4 虫たちの世界 ブルーノたちはそれからすぐに、ナープラの街の外にある葡萄畑に移動しました。いつも使っている事務所は街の人みんなに知られています。そんな事務所に、見知らぬ綺麗な女の子がいたら目立ってウワサになるでしょう。そうすると、トリシアを誘拐しようとする反逆者に知られてしまうかもしれません。
広い広い葡萄畑には、使われていない家がありました。ブルーノたちはその家にしばらく隠れることにしました。ですが、しばらく使われていない家なので、ろくなものがありません。食べ物や、最低限の日用品を街で買う必要がありましたが、その買い物には、オランチアが行くことになりました。彼が必要なものを紙に書いていると、トリシアに声をかけられました。
「ねえ、これから買い物に行くんでしょう。これも買ってきてほしいの」
そう言って差し出された紙には、頬紅やストッキングが書かれていて、しかも細かく指定がありました。オランチアは心の中で「こんな時に、化粧品を買ってこいだなんて……」と思いましたが、ぐっと飲み込みました。縛り首はごめんですからね。
それから二時間後、街で買い物を終えたオランチアは、葡萄畑に戻るためにオートモービルに乗り込みました。そしてフラゴラから教わったとおりに、ぐるぐると同じ道をまわったり、時折急に曲がったり止まったり、スピードを上げてみたりといった変な動きを繰り返しました。そうすることで、そんな変な動きを真似てついてくる怪しい人を炙り出そうというのです。
しばらくぐるぐるまわっても、これといって怪しい人物はいませんでしたが、オランチアは奇妙な感覚を覚えていました。先ほどから誰かに見られているような気がするのです。根拠はありませんが、そういう感は結構バカにできないものだとオランチアは知っていました。
オランチアは一旦オートモービルから降りて、辺りを見回します。しかし、やっぱり誰もいません。
「でも、なんかやな感じがするんだよな。誰かに見られているような……」
オランチアが呟いた時、どこからともなく「しょうがねえなあ」とため息をつく男の声がしました。オランチアはとっさにナイフを取って身構えます。
「誰だ!? 姿を見せろ!」
「しょうがねえなあ、オランチア。そんなにぐるぐる回ってよお、どこへ行こうってんだ?」
声は後部座席からしました。覗き込むと、そこには一匹の大きなイタチがいました。青みがかった灰色の毛並みをしていて、首には宝石のついた首輪をつけています。少なくとも野生のイタチではなさそうです。一メートル近い大きな身体ですし、どこかの金持ちのペットに見えます。
「今、イタチが喋ったのか!? いや、まさかな」
オランチアは目をゴシゴシとこすりますが、やはりいるのはイタチです。イタチはピュー、と口笛を吹きました。
「おいおい、質問にはちゃんと答えてくれなくちゃ。失礼ってもんだぜ? 俺の名前はホルマティウス。こう見えても役人仲間なんだぜ。にしても、さっきから変な動きしやがって。ワケが知りたくなるじゃあねーか?」
「別に、いいだろ。俺、オートモービル持ってないからさ、借りて練習してるんだよ」
ホルマティウスはまたピュー、と鳴きました。あまり納得していないようです。
「まあいいさ。ところで、ポリープスが死んだって話、知ってるか? あの膨らんだタコみたいな身体は棺桶に入るのかな? 墓穴掘るのも大変だぞ。棺桶作って穴掘ってる間に、肉が腐って骨だけになっちまうかもって、葬儀屋が困ってるそうだ!」
そういうと、ホルマティウスはお腹を抑えて笑い出しました。オランチアはただ困惑していました。イタチが喋るのを見るのも初めてだし、彼の話題にどう反応していいかわかりません。そもそも、ホルマティウスは何者なのでしょうか? 本当に役人なのでしょうか? 動物まで役人になれるだなんて、聞いたことありません。
ホルマティウスの笑いの嵐が静まってきたかと思うと、彼の体から出てきた何かが、オランチアの頬を掠めました。とっさにほっぺたを手でおさえると濡れています。おくれて、じわじわと痛みを感じ始めました。ほっぺたを切りつけられたようです!
