「ミチ」(7)それは1本の電話から始まった。
お父様とお母様はリビングで休養をとられており、その電話に出たのは当時16歳だった私。酷く寒い日だった事を覚えている。窓の外では冷たい風の音がビュウビュウと響き、窓枠はガタガタと悲鳴をあげていた。
学校から帰宅した私は、両親に帰りの報告をし、勉強をしようと自室に向かう途中で、電話の音が鳴ったのだ。
「はい。こちら、オノールです。」
何も無い真っ白な壁を見つめ、受話器を耳に当て、そう言った。そこに感情などなく、相手の発言を待つためだけに存在しているかのようだと、見た人は言うだろう。
『ノクス・オノールさんのお宅ですか?』
「はい、ノクス・オノールは私の兄にあたります。」
『……そうですか、お父様かお母様はいらっしゃいますか?』
「はい、少々お待ちください。」
受話器を静かに置き、私は真っ直ぐにリビングへと向かった。廊下には、数年前まで飾られていたはずの何かの後がくっきりと残っており、その前には綺麗に彩られた花々が鎮座している。赤い上品な絨毯の上を進み、リビングの扉を開け、母を呼ぶ。こういった事でお父様の御足労はありえない。母はすぐに了承し、私に部屋へ戻るよう促すと受話器の方へと音もなしに歩いて行った。その後ろ姿は人形のようで、天から糸で吊るされたように伸びる背筋も、音の無い足音も、母には完璧に備わっていた。
私は母の言う通り自室へと戻り、経済学の分厚い本を開く。母から教わる実践的な知識も重要ではあるが、机に向かう学びも同等の役割を果たすのだと教わった。この時の私の勉学と言えば、普通科目ではなく少し特殊なものだったのだ。学校で習う普通科目はできて当たり前、そこで躓くなど母に許されはしなかった。
静寂な部屋で筆を動かしていると、突然父の怒声が聞こえた。
なんと言っているのかはわからなかったが、父がこれほど怒っている様子を見たことがなかった私に、ピリリと緊張感が走る。どうしたのだろうという疑問が私の足を動かし、自室の扉を開ける。声のする方へと、足音を立てぬよう近づくと、段々と何を話しているのかわかるようになってくる。
「あぁバカバカしい!なぜだ!なぁ、なぜだ!ヒス!!」
「……、、。」
「なぜ黙っているヒス!!おい、教えてくれよ、」
「どうしてノクスは死んだんだ」
頭の中の真っ暗な空間で、花瓶が粉々に砕け散った瞬間だった。
*
私の中での絶対的存在である兄様が死んだ。この世にいなくなった。それは私の終わりであること他ならない。私は兄のために生まれ、兄のために生き、兄を想い、兄に従う役目を持っている。しかし、その兄はどうやら死んでしまったらしい。
では私はこの先どうして生きていけばいいのか。生きる目標も何も失ってしまった。最愛の兄は私に何も言わず、煙になって消えてしまった。目の前が真っ暗になり、頬に何かがつたう。
「……父様」
父はこちらをジロリと見つめる。その瞳はどこまでも赤く、そして暗く、おどろおどろしいものだ。
「…アルバ。………アルバ、アルバ、アルバ」
ゆっくりとこちらに近づいてきた父は、私の肩を弱く掴むとこう言った。
「アルバ、グランツ学園に入学し、職人になりなさい。」
それは私の役目が終わり、そして新たに始まった瞬間だったのだ。
しかし、母がそれに待ったをかけた。
「お父様、待ってください、アルバは今別の仕事を」
「ヒス。……私の言うことに従わないのか?ヒスわかってくれよ。ノクスがいなければ、誰がこの工房を継ぐ。うちに次男はいないんだぞ?なら、長女であるアルバが継げばいい。」
「でも、」
「何が不満だ。言ってみなさい。もうノクスはいないんだぞ!!」
「……」
「…アルバ。やってくれるよな?」
私はその赤に睨まれると、意を反することができなくなる。静かに、頷いた。
手先は震え、喉はキュウキュウとか細く泣き、頬には相変わらず何かがつたい、張り付いたように肌が痛かった。
「アルバ、部屋に戻っていなさい。」
「わかりました」
