いちばん星が落ちてきて まんまと絆されてしまったなあ。
長く煙を吐いて、ぼんやりと空を見上げる。星が瞬いていたはずの空は、東のはじから白く染められつつあった。もう夜が明けるのかと、勘右衛門はあっという間に過ぎ去った夜に思いを馳せた。一人暮らしを始めて数年、慣れ親しんだアパートの一室の、小さなベランダでのことだ。
手すり壁に背を預けてしゃがみこみ、傍らに置いた灰皿代わりの古い貯金箱――いつだったか五百円玉を貯めていたのを開けてしまった――に、短くなった煙草を押し付ける。下半身に残る鈍痛を見て見ぬふりしたいのに、しかしそれもままならない。ここは勘右衛門の家で、自身のベッドは家主ではない男に我が物顔で占領されていた。
「どうしたもんかなあ」
ひとりごちた勘右衛門はつい先ほど、友だった男に抱かれてきたところであった。
尾浜勘右衛門には、特別仲のいい友人が一人いた。彼との付き合いは小学一年生にまで遡り、中、高、大学と片時も離れず月日を重ねてきた。大体どこへ行くにも一緒で、実家でも一人暮らし先でも互いの家を行き来するほどには親密である。世間一般に言うような、親友と呼んでも差し支えない仲であったことは、自他共に認める事実だ。その友人の名を、鉢屋三郎という。
三郎はとかく、寂しがりな男であった。勘右衛門が三郎と出会ったのは小学校の入学式の場であるが、保護者と引き離されて連れていかれた教室で、存分に人見知りを発揮していた彼に話しかけたのが勘右衛門だった。彼と反対に、その頃から存分に人懐こさを発揮していた勘右衛門に三郎はころりと懐いた。それはもう、ころりと、転がるドングリのように。
それから先は、前述の通り。何をするにも行動を共にした。なんなら家も近かったものだから、登下校も一緒となれば朝から晩まで一緒にいたと言って過言でない。お互いのあるところにお互いがある。勘右衛門のいるところを探せば三郎が見つかる、なんてからかわれたこともあった。
そのたび、勘右衛門は思ったものだ。遠い昔には、それは俺の役目ではなかったのになあ。
思ったとしても口には出さぬ。遠い昔と言って、誰が数百年前と考えようか。勘右衛門の言う昔とは、時代をいくつも跨いだ過去のことなのであった。三郎は覚えていないが、勘右衛門には室町時代を生きた記憶がある。馬鹿らしいと言うなかれ、真実それらが妄想などではないと、勘右衛門は確信していた。
過去、勘右衛門も三郎も忍びであった。そして三郎は、その生業ゆえに常に他人の面を被って生きていた。勘右衛門は三郎の素顔を知らぬまま、その生涯を終えた。死に際のことはあまり覚えていない、覚えているのは、戦のさなかだったということだけ。
今生にて、勘右衛門は物心ついたときにはすでに「二度目だ」という意識があった。子どもの身体だ、大人の思考ができるほどに脳は成熟していなかったようで、ただそれだけの意識だったが、それだけで十分だったとも言える。薄らぼんやりとした意識の中、自分ってこんな顔をしていたんだなあと、鏡を覗き込みながら日々を過ごした。
そうして七つを数える前に、三郎に出会った。かつての彼が気に入りだった、懐かしい友の顔をした三郎に。一瞬どちらか迷って、まず席次表を眺めたのは悪くないと思う。自分の顔を眺めてきた日々よりよほど、友の顔は鮮烈に勘右衛門の過去の記憶を呼び覚ました。
はちやさぶろう。ひらがなで書かれた名前に飛び上がり、話しかけにいったのは前述の通り。自分の顔より名前より、彼の存在が過去の尾浜勘右衛門を肯定していた。たとえ三郎本人が遠い時代の記憶を持ち合わせていなくとも。「尾浜勘右衛門」は妄想の産物などではないと――自分だけは信じられた。
再会を果たした三郎が、以前のままでないことは勘右衛門にとって大きな問題ではなかった。生まれた場所も時代も違うのだから当たり前だ。ただ想定外であったのは、彼が彼らしからぬ素直さで勘右衛門に懐いたことだった。覚えていないらしい、とはいえ、室町の時代には比翼の鳥、連理の枝と例えられた相棒がいた男である。もとより寂しがりなところがあるとは思っていた。その相棒がいない現代で、懐かしい気配を探しているのかもしれない、と勘右衛門は考えたのも無理のない話だろう。
「勘右衛門、飯はどうする」
突然に開かれた扉とそこから顔を出す三郎を、勘右衛門は振り返った。少し張られた声に、ごめんごめんとジェスチャーで返す。ヘッドセットをしていて聞こえなかったが、おそらくノックはしてくれていたはずだ。彼のことだからノックと同時に扉を開けていそうだが、そろそろだとは思っていたので驚きはない。
「食べるよ。もう終わるから、ちょい待ってて」
「そうか。早く出て来いよ」
「了解~」
パソコンの画面向こうの友人にも聞こえる声で返事をして、部屋の扉が閉められるのを確認する。そうして今度はパソコンへと向き直った。
「兵助悪い、呼ばれちゃった。飯食ってくるわ」
『ああ、もうこんな時間だもんな』
モニターに映し出されているのは、懐かしい友の顔であった。久々知兵助、新幹線で数時間の距離に住む友人。三郎と同じように、こちらも室町時代から親しくしていた旧友だった。しかし三郎と違い、彼は勘右衛門と同じ時代を生きていた記憶を持っている。
