『ミチ』(17話)気が付けば私は、1冊のノートを手にしていた。
随分とボロく色褪せていて、粗末に扱うとすぐに破れてしまいそうな、そんな、1冊のノート。紙の乾いた音が、ページをめくる度にこの世界に木霊する。
1枚1枚、ぴっしりと文字が詰められていて、私はそれを目で追っていく。張り裂けそうな想いが胸に堕ち、苦しくてたまらなくて、今すぐにでもこのノートを閉じてしまいたかった。けれどそんな思いとは裏腹に、私の手は止まらない。瞬きを忘れてしまったかのように、目は文字を追う。
____あぁ。これは、私が経験した記憶。
大学4年に進学してすぐ。どうしても実家に用があり、両親が工房に行っている時間を見計らって家の中に入った。すぐに用事は済んだものの、ふと兄の部屋が気になり、私は帰る前にと立ち寄った。
部屋の中は閑散としていて、ベッドとテーブル、イスと小さな戸棚だけが置いてあった。戸棚には何も入っておらず、テーブルの上にも小さなロウソク立てがあるだけ
部屋は少々ホコリっぽく、何気なく座ったベッドからは積もっていたホコリが舞ってしまう。私は目を瞑り、ムスッと顔を曇らせた。
(兄様が生きていた頃はチリ1つ無かったのに。)
これ以上ここに居続け、何となく淋しくなるのはやるせない。さっさと寮へ帰ろう、そう立ち上がると、やはりホコリが宙に舞う。なるべく息を吸わないように口元を袖で抑え、少し下を向く。
その時だった。私はベッドの下にひっそりと置かれた箱を見つけた_____
箱を開けると、中には十数冊の本が入っている。
何の本だろう…。特に何も考えず手に取り、表紙をめくる。中にはびっしりと文章が書いてあり、そしてそれはどうやら日記らしかった。日付は飛ばされる事無く毎日、毎日、欠かすことなく書かれている。___兄の全ての日記は、失われることなくここに大切に保管されていたのだ。
遠い存在であった兄様が、いったいどんな事を綴ったのか。私は迷う素振りもなくその綺麗な文字を目で追った。
ペラリ、ペラ
『xxxx.10.09__妹が花を摘んで来てくれた。嬉しい。母様と公園に行ったらしい。今日は気温が低かった。体調を崩さないか心配だ。』
『xxxx.03.24__妹が小説家になりたいらしい。前々から本を読むことが好きだったし、文章を書くのにも長けていた。応援したい。』
『xxxx.05.10__森で襲われてしまった。けどその時に白蛇が助けてくれた。白蛇のおかげで無事に帰ることができた。気を付けなければいけない。また会いたい。』
『xxxx.02.17__妹はどうやら愛されているらしい。父も母も、妹にだけ妙に優しい。何故俺は駄目なんだ。何が足りない。妹に何が劣っている。妹が羨ましい。妹が目障りだ、俺ももっと≨×*”』『xxxx.06.22__妹に慕われている。妹は俺のことが好きだと言う。俺は妹のことが />俺も妹みたいに自由だったら。なんでアイツばかり、父さんや母さんはきっと俺の事なんてもうどうでもいいんだ。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。アルバ、アルバ、アルバ.恵まれている妹の言葉を受け入れるだけの余裕なんか無い。目障りだ、消えろ。俺に関わるな』
『xxxx.04.06__ニュイの世話を怠る事が増えてしまっている。大学部に入ってから研磨の数が増えている。誰か世話係を見つけたい』
