12 空飛ぶ棺桶十二 空飛ぶ棺桶
ウェネトゥスとサトゥルーニャ島を結ぶ飛行船は一日一便しかありませんでした。ですから、ジョジョ達がちょうど乗れたのはなんとも幸運としかいいようがありません。これも、朝早くから動いていたおかげでしょう。早起きするといいことがあるのです。でも、ブルーノたちは徹夜ですけれどね。さて、この飛行船は旅客の他にも郵便物を運んでいます。むしろ、最初は郵便のための飛行船でした。それが、飛行船がより多く、より重いものを運べるようになったので、人を乗せるようになったのです。
飛行船は、上が大きなガス袋になっていて、下に操舵室や客室が飛び出ています。ジョジョ達が乗るのはもともと『運ぶため』の飛行船なので、椅子やトイレなどの最低限のものがあるだけですが、もっと巨大で豪華な飛行船ともなりますと、寝る部屋や、レストランや、ちょっとしたダンスパーティーを開けるホールなどがあるのだそうです。ですが、ジョジョ達の乗る飛行船も斜めの大きな窓がついていて、椅子もまわったり、倒せたりするので、空の旅を楽しむには十分でした。
トリシアも客室に入る前に亀の部屋から出て、今回ばかりは一乗客として乗ることになりました。上空からは素晴らしい景色が見えるので、きっと気晴らしになることでしょう。
客室にはジョジョ達の他にも何人かお客さんがいました。ジョジョ達が座るとちょうど満席になりました。ひょっとすると本当は超過するはずだったのかもしれませんが、そのことについて考えるのはよしましょう。
全員揃って椅子に座っていると、操舵室から副船長が検札のために出てきました。そして、その副船長とアバティーノは同時に「あっ」といいました。
「アバティーノじゃあないか! 久しぶりだな。役人になったと聞いたが、こんなところで会うとはな。今日はどうしたんだ?」
「まあ、休暇ってところかな。あんたこそ、憲兵をやめて船乗りになってたなんて驚きだな」
「どうしても空を諦めきれなくてね!」
そういうと、副船長は帽子を取ってみんなに愛想良く挨拶をしました。そして、手早く検札を終えると、もとの場所に戻っていきました。副船長は、アバティーノが昔憲兵だった時、同じ宿舎で寝泊まりしていた仲間でした。
プロペラが回る音が響き渡ります。いよいよ離陸の時です。すると、にわかに地上が騒がしくなりました。
「イノシシだ!」
「でっけえイノシシが、こっちに走ってくる!」
地上作業員の恐怖に満ちた声が聞こえてきました。ジョジョ達はハッとなって窓に張り付きます。みれば、確かに大きなイノシシが飛行船の方に走ってくるのが見えました。太い牙が突き上げるように生えていて、もしあの牙にかかったら、命の保証はありませんし、体当たりの威力もオートモービルに轢かれるのと大差ないでしょう。他のお客さん達にも恐怖と動揺が、水面の波紋のように広がってゆきます。
「イノシシってことは、あいつらの仲間か!?」
ミシェレがいいました。宝石のついた首輪は見えませんが、普通のイノシシでないことだけは確かです。
「わからん。だが、このままでは作業員達が危険だ。止めるしかない!」ブルーノが言いました。
「そうなりゃ俺とオランチアの出番だな! 行くぜッ、シックス・バレッツ!」
「よしッ、リル・ボマー!」
二人はイノシシに弾丸の雨を降らせます。イノシシも自分の精霊を出そうとしましたが、間に合いませんでした。全身まさに蜂の巣にされたイノシシは、糸が切れたようにその場にどうと倒れました。一瞬の静寂の後、周囲から歓声が上がりました。イノシシはもうピクリとも動きません。オランチアのレーダーからも、呼吸の反応は完全に消えていました。
「い、今のはあんた達がやったのか!?」
副船長は驚いて出てきました。
「ああ。市民の命と財産を守るのが役目なもんでよォー」ミシェレはいいました。
「いや、何はともあれ助かった。恩に着るよ」
副船長はまた戻っていきました。