「久しぶりに話すとついつい長くなっちゃうな~」
『わかる、ラインだってしてるのにな』
「顔見て喋んのとラインは違うだろ」
兵助と再会したのは高校の修学旅行先だ。この時代には三郎と二人ぼっちだと思っていた勘右衛門に、その出会いは青天の霹靂だった。地元の高校生だった兵助を横断歩道越しに見つけた時の衝撃といったら! 距離に迷った一瞬のうち、顔を上げた兵助もまた驚愕に目を見開くのを見て、勘右衛門は信号の色を見ることなく駆け出した。
生憎その時の信号は赤色で、例によって同じ班ですぐそばにいた三郎によって勘右衛門は引き止められた。危うく自動車に轢かれるかもしれなかったということもあり、兵助が勘右衛門の奇行の原因と悟った三郎は彼にあまりいい印象を抱かなかったようだ。勘右衛門が兵助とビデオ通話をしていると、飯だの飲み物だのと理由をつけて頻繁に部屋を訪ねてくるのだ。
『わかりやすく嫌われてるな』
「さすがに申し訳ないよ、あの時の俺が考えなしすぎた」
『いいさ、気にしてない。覚えてないんだろ』
からりと笑ってくれる兵助と、次の約束をして通話を切る。久しぶりに予定を合わせて旅行でもするか、という話をしていたが、兵助はしばらく忙しいとのことだった。所属する研究室の教授を手伝うとかなんとか、充実した大学生活を送っているらしい。詳細を決めるのは次回になるだろうな、と思いながら勘右衛門はヘッドセットを置いた。
部屋を出てみると、家の中にふわりといい匂いが漂っていた。今日も三郎が腕を振るってくれたらしいと察して、勘右衛門の腹が鳴る。
「三郎、お待たせ。夕飯ありがと~今日は何?」
「コロッケ」
「やった、三郎のコロッケ美味いんだよな」
当たり前のように台所を使い、夕飯の準備をしていた三郎だが、一緒に暮らしているわけではない。ここは間違いなく勘右衛門の暮らすアパートで、三郎の家は一駅ほど先だ。それぞれが大学に合格し新たな住居を決めようというときに、同じアパートどころかルームシェアがいいと言い張った三郎を、かろうじて一駅分、彼の大学に近いマンションに押し込んだのは勘右衛門である。
しかしその意味がない程に、三郎は勘右衛門の家に通い詰めていた。週の半分ほどは三郎がこの家にいるのである。この現状を知る兵助からは通い妻などと評されているけれど、それを否定できる立場にないことを勘右衛門は自覚していた。それもこれも三郎の作る料理が美味いのは悪い、と勘右衛門は思っている。
「うん、やっぱり美味いなあ」
大きくはない座卓に並べられた食事を前に、いただきますと手を合わせてから箸を取った。サクサクとした衣にホクホクとした中身がたいそう美味い。食べることが好きでたいていの食べ物を美味しいと言う勘右衛門も、心底誉めたくなってしまうのが三郎のコロッケである。
「そうか」
勘右衛門の賛辞を受けながら、相対して座る三郎はそっけない。ツンとすまして見せる顔は、いかにも不機嫌ですと言いたげだった。もとより感情表現は豊かな男だったが、面がなくなったからか、以前よりもわかりやすくなった気がする。
しかし勘右衛門の美味い、という言葉を受けてだろう、コロッケを咀嚼している口元が緩んでいる。わかりやすいどころかチョロくて心配になるなあ、と呟いたのは、聞こえなかったはずだ。
――いつになれば、三郎は雷蔵に出会えるだろう。しばしば、勘右衛門は考える。
兵助がいたのだ。きっと八左ヱ門も、雷蔵だってどこかにいるはず。三郎と、そして兵助と再会できたことを勘右衛門は奇跡と呼ぶし、その奇跡はまだ続いていなければおかしいと思う。だって三郎の相棒は、勘右衛門ではなかったのだから。
現在の三郎は勘右衛門にとって良き友で、愛しい記憶の化身だ。懐かれているぶんに悪い気はしないし、近しい距離で交流を続けるのも構わない。しかしこの現状が、三郎にとっては不健全な状態だとも思っている。
偏りがある、傾きがある。感情の行く先が、歪になっている。いつか正さなければならない、と思う。それまで、とは言うまい。今日まで共にいて、築いた関係性は消えてなくなるわけではない。それでも、だ。雷蔵はどこにいるのだろう、と考えない日はない。現状を正してくれるのは、相棒であったあの男に違いないのだ。
「そういえば、今日面白いことがあったんだ」
食事を終えて、勘右衛門が洗い物を済ませたところで、三郎が口を開いた。どちらかが料理をしたら、もう片方が後片付けをするのが暗黙のルールとなって久しい。大学に入学したばかりの頃に一緒にホームセンターで購入したクッションにもたれる三郎は、どこか眠たげである。すぐ横になっていないのは、彼の言う面白かった話をしたいからか。ちなみに夕飯を食べた後、彼が泊まっていくのもままあることである。
「ん~? なんだよ。お前がわざわざ面白いって前置きするなんて、よっぽどなんだろうな」
「ああ。……勘右衛門はドッペルゲンガーとか信じるほうか?」
「へ」
若干舌足らずに綴られた単語に、勘右衛門はどきりとした。ドッペルゲンガー。一般的に、自分と同じ姿をした何者か。ドッペルゲンガーを見たら死ぬ、なんて話もあるが、おそらく三郎の話の肝はそこではないはず。もしやついにと、期待で鼓動の早くなる心臓を服の上から押さえつける。