「な、なにすんだよ!」
オランチアがホルマティウスを見ると、そこには人型の青い精霊がいました。右手の人差し指は第二関節あたりから鋭い鉤爪になっていて、先っぽから血が滴っています。ホルマティウスの精霊に間違いありません。
「街の長官が死んだってのに、なんで葬式にもこないんだお前らッ!」
まずいぞ、とオランチアは思いました。ブルーノたちは、トリシアを守るため、葡萄畑で徹底的に隠れることを選びました。しかし今回はそこがすこしまずかったようです。街の長官が死んだというのに、部下のブルーノたちが葬式にもこず、お悔やみすらしないのはかえってとても不自然で、目立つことでした。
「葬式にも挨拶にもこねえ、揃って街から姿を消して、ようやく現れたと思ったら何かを警戒するような行動ばかり取って……どういうわけだ? その理由を教えて欲しいもんだなあ!」
ホルマティウスは恐ろしい目でオランチアを睨みながらさけびました。小さな口には、可愛らしい顔に似合わないような、鋭い牙がずらりと並んでいました。
ホルマティウスは、ポリープスの葬式に来なかったことを責めているのではありません。どうして来なかったのか、その理由を知りたいのです。そこには、人に言えないような重大な事情があるはずだからです。
ここまでくると、オランチアにもホルマティウスの正体がわかってきました。この大きなイタチがペリラスの言っていた反逆者に違いありません。
つまり、今ホルマティウスをやっつけないと、トリシアは守れないということです。
オランチアは心を決めました。一人で、ホルマティウスと戦う覚悟を決めたのです。
「リル・ボマー!」
オランチアは精霊の名を叫び、呼び出しました。
ホルマティウスはその姿を認めると、慌てて逃げ出しました。
オランチアの精霊は、人や生き物の形をしていません。
カラスほどの大きさのオーニソプター羽ばたき飛行機のことでした。ですが、ただの飛行機のおもちゃではありません。胴体からは小さいものの機関銃が飛び出していますし、爆弾も抱えています。普通、そんな重たいものを抱えたら小さなオーニソプターは飛ぶことができないでしょう。ですが、精霊は『普通』では不可能なことができるように、『普通』ではあり得ない姿をとることもできるのです。保持者の想像力次第で、どんな姿だってありえるのです。その点ではオランチアは強力でした。十六かける五十五を二十八にできる少年です。「重たい機関銃や爆弾を積んでいても、空を飛ぶものは飛ぶことができる」彼の心の中には、そんな自由な想像の翼があったのです。
そして、ツバメのように素早く飛び回るリル・ボマーを見て、ホルマティウスも脅威に気付きました。
「ヤバいぞ、こいつは、『馬鹿』なんだ!」
軽そうな体で銃火器を抱え、その上素早く飛び回るのです。物理の法則を気にしない『馬鹿』だからこそ、できることでした。ホルマティウスは『出来る』と己を信じられる意志の強い人や、あるいは難しいことを考えず『出来るだろう』と心から思えるお馬鹿さんがどれほど手強いか、ようく知っているのですよ。
リル・ボマーの機関銃の先が狂ったように光り、ホルマティウスに銃弾の雨を浴びせます。ホルマティウスは自身の精霊に弾を弾き返させながら、その間を素早く縫うように逃げようとしました。
「逃げようったって無駄だ! 逃さないからな!」
リル・ボマーの胴体にぶら下がっている爆弾の留め具が外れて、爆弾は後部座席に落ちました。瞬間、オートモービルの中がピカッと光り、一瞬遅れて焔の風と爆音が起こりました。
「どうだ! まいったか!」
オランチアはそう言うと、後部座席を覗き込みました。しかし、奇妙なことにイタチの姿はどこにもないのです。
「これは変だぞ! どこに消えたんだ?」
オランチアはオートモービルの中を探し回ります。でも、ネズミ一匹いやしません。気配も感じないのです。そもそも、はじめからおかしかったのです。ホルマティウスはどうやってまったく気づかれずにオートモービルに入ったのでしょう?
