makeup試合前のウォーミングアップを終え、控室に戻ってくると、見慣れた長身の背中がある。今日は彼の試合は予定されていないはずだけれど、という疑問と、服装がいつものパーカーやユニフォームではないことに首を傾げつつ、
「おはよう、キバナくん」
背中に声を掛けると、
「! カブさん! おはよーございまーす!」
弾かれたように振り返り、笑顔を向けてくれたその顔に、
「……ど、うしたんだい、それ」
面食らい、思わず身体が固まってしまった。
「あ、これ? 雑誌の撮影。ちょうど今、準備終わったとこです」
笑顔はいつも通りなのに、顔が違うというか雰囲気がまるで別人というか。じろじろ見るのは失礼だとわかっているのに目が離せない。
「カブさんの試合始まる前に終わらせるんで。ついでじゃないけど見てっていいですか?」
それは、うん、もちろん。でも、まさかその格好のまま? そんなことはないか。ない、と思う。ないといいのだけれど。
「カブさん?」
視線をうろちょろさせているぼくに気づいたのか、ずいっと距離を詰めてきたキバナくんが腰をかがめてぼくの顔を覗き込んでくる。近い。こんな距離、今はちょっと心臓に悪い。つい軽く飛び退いてしまい、きょとん、とした表情でまばたきをしたキバナくんは、困ったように眉を下げて笑った。
「あー……やっぱ変、ですか、これ」
いつもとは違う、たくさんの色が混じった布のバンダナの上からこめかみを搔く。
「雑誌の企画で秋の新作着ることになって。ちょーっと派手かなーとは思ったんですけど、割と似合うかなーなんて思ったりもしてて……、カブさん、こういうの好きじゃない感じです?」
びっくりさせてごめんなさい、と少し距離を取った彼に謝られてしまい、ううん、と慌てて首を振る。ファッションのことはよくわからないけど、いろんな色が混ざり合ったバンダナも、褐色の肌を包む柔らかな白いシャツも、長い脚にたっぷり巻きつくスカートなのかズボンなのかわからない真っ青な布も、サンダルと呼ぶのは気が引けてしまう履物も全部とても似合っている。びっくりしたのはその服装だけじゃなくて、
「キバナくん、お化粧してる、よね?」
見ればすぐにわかることを口にすると、彼は色の付いたまぶたで大きくまばたきをした。
「目も口も、顔全部、すごくきらきらしてるから、驚いてしまって」
ぼくも雑誌のインタビュー記事などで写真を撮るときは、軽くお化粧をしてもらうことがある。でもそれは肌の色をよく見せたりとか、写真写りがちょっとよくなるくらいのもので、今の彼のように印象ががらりと変わってしまうものではない。モデルをしているルリナくんがCMや街の看板に出ているときの変わり方に近い。知っている人が急に遠くに行ってしまったような、知らない人になってしまったような、そんな気持ちになる。
「びっくりしてしまってすまない。話してみたらちゃんとキバナくんで安心したよ」
うん、話してみればキバナくんだった。当たり前だけど、とてもほっとした。顔はまだまっすぐ見られないけれど。
「変、じゃない?」
不安そうな顔で彼が尋ねてくる。
「綺麗でかっこいいよ、とっても」
思ったことをそのまま口にしてしまい、言ってから少し恥ずかしくなる。確かに綺麗だけど、男の子にそんなこと言って良かったのかな。
「へへ」
心配するぼくに、彼は嬉しそうに笑った。つやつやと潤むような色の唇が笑みを浮かべる。うん、とても綺麗だ。どきどきしてしまうくらい。こちらの顔が熱くなってしまうくらい。
「キバナ選手ー、そろそろお願いしまーす」
ぼくの背後で控室のドアが開き、スタッフさんらしい人が声をかけてきた。はーい、と彼が返事をすると、控えめな音を立ててドアは閉まり、ぼくと彼はまた二人だけになる。
「じゃ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
がんばってね、と言うと、綺麗な顔で彼は笑った。眩しい色を乗せた目が穏やかに細められ、鮮やかな色の付いた唇が優しい弧を描く。
「ね、カブさん」
ドアに向かって歩き出した彼がぼくの目の前で足を止める。なんだい、と言う前に彼は腰を折り、ぼくと目線を合わせた。
「カブさんも似合うと思うよ、こういうの」
そう言って、自分の唇に指を当てる。
「え、いや、」
それはどうかな、無理があると思うよ。だって年が年だし、君みたいに元が綺麗なわけじゃないし、それに、ぼくなんて、とても。
「似合うよ、ゼッタイ」
眩しい色のまぶたの下、彼の目はいつもの変わらない色で。そのことに何故だかすごく安心しているぼくがいて、キバナくんはキバナくんだなあ、なんてぼんやりその目を見つめていると、ふと、目の色が、少し深く、なった、ような。
「――っ?」
不意に近づいた目に、あれ、と思った次の瞬間、唇にしっとりとした柔らかい感触がした。触れていたのはほんの一秒、もっと短かかったかもしれない。唇は軽く食むように、擦り合わせるようにしながらそっと離れ、
「……ほら、似合う」
視線の合う位置で彼が微笑む。ぼくは唇に残る感触と鼻をくすぐる彼の香りに意識を奪われている。
「あとで鏡見てみてね」
身体を起こし、軽い足取りでぼくの横を通り過ぎながら、彼の大きな手が頭を軽く撫でる。
ぱたん、とドアの閉まる音がして、ぼくは立ったまま動けない。
今の。
今の、は。
思い出したように熱くなっていく頬を両手で押さえ、口からため息なのか声なのかわからないものを吐き出し、
「見れないよ……」
とてもじゃないけど、今の自分の顔を見ることなんてできそうもなかった。