「信じる……かな?」
恐る恐る返した答えに、三郎が面白がるように目を細めた。自分の出した話題が、勘右衛門の興味を引いたことがわかってのことだろう。いつもよりあどけない顔で、実はな、と続ける。
「大学の最寄りで、俺にそっくりなやつに会ったんだ」
「ま、マジで!?」
「そんなに驚くかよ」
いたずらが成功した子どものように破顔する三郎は、たいそう楽しそうだ。勘右衛門が見せた驚愕の裏に、歓喜と寂寥がにじんでいることなど気が付いていない。いや、普段であれば気が付いたかもしれないが、まとわりつく睡魔のせいか、ただニコニコと笑うばかり。
「学校は違ったんだけどな、本当にたまたまこっち来てたらしくて。隣の市に住んでるんだってさ。思わず連絡先交換してきた。初めて会った気がしないくらい、話の合うやつだったよ」
「へ、え。そんなことあるんだなあ……。そいつ、名前なんて言うんだ?」
「不破雷蔵だって。四字熟語みたいな名前だよな」
動揺を抑えて尋ねた勘右衛門は、確信した。やはり、雷蔵もこの時代に生まれていた! びりびりとしびれるような、感動とも呼べる衝撃に身を震わせる。そんな勘右衛門にようやく気付いたのか、三郎が不思議そうな顔をして身体を起こした。そんな彼に飛びついて、勘右衛門は雷蔵の名前を噛み締める。
「そっかあ……! 雷蔵かあ! あ、今度会わせてくれよ! 俺もお前にそっくりな顔、見てみたい!」
再びクッションに沈んだ三郎の肩を揺らして、勘右衛門は笑顔を浮かべてねだった。連絡先を交換したと、先ほど三郎は言っていた。もしかしたら雷蔵も昔のことは覚えていないかもしれないが、そんなことは関係ない。だって三郎とだって、こうして友達になれているのだ。今の勘右衛門と雷蔵とでは見知らぬ他人同士でも、すでに雷蔵と知り合っている三郎に紹介してもらうなら、問題なく交友関係が築けるはず。兵助のときのような、微妙な印象から入ることはないだろう。
そうして浮かれる勘右衛門に、しかし三郎は渋い顔をした。不機嫌、とは少し違う表情を浮かべた三郎に、勘右衛門はわずかに冷静さを取り戻す。今の勘右衛門でも、あまり見ることのない表情だ。言葉を選ぶように視線をさまよわせる三郎を、勘右衛門はじっと見つめて返事を待つ。
「そ、れは」
――嫌だ。逡巡するような間を置いて続けられた言葉に、雷蔵の名を聞いたとき以上の衝撃を受けるなんて、思いもせず。
三郎から雷蔵と出会ったと聞かされてから数日、勘右衛門は本当に珍しく一人きりの日々を過ごしていた。駄々をこねようが泣き落としに入ろうがなぜか頑なにうんと言わなかった三郎を部屋から追い出して以降、彼と顔を合わせていないのである。
会わせたくない理由はあるのかと、初めは困惑すれども努めて冷静に理由を尋ねようとしていた勘右衛門だが、嫌だとダメだしか言わない三郎にはさすがに腹を立てた。人の交友関係には口を出す癖に、自分は口出しされたくない、だなんて。腹を立てながら、勘右衛門はいくらかショックも受けていた。ただ友達を紹介してくれ、と頼んだだけなのにこうも拒否されるとは思わなかったのだ。そんなに雷蔵に自分を紹介したくないだろうか。これまで、現代においての三郎の親友を自負していた身としては正直悲しかった。三郎を追い出してから思わず泣きそうになったほどだ。
そんなわけだから、勘右衛門は三郎からの連絡をまるっと無視し続けている。鬼のように大量の通知は来るものの、直接家を訪ねて来る様子はない。気まずくて顔は合わせられないが、機嫌は直して欲しいということらしい。そう簡単にこの裏切りを許してなるものかと、勘右衛門は届いたメッセージに既読すらつけていなかった。
「ここだな、三郎の大学の最寄り駅……」
そうして一人きりの勘右衛門は、三郎が雷蔵と会ったという駅までやってきていた。カレンダー上は平日だが、勘右衛門は講義がなく、しかし三郎は朝から講義のある日である。通う大学が違うのに、普段がべったりなおかげで互いの時間割を把握していることが役に立った。
雷蔵は三郎と同じ大学に通っているというわけではなく、隣の市に住んでいるらしい。紹介を拒まれるまでに三郎が零した情報だけを頼りに、隣の市に向かう電車を探して、勘右衛門はスマートフォンを操作する。乗り換えアプリを確認すれば、そろそろ次の電車が着くところのようだった。
「よし、行くか」
三郎が仲立ちしてくれないのなら、直接探しに行くだけだった。隣の市、という曖昧な指定とはいえ、居所がわかっているのである。しかも近くの大学に通っているという情報まである。この国の全土から手がかりもなしに探し出そうとするのより、よほど現実的な試みのはずだ。
チャージしておいたICカードを改札にかざし、勘右衛門はちょうど到着した電車に乗り込んだ。朝のラッシュを過ぎた時間帯もあってか車内は空いていて、座席に腰を落ち着けることができた。直に動き出した電車の窓から外を眺めていれば、気分転換も兼ねた遠出に、三郎のせいでくすぶっていた感情も少し上向いたようだった。