やがて、飛行船が空へ飛び立ちました。あっという間に地上の人々が豆粒のように小さくなって、家々もミニチュア模型のように小さくなってゆきます。地上を走るオートモービルはキラキラと波間の魚のように光っています。地の果て、海の果ては青白く霞み、とても神秘的でした。
サトゥルーニャ島までは五時間ほどのフライトになります。ジョジョ達は久々にまとまった休憩をとれることになりました
空中散歩にもすっかり慣れてきた頃、ふとトリシアが口を開きました。
「さっきのイノシシ――あれは、あなたたちが戦ってきた動物たちの仲間だったのかしら」
「その可能性はある」ブルーノは答えました。「首輪は見えなかったが、普通のイノシシでないことだけは確かだ」
「父……『彼』の差し金な気がする。うまく言えないけれどあの列車のヤマネコや子猿とは『感じ』が違ったわ。私たちがサトゥルーニャに向かうことを、あの人も察していたのかしら」
「当然予想はするだろう。君の母親が、父親と出会ったときの話をしたであろうことは想像がつく。だが、イノシシは偶然かもしれないな。イノシシはとても鼻が効く動物だ。俺たちの匂いを覚えさせて放ったのかもしれん。しかし、サトゥルーニャ島についたらゆっくりはしていられないな。あのイノシシが死んだことは当然、『彼』の耳にも入るはずだ。トリシア、他に何か思い出せることはあるか? ささいなことでも、真実への糸口となる」
「『ヴォルポリ』よ。母が旅行したのは。そこにある翡翠のような美しい海岸で、父と出会ったの。父はサトゥルーニャ島の生まれで、サトゥルーニャの方言を使っていたって。でも突然いなくなってしまった。ただの母の思い出話しか知らないわ。一体何を探せばいいのかもわからないし」
「行ってみればわかる。大事なのは、そこに君の父がいたということなのだから」ブルーノは言いました。
飛行船はサトゥルーニャ島に向けて航海を続けます。ラティニア本土上空を抜け、海に出ました。こう何時間も乗り続けていると、当然眠くなってくるもので、疲れているならなおさらです。みんなはうとうとと眠り始めていました。他の乗客もぐっすりと眠っています。すると、副船長がアバティーノを呼んで、彼を操舵室に入れました。久しぶりにゆっくり話をしたかったようです。オランチアやミシェレが起きていれば自分も入りたいと騒いでいたところですが、二人はアバティーノが席を立ったことにも気づきませんでした。
このまま何事もなければ、あと一時間ちょっとでサトゥルーニャ島に着けるはずでした。
でも、この章の題をすでにごらんになった皆さんはもうおわかりでしょう。何事かは起こるし、そう簡単にサトゥルーニャ島には着けないのですよ。それどころか仲良く大変な目に遭うのです。残念ですが冒険とはそういうものなのです。この飛行船の中で、恐るべき怪物が眠りから覚めようとしているのを、ジョジョたちははまだ気づいていません。
一方アバティーノは、操舵室で副船長や船長と話をしていました。
「それにしても、操舵室の眺めは素晴らしいな」アバティーノは感嘆して言いました。操舵室はガラス張りになっていて、青い空と海が一望できます。まるで鳥になった心地です。夕暮れや、朝焼けの光景など、金色に光る水面を想像するだけで心が躍りますし、夜は夜で、星の海を渡るような幻想的な風景が見られることでしょう。
「ははは、それならアバティーノも飛行船乗りになったらどうだ?」副船長は言いました。
操舵室には左右に一つずつ操舵輪があって、船長と副船長でそれぞれ担当しています。無線装置の他にも、たくさんの計器や、伝声管のラッパのような口があり、普段冷静なアバティーノもちょっと興奮していました。
「それも悪くないな。だが、今はやることがあるんだ。力になりたい奴とか、面倒見なくちゃあいけない奴もいるしな」
「あの仲間たちか。いい仲間達だな。彼らのおかげでさっきは助かったよ。それにしても、さっきのイノシシ……普通のイノシシじゃあないよな?」
