ディープブルーの恋 後日談窓の外は大粒の雨が降り注いでいた。
連日の大雨、それから迫りくる巨大台風のせいで、長らく部屋に閉じ籠もるしかできないでいたホークスはぶすくれた顔で水槽に頬をこすりつけている。
「餅みたいだな」
コーヒーを片手に水槽の前を通るときに、思わずそう溢せばじとりとした黄金色の瞳がこちらを見つめてくる。
分厚いアクリル越しでは言葉は届かないため、聞こえていないだろうと思っていたがどうやら口の動きで何を言ったのかはバレていたらしく不服そうにされた。
あいも変わらず外ではごうごうと風が巻き上がり、雨足は殊更強くなったようだ。屋根を叩く雨音が一段と激しさを増していた。
そんな中で泳ぐことも浮くこともせず、水槽の底でアクリル板に白い頬をぺたりとくっつけたホークスは、時折苛立つように鰭を揺らしていた。
アクリルにもっちりと吸い付くように預けられた頬はかたちを変え、うまそうな柔らかさをこれ見よがしにしている。
つい何も纏っていない手でつついてみたいと思ってしまうが、それは叶わないため、アクリル越しに頬をつついてみる。透明な板が間に挟まれた状態では、つつかれたホークス側にはなんの影響もない。
じとりとした目のまま、これまたこれ見よがしに深い溜息を吐かれた。
こぽこぽと空気の泡が水面へ向かって上昇していく。
「つまんないです」
手話は使わずとも、こちらも口の動きでホークスが何を喋ったのかは簡単に分かった。
外は大雨、暴風の嵐だ。
こんな時に外に出れば間違いなく怪我どころでは済まない。 それは海の中も同じで、ホークスはここ数日の間、この決して広くはない水槽の中に閉じ籠もっているのだが、それがどうにも気に食わないらしかった。
「そうは言っても、台風なんだ。仕方ないだろ」
「んー」
アクリルに頬をつけたまま、むくれた顔で尾びれをばたばたと揺らす。
水槽の前に置いてある椅子に腰掛けてコーヒーを啜ると、ホークスはいーっと歯を見せて拗ねてみせた。
「炎司さん、だっこ」
こちらに両手を広げ、水槽から出せと言う。
コーヒーを飲んでいるときにそんなことを言うのは、八つ当たりなのだろう。仕方ないなと脇机にマグカップを置いて、座ったばかりの椅子から立ち上がる。
中二階に登って手袋を嵌め、バスタオルを掲げると水槽の底にいたホークスがぴゅんと水面へ上がってきた。
「ん」
おいで、とばかりに手を伸ばせば、自身の腕を使って簡単に水槽から這いずりでてくる。ぼすんと勢いよくバスタオルごと腕の中へ飛び込んできた体を受け止め、海水を拭き上げてやる。
ホークスのために作った中二階は、濡れても問題がないように防水加工を施した家具や珪藻土のマットを敷いていて、水槽だけでなく家の中でもホークスが過ごせるようにした。
家の中を自由に歩き回れる俺とは違い、水槽の中だけでしか生活できないのは哀れに思ったからだ。
水気をたっぷり含んだ髪や鰭を、分厚いバスタオルで拭ってやれば毛づくろいに似た感覚なのか、すりすりとすり寄ってくる。
「こら、少しおとなしくしろ」
「やです」
タオル越しならば体温も伝わりにくいからなのか、単に俺が水中にいられる時間が短いからゆえか、接触できるときはこうして存分に身体にすり寄ってくる。
火傷するほどではなくとも、人魚であるホークスにとっては人間の服越しの体温は十分高いはずで、触れ合っているのは苦痛に感じるはずだろうに。
「もっと撫でて」
人と人魚と、種族が違うばかりにこうして肌ひとつ重ねることもできず満足に触れ合えもしない。
それでも、こうして怪我をしない程度に抑えながらも可能な限り触れ合っていたいと言う。
これを、かわいいと呼ばすに、なんと呼べばいいのか。
献身的な愛情表現にも心を刺激されて仕方がない。
強く抱きしめてやりたいのをぐっとこらえながら、きゃっきゃと楽しそうに撫でられる(実際は拭き上げているのだが)姿を堪能する。
白いバスタオルの海に溺れながら手を伸ばしてくるのが、背中の赤い背鰭も相まってさながら天使のように見えてくる。
「炎司さん」
ある程度拭き上げて水分を吸ってやると、ホークスは比較的乾いているバスタオルを顔面めがけて投げてきた。
「おい、」
バスタオルで顔を覆われ視界を奪われたので、いたずらするなととタオルを剥ごうとすれば唇にふにゃりとした感触がした。
「へへ」
少しだけ喰むように啄んできたそれを感じながら瞬きを繰り返せば、タオルが落ちてホークスの照れたような顔が露わになる。