よく晴れた空を背景に流れていく景色に、ほうと息を吐く。雷蔵を見つけたら、なんと声をかけようか。昔のことを覚えていないようだったら、三郎と見違えたふりでもしようか。向こうはすでに三郎を知っているのだから、それで警戒心を解くことはできる気がする。勘右衛門のスマートフォンに、三郎の写真もあることだし……。
ガタンゴトンと電車に揺られているうちに、眠ってしまっていたらしい。ハッと勘右衛門が気が付いたときには、目的の市を通り過ぎそうになっていた。慌てて電車を飛び降りる。そも降りるつもりだった駅とも違うが、寝過ごしてしまったものは仕方がない。人の少ないホームで人のいないベンチを見つけて、そこに腰を下ろした。そうしてから、このあたりに大学はあっただろうかとスマートフォンを開く。ここが雷蔵の利用する駅である可能性はゼロではないはずだ。
「勘右衛門……?」
それは視線を落とした瞬間だった。真正面に、誰かが立っている。片足のつま先だけがこちらに向けられていて、本当に偶然、そこで足を止めたのだという風に。まさかと思いながら、しかし勘右衛門は勢いよく顔を上げた。
「ら……雷蔵?」
この十数年で見慣れたのと、近しい顔をした青年だった。よく似ているけれど、少し違うその顔を、勘右衛門が見違えるはずもない。
「雷蔵!」
「やっぱり、勘右衛門!?」
叫んだ勢いのまま立ち上がれば、相手もまた衝動のままというように手を伸ばしてきた。その手を捕まえて握りしめ、幻でも夢でもないことを確かめる。血の通うあたたかな手のひらに、再会の感動が込み上げてきた。
「ほんとにいたよ、うわうわうわっ……久しぶりだなあ! 俺のことわかるんだ!?」
「わかるよお! 会えるんじゃないかって、思ってはいたんだ……!」
手を取り合って再会を喜ぶ成人男性二人というのは、傍から見れば奇妙な光景だったかもしれない。しかし勘右衛門も雷蔵もそんなことはお構いなしである。少なくとも勘右衛門からしてみれば、探しに来て即日出会えた懐かしい友人なのだ。ここで喜ばずにいつ喜ぶというもの。
「もしかして三郎から聞いてた? この間会ったんだよな?」
どうにか人の目を気にできるくらいには落ち着いて、もともと勘右衛門が座っていたベンチに揃って腰を落ち着けたところで話を切り出した。握り合っていた手は解き、今はそれぞれスマートフォンを持っている。真っ先に連絡先の交換を済ませてしまおうという魂胆だ。画面に表示された雷蔵のメッセージアプリのアイコンはどこかのカフェの写真だった。ラテアートの施されたカップが映っていて、おしゃれなもんだと勘右衛門は感心した。ちなみに勘右衛門のアイコンは、最近見かけた野良猫の背中を撮ったものである。
「三郎? うん、確かに会ったけど、勘右衛門は三郎のこと知ってるのかい?」
「え、知ってるも何も、幼馴染だよ。自分で言うのもなんだけどメチャクチャ仲良いし、近くに住んでる」
「そうなんだ!?」
目を真ん丸にして驚く雷蔵は、本当に勘右衛門のことは知らなかったらしい。曰く、三郎が何も覚えていないことにすぐ気が付いて、当時の友人たちのことを聞くのは控えたとのこと。話は終始、顔がそっくりなお互いの現在のプロフィールについてだったという。そして雷蔵が今生で初めて会った昔の知り合いは、三郎だということだった。
「会えるんじゃないかって思ってた~って言ってたから、あいつが俺の話したのかと」
「いや、三郎は勘右衛門のことは言ってなかっ……あ、いや?」
ふいに言葉を途切れさせた雷蔵が、考え込むように視線を泳がせる。三郎が言ってたのは……言っていいのかな……いやもしかしてあれって……。ぶつぶつと独り言を漏らしながら考えに耽る雷蔵だったが、少しして得心がいったというように、ああと手を打ち合わせた。
「うん、もしかしたらなと思うことは言ってた! なるほどね~そういうことだったんだ」
「何が?」
雷蔵はなるほどなるほどと頷いているが、何がなるほどなのかわかっていない勘右衛門は置いてきぼりである。首を傾げているとなんでもない、と微笑まれてしまった。とりあえずは、勘右衛門の存在を匂わせる発言があったということでいいのだろうか。
「そうそう、誰とは言われなかったけど」
どこか含みのある発言に、ああ、何か隠しているな、と勘右衛門は思った。思ったが、ニコニコしている雷蔵が上機嫌なことはよくわかったので言及を避けることにする。よほど悪口を言っていた、というわけでもないようだし、三郎の交友態度を探りたいわけではないのだ。そんな過干渉の親みたいな。
「あ、そうだ! 雷蔵に一個頼みがあるんだけど」
「なんだい?」
「三郎にさ~、俺と偶然会って偶然仲良くなったって言っといてくんない?」
「いいけど、なんで僕から? 仲良いんだろ?」
「今、俺たち冷戦中なんだよね」
かくかくしかじか、首を傾げる雷蔵に先日の出来事を端的に説明する。雷蔵の話を聞き、ぜひ会わせてくれと頼み込んだのを突っぱねられたこと。そしてそれに怒った勘右衛門が、三郎の連絡を無視し続けていること。話すうちに雷蔵の表情が呆れたものに変わっていくのがわかったが、仕方がないだろうと勘右衛門は肩をすくめた。
「それはさあ、勘右衛門……」
「言うな、雷蔵。ガキくさいことしてるのはわかってるんだ。わかってるけど、俺は普通に腹立ってるから」
