水母の骨 啓護くんとはゆらゆらと揺れるように、離れては近づき、近づいては離れていた。
約束をするわけではないけれど、感覚が近いのか、人肌恋しく思う頃に連絡が来ては、会うのを繰り返す。それが良いか悪いかは、個人の自由だろう。彼がどう思っているかは分からないが。
その日も、外で食事を済ませ、私の家でソファに並び、ゆっくりと映画を観ていた。
「しばらく忙しいので、会えません」
エンドロールの途中で、啓護くんはそう言った。
「コンサートツアーですか?」
「ええ、まあ」
「期間は?」
「三ヶ月ほどを予定しています」
「三ヶ月……長いですね」
ほろりと溢れた言葉を、物憂げなため息が追う。
「まさか、さみしいとか言うんじゃないでしょうね」
恐る恐る、彼は問いかけてきた。問いかけた側が半信半疑なのはなぜなのか。
「さみしいというか……最近、ひとりで眠ってないから、うまく眠れるか心配で」
「あんたはまたそういうことを言う」
「事実でしょう?」
「そうですけど……他所で言わないでくださいよ」
「言いませんよ、君にしか」
どうだか、とぼやくその体に、そっともたれ掛かり、首筋に頬寄せた。
「君はいいにおいですね、なんの香水を使ってるんですか?」
「教えてもいいですけど、同じ香水を使っても、同じにおいにはなりませんよ」
「そうなんですか?」
「ええ、体温にも、肌質にも左右されるので」
「そう……残念ですね」
自分でも意外なくらい、毒気のない声が出た。
やはり、少しはさみしいのかもしれない。
「似たもの、探しましょうか?」
「いえ、べつに、香水がほしいわけではないですから」
伸ばした手で頬を包み、鼻先を擦り合わせた。間近で瞳を覗き込み、笑みを向ける。
「しばらく会えないなら、たくさんしておきましょうか」
「あんたな……」
「しないんですか?」
歯噛みする音が聞こえるようだ。微かな逡巡のあと、寄せられるくちびる。それを既のところで指先で止めた。
困惑気味に眉が顰められるのがかわいくて、笑みがこぼれる。なぜ、どうして、と言いたげだ。この子は意外と分かりやすい。
「あんたから誘ったくせに」
「ええ、だから、私がします」
ぐっと押しのけ、反撃を予想していなかったであろう体を、座面に押し付けた。そのまま跨ると、驚きと羞恥と期待に染まった眼差しが向けられる。
「じっとしててくださいね」
服を脱ぐのも、時間を確認する手間すら惜しい。くちづけあいながら、シャツの下に手を滑らせた。固い肌の下の、聡くて繊細な心に触れるように。
指では足らず、くちびるでも触れた。舐めて、吸って、噛んで、痕を残す。いつもなら咎められるが、今日は彼も同じように私の肌を噛んだ。じわりと痛みが熱に変わっていく。
立ち昇る汗のにおいが香水と複雑に混ざり合う。まるで、彼の音楽みたいだ。荒々しいのに繊細で、どこか甘い。
けいごくん、とゆっくりと呼び掛ける。うっすらと開かれた瞼の奥、熱情に烟る瞳がこちらに向けられた。ちり、とその熱に胸が焼かれる。
「なんですか……」
「お土産、期待してますね」
生真面目に、はい、と答えるのがいじらしく見えて、微笑みながらキスをした。
帰ります、と端的なメールが届いたのは、夏の気配を感じる夜のことだった。
情熱的な別れをしたとしても、再会は日常の延長だ。
移ろった季節に多少の感慨を覚えながら、仕事帰り、いつもの駅で、相手を待つ。
雑踏の中でもすぐに見つかる、長身に手を振り、呼びかける。
「久しぶりですね、おかえりなさい」
「はい……」
「お腹すきましたね、ご飯にしましょう。いつものところでいいですか?」
「構いません」