やがて、大きな音を不思議に思った人々が道に出てきました。これ以上目立つのはよくありません。オランチアはリル・ボマーをひっこめると、オートモービルで一旦この場を離れようとしました。
また、奇妙なことが起こりました。
足がペダルに届かないのです。別のオートモービルと間違えたのでしょうか? しかし、オランチアはほとんどその場から動いていませんし、買ってきたものはそっくりそのまま座席に置いたままです。食料や、トリシアに頼まれた頬紅もそのままあります。でも、買ってきたときよりずっと大きく見えます。トマトがキャベツくらいの大きさになっているのです。
「これは、いよいよおかしいぞ! なにもかも大きくなってる!」
オランチアの周りのものが、みんな大きくなっているのです。オートモービルに乗れなければ大変です。歩きではみんなのいる葡萄畑には日が暮れたって着けそうにありません。それに、ホルマティウスがまだその辺をうろついているでしょう。それなのに葡萄畑に戻ったら、ホルマティウスに道案内してあげるようなものです。
オランチアは近くのお店で電話機を借りて、仲間に危険を知らせることにしました。
幅十数メートルくらいの道路を渡って、向かいにある大きな商店に向かいます。しかし、ようやく辿り着いたドアの手すりに、今度は手が届かないのです。これじゃ、お店の重いドアを開けることはできません。
「ま、まさか……」
オランチアもようやく気がつきました。周りが大きくなっているんじゃありません。オランチアがすこしずつ小さくなっているのです! だから、オートモービルのペダルに足が届かなくなるし、トマトはキャベツほどの大きさに見えるし、ほんの数メートルの道幅を何倍にも感じるようになったのです。先ほどほっぺたを切りつけられた時から、オランチアは少しずつ小さくなっていたのでした。
街から出られず、連絡も取れないのでは、もう打つ手はありません。
――ただ一つ、ホルマティウスをやっつける以外には。
オランチアはホルマティウスを探すことにしました。ホルマティウスはまだ遠くまで行っていないはずです。なぜなら、彼はオランチアに聞きたいことがたくさんあるはずだからです。オランチアがうんと小さくなるまで待って、それから聞き出そうと考えているに間違いありませんでした。
ホルマティウスは、オランチアが思っていたよりずっと近くにいました。
「見つけたぞ! ポケットに隠れているな!」
オランチアはポケットに手を突っ込むと、芋虫ほどに小さなイタチをむんずとつかみ、引き摺り出しました。
「ピュー、なんでわかったんだ!?」ホルマティウスはジタバタと暴れながらわめきました。
「いいから俺の体を元に戻せ! さもないと、チーズみたいに穴ボコだらけにしちゃうぞ!」
オランチアはホルマティウスを掴んだ手を高々と掲げると、リル・ボマーを差し向けます。機関銃の先がホルマティウスに向いた時、突然オランチアの手に鋭い痛みが走りました。
「いってえ〜ッ!」
血の吹き出す手には、ホルマティウスの姿はありません。代わりに、大きな万年筆が刺さっています。いえ、オランチアが小さくなっているので、万年筆自体は普通の大きさです。ホルマティウスは、小さくしていた万年筆を一瞬でもとの大きさに戻し、戻るときの『瞬発力』に押されてオランチアの手の中から脱出したのでした。
ホルマティウスは大変ずる賢い難敵でした。しかし、オランチアにはホルマティウスの次のかくれ場所がわかっていました。
「そこだッ! 看板の陰にいるな!」
リル・ボマーが看板を穴だらけにするのとほぼ同時に、小さな影が慌てて道端のオートモービルの下に逃げ込むのが見えました。そして素早くオランチアの死角に回り込みます。でも、やっぱりオランチアにはわかります。
「どこにいたってわかるんだからな!」
今度はオートモービルに銃弾を撃ち込み、穴だらけにしました。すると突然タイヤがパンクして、ホルマティウスがどこかに消えました。とっさにタイヤをパンクさせて、その空気圧でまたどこかに飛んで行ったようです。オランチアは落ち着いてホルマティウスを探します。そして、排水溝にあたりをつけました。
