふふと笑みがこぼれてしまった。
昼前にも関わらず、今日は人通りが多い。しかしアルベールはそんな事など気にした素振りも無くバルコニーへと向けて大きな声を出した。
「そこで待ちたまえよ。今降りるから」
ユリウスは一度ぐるりと部屋を見渡してから下に降りると仕草で返した。
タイは乱れていないか、髪は崩れていないか、大きな鏡の前で一度身なりを確認してから、施設の大階段を下りる。
メインエントランスまで出れば、月のような淡い色の馬に乗ったアルベールが民衆に囲まれていた。
さながら王子のようだとユリウスはそこでひっそりと立ち止まってしまった。
普段の赤い装いとは趣の異なる、ブラウンを基調としたツイードのジャケット。平素より随分浅い襟のシワのない黒Tシャツに、織りが細かい暗い色のジーンズを合わせていた。
装いこそカジュアルなれど――顔が!顔が王子なのだ、この男は!
見惚れてしまうのと同時に、彼好みの女の顔など考えるのが馬鹿らしくなってしまった。
茫然自失して立ち尽くすユリウスに、少し狼狽えながらもすまないと群衆を掻き分けてその前まで馬を進める。
「ユリウス、随分久しいな!俺は今日という日が楽しみで朝から待ち遠しかった‼」
雲間から覗く太陽のような笑顔が向けられて、ユリウスは立ち尽くしていたのにもかかわらず、我にもなく頬を染めてしまった。
アルベールはユリウスの腕を掴んだかと思うと、馬上に引っ張り上げてしまった。馬を走らせた所でユリウスははっとする。
「待てっ!まさかこのまま行く訳じゃないだろう!?」
ユリウスはアルベールの腕の中から逃れようと試みる。危なかった、一歩間違えればその逞しい胸に凭れてしまうところだった。
身を捩って、なんとかアルベールの顔を見ないように背ける。
「…………あ、いや、そうだな。そうしよう」
ほんの少し駆けただけだっまので、そのまま施設の裏手に馬を誘導する。建物の裏にある厩屋には、二人の遠駆け用に二頭の馬が用意されていた。
「……全く、君のせいで注目の的だよ」
「すまない。しかしようやく会いに来れたよ。長かった……」
「そろそろ一度降ろしてくれないかい? 馬が可哀想だ」
真顔で女性に掛けるような甘い言葉を平然と言ってのけるアルベールにユリウスは肩を落とした。アルベールの髪に似た色をした白馬の鬣を撫ぜて、至極真っ当な言い分を述べた。
横乗りの鞍で無かったので、馬を心配する素振りは間違っていない。
「ああ、こいつも休ませてあげないといけないしな。そうだ、思わず引き上げてしまったが、これが約束のぶどう酒だ」
ユリウスに続いてアルベールも馬を降りる。厩屋の中にいる青毛の馬と赤味の強い栗毛の馬の隣に、アルベールの乗って来た艶の綺麗な月毛の白馬を繋いだ。
大の大人二人と荷物を乗せても息は上がっておらず、力強さを感じる。
「まさか、君は朝からこの子に乗ってきたというのか……?」
白馬に水を与えながら、鞍に刻まれた家紋にユリウスは気付く。
「一番速い馬を借りてきたんだが……」
「ハァ、全く新王様は親友殿に弱い」
「な、何故分かった?」
「毛並みでわかるよ。そうでなくても、この鞍を見れば誰の馬かくらい分かるさ」
「流石だ親友殿……」