『xxxx.09.13__気味が悪い。妹が俺を見て笑う。狂っている。妹が見ている世界は歪んでいて、恐ろしい。妹を見る度にゾッとする。 俺は妹を愛せそうもない。』
『xxxx.12.28__家に行きたくない。両親は死んだ。俺に家族なんていないんだ。特に妹には×″アルバには もう 会いたくない』
涙は出なかった。
私は震える手でノートを閉じ、1冊1冊箱に戻す。1冊目から兄の最期の日まで、必死に目を通し、兄の生きた日々を、兄の言葉を呑み込んだ。明るかった外は既に薄暗くなっており、もうすぐ両親が帰ってくることを意味している。兄の最後のノートを傷つけることなく丁寧に箱へと入れ、元の位置に戻す。
両親に鉢合わせる前に早く帰らないと___
ほこりの事なんか気にせず、重たい足を立ち上がらせるため、ベッドに手をかけた。
ほこりは 相も変わらず舞った。
私は兄を愛していた。
世界で1番愛していた。
両親がどれほど嘘を吐こうと、私の愛は変わらない。私の世界は嘘にまみれていて、そこに真実なんて無かった。全部、全部、嘘だった。それでも、兄を想う気持ちは嘘じゃない。
私の唯一の真実_____それが兄様への愛だった
でも、私の愛は
兄にとって受け入れ難いもので、私の存在が、兄を、苦しめていた
兄の日記には、学園の事、両親の事、そして、私に対する嫌悪の日々が綴られていた。
「私……兄様にとって、……邪魔だったんだ」
「いらない存在だったんだ」
「兄様は私の事嫌いだったんだ…!」
「憎らしくて、顔も見たくなくて、妹と……思ってもらえてなかった」
「私の愛は、私の人生は、!兄様に……捧げたあの日々は、……全部、全部全部全部っ!!!」
「_________、。」
「……私は、いったい何のために生きてきたの…?」
私は何の役にも立たない。目障りで、鬱陶しくて、産まれてくる意味なんて無かった。いや、産まれてくるべきじゃなかった。私の愛は、私の想いは邪魔なんだ。相手を苦しめ、絶望に落とす。ただの重荷。___もう誰も好きになんてなれない、私は、やっぱり、誰かを愛しちゃ駄目なんだ
ー*ー
気付けば私は学園に居て、いつもと変わらない日々を過ごしていた。そこに私の心なんて無くて、思考も懺悔も、後悔も、何も無くて、ただ、時が経っていく。ずっとずっと上の空。ユリスに心配されても何だか他人事みたいに感じてしまって、ミリーに美味しいお菓子を貰っても、何の味もしなくて
何を喋っても、誰と居ても、何も感じなくて
そこに私はいないみたい。
でも、なんで
私なにか、悪いことしたのかなぁ。親の言うことを守って、逆らわずにいい子にして。勉強も人付き合いもちゃんとやった。兄様のことも愛してた。全部指示に従って、全部言う通りにしてきたのに
なんで両親は兄様を愛することを私に押し付けたの?
私の事が嫌いで嫌いで仕方なかったのに、なんで…。兄様はロケットペンダントに私の写真を入れてくれてたの……??
どうしてもう…貴方はここにいないの?
誰にも何も言えなかった。自分の中で整理が追いつかなくて、いくら時間が経ってもちっとも受け入れられなかった。どこにも投げられない爆弾を抱えている気分だ。
そして私は、その後…最悪な行動を起こした。
日記に幾度も登場した兄様の友人、”シエルくん”の元を訪れる
「…なんで兄様は、死んじゃったんだろう」
兄様を殺したのはいったいだれ?
「…シエル先生は、…………」
父様?母様?ホープ?
「シエル先生は卑怯だよね」
それとも、_____私?