さて、なぜオランチアにホルマティウスの隠れ場所がわかるのか、皆さんも不思議に思ってきた頃でしょうね。一転して追われる立場になったホルマティウスも不思議に思っていました。ホルマティウスの姿が見えているのでしょうか? いいえ、それだったら最初から見失うはずはありません。では、足音が聞こえているのでしょうか? でも、空気中を『飛んで行った』のに、すぐにわかるのは少し変ですよね。
「そこか!」
オランチアはまた銃弾を撃ち込みました。今度は手応えがありましたが、別のものを撃ってしまったようです。身体の大きさは戻りません。むしろオランチアの身体はさっきよりどんどん小さくなって、今では水筒ほどの大きさになってしまいました。
そして今の銃撃によって、ホルマティウスはオランチアの秘密に気がつきました。オランチアは『呼吸』でホルマティウスの居場所を見つけていたのです。正確には、息を吐いた時に出る『二酸化炭素」をリル・ボマーのアンテナが探知し、オランチアの右目に浮かぶレーダーに表示しているのです。先ほど撃ったのは排水溝にいるネズミか何かだったのでしょう。たまたま息を止めていたホルマティウスの目の前で、ネズミだけが撃たれたことで、ホルマティウスはオランチアの秘密に気づいたのです。そして、今度はホルマティウスがオランチアの秘密を利用する番でした。
レーダー上でたくさんの呼吸する生き物がバラバラに動き始めました。きっとホルマティウスが排水溝に住むネズミたちをけしかけて、あちこち逃げ回らせているのです。そしてホルマティウス自身もそのどこかに混ざっているに違いありません。ですが、動き方を見るとネズミばかりで、イタチはどこにもいませんでした。
「うっ!」
オランチアの肩から血が噴き出しました。ホルマティウスがリル・ボマーを切りつけたのです。「よくもやったな!」とめちゃくちゃに銃撃しましたが、撃ったのはやはりただのネズミで、ホルマティウスには当たっていません。オランチアはいよいよ窮地に陥りました。ホルマティウスを見失ったらオランチアの負けは確定です。トリシアの居場所もバレてしまうかもしれません。
その時、レーダーにひときわ大きな呼吸が現れました。ハアハアと荒い呼吸です。なぜ一匹だけ荒い呼吸をしているのか? どうして一匹だけ異常に疲れているのか? それらを考えたとき、オランチアの頭にひらめくものがありました。
「そうか、アイツはネズミに乗っているから、一匹だけ疲れてるんだ! ネズミとイタチでは動き方が違うから、ネズミの上に乗って紛らわせているんだな」
直接見たわけではないので、真相はわかりません。でも、今のオランチアにとっては試しに撃ってみる価値は十二分にあります。
「撃てーッ!」
オランチアが叫んだのとほとんど同時に、排水溝から「うげっ」と悲鳴があがりました。
手応えはありました。ですが、レーダーが示す呼吸は弱るどころか大きくなっています。それはホルマティウスが元の大きさに戻ったことを意味し、同時にオランチアが小さくなるのに合わせて、リル・ボマーの力もイタチをやっつけられないほどに弱くなってしまったことも意味していました。
「やばいッ! ひとまずどこかに隠れないと!」
オランチアはリル・ボマーをひっこめると、路地裏に空き瓶が並べて放置されているのを見つけました。空き瓶の陰に身を隠せそうです。しかし今やオランチアの身長は大人の男性の中指ほどしかありません。普段なら数歩で横断できる歩道が、何百メートルもあるように感じます。それでも、オランチアは走るしかありません。
「ようし、ここでしばらく隠れよう!」
ですが、ようやく空き瓶に手をかけられたのに、オランチアの身体は突然降ってきた大水に押し戻されてしまいました。
「なんだ!?」