理由も語らず旧友との再会を拒まれたことを、勘右衛門は結構根に持っているのである。だから一人で雷蔵を探しに来たし、雷蔵を見つけるまではこちらから連絡を取ってやることはすまいと決意もしていた。こうして雷蔵と知り合ったことについても、数百年ぶりの再会という部分を除いて隠すつもりはないが、わざわざ教えてやる気はない。
「雷蔵から聞けば、俺が雷蔵探しに行ったんだってアイツもわかるだろうし、知り合った後なら何も言えないだろうしさ」
さすがにの三郎も、勘右衛門が雷蔵と出会った後の交友関係まで邪魔してくることはないはずだ。兵助の例もある。何か口を出されることはあっても、聞き流せる程度の小言で済むだろう。
「わかったよ、明日にでも連絡しとく。でも、仲直りは早めにしておくれよ。せっかくだったら、昔みたいに仲良くしたいし」
「了解~」
苦笑する雷蔵を笑い飛ばす。勘右衛門は、三郎と仲直りできないとは思っていないし、彼が雷蔵と親しくなることも信じて疑っていないのだ。昔みたいに、という言が現実のものになる日のことを考えて、一抹の寂しさがないわけではないけれど。きっと、そろそろ自立する時期だ。三郎も、自分も。雷蔵との再会が、自分たちにとってよいきっかけになるものと期待しながら、勘右衛門はそういえば、と口を開いた。もう一人の友人のことだって、雷蔵は知りたいだろうと思って。
話に花が咲けば、あっという間に時間は過ぎた。駅の構内から近隣のカフェに場所を移して話し込んでいたが、日も傾きはじめたころ、大学の集まりがあるからと雷蔵が席を立った。互いに大学生の身である、というのすでに知っていたから、また会う約束をして二人は別れた。目的を達成できたことで朝よりも軽い足取りでもって、勘右衛門は自宅の最寄り駅までの電車に乗り込んだ。
今回も車両内には空席が目立ち、おかげで勘右衛門は腰を落ち着けてスマートフォンを取り出すことができた。相変わらず増え続けていた三郎からの通知にげんなりしつつ、メッセージアプリで兵助のアイコンを探す。雷蔵と撮った写真を送ってやればすぐに既読がついた。驚いた様子のメッセージに思わず笑ってしまいながら、連絡先を教えたいというようなことを打ち込んで送信した。こちらにもあっという間に諾の返事が寄越されて、勘右衛門はほっとする。
スマートフォンを片手に、朝、見ていたのとは逆向きに流れていく景色に目をやった。同じ記憶を有する友人たちのこと、覚えていない三郎のこと、再会を願うもう一人の友のこと。思い馳せる先はいくらでもあった。変わったもの、変わらないもの。何が変わって、何が変わらないのか。変わらないものなどあるのか? 終わりのない自問自答を、案外勘右衛門は嫌っていなかった。
ボンヤリしているうちに電車は出発地まで戻ってきていた。あと数駅で自宅の最寄り駅というところで、雷蔵からメッセージが入っているのに気付く。あのおしゃれなアイコンをタップすれば、三郎に今日の出来事を話した旨が綴られている。書き方からして、三郎が雷蔵に連絡を取ったようだった。了解、とスタンプを送って、スマートフォンをしまった。
電車を降り、寄ったコンビニで缶チューハイとつまみを購入してから、勘右衛門は帰路についた。今日のようなめでたい日には酒がいい、と思ったのだ。生憎、雷蔵を誘えなかったためにひとりきりの晩酌だが、そのくらいのほうがいいだろう。数百年越しの再会に乾杯、なんて、付き合ってくれる人間のほうが稀だ。
そうして古いアパートの二階、階段を上がってきた勘右衛門は、自室の玄関前に人影があるのに気が付いた。数歩近づくうちに、それが想像の通りの人物であることを知って足を止める。
「勘右衛門」
そう広い建物でもないので、廊下を人が歩いてきたらすぐにわかる。部屋の前に立つ人影に勘右衛門がづいたように、向こうだってこちらに気づくのだ。玄関扉に背を預けるようにして立っていたのは、やはり三郎だった。そういえば雷蔵から連絡を受けてから一度もメッセージが来ていなかったな、と思いながら、勘右衛門は素知らぬ顔で三郎に近づく。いや、正確には自宅に向かって、歩を進めた。
「何か用? そこ立ってられると、家に入れないんだけど」
そっけなく聞こえるよう言い放ち、手でしっしと追い払うようなしぐさをする。勘右衛門が近づいてくるのがわかっていただろうに、じっとその場を動かなかった三郎は、やはり扉から離れることをしないまま微妙に感情の読めない顔で視線を彷徨わせている。ぱっと見には無表情としかとられないだろうそれが、いわゆるばつの悪い顔だというのは今のところ勘右衛門くらいしか気づける者はいないはずだ。そんな、なんの役にも立たない優越感を押しとどめて、勘右衛門は三郎を見た。もごもごと何かを言いたげにしているのを、彼の正面に立って待つ。
「その……この間は、悪かった」
「へえ、何が?」
「……お前の頼みを断って、というか、嫌がって」
ぎりぎり聞こえる程度の声でボソボソ呟く姿はまるで、親に叱られるのを恐れる子どものようだ。しかし相変わらず、理由を述べてくれるつもりはないらしい。しおらしく項垂れる様子を眺め、勘右衛門は片手に下げた酒を見下ろす。数日の間、自分が抱えていた苛立ちについて少し考えて、まあいいか、と思った。