「そう。卑怯だよ……兄様の隣に居ただけで結局何もしなかったじゃん、兄様の日記に書いてあったもん。散々兄様のことを大事な友達だとか言ってくるのに、シエルくんにずっと線を引かれてる。近づけない、友達だなんて口だけなんだ。ずっと俺は独りなんだって!!」
動き出した饒舌な口は止まらない。こんなのただの醜い八つ当たりだとわかっているのに止められない。シエル先生のせいだなんて思いたくないのに、先生よりよっぽど兄様を苦しめ続けたのは私なのに、認めたくなくて、そんなの認めたくなくてっ、先生なら。先生だから、兄様の友達だから、、
「勝手だね、シエル先生は勝手だよ。酷いよ………。酷い……………隣に居るだけなんて、隣に居れたのに、手を離すなんて。」
最低だ、私は最低だ。罪に罪を塗り重ねてる。こんなの違う。私じゃない、ユリスの隣に立ちたかった自分じゃない……。
そっか、
「なんで?なんで何もしてくれなかったの?なんで兄様の近くにいたのに、何も聞いてあげなかったの?気づかなかったの?なんで……なんで手を差し伸べてくれなかったの?シエル先生なら、シエルくんなら……聞けたはずでしょ……?」
そうじゃん
「兄様は…………ずっと頼る人を求めてたのに」
「………先生は、大事な人ほど独りにさせるんだ」
こんな醜い自分、兄様が嫌うわけだ
___お兄ちゃんの隣に立つことを許された貴方が羨ましかった。
私にとって、兄様の存在は心の拠り所。兄様を愛することが、ずっと変わらない、私に残された唯一の真実だと思っていた。
でも、私の存在が兄様を苦しめていた。私は兄様の味方だから、私の愛が兄様を支えていたらと思っていたのに。私の愛はただの毒でしかなかった。
受け入れられなくて、誰にも言えなくて
兄様が気を許し、頼りたかった相手が羨ましくてしょうがなかった。そして、それでも兄が独りだった事がつらくて、憤りを抑える事が出来なかった、だから私はシエル先生に
あれ、この後どうなったんだっけ
シエル先生は…
なんて言ったんだっけ
私は、
_____私は再び、目を閉じる。
ー●ー
慌ただしい朝だった。
街からはどこまでも続く血痕に不安の声があがる。病院には小柄な女性が運び込まれた。そのすぐ後に、奴隷紋の入った女性が運ばれて来る。
医者は言う。
「2人ともなんとか命は取り留めましたが、体力や精神的な問題もあるでしょう。特に、娘さんは…。あとは本人次第です。」
頬骨の出た男は「そうですか」と一言。
どこも物騒なもので、街に広がった噂は自然に消えていく。あの夜は世界の一瞬に過ぎず、私たちもまた、この国で過ごすたった3人というわけだ。
花束を抱え2人が眠る部屋へ向かう。
「ヒペリカさん。」
古い床から視線を前へと向ける。
私よりも背の高い赤髪の男が立っていた。
「バークリー殿。貴方も見舞いに来てくださったんですか。ありがとうございます。__妻を助けていただいたお礼も、まだきちんと出来ていませんでしたね。感謝申し上げます。」
赤髪の男はあの時、家の周辺で這いつくばっていた血だらけの妻を救ってくれた。アルバの方はカナリア様____学園の先生方に世話になったと聞いた。
「……。」
「…。」
互いに何も話さない。
アルバが今求めているのは、自分を殺そうとした父親よりも、この青年なのだろう。ならば、私は消えるべきだ。私はもう一度青年に深々と頭を下げると踵を返した。
「……ちゃんと食事はとってくださいね」
青年の声が廊下にシンと響く。ふらふらとした足を止め、少しだけ振り返った
「……」
思う事はたくさんあるだろう。私に対する不満も、殺意も、怒りも、全てを押し殺してそこに立っている。
「君がアルバを生かしたんだね。」
行き場を亡くした花束を抱え、私は静かな廊下を歩いた。
コツン。
コツン。
それから数日後、ヒスは目を覚ました。
一言目はこうだった。「アルバは、ヒペリカは、まだ生きていますか…?」隣に眠るアルバを見て安心するもつかの間、彼女は自分の容態も忘れ、ベッドから無理やり動こうと体を必死に動かした。それから少しして、ヒペリカは目もやれないほど痩せ細り、死人よりも死にそうな顔をしてヒスの前に現れる。ヒスはヒペリカを抱き寄せ、頭を撫でてやる。ヒペリカは泣かなかった。
ただ、ヒスをそっと抱きしめ、その腕を離さなかった。
「ねぇアルバ……また、逢えるわよね?」
彼女の瞳はまだ開かない。
_____2月7日
ー●ー
翌日、私はシエル先生の元へと向かった。
