「つれないな」
長い指が、ゆっくりと背を這い上がる。
「あんなにも、縋って、強請ってきたというのに」
「そ、そんな、覚えてません!」
首がもげるほどに横に振る。
「ふうん」
微かに傷ついた光がその目に宿った気がした。けれど、それは瞬きひとつで隠れてしまう。魅入られたように見つめていると、先生は酷く甘い声で僕に言った。
「俺のことを、好きだと言ったことも?」
「すっ……!?」
酸欠の魚のように口をぱくつかせる。
「ありえません! なにかの間違えです……、わ、忘れてください!」
ベッドから転がり落ちるように逃げ出したが、床に散らばった服に気を取られた瞬間に、その腕に捕らえられてしまう。
「お前は忘れられるのか?」
後ろから抱き締められ、背中に触れるぬくもりに、叫び出したい衝動に襲われた。
こんなのありえない。信じられない。なにかの間違えだ。
「忘れるもなにも、覚えてないんです!」
振り払うように首を横に振る。
「お願いです……、ほんとうに、許して……」
きつく目を閉じた。
顔を見ては、拒めないと思ったから。
言葉の真偽を吟味するように、沈黙が訪れた。問い詰められるのも恐ろしいが、沈黙はより恐ろしい。唾飲む音が大きく響いた。早鐘を打つ心臓の音まで、聞こえてしまいそうだ。
ふ、と先生が長い息を吐いた。
「酷いことをしてしまいそうだ。逃げようなんて、二度と考えられないような、酷いことを」
体に巻き付いていた左手が、ゆっくり上り、首にかかる。
なぜだろう。
言葉とはうらはらに、逃げるなら今だと、問われている気がした。恐ろしいだろう、怖いだろう、と。
恐ろしいときほど、前に。
染み付いた教えが、僕の口を開かせた。
「それって、どんな……こと、ですか?」
予想外だったのか、先生は小さく目を見張った。
まだ、わずかに残されていた帰り道が、暗く、閉ざされていく気がした。きっと、気のせいでなく。
笑おうと思った。けれど、無理だった。
交じる視線に、切実な色が混じるのを、止められない。
「問題児め」
憎々しげな声。
切りつけそうな鋭い瞳。
まだ取り繕っていたその端正な頬が、狼のように歪む。それをとてもきれいだと思った。
早く、僕の意気地のない心を引き裂いて。