だれにも会いたくないとき、いちばん会いたくないひとに会ってしまうのはなぜだろう。
走り出しそうな足をどうにか捻じ伏せ、にこやかに挨拶し、通り過ぎようとしたが。
「血のにおいがする」
物騒な呼びかけに、僕は首を傾げ、間を置き、頷いてみせた。動揺に気取られぬよう、ゆったりと。
「さっき、サボテンの棘を触ってしまったので、それかも」
見せてみろ、と抵抗する間もなく手を取られた。針のような傷を、学者のように見分したかと思えば、指先が口に含まれる。驚きのあまり声も出ない。ただ、頭に血が上る。
廊下の反対から、ひとの話し声が聞こえ、離れようとしたが、手を掴む力が増した。
「先生、誰か、来ます」
泣きそうな気持ちで、訴える。胸が苦しい。
悪魔は人の言葉など理解していないかのように、ゆっくりと指からくちびるを離した。
濡れた指を隠すように胸に抱き、背を向け、駆け出す。
「夜に、部屋に行く」
ひそやかな囁きが、たしかに耳朶を打った。
真夜中、生贄のように体をシーツの上に横たえた。
不器用に巻いた包帯が解かれ、傷があらわにされる。
怪我をしたのは僕のちょっとした不注意だけれど、それを説明すると、城を抜け出したことまで説明しなくてはならなくなる。
先生は何も言わない。それがかえって恐ろしい。
沈黙に耐えきれなくなったとき、先生は静かに僕の傷口にくちびるを寄せた。
「……ッ」
そんなに深くはない傷だけれど、舌先で抉るように舐められては、痛みに呻いてしまう。舌の上で踊らされる。
「治療だ、じっとしろ」
鋭い声に、針で刺されたかのように身が竦む。
「は、い……」
震える腿に爪を立て、じっと耐えた。
痛みに痛みを重ねてるはずなのに、肌の下が疼く。甘く溶けたチョコレートにコーティングされるようだ。
不意に膝裏に手が回され、後ろに倒された。滲む視界で、先生の髪が揺れる。
「えっ、あ、待って……!」
顔が伏せられ、ひたりと舌が腿に当てられた。太腿には赤い線が走っていた。僕が自分でつけた傷とも言えない傷。それも癒そうというようだ。
ぴちゃり、と獣が水を飲むような音。
戦慄くくちびるから、熱い息だけが漏れる。
足の奥にも舌が這う。そんなところ、怪我していない。けれど、言葉に出来ない。
「……あ、あッ」
指がゆっくりと進む。節だった指の形が感じ取られ、きつくくちびるを噛み締めた。シーツの上で、酸素不足の魚のように藻掻くしかない。
「きりがないな」
血の滲むくちびるを、先生が舐め取る。
「せん、せ……」
火傷しそうなくらい熱い舌が、ぬるりと口内に忍び込んだ。同時に指で一点を突き上げれ、くぐもった悲鳴を先生の口の中に放つ。
苦しい。苦しい。過ぎた官能は毒だ。呼吸の自由すら奪われながら、のしかかる上背ある体に爪を立てた。
「だめ、もう……早く!」
「ああ……」
先生は前をくつろげると、僕をうつぶせにした。腰が持ち上げられる。
即座に懇願が聞き入れられたことに、先生も欲情していたのだと、安堵と興奮が背筋を駆け上った。声を上げ、背を反らす。
「お前の体に痕を残すのは、俺だけでいい」
うなじに牙が、立てられた。