辺りを見回すオランチアの視界を、黒くて長い陰が覆いました。ソーダ水の瓶を持ったホルマティウスが待ち構えていたのです。ホルマティウスの身体には、リル・ボマーによる傷が無数についていますが、小さく、浅いようです。ホルマティウスはうしろ足でオランチアの身体を押さえつけると、怪獣のように大きな顔を近づけました。
「捕まえたぞ、オランチア。さっきオートモービルに化粧品やストッキングがあるのも見たぜ。やっぱり王の娘をかくしているんだろ? 居場所を教えてもらうぞ」
ホルマティウスは、オランチアをひとのみできそうなほど大きな口をゆがめて言いました。
「教えるもんか! たとえ死んだって、仲間の居場所も、あの子の場所も教えないぞ。あの子はただの女の子だ! お洒落が好きなただの女の子なんだよ! 命と引き換えにしても、絶対守ってみせるぞ!」オランチアはひるむことなく言い返しました。
「ふんッ、『仲間』――だって?」ホルマティウスは鼻でわらいます。「笑わせるな。お前らごときの、そんな次元の話じゃあねえんだ。俺たちは王から全て奪い取ってやるんだ。全てだ! そのために、娘が必要なんだよ!」
「何故だ? あの子は、今の今まで街で普通に暮らす女の子だったんだぞ! あの子が何を知っているって言うんだ!」
オランチアは声を震わせます。恐怖からではありませんでした。トリシアは、王族として育ったわけでもないふつうの町娘です。それが、お母さんを亡くしたかと思えば、王様の娘と言われて、追っ手に怯えて隠れるはめになってしまいました。オランチアも小さい頃にお母さんを亡くしました。お父さんはオランチアをまるでいないように扱ってましたので、オランチアは心細い子供時代を過ごしました。オランチアの昔の話は、またあとで紹介しますが、オランチアはトリシアの心細い気持ちが少しわかるのです。こんな時に化粧品やストッキングを買うように言ったのは、ワガママではありませんでした。こんな不安な時だからこそ、せめて普段通りの『何か』がほしかっただけです。オランチアは、今になってそのことを理解し始めました。だから、トリシアの不安や恐怖もひとつも考えないような、ホルマティウスの言い分に腹が立ったのです。
ですが、ホルマティウスはオランチアの訴えで心を動かされることはありませんでした。
「だが血のつながりはあるんだろう。王は、精霊を持っている! ならその娘だって持っているはずなんだ! 娘の精霊の力から、王の正体はきっとわかる!」
「なんだって?」オランチアは耳をうたがいました。「王様も、あの子も、精霊を持ってるのか?」
「そうさ! だから、どうしても喋ってもらうぜェーッ! いや、『喋らせてください』って言わせてやる」
そう言うと、ホルマティウスはふわふわのお腹の毛の中から、何か黒いものの入った瓶を取り出しました。黒いものの正体は蜘蛛でした。蜘蛛といいましても、今のオランチアにしてみれば、クマかイノシシくらいあります。
「世界には人間も殺す毒を持つ蜘蛛がいるが、こいつはどこにでもいる無害な蜘蛛だ。ただし、人間にとってはだがな! 今のお前みたいな小さい生き物にとっては有毒だし、お前くらいのサイズなら餌だと思うだろうな」
「まっまさかお前!」
ホルマティウスはオランチアのからだをひょいと摘まみあげます。この狡猾なイタチの次の行動はわかりきっていました。オランチアはリル・ボマーを呼び出すと、一心不乱に銃弾を撃ち込みます。ですが、リル・ボマーも蜂ほどのサイズになってしまっていますから、もう大した威力はありません。それでもやるしかなかったのです。そのリル・ボマーも、ホルマティウスの精霊にひょいとたやすく捕まえられてしまいました。
「おっと! こいつは預からせてもらうぜ! 試合開始前に仕掛けるとは、対戦相手に失礼ってもんだぞ」
そう言うと、ホルマティウスはオランチアを瓶の中に放り込み、コルクで蓋をしてしまいました。蜘蛛はすばやく動き回りながらも、八つもあるつぶらな目でオランチアを注意深く観察しています。毛深く長い足の先は針のようにとがっていますし、牙は肉をかじりとる形をしています。