「ああ。どうも俺たちは動物さん達の恨みを買っちまったみたいだ。だが、あんたたちには手を出させない。そのために、俺たちは動いているんだ」
「そいつは心強い。だが今は俺たちがあんたを運ぶ番だ。サトゥルーニャ島まで空の旅をお楽しみくださいよ、お客様」
アバティーノと副船長は笑い合いました。すると、先ほどから計器とにらみ合っていた船長が口を開きました。
「なあ、さっきから上の連中と連絡が取れないんだ。それに変な音がする。お前聴いてみてくれないか」
「なんですって?」
副船長は伝声管に耳を当てます。副船長は顔をしかめました。飛行船が航行する音に混ざって、なぜか、水の滴る音がするのです。
「な、なんだ、この音は……? 水漏れか? 一体、どこから水が漏れているんだ? 船長、とりあえず様子を見てきますよ」
副船長は言いました。アバティーノは、その背中に声をかけます。
「なあ、なんか嫌な感じがするんだ。上に行く梯子は客室の後方だな? 俺も同行しよう」
一方、客室では、ジョジョも小さな物音に気がついて目を覚ましました。ブーンとうなるプロペラやエンジンの音に混ざって、なにか水気のある音がするのです。ぺちゃぺちゃ、くちゃくちゃと、何かを食べているような音です。ジョジョは周囲を見回します。でも、食べている人なんていません。その時、ジョジョの手の甲になにか生温かい滴が垂れてきました。
「こ、これは!?」
ジョジョは声を上げます。それは血でした。ジョジョが天井を見上げますと、天井に赤い染みがあります。
「ミシェレ、ブルーノ、みんな! 起きてください! 何か奇妙なことが起こっています!」
ジョジョは皆を起こすと、客室の後ろにある梯子を登って、天井扉から顔を出しました。あまりの血なまぐささに思わず顔をしかめます。小動物がうっかり死んだとかではありません。もっと大きな生き物であることはすぐにわかります。
ジョジョはゴールデン・ウィンドに生命を探知させます。飛行船を航行させるには、操舵室の連中の他にも船員がいるはずです。内部で機械を見たり、ガス嚢を管理したりする人もいます。でも、客室の上に生命の反応はありませんでした。
「バカな。絶対におかしい! 何か――とんでもないことが起こっている!」
ジョジョは近くにある伝声管の口に気がつき、手を伸ばしました。その時です。何者かがジョジョの手に飛びかかったかと思うと、スライムのように包み込んでいきます。激しい痛みに襲われ、ジョジョは梯子から転げ落ちてしまいました。
「ジョジョ!」
異変に気がついたみんなも腰を上げます。ジョジョの右手には気味の悪い肉塊がまとわりついていました。手で剥がすことは難しそうです。
「ゴールデン・ウィンド! 僕の右手ごと、コイツを切り離せ!」
ジョジョは素早い判断でゴールデン・ウィンドを出しましたが、言葉を失いました。ゴールデン・ウィンドの右手が、食われたように欠けているのです。
「こいつは……食っている!」
肉塊はうぞうぞとうごめき、少しずつ大きくなっていきます。ジョジョの右手を食べて成長しているのです。やがて肉塊から毛が生えてきました。色と弾力からしてイノシシの毛です!
「こ、これはあのイノシシの精霊か。だとしたら……」ジョジョは呟きました。
「ジョジョ、どうしたんだその手は!」ミシェレははやくもピストルを構えています。
「敵の攻撃です! トリシアと他の客は亀の中へ避難させてください! やれ! ゴールデン・ウィンド、僕の右手ごと!」
ゴールデン・ウィンドが再びジョジョの右手を切り離そうと拳をかざしたとき、肉塊が素早く反応しました。ゴールデン・ウィンドが振りかざした拳に飛びかかろうとするかのように。何かを探知しているのです。自分を倒そうとする意志か、それとも――。
その時、数発の銃声と共にジョジョの右手が吹き飛び、客室の前方の壁にケーキを投げつけたように血と肉をぶちまけました。客達は皆、悲鳴を上げることも出来ずに固まっています。