踵を返そうとしたその時、視界の端に両手で顔を多いながら嗚咽する母の姿を捉えた。母の涙を見たのは、それが初めてだった。
一歩一歩、足をふらつかせながら自室へと向かう。長ったらしい廊下は見慣れたものでありながら、別の世界にいるような不気味さを感じさせ、寒く冷たい空気が全身を包みこむ。
全身から沸き立つ謎の感情が胸を支配し、張り裂けそうな痛みを含む。何かが内側からせり上がってくるのを感じると、急いで自室の扉を開けダストボックスを掴んだ。
気持ちが悪い。
この状況を生み出している全てに、嫌悪感を抱いた。
ー●ー
夢があった。
幼い頃からずっと抱いている夢、兄様も父様も母様も応援してくれた夢。本という名の世界で自分では生きられない物語を生きるのだ。違った役目を担う人の生き様を読み、綴る、それが好きだった。
両親に買ってもらったたくさんの本は、自室の本棚に並べられ、何度も何度も読み返した事でボロボロになっている。私はこの本棚が大好きだった。
グランツ学園の転入書類を書き終えた次の日、学校から帰宅すると何やら父と母が騒々しかった。何度も家の中を往復しているかと思えば、その行き先は私の部屋であるらしく、どうしたのかと問えば
「あぁ、アルバ。ちょうどよかった。今から燃やすところなんだ」
と、突拍子もない返答をされた。
父は相も変わらず赤く暗い瞳をしており、骨ばった顔で笑みを浮かべていた。
「燃やす…?何を燃やされるのですか?」
「アルバの部屋にあった本を燃やそうと思うんだ。もう必要ないだろう?」
私はこの本棚が、何度も読み返した思い出深い本がたくさん詰まった本棚が、大好きだった。
「どういうことです?」
「アルバはもう職人として生きるんだ、こんな大衆小説など必要ないだろう?」
父はそう言い残すと私の部屋へと入っていった。私は動くことも、何かを言うことさえ出来ず、ただ視界のある限りを眺めていた。父はもう一度私の前に現れる。たくさんの本を抱え、通り過ぎてゆく。その本の中には、父が買って帰ってきてくれた本が何冊もあった。
いつもよりも暗い家の中は、恐ろしい魔物が住み着いてしまったようでとても気味が悪い。
父は突然立ち止まり、振り返ると言った
「そういえば、小説家になりたいだとか言っていたな?」
眩しい程に赤い世界が広がる
「オノールの名が穢れるだろう、やめなさい。たいして才能もないのだろう?…人として生まれたからには、己の役目を全うしなさい。」
「父様の言うことに従うだけでいい」
父は私に背を向け、玄関へと歩いて行く。
どうして。そんな言葉が父に届くことはないと理解しているが、そんな言葉しか脳に浮かんでこなかった。小説家になりたい。そう言った私に、父も母も兄様も、みんなが賛同してくれた。たくさん本を読ませてくれた父、語彙力を付けなさいと勉強を教えてくれた母、何度も夢を描いてくれた兄、その姿は幻影だったかの如く、跡形もなくなっていたのだ。
何をしようというのか、つい先日まで応援してくれていた姿はなんだったのか。兄の死はここまで全てを変えてしまうのか。私という存在は、兄という存在を前にするとこれ程まで、蔑ろにされてしまうのか。
訳の分からない不明瞭な感情が私を食い尽くす。
「やだ、やだ、いやだ。やめて…父様やめて……」
いつの間にか足は動いていて、玄関の重たい扉を開け放ち、父の姿を探す。父に向かってこんな感情を抱いた事は初めてだった。私から小説をとらないで、切なる願いは私の手を引く。
「父様!!!」
しかしその時にはもう、赤い炎は燃え上がっていた。ゆらゆらと炎は揺らめく。その中にはいくつもの本があり、私の心臓はドキリと悲鳴をあげる。
「やめてください!!お願いします!やめて!!!」
炎の元へと駆け出した私を、いつの間にかやって来た母は止める。それでもいつまでも暴れる私をよそに、父は何も言わず家の中へと入ってゆく。まるで父に自分が見えていないかのような気分だった。
1つ、また1つと大好きな本は崩れていく。私はその中で1つの薄い本を見つけた、いや、見つけてしまった。