「クソーッ、ここから出しやがれ!」
オランチアは叫びますが、ホルマティウスは世にも珍しい対戦を半分楽しんでいるようでした。ですが、表情とは裏腹に冷め切った声でこう言いました。
「噛まれたってすぐに死ぬことはない。毒で身体が痺れて、動けなくなるだけだ。だから、喋ることはできるんだぜ。でも捕まったらヤバいぞ! お前の身体に消化液を注入して、中身をドロドロにしてから、チューチュー吸うんだ。でも意識は残ってるから喋ることはできるが……早く喋っちゃった方がいいぞお、人間が蜘蛛に溶かされて吸われるなんて、想像するだに恐ろしいからな!」
ホルマティウスはまたピュウと鳴きました。
オランチアのことを餌と認識したのか、蜘蛛が動き出します。蜘蛛にしてみれば、オランチアには鋭い爪も、牙も、翅もないし、そのうえ表面がつるつるしていて食べやすそうです。デザートに飛びつく子供のように、蜘蛛は飛びかかってきました。
「うわーっ」
オランチアは転がりながら蜘蛛の脚を避けました。先っぽの爪が、皮膚をかすります。蜘蛛は長い足を突き出すと、オランチアはがら空きになった胴体を蹴飛ばして反撃しました。すると、蜘蛛はくるりと身体のむきを変えたので、オランチアは蜘蛛の脚に躓いて転んでしまいました。歴戦の狩人である蜘蛛はその隙を見逃しません。シュッと糸を吐くと、オランチアの身体をその場に固定してしまいました。オランチアの視界は毛深い塊に覆われ、肩のあたりをするどい痛みが襲いました。オランチアは蜘蛛に噛まれてしまったのです!
「あーあ。今のうちに喋った方がいいのになあ。段々動けなくなってきただろう? そのうち身体の中身が溶かされ始める。可哀想になあ」
ホルマティウスは頬杖をついて、心にもないことをいいました。オランチアはといえば、毒で身体が痺れて、息をするのがやっとでした。しかし、オランチアの覚悟は揺らぎません。
「おや? これはなんだろう」
ふと、ホルマティウスは、瓶の中に何かを見つけました。オランチアが転んだときに落としたもののようです。コルクの蓋を外し、爪の先でその何かをつまみ出してみれば、それは地図のようでした。ホルマティウスは地図を元の大きさに戻すと、大きな声で笑い出しました。
「間抜けな奴だ! お前、ここに来るまでの道筋を丁寧に印つけてやがる!」
ホルマティウスの言う通り、地図には曲がる場所に印をつけてありました。印を逆にたどれば、オランチアがどこから来たのかわかるようになっています。オランチアにわざわざ聞く必要はもうありません。
「葡萄畑だ! 葡萄畑にいるんだな! ああ、もういいぜ、オランチア。お前はもう、『用済み』だ。蜘蛛さんの一部になって、生き続けるんだな」
ホルマティウスは冷たい笑みを浮かべて言いました。オランチアはおとなしく蜘蛛のデザートになる運命なのでしょうか? ですが、オランチアは諦めてはいません。彼の紫色の目には、諦めの色などこれっぽっちもありませんでした。
オランチアはずっと『その時』を待っています。そして、その時は、やってきました。
「むむ?」
ホルマティウスは背後に熱いものを感じて振り返りました。背後では、リル・ボマーから逃げるときに隠れた穴だらけのオートモービルがあり――もうもうと炎を上げているのに気がつきました。そして、ガソリンタンクにも蓮の実のように穴が開いて――煙が上がっています。ホルマティウスの心臓は、鉛のように、重く冷たく変わりました。
「まさか、さっき撃ったのは、蜘蛛じゃなくって――」
ホルマティウスが言い終わる前に、オートモービルが雷のような音を立てながら、炎をあげてはじけました。