なんでもかんでも共有してきて、隠し事などないというような生活をしてきた今までがおかしかったのだ。実際、勘右衛門には彼に話していない大きな隠し事――過去の記憶がある。それを語るつもりがないのに、その縁を手繰って三郎に駄々をこねるのもおかしな話だっただろう。そんなのはただの、勘右衛門の感傷だ。なんだかんだと、今生での彼との繋がりを特別視しすぎていた。
仕方がないなあ、とため息をついた勘右衛門に、三郎がぱっと顔を上げた。
「いいよ、もう怒ってない。俺も、お前と同じ顔って面白がって、騒いで悪かった」
まだどこか縋るような視線を向けてくる三郎にけろりと笑って見せて、鍵を開ける。ほら、と入室を促せば、三郎はあからさまにホッとした顔をした。本当に、わかりやすくなってしまったものだと内心苦笑する。勘右衛門以外の人間にはそんなことはないのだと、知ってしまっているからこそ。
勘右衛門の部屋に入った三郎は、きょろりと室内を見渡した。たかだか数日で何が変わるというわけでもないのにと、勘右衛門はそんな三郎を座らせて、自分は買ってきた酒とつまみを準備する。冷蔵庫を開けて缶ビールも取り出した。残念ながら三郎の好みの甘い酒はないが、ビールなら飲むだろう。どうせ飲むなら、そこにいる友人を付き合わせない手はない。
「ほらよ」
「さんきゅ」
ぷしゅ、と缶を開けてそのままチューハイを煽る。炭酸が喉を通っていくのが気持ちいい。皿に出した豆類とチーズをつまみながら、同じように缶を傾ける三郎を眺める。夜というにはいくらか早い時間だったが、たまにはこういう日があってもいいだろう。
「まさか今日来ると思わなかったよ。雷蔵から聞いたんだろ?」
「ああ、まあ……。勘右衛門なら直接探しに行くかもしれない、とは思って」
「思ったのかよ」
じゃあ渋るなよな、と続ければ、三郎はまた不機嫌そうに口を歪めた。「雷蔵」と口にしたときにも眉間に皺が寄っていたが、本当に何がそこまでさせるのか。わからないなりにも悪かったなと思って、勘右衛門はつまみの皿を三郎のほうに押してやった。しかし三郎はそちらには手を付けず、再び缶ビールを飲み進める。ごくごくと、音を立てる喉をさらした三郎は一息に缶を開けてしまったらしい。彼はあまり酒に強いほうではないが、大丈夫だろうか。酒を進めた身でやや不安になりながら、こん、とテーブルの上に置かれた空き缶を勘右衛門は見つめた。
大きく息を吐いた三郎が勘右衛門を向き直る。すでにうっすらと赤く染まりつつある頬が、三郎が酔いつつあることを明らかにさせていた。肌の色が白いと、こういうときわかりやすい。
「不破のこと、……どう思った?」
「どうって? まあ、ほんとに三郎とおんなじ顔してんだなって思ったよ。さすがにお前の顔は見慣れてるから、別人だってわかったけど」
「他には」
「他ぁ? ……いいやつそうだな、とか? 穏やかそうだし、優しそう」
三郎の不破呼びってなんだか新鮮だなあ、なんて考えていたからだろうか。座卓の角を挟んで隣り合っていたはずが、気づけば三郎の顔がずいぶん近くにあった。顔がというか、身体ごとすぐそばにいる。いつの間に近づいてきていたのか、勘右衛門は思わず後ろに手をついてのけぞった。日頃から距離が近い自覚はあるが、この近さはまずない。
「うわ、近……なに?」
距離を詰めてきた三郎の意図が読めず、とりあえず聞いてみる。唇を引き結んだ三郎がじっとこちらを覗き込んでくるのに、勘右衛門は困惑を込めて見返した。そっと手にしていたチューハイの缶をテーブルの上に避難させる。勘右衛門のほうはまだ飲み干していないのだ。ないとは思うが、ここから急にプロレスごっこにならないとも限らない。
「俺は? お前にとって」
「いいやつかどうかってこと? そりゃ、こんだけ一緒にいりゃわかるよ。いいやつだよ、三郎は。ときどきわけわかんないけど。今とか」
「そうか」
「うん。だからちょっと離れてほしいんだけど」
なだめるように言い聞かせて、軽く肩を押す。しかしびくともしない。わずかに焦りを感じて、勘右衛門は後ずさる。鍛えているわけではない三郎が、こんなところで謎の力強さを発揮するとは思わなかった。昔から変わらず、勘右衛門のほうが腕力なんかでは勝っているはずだったのだが。
「……好きだ」
「は?」
何が。口にせずとも、更なる困惑は伝わったらしい。勘右衛門が。若干の舌足らずさを感じさせながら、三郎が言った。じっと考え込んで、勘右衛門はすっとんきょうな声を上げた。
「はあ?」
「だから、俺は、勘右衛門が、好きだ。恋愛的な意味で」
今度はわかりやすく、幼子に言い聞かせるような口調で繰り返される。突然すぎる告白に、しかし勘右衛門の頭を埋め尽くすのはクエスチョンマークばかりだ。言われた言葉の意味は理解している。当たり前だろう、わざわざ恋愛的な意味で、なんて付け加えられれば意味をはき違えるほうが難しい。ただ、相手が三郎という状況が理解を拒んだ。
「マジで言ってんの?」
「マジで言ってる」
