「せっかくだから、乾杯したいな」
豪華な食事を前に、若頭は実に楽しそうに提案した。
「ねえ、先生」
お願い、と拝んで見せる。
金庫番は眉間の皺を緩めることなく、
「少しだけだ」
「やったあ」
無邪気な歓声が響く。
磨かれたグラスに赤い液体が注がれると、彼はうっとりと目を細めた。硝子の欠片を日にかざす子どものようなあどけなさだ。
「すみません、カルエゴさん……首領から……」
影のように部下が金庫番へと囁きかけた。
二言、三言、言葉をかわすと、カルエゴは眉間の皺を深くし、手短に指示を下す。
「何かありましたか?」
「貴様には関係ない」
切って捨てる勢いで言うが、ふと、思い出したかのように、彼を顎で指した。不敬もいいところだ。
「アスモデウス、ついていろ」
何を、と聞き返す間もなく、苛立ちもあらわにカルエゴは部屋を出ていってしまった。重い扉が閉まり、静寂が部屋に染みる。
「大丈夫かな……」
ほろりと、小さな声がとなりで転がった。
思わずこぼれ落ちたようなはかなさで、口にした本人も音になったと気づいていないようだ。
どこか寄る辺ない、途方に暮れた子どものような横顔。バビルの若頭とは思えないそれが、気にならないといえば、嘘になる。
アリスの視線に気づくと、にこりと、よくできた笑みを浮かべ、こちらを見上げた。
「一緒に飲む?」
「いえ、護衛中ですから」
「オペラなら一緒に飲んでくれるのに」
不満そうにくちびるを尖らせるが、それ以上のわがままを言うつもりはなかったようだ。機嫌よくグラスを傾ける。
普段の食欲通りの鯨飲ぶりかと思いきや、進みは遅く、その一杯を持て余してるように見えた。
水を、と申し出ようとして、留まる。今は一番の側近がいない。あの金庫番もだ。新入りの自分の出すものを、躊躇いなく口にできるほど、楽天家ではないだろう。
「なあに?」
とろりと重たげなまぶたを動かし、彼はこちらを見上げた。
「いえ……お酒、弱いんですね」
「あ、うん」
グラスを指先で弄びながら、ばれちゃったか、と彼ははにかんだ。
「あんまり飲めなくて、それに、すぐ眠くなっちゃうんだ、だから、」
言葉を途切れさすと、赤い水面へと視線を落とした。その底に何かを探すかのように、青い瞳が揺らぐ。
「若頭?」
酔いが回ったのだろうか。
大丈夫ですか、と声を掛ける前に、彼は一息にグラスの中身を飲み干した。ふは、と息を吐くと、目元をさらに赤くし、こちらを見上げた。
「だからね! 先生は家族と一緒のときにしか飲んじゃ駄目っていうんだ」
家族、と。
繰り返した声はかすれていた。
「うん、家族」
アリスも、ね?
恐る恐る、けれど、まっすぐに彼は問う。
己の素性も、振る舞いも、分かったうえで。
「若頭が飲めないなんてかっこつかないから、内緒だよ?」
そう、へらりと無防備な笑みを向ける。
裏切りも、恐れも、飲み込んで。
弱さを武器にするでも、強さでねじ伏せるでもなく、やわらかく包みこまれる。これにどうやって勝とうとしていたのだろうか。苦く笑うしかない。
「お水を用意いたしますね」
「うん、ありがとう」
酒精に潤んだ瞳がこちらを見つめ、熱を帯びた艶めくくちびるがやわらかく弧を描く。
その幼い青い瞳に魅入られたであろう男たちへ、はじめて哀れみを覚えた。
きっともう、逃げられない。