酷い事を言ってしまった、それは、ただの八つ当たりにしてはたちが悪く、ちゃんと先生に謝らなくちゃいけない。それが人として正しいこと
職員室に向かう廊下がいつもよりも長く感じる。このまま、もうシエル先生と会わないでいられたらどれだけ楽なんだろう。謝ったところで許してもらえるかわからない。シエル先生だって兄様の死に傷ついたはずなのに、私は今になって傷をえぐってしまった。
私が呼び出しても、来てくれないんじゃないか。
もう、会ってくれなかったらどうしよう
「顔も見たくない」「会いたくない」「存在が煩わしい」兄の日記に書かれた言葉が脳を過り、歩めていた足は止まってしまう。
シエル先生の前に姿を表さないことが、1番の償いになるんじゃないか。こんな最低な私なんか、いない方が皆……
「オノール?大丈夫か?」
ふ、と後ろから声が聞こえ、私はゆっくりと振り返る。教材を抱えたシエル先生が、タイミング悪くもそこに立っていた。
「シエル先生……」
先生の顔を見て、声を聞いて、私はどこか安心する。顔が熱くなり、涙が溢れそうになった。
会っちゃいけないと思っていても、私はこの人が好きなんだと知ってしまった。どんなにくだらない話でも付き合ってくれて、誰に対しても過ごしやすい空気を作ってくれるこの優しい先生が、どうしようもないくらいに好きなんだ。こんなに良い先生に嫌われたくない、これからも一緒に話がしたい。もう遅いかもしれないけれど、まだ、私も貴方の生徒でありたい。
「ど、どうした?体調が悪いのか?」
「ごめん、ごめんなさ、ごめんなさい」
「オノール、」
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい…」
「大丈夫だよ、大丈夫だから」
「ごめんなさい先生ごめんなさい、ごめんなさい……」
「___あぁ、、。許すよ」
涙でぐしゃぐしゃになり、呼吸もままならない私の背を、先生は優しくさすった。落ち着いた声でゆっくりと、私の謝罪に対して「許す」と口にする
「オノール、少し話そうか」
恐る恐る先生を見上げると、シエル先生の優しい瞳と目が合った。いつもは何を考えているかわからない表情が、今は困ったように微笑んでいた。
ー*ー
シエル先生はここで待っていなさいとひと言残し、職員室へと向かった。私は連日泣きすぎてしまった頭が痛くて、言われた通りその場にへたりこんだ。
嘘か本当かわからないけど、シエル先生は私を許してくれた。全部全部私が悪いのに、私は最低な人間なのに、__人を傷つけることしかできないのに。
「待たせたな、ココア好きか?」
シエル先生は鍵とココアを持って現れた。私はそろりと立ち上がり、先生からココアを貰う。
「ココア…あまり飲まないけど好きです」
「そうか、なら良かった」
「ありがとうございます…。」
「おいで。教室に入ろう」
私はシエル先生の後をついて行き、すぐ近くの教室へお邪魔した。どの教室も対して変わらないはずなのに、そわそわと居心地の悪さを感じてしまう。シエル先生はイスを動かし、こちらを向いて静かに座る。私も近くの席に座り、シエル先生を見つめる。
私から何かを話す訳にもいかず、とりあえずとココアを数口飲ませてもらう
「オノール、もう落ち着いたか?」
「…はい、ごめんなさい…。」
「ちゃんと謝れてすごいな、オノールは」
「…。」
「さっきはずっと、昨日の事について謝っててくれたんだよな?」
「はい…。私、シエル先生にあんな事言おうと思ってなくて、ほんとに、…その…。」
こんなの言い訳だ。言うつもりがなかったといっても結果として言っているのだし、思ってもない事は言葉に出てこない。全部私が悪い。
「正直、驚いたんだ。私は大事な人を独りにさせていたのかってね」
「ちがっ!その、口が滑って、シエル先生は、悪くなくて」
「いや、きっとそうなんだよ。君の言葉を受けて、昨日の夜に少し考えていたんだ、…どこかで腑に落ちた気がする。」
「…シエル先生」
「オノールが言ってくれるまで考えもしなかった。無自覚だったんだ。ありがとう」
何を言っているんだこの人は。なんでこの人はありがとうなんて言葉が出てくる?これ以上私を惨めにさせないでよ。そんなの、貴方の受け取り方が良いだけじゃない。ありがとうなんて感謝される資格は私に無い。それに、そんな受け取り方ができるほど優しいのならきっと、その分昨日の言葉に傷ついたはずでしょう?あんな八つ当たりなんか、してしまった時点で私が悪いのに、なんで責めないの?