「はやく右腕を作り直すんだ、ジョジョ」ミシェレは冷静に言いました。
「こ、これは一体どういうことだよ、ジョジョ! この飛行船に敵がいるのかよ!?」オランチアがききます。
「いえ。この精霊の本体は、あのイノシシです。あの死んだイノシシです」
「どういうことだ、ジョジョ?」ブルーノが聞きました。「保持者が死んだら、精霊も消えてしまうじゃないか」
「ええ。普通ならそうです。でも、こいつは僕らの常識を超える精霊なんですよ。精霊の能力は本体の精神の映し鏡であり、精霊を動かす源は精神力です。普通は本体が死ねば精神もなくなりますから、精霊は消えます。ですが、『怨念』も精神力の塊といえます! 殺されて死ぬ時の強い怨念の力で動いて――捕食し続けることで動いているのかも……」
「つまり、怨霊のようなものか。だが、怨念だったら今まで倒してきた奴らだって――」ミシェレが言います。
「あのイノシシは彼らのように戦ったんじゃあない。一方的に殺された。むしろ――殺されにきたって感じだったわ。王に命じられて、殺されるためだけに送られたのだとしたら、塊のような強い恨みを残してもおかしくはないわ」トリシアが言いました。
トリシアの言うところの『感じが違う』とは、意志の有無でした。自分達の覚悟と誇りと意志を持って戦ってきたホルマティウスや、黒猫や、プロシュガードやピスキスやメーロや、白狐と違って、あのイノシシは、ただ殺されるためだけに姿を現しました。ひょっとすると、精霊を持ちながらも、自分では上手く扱えなかったのかもしれません。そこで王は『怨念』という強い精神の塊に目をつけたのでしょう。怨念の力で暴れさせられますし、本体たるイノシシは死んでいますから、倒されることもありません。
「で、でももう全然動かなくなったぞ! もうやっつけたんじゃないのか?」オランチアが言いました。
「そ、それは違うぜ、オランチア。あの精霊は動かなくなったんじゃない。動く必要がなくなったんだ。食事中だからな――」
ミシェレは声を震わせます。いつの間にか、ミシェレは傷だらけになっていました。
「近づきすぎた。一瞬のうちに、俺のバレッツ達が半分以上やつに捕まっている! コイツに近づくのは、ヤバい、ぜ――」
ミシェレの傷口から血が噴き出ます。そのまま、ミシェレは倒れてしまいました。
「ミシェレ!」
オランチアが駆け寄ろうとすると、イノシシの精霊は今度はオランチアに向かって動きます。ジョジョは、あの精霊は一体何を感じ取って動いているのだろうと考えました。イノシシの精霊に目はありません。視覚があるならば、もっと近くの人か、弱り切ったジョジョや、ミシェレを狙うはずです。リル・ボマーが二酸化炭素を嗅ぎ分けるように、プロシュガードのザ・サンクフル・デッドが『体温』で区別しているように、この精霊も何かで狙う対象を区別しているのです。
「オランチア! やみくもに近づくのは危険だ!」
ブルーノは言いました。しかし、オランチアは近づくことなく攻撃が出来るのです。
「近づかなくっても、俺のリル・ボマーなら攻撃できるぜ!」
リル・ボマーの機銃がうなり、精霊に銃弾の雨を降らせます。すると、肉塊からいくつもの触手のようなものが伸びて、銃弾のひとつひとつを正確に捕らえてしまいました。ものすごいスピードと正確さです。そして、肉塊はそのままリル・ボマーに襲いかかります。オランチアの身体からも血が噴き出て、その場に倒れてしまいました。
「トリシア! 君は他の客達と亀の中に避難するんだ!」
ブルーノが叫びました。しかし、トリシアが動くより早く、異常事態に気がついた副船長とアバティーノが、客室のドアを勢いよく開けて飛び込んできました。二人は驚いてあっと声をあげます。
「皆さん、大丈夫ですか! 一体何が!」
「ミシェレ、オランチア! 何があったんだ!」
すると、イノシシの精霊はリル・ボマーを捨てて、ブルーノや、ジョジョや、他の乗客達の頭上を飛び越えて、二人に襲いかかります!
