シャワールームの秘密 それっきりのはずだったのに。
あの日以降、意識的にシャワールームに近づくことを避けていた。にもかかわらず、トラウマを植えられたと言っても過言ではない場所で、件の男と鉢合わせてしまい、凛は盛大に舌打ちを鳴らした。
「………何でいるんだよ」
朝起きて歯を磨くのを忘れたら気持ちが悪いように、昼にスポドリを用意し損ねたら落ち着かないように、日々の中に埋め込まれたルーティンを欠くと妙に気が休まらない。一度や二度抜けてしまっても死にはしないのに、厭にソワソワして注意が散漫になる。気にしない人間はとことん気にしないだろうが、凛のように神経質なまでに己を律する性格ではそれも難しいことだった。
チームに潔を迎え入れ、海外選抜メンバーとの試合にに臨みーーーー結果は目も当てられない点差になったがーーーー二次セレクションは終わった。今はボールに触ることもなく、選抜通過メンバーが出揃うまで語学の勉強を課せられている。他の有象無象を待っている時間も、中学レベルの英語の問題集を解く時間も、何もかもが惜しい。こんなところで足踏みしている暇はないのにと、凛は酷く焦燥に駆られていた。
今夜も児戯に等しい英語の問題集をこなし、スペルの綴りも文法も発音も滅茶苦茶な年上の男たちが縋り付いてくるのを蹴飛ばす。普段はそこで解散となるが、今日にかぎって、ずっと外国語のテキストと睨めっこしていることに飽きを覚えてきた潔が「ちょっとは別のことに頭を使った方が英語の勉強も捗ると思うんだよな、ほらサッカーの戦略とか」だの何だの言いながら愛用している小さなホワイトボードとマグネットを幾つか取り出したところから展開が変わってきた。ガヤガヤと周囲が盛り上がり始め、そっと部屋を後にしようとしたところで、「凛ちゃんはどう思う?」と蜂楽に声をかけられた。勿論無視しようとしたが、臆病なくせにこういうところだけ変に大胆な時光が「凛くんの意見も聞きたいな」と凛の腕を掴んだものだから、話に強制参加させられることになった。時光の力で腕をとられたら振り解くに振り解けなかったのだ。話は実際のゲームさながら白熱し日付を跨いだあたりで、ようやく「明日もあるから」とお開きになった。
生活のリズムが崩れるのは好ましくない。特にパフォーマンスに直に影響してくる睡眠については。凛はチラリと時計を見遣り、就寝前のヨガをしておくか否か一瞬考えてベッドに潜り込んだ。机に齧り付いてばかりで激しい練習をしていないこともあり、一日であればクールダウンも必要ないと判断した。が、結局寝付くことができずにすぐにそれを後悔することになる。周りが寝静まってなお、目が冴えて仕方がない。たった一つ寝る前のルーティンを飛ばしただけで、身体も頭も妙に波立つ。
諦めて部屋を抜け出し、普段通りヨガの中で心身を整える。少しばかり汗ばんだ肌に不快感を覚え、ここまできたらもう二、三十分起きていても大差ないだろうとシャワールームに向かった。避けていると言っても、もう大浴場は閉まっている時間だし、こんな夜中にシャワーを浴びる人間もいないだろう。
そしてこうした甘い憶測は決まって悪い方向に外れると凛は身をもって知った。
扉を開くと、簡易的に個室として設られたシャワールームに続く前の脱衣所がある。脱衣所は共有のスペースになっており、両手指の数ほどの小ぶりなロッカーが並んでいる。そこに蟻生の姿があったのだ。よりによってこの場所で会いたくなかった男は涼しげな顔を崩さない。
「寝汗で目が覚めたからな、例え睡眠中であっても汗臭いのはノットオシャだ」
「何でいるんだよ」という凛の独り言めいた言葉にもしっかりとした会話が返ってくる。先日のことは凛の夢だったのだろうか。何事もなかったかのように、蟻生は凛のことなどこれっぽちも気に留めずスウェットを脱ごうとその裾に指をかける。その仕草に急激に凛の体温が上がった。心臓が悲鳴をあげ、思わず顔を背けてしまう。
「……じゃ、邪魔したな」
「凛、忘れろと言っただろう?」
狼狽の滲む凛の声と嗜めるような蟻生の声が重なった。沈黙に、堪らず息を呑んだのは凛だ。
「っ!忘れられるわけがないだろ!あんなことしやがって!お前のせいで………」
蟻生のせいで何だというのだ。その手に頼ったのは自分の癖に、相手に罪を擦りつける言い方になる。流石に卑怯かという自覚から、続けようとした文句は音にもならないまま床に落ちた。
「…………悪い」
こういう時に口下手なのが恨めしい。何も言えないままならこの場に居続けてもお互い居心地が悪いだけであるし、蟻生がシャワーを浴びる音を聞きながら平静を保って汗を流せる自信が凛にはなかった。それならばもう部屋に戻ってしまったほうがいい。今ならば汗ばんだ身体もどうでも良く思える。
「お前は、嫌いな奴に身体を許すほど安い男なのか?」
「は………?」
踵を返した凛の背中を蟻生の言葉が引き止める。
「嫌いとまで言わなくても、好きでもない奴か、もしくはそんな興味も湧かないくらいどうでもいい奴か」
「……そんな言い方すんじゃねよ」
凛が答えに詰まっている間に、蟻生はひとつひとつ選択肢を増やしていきながら、その実凛の退路を奪っていく。これでは誘導尋問だ。好いてもいない相手に、ましてや関心すらないような相手に肌を許したと言えば、軽い男であることを意味するし、逆にそれを否定しようとすれば、凛が蟻生に惚れているというのと同義だ。いずれにせよ、晋も地獄退くも地獄。
「くそッ」
「大人しく忘れたふりをするようだったら見逃していたのに、随分可愛らしい反応をするんだな、凛」
「そういうならお前はどうなんだよ!どうでもいい奴のオナニー手伝えるんなら相当な変態だろうが」
少しずつ足元を崩されていく感覚に、虚勢を張るのが精一杯だった。
「俺か?」
そうだなと蟻生は目を細めて、いかに凛が素晴らしく“オシャ“であるかを語る。あっけらかんと告げられるものだから、最早羞恥すら感じなかった。唖然としている凛にそっと蟻生の影が降りてくる。
「俺ばかりでは不公平だと思わないか?」
「……まだわかんねぇ。けど、嫌いでもねぇ」
凛のボソボソとした呟きに、蟻生は満足げに微笑んだ。
「今はこれでいいだろ!」
「あぁ、上出来だ」