可愛 かわいいです、と言った、その声。
愛おしい美しいものを手の中に優しく閉じ込めて、そっと囁くように言う声。
野菜を切っている手を止め、思わず彼のほうを向くと、さらりと彼の手は私のまとめきれていない横髪を掬い、撫でていった。
彼の手はいつでも優しく、私を壊れもののように、とまではいかないが、それでも、まるで小さな花に触れるかのように慎重に、丁寧に扱う。
こんな風に人に扱われるのは数百年ぶりなんだ。本当に。私は神ではあったけど、崇拝されてはいなかった。誰も私を知らなかった、特に最近の生まれの人間は、古書のどこかにがらくた神という記述を見つけて、眉を顰めるだけだろう。
その私に、彼は出会った時からこうだ。種明かしをされてからは、理解と共にやはり、不思議が優った。そして今は、言いようのない安堵と、胸の高鳴りが生まれる。
彼が、かわいいですと、もう一度言った。私の目を見て。
「……それは、あの、ええと、ありがとう……?」
かわいいというのはまぁ、誉め言葉だ。武神に相応しいかは置いておいて、とにかく好意の発露だろう。
誉め言葉を言われたならば、お礼を言うのが当然だ。裴茗将軍などは嫌がるかもしれないが、私は少しも気にしないーー悪い気分になっていないーーいや、ごまかしだ。照れ臭くって、嬉しい。彼に言われるなら。
年下の君に言われるなんて、と一応は思うものの、お互い八百年も生きているのだから、今更ほんの少しの年の差なんて関係ないと言えばないかもしれないし、こんな私の小さな矜持こそ置いておこう。
三郎が私をかわいいと言った。つまり、好ましいと。これはすごく、嬉しいことだ。まぁ、この歳で(八百歳越えだなんて!)、男で、年上の兄たる立場の私が……という事実は、少なからず私の胸に自責というか、私が頼りないせいだと、本当のことに悔しさを覚える。
ぐるぐるとしようのないことを考えていた私の微妙な反応をどう思ったか、三郎の穏やかな黒い瞳がゆるりと震え、私の髪を撫でていた手が離れて行ってしまった。あ、と思う。もっと触れていたって良いのに、と、恥知らずにもよぎったことを私は認めなければならない。
彼はたまにこういう風に、私との間に距離を作る。彼曰く、自分は太子殿下の信徒であって、長年信仰してきたから、信徒にあるべき遠慮が強く身についているのだという。
友人であり、もっと言えば――想い合う、私たちの間に、そういう遠慮は必要ないと思うのだけど、彼は頑なに、ある意味で誠実に私を尊重しようとする。
そう、彼は優しいし、誠実だ。
でも少し、彼のそんな美点を指して、勝手な私は、寂しいとも思う。彼にはなかなか、そんなことは言えないけれど。
「殿下、驚かせてしまいましたか? 突然申し訳ありません。つい……」
「え、あ、謝らないでくれ。私は全然、気にしてない……というか、えと、嬉し……あ、ああ、えっと、その、とにかくそんな気持ちだから……」
「ご気分を害したのでなければ良かった」
にこりと片方の眼だけで微笑む彼は美しく、隻眼であることを惜しむより、今この姿こそが彼は完璧なのだと思わせられる。
ーー君は綺麗だ。
私に微笑みかける君はまるで、それこそ神のようですらある。そう言ったら、君は笑うだろうか?
彼に見惚れてしまう意識を振り切ろうと、私はとびきり軽薄とすら言える口調をした。
「あ、ええと、でも急だから驚いたのは確かかな。かわいいって何がだい?」
仮にも武神をかわいいと表現するだなんて、さすがは鬼王、面白いことを言うものだ。そんなふうに茶化してみたけれどうまく行った自信はない。しかし実際問題、私は彼の感性にかわいいと訴えた物事は一体何なのかが気になっていた。
私の内心を知ってか知らずか、三郎は益々穏やかに笑って、まるで物分かりの良くない子どもを見るような、慈愛を込めた眼で私を見つめる。その眼を失礼だなんて微塵も思うわけがない、むしろ私の心臓はどきりと跳ねて、彼の優しい眼つきに年甲斐もなくときめきを感じた。
三郎の形の良い唇。その口元が何かを言いたげにしているけれど、私はそれを察せるほど賢くなく、首を傾げて彼の言葉を待つ。
やがて長く待つ必要もなく、彼は言った。
「殿下のその、おだんごが」
「おだんご?」
料理をするときに邪魔だからと髪をまとめていたのを指して言われ、ああ、と納得……納得ではないが、成程と思った。
三郎は「普段とは違う髪型をしている」と言いたいのだ。普段もおだんごは作っているけれど、確かにこうして全部の髪を上げるのは料理など火を使う作業だとか、泥に入ったり土を耕したりする農作業をする場合のみだったかもしれない。
結い上げてあるおだんごを片手でぽんぽんと叩き、これね、と笑った私に、三郎が一歩足を踏み出す。さっき横に垂れている髪を撫でながら離れて行ってしまった手がもう一度私に、今度は頬により近い髪に触れた。
そう、彼はこうして私に近づく。なんてことない雰囲気で、鼓動を乱す自分の愚かさに私の嫌気がさすくらい、自然に、ごく当たり前に。
緊張する私は不慣れで、愚かしくて、恥ずかしい。
「……あと、哥哥。急ではありません」
「え?」
「いつも思っています、哥哥はとても、おかわいらしいと」
彼は愉快そうで、けれど私をからかう色はなく、髪をくしくしと指先で弄り、手の甲を私の頬に触れそうになりながら、触れはせず。
かわいいです。
もう一度、優しく彼が言う。
心から、本当にそう思っている、という誠実な態度で、そんなふうに言われたら、私は茶化して返すこともできずに棒立ちになる他ない。
気の利いた何かを言えたらよかったのだろうけれど、何を言うべきか見つからない。三郎の整った顔を見上げて、手に握った包丁の重みも忘れるほど、彼に見惚れた。
武神を、疫病神を、がらくた神をかわいいと言う彼は相当の変わり者だ。鬼王だから変わっているのかも? もし、もしそうなら。
私は彼が鬼で居てくれて良かったと、思ってしまう。八百年待たせた上にこんな勝手を思う私は、武神以前に酷い男だ。
その酷い男に彼は言う。愛おしい美しいものを手の中に優しく閉じ込めて、そっと囁くように言う声で。
「哥哥は私の宝貝です」
ブシューッ、と蒸気が上がる音がする。
それは火にかけたまま放っていた鍋が噴き上げた音に違いない。けれどもそれが自分の頭から出た音のような気がして、私は彼の手の甲が触れそうな頬が尋常でなく熱く火照っているのを自覚していた。