「うわあーっ! なんだあの化け物は!」副船長は腰を抜かしてしまいます。上部にいる船員や、ジョジョの右腕を食ったイノシシの精霊は、もはや普通の精霊ではありませんでした。精霊を持たない人にも見える『実体』を持っていたのです。
「危ない!」副船長を守るように、とっさにアバティーノが前に出て、ムーディー・ジャズを出しました。すると、ブルーノが「アバティーノ、そいつに触れるな! そいつは食ってくる!」と叫びます。そうは言っても、アバティーノは近づかずに攻撃出来る手段を持っていません。アバティーノは歯を食いしばり、きたる痛みに備えるしかありませんでした。
その時でした。
「無駄無駄無駄ァーッ!」
ジョジョのかけ声と共に、ゴールデン・ウィンドが腕を素早く動かして素振りをします。すると、肉塊はくるりと向きを変えて、ゴールデン・ウィンドの左腕に取り憑きます。
「わかりました! コイツは『動き』を探知しています! 動きが速いものを最優先に襲うんです! 速ければ速いほど――対象と同じ速さで反応してきます!」
ジョジョはゴールデン・ウィンドに窓を割らせると、肉塊が取り憑いた左腕を外に突きだし、割れて刃物のようになったガラスを、皮膚にめり込ませます。このまま左腕を切断して、左腕ごと肉塊を外に捨てようというのです。窓の外では、飛行船のスピード分の風が吹いていますが、ジョジョのこめかみからは脂汗がにじみ出てきます。
「ジョジョ、やめろ! 左手まで失ったら、誰が傷を治すんだ!? 俺の腕にそいつを移すんだ!」
と、ブルーノは叫びました。
「間に合いません! どんどん這い上がってきます!」
ジョジョは力を込めると、ついに左腕を切り落としました。肉塊のついた腕はすぐに後ろに流れて見えなくなってしまいます。ジョジョは他の二人と同じように、力尽きたようにその場に倒れ込みました。ブルーノはジョジョを介抱しながら、唇を噛みます。
「俺の判断が甘かった! 王はどんな手を使ってでも俺たちを追ってくるというのに、もっと用心すべきだったんだ。三人を手当てし、この事態を船長にも伝えなくては。それに、他の乗客たちも亀の中に避難させよう。あの精霊が上からやってきた以上、そこにいた船員の生存は絶望的だ。この船を安全にサトゥルーニャ島に着かせるには、少しでも軽い方がいいだろうからな。しかし、ああ……なんてことだ。嘆いていても始まらないが……」ブルーノは真っ青な顔で、呻くように言いました。
「でも……みんなの怪我は、ジョジョが治せるんじゃないの?」と、トリシアがききますと、ブルーノは弱々しく首を振ります。
「俺やジョジョの能力は、拳で触れることではじめて使うことができる。けれど、ジョジョは、両方の拳を失ってしまった。ジョジョのゴールデン・ウィンドの力は、もう使えないんだ……!」
「そんな……」
トリシアは呆然としました。
やがて、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた乗客達が、ブルーノや副船長にすがるように言いました。
「一体何が……さっきの化け物は、なんなんですか?」
「どうしてこんな目に遭わなくっちゃあいけないんだ! は、はやく下ろしてくれー!」
「もう追い払ったんだよな!? もう来ないんだよな!?」
「わ、私にも何がなんだか……!」副船長は真っ青になって答えます。副船長だってあの肉塊の化け物のことはさっぱり知りません。「それに、降りると言ってもここは海の上です。一番近い港は、サトゥルーニャ島ですよ!」
「でももうこんな飛行船にいたくないわ!」乗客が悲痛な声で言いました。化け物を追い払ったとは言え、窓も割れていますし、室内は血だらけですので、もっともな感想でした。
「皆さん、落ち着いて聞いてください」ブルーノは人を落ち着かせるようなやさしい声で言いました。「あの化け物は部下が追い払いました。ですが、あの化け物によって飛行船が被害を受けました。まずは安全に着陸しないとなりません。乗客のみなさんは、この亀の中に避難していてください。みなさんをお守りしますから」
乗客には亀のくだりがどうもよくわかりませんでしたが、そのうち勇気のある一人が亀の上で身を屈めますと、吸い込まれるように中に入っていきました。はじめは驚きましたが、中に入った乗客が手を振っているのが見えましたので、他の皆も安心して入ることにしました。部屋の中はとても快適で、また安全であることがわかりましたので、部屋から出たいと言い出す人はいませんでした。
「トリシアもはいるといい」
ブルーノは言いましたが、トリシアは首を振りました。
「色々なことがありすぎて……一人で考え事がしたいの」
「そうか。その方が休まるなら、そうするといい。俺は、操舵室で今の出来事を伝えてくる。副船長、改めて説明をします。アバティーノ、お前も来てくれ」
そう言うと、三人は操舵室に行ってしまいました。一人残ったトリシアは、窓の外を見てため息をつきます。
ジョジョも、ミシェレも、オランチアも、王がトリシアを殺そうとしたことに怒って王様に反旗を翻したのです。自分達が『正しい』と信じる道を歩むため、行動しています。そして再起不能なほどの重傷を負ってしまいました。一方でトリシアは、自分のためにサトゥルーニャ島に向かっています。自分自身の身の安全と、未来のために。そんなトリシアを、彼らは自分の身の危険も構わず守ってくれているのです。どうしてそんなことが出来るのか、不思議でなりませんでした。
その時、トリシアの視界に何か変なものが入り込みました。それは、ジョジョがいつも服につけているブローチでした。そのブローチから、指が生えかけているのです。
「まさか、ジョジョは腕を切り落とす前に、自分の手を作っていたの!? これなら、ジョジョはまた力を使えるようになるわ!」
トリシアがそのブローチを取ろうと足を踏み出すのと、窓に何か生肉のようなものがべちゃりと音をたててぶつかったのはほぼ同時でした。トリシアは恐る恐る、視線をめぐらせて音のした窓を見ます。そこには、ジョジョが追い出したあの精霊がいたのです!