「アルバ、お誕生日おめでとう。ごめん、おれ、お金持ってないからさ、アルバの喜んでくれそうな物買えなくて……。だから、自分で作ってみたんだ。絵本。良かったら、読んでほしい」
幼い兄様の声が頭の中で浮かんでは消える。
今では私が何と返したのかさえ覚えていないけれど、嬉しかった。今までで1番嬉しい誕生日プレゼントだったことを覚えている。忙しい兄が、私のために書いてくれた絵本。大事に大事にとっておいた絵本は
今、炎の中で燃えている。
「いやぁあああああ!!!!」
無我夢中で母の手を振りほどき、真っ先に炎へと手を伸ばす。熱さも痛みも構わずに、その絵本の火を消そうと地面へ擦り付け、自分の手で鎮火に臨む。誰かの悲痛な声がする。それが自分の声だったか、はたまた母の声だったかはわからないが、その時の私にとってそんな事はどうでもよかった。
兄様のくれた絵本が、全てだったのだ。
炎が消えた後も絵本の焼け失われた部分は戻ってこない。兄様の書いた物語は帰ってこない。焼けてしまった自分の手はなんとでもなるだろう、しかし、この宝物は、これだけは、
その後の記憶は、よく覚えていない。
ー●ー
気付けば私は学園にいた。
知らない景色、知らない人々、知らない教科。
今まで通ってきた学校より何倍も大きい規模の学園は、どこか息苦しさを感じた。兄様はいったい、この地をどのような想いを持って踏み歩いたのか。
グランツ学園で過ごして数日、高校2年から編入してきたためか、それとも私は気味が悪いのか、誰も話しかけては来なかった。ならば私から話しかけるのかと言われるとそうではない。中学、高校とどこにいてもこのような環境は当たり前なのだ。友人など必要はない、私は兄様の為だけにあるのだから。
…しかし、兄様亡き今、私はどう生きればよいのか。
「キミがオノールさん?」
教室の隅で1人、誰にも邪魔されることなく宝石学の教科書を熟読していると、1人の男が話しかけてきた。ー後の親友となる男である。
私はその男をちらりとだけ見ると、すぐに視線を戻した。どうせこの男も、オノールの伝統に目をつけた衆愚の1人だ。
「返事がないとは悲しいな、俺はユリス。ユリス・レイモンド・バークリー。よろしくね?」
「……私はアルバ。それと、そんな家は知らない。」
我が家庭ではオノールの名は禁句である。他者にオノールを語っても良いと認められる人物は、工房の当主、つまり父のみなのだ。
当時の私は″そういうものなのだ″と理解していたが、今となれば父の強い固執によって生まれた独自のルールにすぎない。まったく呆れたものである。
「…あぁ、気を悪くしたならすまない。俺も家の事情に口を挟まれるのは苦手だからね、この話は無しにしよう」
男はそう言うと本当に家の話をすることはなかった。
ただただ隣でよくわからない話をし始めては、私からの反応を根気よく待つ。何度無視をしても、何度冷たい目を向けたとしても、この男は私に声をかけた。以前の学校でもしつこく付きまとわれる事は少なくなかったが、この男は別格である。諦めることを知らない。
鬱陶しいと言えばその通りだが、一線を超えてこない彼は嫌いではなかった。
いつの間にか私の前にこの男が現れ、私に語り掛ける。無音だった世界に其の声だけが聞こえていた。
そんな私に変化が訪れたのは、いくらか季節が流れた後の話。
職人になれと指示を受け学園に入学したものの、小説家の道を諦められない私は、父の命に背き、学園の図書館に引きこもった。
まるで自分の時間を過ごさないためかのように、本の世界へとのめり込み、寝る間も惜しんでは本を読んだ。
最初こそ本の内容に違和感を感じる事は多かったが、次第にその違和感はなくなった。そしてそれは、信じたくもない事実に変わっていた。
「……」
広く、静かな図書館でポツリと言葉がこぼれ落ちる
「あぁ…………そうか、そう………」
「宝石の子は、ユウェルは……」
「奴隷は…………人だったんだ」
本の世界で人々は愛を謳った。
奴隷に嘆く人がいた。
血縁者は神様ではない。
自由に生きる人がいる。