ああ、この手で触れられないのが、離れていく体温を追いかけて口の中まで合わせてやれないのがもどかしい。
いっそ、氷を浮かべた極寒の水風呂に入って身体をキンキンに冷やせばあるいは、とそこまで考えて頭を振った。
「おまえ、憶えていろよ」
身体のうちでのたうち回るような強い衝動と高ぶった熱をぎりぎりの理性で抑えつけながら、拳を握りこむ。
怪我をさせたいわけじゃない、けれど、目の前のこのかわいらしい生き物に己の穢れた欲をぶつけてしまいたい――。
そんなひどい二律背反に苛まれながら、きょとんとした顔の人魚にバスタオルをもう一度被せて、少しだけ乱暴に撫でくりまわしてやった。
悪天候で外に出られなくても、海へ散歩に行けなくても、こうして家の中でこんなにも満ち足りた時間を送れるのならば、台風もまぁ悪くないなと思った。
海辺どころか直接海と繋がるように作られた家の構造上、台風が来れば対策とメンテナンスは欠かせないし、色々と不便なことばかりではあるけれど。
それでも海と陸、そのどちらもで生きられるようにしたのは間違いじゃなかった。
また台風が来たらこうして家の中で静かに触れ合っていよう。
台風が通り過ぎたなら、今度は海の中へ一緒に散歩に行こう。
決して地肌同士では触れ合えないけれど、こうしておまえと布越しに触れ合っているのは悪くない。
今度は海の中で、深く深く潜れば少しの間だけなら肌を合わせることも可能かもしれない。
そんな淡い思いを懐きながら、タオルの海をばたばたと泳ぐ赤鰭の人魚をタオルごと抱き寄せた。
俺だけの人魚。俺だけのホークス。
人に捕らわれ、人の手にとって育てられた大海を知らない人魚は、今や自由に大海を泳ぐ翼を手に入れた。
そして同時に、この陸にある家を自らの『巣』と定め暮らしている。大海を自由に羽ばたくように泳ぐおまえも、俺の腕の中で笑うおまえも、どちらも愛おしい。
ああ、手放したくないなと思う。
「炎司さん」
「なんだ」
「ねえ今度、陸の世界を見てみたいです。連れてってくれませんか?」
俺が海の世界で生きられないように、ホークスも陸の世界では生きられない。
けれど、俺がダイバースーツと酸素ボンベがあれば海の中を散歩できるように、ホークスも対策をすれば陸の世界を見せてやれるかもしれない。車椅子では無理だが、車に乗せて人気のない森や河に連れってやることは可能だろう。人間に見られないようにするという絶対条件はあるが、それでも不可能ではない。
「そうだな、できなくはないか」
「おれ、あなたの生きる世界のことももっと知りたいです」
目で見て触れて。あなたの生きる世界を通じて、あなたをもっと知りたいとホークスは言う。
陸の世界は、海の世界より危険は少ないがホークスにとっては温度という大敵がある。
それでも、その目で見てみたいのだという。
元から知的好奇心が強かったが、この家に住むようになってから、『海』を知ってから、その気質はより強くなったように思う。何年も狭い水槽の中で飼い殺しにされていたから、自由を得た今こそ、好きに生きようとしているのだろう。
「わかった。考えておく」
「やった」
お互いに、少しずつ知っていけばいいのだ。
海のことも陸のことも、ともに学んで、様々な方法を模索しながらともに生きていけばいい。
もう俺たちを縛るものは何もなく、お前は自由に羽ばたけるのだから。
「あ、そしたらまた鶏食べたいです。新鮮なやつ!」
「ああいいな。しかし、鳥の名を冠しておきながら、本当におまえは鶏が好きだな」
「人魚はなんだって食いますよ?」
赤い二対の背鰭が羽に見えるからと鳥の名をつけられた人魚は、いつか食べた鶏肉の味が忘れられないらしくこうして時折ねだってくる。こんな人気のない辺鄙な場所に住んでいるから、生鮮食品は滅多に食べられないのだ。
肉類は基本遠くにあるスーパーで大量に買い、全て冷凍してある。それでも早めに使い切らねばならないから、肉は滅多に食べられない。
ホークスは海へ散歩ついでに魚やら貝やらを捕まえてくるが、人魚は雑食らしく本当に何でもよく食べる。
「楽しみですね」
にこにこと他の早々に笑いかけてくる人魚にそうだなと返しながら、タオル越しにもう一度撫でてやる。
そういえば先程置いてきたコーヒーはとっくに冷めきっただろうなと思いながら、今日の夕食は冷凍してある鶏肉を使って好物を作ってやろうと決めたのだった。