淡々とリズムよく繋がる会話。傍から聞いても数ヶ月ぶりの再会を果たした恋人とは思われないだろう。
では、私たちはなんだろう。
向かいに座る彼をそっと盗み見る。
凪いだ湖面のように静かな瞳。丁寧な所作ときれいな箸使い。陶器のような、長くうつくしい指。下手に触れれば、壊れてしまいそう。
昔、この手を強く掴み取りたいと思っていた。ピアノだけに向けられる視線を、こちらに向けたかった。子どもじみた独占欲。今なら、わかる。
「なんですか……じっと見て……」
啓護くんは警戒気味に首をすくめた。眉間に皺が寄る。
「いえ、どこか変わったかなあと思って」
「数ヶ月で変わるわけないでしょう」
「男子三日会わざればというじゃないですか」
くだらないことを話しながら、杯を傾け、箸を進めた。静かに満たされていくのを感じる。
そろそろ出ようかという時、
「どうぞ」
啓護くんがテーブルに小さな箱を置いた。
「これは?」
「お土産です」
「開けてもいいですか?」
「今……ですか?」
「ええ」
返事を待たず、リボンを解く。包装を剥がし、最後に小さな箱を開けた。
「せっけん……?」
「有名らしいですよ、詳しくは知りませんけど」
「へえ……ありがとうございます」
丸く、白い石鹸だ。滑らかな感触と、とろりと溶け出しそうなミルク色。そばに置くだけでただよう花の香りは清々しく、胸が弾んだ。
「つまり、これは一緒にお風呂に入りたいってお誘いですか?」
「なんでそうなるんだッ」
触れれば静電気でも発しそうな硬い声。
こんな時思い浮かぶのは、学生の頃の彼だ。いつも、噛みつきそうな目でこちらを睨んでいた。
「違うんですか?」
「違いますよ」
苛立ちもあらわに、髪を掻く。
「あんたが買ってこいと言うから、こっちはどれだけ悩んだと……」
「おや、私のこと考えてくれてたんですね。連絡のひとつもないから、忘れられたかと思ってました」
律儀なことだ。緩む頬の内側を噛みながら言えば、ぐ、と彼は言葉に詰まった。
「…………出ますよ、いいですね」
そう言い、伝票を掴んで行ってしまう。ゆっくりと後を追った。
ぬるい夜風が頬を撫ぜる。約束したわけではないけど、同じ方向へ足が向かう。
不意に、彼が口を開いた。
「ひとりで、寝れましたか?」
予想外の言葉に、驚き、ただ瞬いた。
数ヶ月前の、ほんの戯れの言葉。小さな約束。いつも通りの少しばかり忙しい日常と、浅い眠りを思い返し、そっと息を吐くように、笑う。
「心配しなくても、ひとりでも大丈夫でしたよ」
「まあ、あんたはそうでしょうね」
「……でも、君がいないと、つまらない」
隣を歩く足が止まり、じわりと大きくなった瞳でこちらを見つめた。頬に熱がにじむ。
そう、啓護くんがいないと、嫌だ。自分の言葉が、静かに胸に落ちた。
重たい、けれど、それは不思議と心地よく感じられた。まるで、青い鳥が腕に飛び込んできたような多幸感。地面がやわらかくなったみたいに、足元が覚束なくなる。傾いだ体を、大きな手が支えてくれた。
「気をつけてください、酔ってるんですか」
「酔ってませんよ」
「酔っ払いはみんなそういうんです」
ため息とともに引き寄せられる。やさしい声で叱られて、なんだか悪くない気分だった。
大きな肩に包まれてしまうのは、まだ、少し慣れない。目を閉じて、肩に頭を預けると、鼻先を首筋に添わせてきた。大きなわんこみたいだ。襟足をそっと梳く。
「会いたかった」
「私も」
軽やかな気持ちのまま、その背に腕を回す。なんせ、数カ月ぶりの再会だ。少しくらい、甘えたって、いい。
変わらない香水の匂いが鼻先をくすぐる。
同じ香りをまとうひとは一途なのだと、どこかで聞いたような話が浮かんで、消えた。