そう気付いた瞬間、目の前でこれまで殺してきた奴隷達の顔がフラッシュバックする。父の言葉が頭の中で反響し、母のナイフを手渡す手が見えた気がした。
「奴隷にも家族がいた」
フラフラと席を立ち、何度も躓きながら荷物も持たず出口へと向かう
「皆、生まれた時から役目をいただいていない?」
唇を何度も噛み、乾いた手指をガリガリと引っ掻く
「ユウェルは道具じゃなかった」
火傷痕など気にせず爪を立てる
「白と赤は神様の色じゃない…?」
滲む赤色も痛みも、声も、私の世界は真っ暗だ
「私も、兄様も、父様も、母様も、……」
「人間。」
私はただの、人殺し
ー*ー
それからの日々は見るも耐えないものだっただろう。本を読み、普通の世界を知ることで、自分自身の異常さに気づく。しかし、謝る相手はこの世にいない。これまで殺めてきた奴隷達も、神様ではなかったらしい兄も、気付いた時にはもう遅いのだ。
私は何度も癇癪を起こした。
石製の壁に何度も強く頭を打ち付け、生暖かい血液が流れると、その血液でさえ己の首を絞める。
両親によって作り上げられた偽りの世界は剥がれ落ちてゆき、その全貌を明らかにする。
食事もままならず、眠ることなどできたものではない。授業に出席できないどころか、目を開けることさえ出来ない時間が何度もあった。
さらに私は、その現実から逃れるように本の世界へ逃げた。いや、そこには僅かな期待があったのだ。両親が本当は正しいという、期待。
しかし、そんな願いは叶うはずもなく、本を読むたびに私は苦しみもがき、癇癪を起こした。
決して、死のうとしているのではない。
それよか生きなくてはいけないと強く思っていたが、精神とは裏腹に身体は言うことを聞かない。
いつもうすら笑みを浮かべていた薄い桃色の唇は、色を無くし、固く結ばれた。瞳は眩いほどに鮮やかで赤く、そして暗く濁り切ってしまった。
痛感はずっと前から麻痺しており、身体には一生残り続けるであろう傷がいくつもある。今もどこかで赤黒い血が流れている。死んでしまえるのなら、死んでしまいたい。もう私には、何もないのだから。
「アルバ」
声のした方を見ると、赤髪の男が救急箱を持って立っていた。
男は慣れた手つきで私の応急処置をする。その間も男は私に語りかけ、弟妹の話を自慢気にする。
数日前までは放っておいてくれと突き放していたが、私の方が先に折れてしまった。
自分は優しくされていい人間じゃないのだから、本音を言うとやめてほしかった。自分なんかが生きていて良いはずがない、しかし、人の命を殺めた私が早々に死ぬことも気が引ける。
生きたい、生きたくない、死にたい、死んではいけない、どれも違う。
私は…
「アンタ。もういいよ」
男は手を止めこちらを見る。
「私は、こんな自分の傷とは比べ物にならないほど、″人″を傷つけた」
「おかしいよね。いくら奴隷だからってさ、無慈悲に殺め続けて。なんの躊躇もなく、何人も何人も。そうするしかなかったって思うよ。思うけど、許されることじゃない。ただの人殺しだよ。」
「……」
男は僅かに目を開く。
「そんなヤツが今も生きてる。ハハッ…。幸せになんて一生なれないのにね。」
「…。私は刃が肉を貫く感覚も、濃い血の匂いも、すっかり慣れてるような人間だよ。アンタも私と関わらない方がいい。」
「………」
男はそれでも、作業を再開する。私ももう何も言わずに窓の外を眺めた。
「それでも俺は、アルバが生きてくれたら嬉しいよ」
男は突然、口を開いてそう言いだす。
何もわかってないくせに、そんなもの、ただの綺麗事じゃないか。
「…………。アンタには…関係ないじゃん。」
「まぁ確かにキミの言う通りなんだけど。でも思うくらいは許して欲しいな」
男は眉を八の字にして文字通り苦笑する。
「…ふん。」
家族も、小説も、夢も、自分のこれまで過ごしてきた出来事や時間も、全部壊されてしまった私にとつて、今さら他人にどう思われようとかまわない。
だからこの男に話してしまったのだろうか。
誰かに自分のことを話したのは、初めてだった
まだ白い雪は降ってこない。
ー●ー