オランチアは、蜘蛛を撃とうとしたわけではありません。ホルマティウスを追いかけているとき、オランチアはオートモービルをめちゃくちゃに撃ちまくりました。その際、偶然ですが、ガソリンタンクにも穴を開けていたのを覚えていたのです。その穴には撃たれたときの焼け焦げ――つまり『二酸化炭素』の発生源があります。オランチアはこっそり二酸化炭素を嗅ぎ分けて穴の位置をさぐり、穴めがけて撃ちました。リル・ボマーも小さくなっていたので、火が大きくなるまでに時間がかかりましたが、オランチアの狙いはみごと当たりました。
爆発の至近距離にいたホルマティウスの身体が燃え上がります。一方で、オランチアの身体は元にもどり、毒の影響も消えました。
「ぐあああっ!」ホルマティウスは苦しみの声を上げて、身もだえします。そして、炎にやかれながらも、恐ろしい声で言うのでした。
「よくもやりやがったな! お前も、仲間も、皆殺しだ! 覚悟してろ!」
ホルマティウスはぎろりとオランチアをにらむと、自身の精霊を呼び出し、自分自身の手首をざっくりと切らせました。手首からは勢いよく血が噴き出します。そして、「タイニー・フィート!」と精霊の名前を叫ぶと、瞬く間に小さくなり、見失ってしまいました。あたりには、血だまりがあるだけです。
「なんて奴だ……。自分の手首の血で消火するなんて!」
オランチアは半分感心して呟きました。
ホルマティウスは大胆にも、手首を切りながら自分の身体にまとわりつく炎ごと小さくして、噴き出す血で消火したのです。しかし、感心している場合じゃありません。オランチアはホルマティウスを探すために、レーダーを見ました。ですが、今度は炎が大きすぎて呼吸が探知できなくなっていました。ホルマティウスは重傷ですが、かといってこのまま見逃すことはできません。彼ほどの大胆なイタチならば、葡萄畑のことをどうにかして仲間に伝えることでしょう。
「呼吸を探知できないほど炎が大きすぎるなら、もっとでっかくしてやるぜ!」
オランチアはあたりじゅう、もう嫌になるほど銃弾の雨を降らせました。周囲に停車しているオートモービルやモトは次々と連鎖するように爆発し、あたりに炎の壁を作りました。そこらじゅうを火に囲まれては、小さいホルマティウスはひとたまりもありません。
「テメエ、やっぱりバカか……?」
オランチアのすぐ後ろに、ホルマティウスが姿を現しました。毛皮が焼け焦げ、酷い火傷を負っていました。その上、オートモービルの破片が体中に突き刺さり、右目がつぶれています。正直、立っているのも不思議な状態です。
「そこらじゅうに火をつけやがって。どうしても今死にたいようだな」
オランチアは無言でホルマティウスを見つめ返します。あまりにもボロボロな姿を見て、一体なにがこのイタチをここまで突き動かしているのだろうと思いました。もはやイタチが喋っていることに何の驚きも感じなくなっていましたが、意志のかたさや覚悟の強さは尋常ではありません。そこら辺の人間のそれをゆうに超えています。イタチがなぜ、そこまでの執念を抱くようになったのでしょう。オランチアはこのホルマティウスという名のイタチに対して、敬意にも近い感情を覚え始めていました。
「来いよ、オランチア。決着の時だ」
「そうだな」
炎を背に、一人と一匹は見つめ合います。次の一撃で全てが決まる、と両者とも確信していました。通りを照りつける熱気の中で、両者の間だけは、真冬の朝のような、張り詰めた空気が漂っています。
二人は同時に精霊を呼び出しました。
決着は一瞬でつきました。
ホルマティウスの精霊、タイニー・フィートのかぎ爪は、オランチアの首筋にあと数ミリ届きませんでした。
「うげっ……」
身体にいくつもの穴を開けたホルマティウスは、血を吐きながらゆっくりと後ろに倒れていきます。倒れながらも、その目はまだオランチアを捉えていました。どこか哀れみに満ちた目で。
「たかが買い物に来るのも、楽じゃあなかっただろ……? 本当にしんどいのはこれからさ。そう、これから――」
そう言い残すと、ホルマティウスの身体は糸の切れた操り人形のようにどさりとくずおれました。その身体を、炎が取り囲んでゆきます。ゆらめく炎の奥で、イタチの首輪についた宝石が悲しげに光っていました。