「これが魔王になってはじめてのお仕事ですね」
少しばかりの緊張とともに、恩師へと茶を運ぶ。カップとソーサーのたてる不協和音に、カルエゴはいささか不安そうに片眉を上げた。
「光栄だとでも言おうか、魔王陛下?」
「陛下は止めてくださいよ」
恥ずかしい、と呟きながら、カルエゴの隣に並んで座る。薔薇の芳香に似た、甘酸っぱい茶のにおいが鼻をくすぐった。
「まさか、お前が王となるとはな」
「僕もびっくりです」
素直に同意する。真実そのとおりだからだ。
「先生の教えが良かったからですね」
「私の教えが、良いからだな」
異口同音、重なる答えに、互いに目元だけで笑う。
「失望させるなよ」
冷たい鞭ではなく、血の通った手のひらが、頭を撫でた。硝子に触れるように、そっと。
「頭を撫でられて喜ぶ年じゃあないです」
「子ども扱いは不服か?」
はい、と答えるのも癪で口を噤むも、不満は顔に出たらしい。カルエゴが薄く笑う。
片手で両頬を摘まれ、我ながら子どもっぽいと思いながら顔を背けた。
喉の震える音が追いかけてきて、ちらりと横目で見てしまう。
「戴冠のときのお前はうつくしかった。今のふくれっ面からは想像できんが」
からかいの底に、隠しきれない切なさが覗いた。
きっと、このひとの目には違う先が見えている。
埋まりきらない溝を感じながらも、気づかないふりをして、ゆっくりと微笑む。
「もう、子どもじゃなかったでしょう?」
「ああ、そうだな」
真っ直ぐに伸ばされた手が顎を掴む。あまりに迷いのない動きに息を飲み、目を閉じた。
やわらかな感触がまぶたに触れ、耳に添う。
「これで満足か?」
戸惑いを愛でるような声音に、首を横に振る。
「……いいえ」
もっと、と鼻先を擦り合わせ、吐息が触れる。
恐る恐るくちびるを合わせれば、やわく噛まれた。
啄み、息を漏らす。
心臓が、壊れてしまいそうだった。
「イルマ」
低く、深い響き。思わず聞き惚れてしまう。
生まれてから今まで、そんな風に名を呼ばれたことはない。自分の名前ではないようだ。
指先から力が抜けてしまう。
「おっと……」
傾いだ体を大きな手が支えてくれた。
「す、すみません、ぼうっとしちゃって……」
「寝るには早いぞ」
鼻先が触れ合うほどの距離で、カルエゴが笑う。
───なんでだろ、力、入んない。
ぼんやりと見つめていると、耳をくちびるで食まれ、あッ、と声が漏れた。慌てて口を塞ぐが、粟立った肌は戻らない。体温が上がる。
どうしよう、と半ば泣きたい気持ちで身をよじるが、いともたやすく絡め取られ、その腕に囚われる。
「え……」
腿に熱い物が触れ、一瞬にして頭に血が昇った。
「な、なんで……ッ!?」
「どうした」
「な、なんで、た、勃っ……てるんです、かあ……!」
つっかえつっかえ、訴える。
カルエゴは一瞬、得も言われぬ顔をしたが、すぐさまいつもの不機嫌そうな顔に戻った。
「触れて、そんな目で見られて、何も反応してない方が問題だろう」
やや早口に言われ、だって、と反論の言葉が口の中でざらりと溶ける。叱るにしては甘く、まるで拗ねてるような声に、心臓の裏がそわそわしてしまう。
「お前、俺をなんだと思ってるんだ」
「何って……、先生は、先生で……」
「もう、先生じゃあないだろう」
顎を掴まれ、静かに見据えられる。
「俺は、お前の、なんだ」
「先生は、僕の……僕の、」
唾を飲み込み、
「いちばん好きな、悪魔、です」
答えた。
その答えは及第点だったようだ。ご褒美のようにくちづけの雨が降る。額に、頬に、瞼に、鼻に、くちびるに───やさしく、合わさった。
互いの吐息が、相手のくちびるを湿らせる。
次第に深く長くなるくちづけに、息苦しくなってしまい、そっと肩を押すと、思いがけない力で手を掴まれた。そのままソファに沈められる。
男の香りに包まれ、目眩を覚えた。心の奥底まで痺れさせるような香りは、それ自体が意思を持つように、僕の体に絡みつく。
「先生、まっ……」
制止の言葉を奪うように、くちびるが塞がれた。
ぬるりと舌が入り込む生々しさに身を固くすると、大きな手が後頭部を包んだ。地肌を直接くすぐる甘い仕草に、知らず涙が浮かぶ。
幼子のように頭を撫でられながら、舌は淫らに絡まり、その両方とも心地よく感じてしまうことに、居ても立っても居られない。
筋張った手の甲や、覆いかぶさる上背、痩せていると思ってたのに厚みのある胸板は、自分のものとは違い過ぎて、
───怖い。
自分の恐れを自覚した途端、どうしていいか分からなくなる。
知らない、けれど、分かっている、この先を。
「いや……」
考えるより先に体が逃げようとするが、のしかかる体がそれすら許さない。恐れる心ごと捉えようと、手を掴む力が強まる。指先に血が溜まる。行き場のない感情のように。
「先生、お願い……、待って……!」
「だめだ」
鋭い声が耳を打つ。
「もう、お前は子どもじゃあない」
待って、やれない。
切なくも、強い欲のこもる声に、足がすくむ。
一心に求める指先を拒むすべなど知らない。
「愛してる、今も、未来も───お前だけを、ずっと」
「先生……」
彼が急き立てられる理由も分からないまま、その背に腕を回した。
このひとを離してはいけない。ひとりにしてはいけない。なぜだか、そう思った。
僕はまだ、一生を永遠だと、信じていた。