「どうして!? 落ちていったはずなのに! でも、動くものに反応する精霊なら、動いている飛行船を追いかけてきてもおかしくないんだわ!」
トリシアは悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえました。逃げたいけれど、動いてはいけません。素早く動いたら、あっという間に捕まって食べられてしまうでしょう。精霊は、窓の隙間からずるずると這うように船内に入り込んできます。そして、精霊は指が生えかけて――ほんのちょっぴり動いているブローチの方向へ動き始めました。
「あの精霊、ブローチを狙っている! あいつに食われる前に、ブローチを取ってどこかに隠れなくては! でも……どうやって!?」
トリシアは椅子に掴まりました。すると、椅子が少し回ります。トリシアに考えがひらめきました。ブローチまで続く道が見えたのです。
トリシアは指先にありったけの力をこめて、指先だけで椅子を回します。よく油が差されているので、椅子はその場でくるくると回転しました。精霊はその『回転の動き』にハッと気がつくと、くるりと方向を変えて、椅子に飛びかかります。精霊はものすごい力で、骨組みが金属で出来た椅子を、まるで紙細工であるかのようにたやすく破壊します。革が裂かれ、金属が折られ、引きちぎられる恐ろしい音にトリシアは身震いしましたが、椅子の破壊に夢中になっている隙に、トリシアはブローチの方に向かわなくてはいけません。椅子が回るよりもゆっくりと。はるか東方の神に仕える巫女の舞のように。
椅子を破壊し尽くして満足した精霊は、再び獲物を探し始めました。トリシアは再び、別の椅子を回します。精霊は先ほどと同じように、回転する椅子を襲いました。トリシアの作戦通りに回転する椅子に夢中になっています。幸い、椅子は両側に取り付けられているので、十分な数がありました。トリシアは自分を励まして、ゆっくり動きます。そして、ほんの数メートル先のブローチのすぐそばに、やっとの思いでたどり着きました。
その時、トリシアは背後に何者かの気配を感じました。客室にはもう誰もいないはずです。まさか、新しい敵でしょうか? トリシアが振り返ることもできずにいると、声がしました。
「さあ、そのブローチを拾って、トリシア」
知らない女性の声でした。でも、とてもやさしい声色で、トリシアのお母さんの声に似ていました。
「誰? そこにいるのは」と、トリシアはききました。
「私はあなたです。ずっとあなたのそばにいました。あなたが幼い頃から、ずっと。私は、あなた自身の能力なのです」
トリシアはゆっくりと頭をめぐらせました。精霊がいました。トリシアの髪と同じ、ばら色の衣を纏った精霊です。トリシアの精霊でした。
「さあ、そのブローチを拾って。あなたの決意と勇気で、皆の未来を開くのです」
肉塊の精霊は、椅子を破壊し終えて、次の標的を探していました。そして、ブローチに狙いを定めました。
「さあ、拾って!」
自身の精霊に言われて、トリシアはとっさにブローチを拾いましたが、肉塊の精霊は今度は素早く動いたトリシアの方に向かってきました。
「拾ったけど、もうおしまいだわ! こっちに向かってくる!」