真顔で聞き返せば真顔で頷かれた。三郎は酔っても、ふざけた冗談を言うタイプではない。じゃあ先の告白が真実なのかと言えば、いまいちよくわからなかった。今生では十数年来の友であるが、勘右衛門は三郎がゲイであるなどと聞いたことはないし、何より数度、彼女がいたことがあるのも知っている。どれも長続きはしなかったようだが、それなりに楽しくやっていたように思っていた。
いや、三郎がゲイであろうがなんであろうがどうでもいいが、問題はその告白を受けているのが自分ということである。なぜ自分が、三郎に告白なんてされているのだ? 舌に乗らない疑問が頭の中をぐるぐると巡る。しばらく無言で考え込んで、勘右衛門がようやくのことで絞り出せたのは次の一言だった。
「なんでよりによって、俺……」
「お前だからだ」
あっさりと返されて、勘右衛門は絶句した。柄にもなく狼狽える。勘右衛門にとって、三郎はそういう対象ではなかったからだ。少なくとも再会してからこちら、三郎は良き友であり兄弟のようなものだった。近すぎるまま過ごしてきた相手からの告白というものに、どう対応していいかわからない。
「い、いつから」
「ずっと昔から」
ずっととは、昔からとは。そうして勘右衛門が思考の迷路に迷い込んでいるうちに、腕を伸ばしてきた三郎に抱きすくめられた。ぎゅうぎゅうと、少しでも距離をなくそうとするようなそれにハッとして身じろぎすれば、肩と腰を抑える手に力が籠る。酒のせいか熱を持った掌がちょうどいいところを探して這い回るのに、勘右衛門は身を強張らせた。
「嫌か?」
「嫌っていうか、いや、あの」
こちとらほとんど素面なんだぞ、と言い返そうとして、三郎の顔が先ほどよりもよっぽど近くにあるのにまた驚いた。ほとんどキスする寸前じゃないか、と思ったのを慌てて首を振って散らす。抱きしめられていればそりゃあ近くもなるよな。現実逃避じみた思考に、勘右衛門は我がことながら呆れた。そんな思考を読んでか、三郎がむっとした様子で顔を覗き込んでくる。
「本気にしてないな」
「や、そういうわけでもなくて」
「じゃあ、やっぱり嫌?」
ひたすらに困惑しながら、ぐいぐいと押し付けられる胸板を押し返そうとする。嫌なんじゃないか、と不機嫌そうな声が寄越されるのに、いや違くて、と弁解するようなセリフを吐いた。嫌ではなくて、ただこの年になってこんなにも密着していることが恥ずかしいだけで。密着しているのが恋情を告げてきた相手という前提が抜けたそれに、三郎はいよいよ機嫌を損ねてしまったらしい。
急に身体が解放されたと思ったら肩を押されて、勘右衛門は床の上に倒れこんだ。背後にあったはずのクッションから逸れたせいで打ち付けた背中の痛みに呻き、抗議の声をあげようとした瞬間だった。ふに、と柔らかいものが唇に押し当てられる。
「……!?」
「じゃあこれは」
嫌か? 何度も重ねて問われるのに、勘右衛門は再び言葉を失った。しょげかえった犬のような顔をして、目ばかりがぎらぎらとこちらを見下ろしている。今、何をされた? 勘右衛門が呆然としているのをいいことに、顔中に唇が降ってくる。頬に鼻先、瞼をたどって額まで。そうして再び頬まで戻ってきたそれが、肉を食むように柔らかく頬に吸い付いてきたところで我に返った。
「はあ!? お前、何して……」
「俺のこと嫌い?」
「んなわけ、」
「じゃあ付き合ってくれよ」
不破じゃなくて、俺の恋人になって。明確に関係性を求める言葉に、勘右衛門はようやく、本当にようやく、三郎が自身を雷蔵に会わせたくなかった理由がわかった気がした。お前、同じ顔の男に嫉妬していたのか。あっちがオリジナルだぞ、なんてふざけた言葉は、とてもじゃないが吐けはしなかったけれども。
結局、三郎は言うだけ言って寝落ちした。勘右衛門を下敷きに、ぷつんと糸が切れたように寝入ってしまったのだ。好き放題された勘右衛門としてはたまったものではなかったが、酔っ払いを床に転がした後には幾分か冷静さを取り戻すことができていた。
「三郎、俺のこと好きだったのか……」
とはいえ、信じがたい話ではあった。好かれている自覚はあれど、まさかそれが恋情だったとは。よくもまあ平然と押しかけてきていたものである。通い妻、なんて兵助に評されていたのを思い出し、もしかして最初からそのつもりだったのだろうか、なんて邪推する。それをここまで受け入れていた自分も自分だ。
最後まで否定の言葉が出てこなかった己を振り返り、勘右衛門は唸った。てっきり、単なる寂しんぼうだと思い込んで甘やかしてきた。しかし雷蔵と再会した今、あちらに懐くかと思えばそれより先に告白してくるくらいである。今生の三郎は確かに、勘右衛門を好いているらしい。認識してしまえばこっぱずかしいような、むず痒いような、不思議な心地だった。
ずっと昔から好きだった、と三郎は言った。具体的にいつからなのかわからないが、四半世紀も生きていない若者の言うずっと昔から、は結構長いのではないだろうか。だとすれば彼が自分にくっついて回っていたのも、勘右衛門にばかり心を傾けていたのも、不健全でもなんでもない。むしろ健全で、健気なアピールだった可能性が出てくる。うわあ。寝こける三郎を前に、勘右衛門は頭を抱えた。
