ぽたりとページにしずくが落ちた。
苛立ちを隠さずに顔を上げれば、思いがけず近いところに青い瞳があった。湯上がりの湯気が頬を撫でる。
「なに読んでるの?」
「別に……」
本を閉じ、サイドテーブルに置いた。
こちらの眉間の皺など気に留めることなく、イルミは弾むようにソファの隣に腰掛けた。バスローブ一枚で、髪を拭くのもそこそこに、片膝を立て、素足にオイルを塗り込んでいく。
「これ、背中にも塗って」
言うなり、イルミはバスローブを肩から落とし、背中をこちらに向けた。
この背に触れたいと願う羨望も、下卑た視線も、考えたことのないような杜撰さだ。そっと臍を噛む。
「自分で塗ればいいだろう」
ぼやきながらも、オイルの入った瓶を傾けた。百合の香りが鼻腔を刺す。
浮かぶ肩甲骨の他にはなにもない、まっさらな背中。見るたびに、禁忌を冒したかのように、胸の奥が軋む。それを振り払うように、ぐいぐいと指で指圧してやる。
「あー……いいきもち……」
「変な声を出すな」
「だって、きもちいいんだもん」
瑞々しい瞳が肩越しにこちらを見つめる。
「カルエゴくんも、塗ってあげる」
「いや、私は……」
「遠慮しないで、しっとりすべすべになるよ」
断る前に、服を引っ張られた。この問題教師は存外、力が強い。裾をまくりあげられ、肌をさらされる。
「止めろと言うに!」
「あ痛ッ」
「もう寝る!」
突き飛ばし、部屋を出た。ぺたぺたと、素足のままの頼りない足音がついてくる。振り返ることなく毛布を被る。
僅かな間を置いて、イルミが毛布の隙間に手を滑り込ませてきた。腕を上げると、素直に胴に腕を回してくる。そのまま足を絡めあった。
冷たい、と胸の上でイルミは呟く。
「ごめんね……待っててくれたのに」
「本を読んでただけだ」
「そっか、そうだね」
微笑むくちびるに、自分のそれを押し付ける。噛み千切ってしまえそうなくらい、ふっくらとやわらかい。口を離すと、イルミの方から重ねてきた。舌を伸ばし、上顎をなぞると、ふふ、と笑みを含んだ吐息が喉を伝い落ちてきた。噛みつかれるなんて、ちっとも思ってないに違いない。のしかかり、胸の膨らみを押しつぶす。ん、と喉の奥で艶めかしい声が上がった。
「こら」
甘く叱る声に、素知らぬ顔で首を傾げる。疑うことを知らないこのひとは、なんでもない、と恥ずかしげに目を伏せた。
毛づくろいのようなじゃれあいを、どんな気持ちで受け入れているのだろう。肉欲には足りない、親愛にも遠い、推し量れない感情。
ふと、時折、今すぐこの体を組み敷いて、すべて暴いてしまいたくなる。
きっと、泣くだろう。
最初は羞恥と怒りの、次に哀しみの、最後は官能から流す涙を、一滴も逃すことなく飲み干したい。
そして、許されるなら、愛情の一滴を。
「カルエゴくん? どうしたの?」
「なんでもない」
「眠たくなっちゃった?」
下から伸びた手が頬を包む。
うん、と頷きながら、もう一度、湿ったくちびるを吸った。
ほしいのは、体だけじゃない。体も、心も、ぜんぶ、だから、今はまだ、子犬のようにこの腕に抱かれる。