トリシアは椅子に飛び込むように逃げました。すると、トリシアの身体はつるりと椅子の上を滑り、椅子の向こう側に着地しました。椅子が、ゴムのような柔らかく弾力に富んだ材質に変化していたのです。肉塊の精霊は、トリシアにむかって勢いよく手を伸ばしますが、手は柔らかくなった椅子にあたりました。柔らかくなった椅子は、精霊の力でも壊れることはなく、どんどん伸びていきます。そして、精霊は反動でパチンコ玉の要領で射出されていきました。精霊自身のものすごい力の分だけ、勢いよく壁に当たって、苦しみの声をあげながら一面を真っ赤に染めました。動いているものに対してはめっぽう強い精霊ですが、止まっているものに自分からぶつかると、ダメージを受けるようでした。
「い、今何が起こったの!? 椅子が柔らかくなって……滑るように通り抜けられたわ! 私が柔らかくしたの?」
「『物質を柔らかくする』それがあなたの力です! しかし今、何より大事なのは、あなたがブローチを拾おうと決意したこと! 迷いと恐れを振り切ったあなたは強くなっている!」トリシアの精霊は言いました。「そして、『柔らかい』ということは、ダイヤモンドよりも壊れない!」
「私、あなたのこと、なんて呼んだらいい? あなたの名前は?」トリシアはききました。
「スパイシー・レディ」
精霊――スパイシー・レディは答えました。
「さあ、トリシア。私に命令をしてください。あの精霊を、あるべきところに還すのです!」
トリシアはしっかりと立ち上がり、肉塊の精霊を見据えました。ジョジョのブローチを持っている限り、あの精霊はトリシアを狙ってくるでしょう。
「スパイシー・レディ、あの椅子を柔らかくして!」
スパイシー・レディが椅子を殴ると、椅子はゴムのように柔らかくなり、ぷるぷると動き始めました。その動きに誘われて、肉塊は椅子に飛びつきます。でも、椅子をどんなに叩いても、柔らかい椅子は決して壊れません。そして、叩くことでまた椅子が動くので、肉塊はずっと椅子に夢中になっていました。けれど、これだけでは肉塊を倒すことはできません。トリシアは作戦を思いつきました。
「さっき壁にぶつかったとき、あいつの身体が崩れたわ! 止まったものに対しては弱いのよ!」
トリシアは、ゆっくりとした動きで壁の手すりを外すと、焦らず、ゆっくりと肉塊に突き立てました。スパイシー・レディと共に、万力のような強い力で肉塊を少しずつ削っていきます。
肉塊は叫び声を上げながら蒸発していきます。でも、非常にゆっくりとした動きですので、反応することができません。なすすべなく、細切れになっていきます。
「さっさとあの世に行きなさい! あなたの主のところにね! あなたの主人の無念も晴らしてあげるから!」
しばらくすると、肉塊はすっかり消えてしまいました。トリシアは肉塊の精霊を倒したのです。ほっとするあまり、膝から力が抜け、その場に尻餅をつきました。
「やったんだわ、私。ジョジョも、ミシェレも、オランチアも、これで傷を治せる!」
すると、操舵室からブルーノが戻ってきました。ブルーノは驚いたように目を見開きます。トリシアもブルーノに気がついて、笑顔になりました。
「ブルーノ、いい知らせがあるの――」
「トリシア、動くんじゃあない!」
ブルーノはとても怖い顔で言いました。
「いいか、ゆっくり、俺の方にくるんだ。ゆっくりだぞ」
「ブルーノ? 一体何を言っているの?」
ブルーノの背後に、アバティーノが現れました。アバティーノの顔は、一瞬で青ざめます。
「ブルーノ、これは!」
「ああ……。何が起こったのかはわからんが、あの怪物、エンジンか何かを取り込んだんだ! エンジンの生み出した大きなエネルギーごと!」
船体がぐらりと揺れました。トリシアは窓の景色を見て、ハッとしました。海面が前よりも近くなっています。少しずつ海面が近づいて来ています!