理性的な自分が、いやいやそれは雛の刷り込みというやつではないか、と狼狽する心を指摘する。そうかもしれない。けれど、事実そうだとしてどうすればよかったというのか。初めて顔を合わせたあの幼い日に、声をかけずにいればよかった? それはできなかった、と勘右衛門は思う。思うし、あの日に戻ることなどできないのだからこの思考自体が不毛だとも思った。
大体、三郎も馬鹿ではない。女の子を恋人にしていた過去があることを考えても、その辺はとっくに彼の中で答えが出てしまっている気がした。だとすれば、あとはもう勘右衛門の問題に違いなく。
「俺、三郎と付き合えるのか……?」
勘右衛門は間違いなく、三郎のことが好きだ。でもそれは、恋情ではない。男の身体に欲情した経験もなければ、された経験もないから、同性と付き合うということもよくわからない。お前のことをそういうふうには見れないよ、と、伝えるのは簡単だ。しかしそうしてしまえば、これまでの繋がりが失われてしまうのではと、臆病な自分もまた顔を出す。それは嫌だな、と、単純に思ってしまう。
――三郎がこんなふうになってしまった、責任は取らねばならないだろうか。
すやすやと寝息を立てる友人を見下ろす。クッションを頭の下に置いてやったからか、その寝顔はたいへん健やかである。無性にそれが腹立たしくなって、額にデコピンを一つ。う、と苦し気な声が一つ漏れたものの、三郎が目を覚ますことはなかった。すやすや。酔った三郎はなかなか目を覚まさない。
……まあ、起きれば忘れているかもしれないな。そう結論づけて、勘右衛門はベッドに潜り込んだ。人はこれを思考放棄という。
翌日起きてきた三郎は、しっかりくっきりすべてを覚えていた。と、いうのを、勘右衛門はベッドの中で知った。先に目を覚ました三郎がこんなことを言いながら、勘右衛門を叩き起こしたので。
「返事は?」
なんだかんだと寝つきのよくなかった勘右衛門はまず、何の? と聞き返した。ようやく眠れたと思ったら、すぐに起こされたようなものだった。目はしょぼしょぼしていて、頭もすっきりしていない。見下ろしてくる三郎の背中越しに見た壁掛け時計の短針は、ずいぶん小さい数字を差している。今日の講義は二限からのはずで、だったらまだ眠れるはず、と勘右衛門は布団を引き上げようとした。
「俺の告白の返事だよ!」
その布団も引きはがされて、勘右衛門はベッドから転がり落ちた。痛みに呻く勘右衛門を跨いで、三郎が顔を覗き込んでくる。間近で眺めたふてぶてしいその表情には、昨日訪ねてきたときのしおらしさはかけらもない。開き直りやがって、くそ、と悪態をつくも、三郎はどこ吹く風である。
「告白した相手にすることか? これ」
「むしろ配慮だ。いつも通りじゃなかったらお前が困るだろ」
「それはそうだ……」
ぐしゃぐしゃになった髪を優しく梳かれながら言われ、納得してしまってからハッとする。今の言動に、微妙にいつも通りではない動作が挟まっていた。細い指が、何度も勘右衛門の髪を撫でつけている。寝癖を直してもらったことは幾度となくあるが、そういうのではない手つきだった、と勘右衛門は気づいてしまった。
「えー……本気? お前、俺と付き合いたいの?」
「昨日も言ったが本気だ。いい加減、我慢し続けるのにも限界が来た」
「……あ、そう」
我慢、という言葉にひくりと顔がひきつるのが分かった。何を我慢し続けていたというのか。すっかり己のテリトリーを侵食されている自覚のある身としては、これほど恐ろしいセリフもない。
「……付き合うってことはさあ、俺とそういうことも」
「したい」
「うわあ」
「で、返事は?」
昨晩と同じくらいの距離で囁かれて、勘右衛門はひゅっと息をのむ。気づけば顔の横にある腕が檻のようで、とても逃げられそうにないと思った。至近距離で見つめる薄い色の瞳には、自分の間抜けな顔しか映っていない。彼曰くの恋情と、隠しきれない怯えと共に。こんな時でさえ、三郎の感情を読み取れてしまう己が嫌になった。長年の付き合いは伊達ではないというか、もはや呪いである。
「……お、お友達から」
「俺たちは友達じゃなかったのか?」
「友達だけど、恋人未満くらいのやつから……!」
あんな目をされて断れるやつがいるか、いや、いない。譲歩に譲歩を重ねた懇願を吐いて、勘右衛門は手を合わせた。これで今日のところは見逃してくれ、という。大事な友人を失うのが恐いのは、勘右衛門も同じなのだ。いきなり恋愛対象として見ろと言われたって難しいけれど、はっきり拒絶するのは恐ろしい。
いいけど、と、不承不承と言いたげな声が降ってきて、ホッとする。あからさまに勘右衛門の空気が緩んだのがわかったのだろう、瞼を半分落とした顔がぐいと近づけられた。もともと、鼻先が触れ合うくらいの距離にいたのだ。それがさらに近づけば、顔と顔がくっつくのは必定というか、普通に口と口がくっついた。むにむにと感触を確かめるように重ねられ、咄嗟に唇を引き結んだのをぺろりと舐められる。
「おま、ま、また、お前!」
「キスされて嫌じゃなかったんなら、もうそれが答えだってことにしとかないか」
たぶん、普通の友達はキスなんかしないぞ。あまりにも当たり前のことを言われて、勘右衛門は声にならない悲鳴をあげた。