「ま、まさか!」
トリシアはゆっくりと振り向きました。そこには、くじらのように大きくなったあの肉塊がいたのです! あの肉塊は細切れになって蒸発したはずです。けれど、細切れの肉が、蒸発する前にエンジンにたどり着いたとしたら――いえ、そうとしか考えられません。
「トリシア! そいつはまだ、エンジンを取り込むのに夢中になっているようだ。いまのうちに、ゆっくり、俺の方に歩いてくるんだ」
しかし、トリシアは弾かれたように走りだしました。その素早い動きに、肉塊の精霊は即座に気がつきます。
「ば、バカなトリシア! 追いつかれるぞ!」
「ええ、追いつかれるわ! ゆっくり動いてたら、どっちみち!」
トリシアはブルーノの手を掴むと、客室のドアを閉めました。
「さあ、みんなで操舵室に入るのよ!」
「ドアが破壊されるーッ!」
ブルーノは叫びました。しかし、ドアも壁も、トリシアのスパイシー・レディの力によって既に柔らかくなっていました。ドアはもう破られることはありません。たとえ、肉塊の精霊がくじらのように大きくなっていようとも。ブルーノもトリシアも、長く伸びた肉塊の手に押されて、操舵室に転がり込みます。
「こ、これは!?」
操舵室にいた副船長達も驚いて声を上げました。
「さあ、みんな集まって! みんなで無事にサトゥルーニャ島に到着するために、この飛行船、壊させてもらうわ!」
トリシアはスパイシー・レディを出すと、操舵室に猛烈な勢いで拳を叩き込みました。操舵室が本体から分離され、同時に、柔らかくなった操舵室はパラシュートのようにふわりと浮き上がりました。ブルーノもアバティーノも、驚きながらも自身の精霊を出して、自分や船長達の身体を支えます。
「あの怪物が、より速いものを優先して追跡するなら、このパラシュートよりも落ちていく飛行船の方がずっと速いわ!」
もはや飛行船は、肥大した怪物自身の重みでどんどん高度を落としていきます。トリシアはミシェレのピストルを拝借すると、下に落ちてゆくガス嚢に向けて弾を発射しました。
思った通り、怪物は小さな弾丸に反応しました。ガス嚢を破壊しながら。火を噴くエンジンを巻き込んだ身体で。
漏れ出たガスに引火して、切り離された飛行船全体が爆発的に燃え上がりました。怪物の身体も炎に焼かれていきます。耳をつんざくような断末魔の叫びが響いて、やがて小さくか細くなってゆきました。
怪物は、炎に焼かれて完全に消えました。王によって抱かされた恨みごと、煙となって空に昇っていったのです。
ブルーノたちはそのままゆっくりと降下して、サトゥルーニャ島近くの島に不時着しました。全員、砂浜に身を投げ出すように倒れ込みます。
「ああ……俺たち、助かったのか? アバティーノ」
副船長は、夢を見ているような目つきで見回し、生を確かめるように、暖かい砂を握りました。
「ああ、もう脅威は消えた。……すまない。とんだことに巻き込んでしまった」アバティーノは頭を下げました。
「島の人に届ける郵便物も燃えてしまった。それに、船員達の亡骸も取り戻せない」
船長は肩を落としました。ブルーノもアバティーノも、うつむきます。
「だが、あんたたちは必死になって俺たちを守ってくれた。文字通り、命がけで。それは紛れもない真実だ」
亀の中から、乗客達が出てきていいました。乗客達は、心地よい地面と風の感触に、抱き合って喜びます。
「殺された船員を思うと、胸が潰れそうに悲しい」副船長は言いました。「だが、あんな化け物から、より多くの命を守ってくれたんだ。だから俺たちは生きているんだよ。だから死んでいった者たちを想うことができるんだよ、アバティーノ。あの時身を挺して守ってくれてありがとう。お前のいい仲間達もな」
すると、船長は立ち上がって言いました。
「さあ、皆さん。皆さんをサトゥルーニャ島に運ぶ我々の仕事はまだ終わっていません。またこの不思議な亀の中に入ってください。皆さんを無事に島に届けることが、船員たちへの弔いとなります」
ブルーノたちは、他の乗客達と亀の中に入りました。亀の中では、重傷を負ったジョジョ達がぐったりとした様子で眠っています。
トリシアは、ブルーノにジョジョのブローチを差し出しました。ブローチはもう、ほとんど手になりかかっています。
「これは、まさか、ジョジョの手!」
「そう。ジョジョは、手を切り離す直前に自分の手を創っていたの。あなたのジッパーでつなげてあげて。これで治るわ、みんな」
そして、トリシアは天井を見上げました。天井からは、澄みきった青い青い空が見えます。
「王も私たちを見失ったはず。さあ、王の秘密を探りましょう!」
トリシアの横顔を見て、ブルーノはほほ笑みました。ペリラスに連れてこられた時の、あの怯えていた少女の面影はもうありません。目の前にいるのは、心身ともにしなやかな強さを持ち、凜としたまなざしで自分の信じる道を見つめる、一人の強い女性でした。