ああ、やっぱり私は、皆に迷惑しかかけないんだ
「オノール」
「…はい」
「昨日のこと。俺は怒ってないし、あれで君のことを嫌いにもならないよ」
「なんで?どうしてですか?」
「そうする理由がない」
「理由って、シエル先生は私の言葉に傷つかなかったんですか?あんな八つ当たり受け入れちゃ」
「…傷ついたさ、…ノクスの死は俺も応えた」
シエル先生は、苦しそうに目を伏せる。
「それが怒ってもいい、嫌いになってもいい理由なんですよ。」
「でもな、八つ当たりってわけでもないんじゃないか?俺もノクスの関係者だ」
「八つ当たりですよ!シエル先生は、兄の自殺の原因になっていないのに。当事者の私が、あんな事を」
「オノール。ノクスの死は自殺だ」
シエル先生の声が教室に凛と響く。私は思わず話すのをやめて、先生の目を見てしまう。
「ノクスの遺言は見つかってない。誰が原因だなんてわからない。そもそも、自殺するくらい追い詰められていたんだ、ノクスに関わった人で原因にならない人はいないんじゃないか?」
「……違うんです、」
遺言はつい先日見つかった。お兄ちゃんの日記に書いてあった、誰に苦しめられてきたのか
「原因は、私なんです。」
だから本当に、八つ当たりなんです。
「……まさか何か見つかったのか……?」
「…昨日も言ったじゃないですか、、兄の日記にって」
シエル先生は少し目を見開き、コクリと喉を鳴らした。
「………ノクスの日記」
「兄の日記に書いてあったんです。私が兄にとって、害でしかなかったって」
「え、」
「私はどうやら兄にすごく嫌われていて、顔も見たくないって…。兄が生きることを拒んだ未来には、私と家族が居たんです…。きっとそこに先生はいない、兄を殺したのは私なんです……」
また、涙がこぼれ落ちていく。だんだん声は掠れていき、私はぎゅっと握りしめた両手を眺めた。
「……オノール…。」
こんな事を言われても、先生は困るだけなのに。シエル先生にはどうにも出来ない、無関係な話を聞かせてしまった。大学4年にもなって自立できていないうえに、先生の前でこんなに泣いてしまってる。申し訳なくてもう顔も見れそうにない
「目を擦るんじゃない、腫れてしまう」
白いハンカチ。
シエル先生はいつの間にか傍に来ていて、私の前で膝を着きハンカチを差し出した。花の刺繍があしらわれた、男の人が使うにしては少々可愛らしいハンカチに少し心が癒される。
でも私は優しくされるとダメなんだ、つらい現実から目を逸らしたくなってしまう。私はここに居ちゃいけないのに、好きな人達にこれ以上、また迷惑をかけたくないから、関わっちゃいけない。そう思わなくちゃいけないのに。
私はそろそろとそのハンカチを受け取り、握りしめた。先生はそのままの体勢で軽く頷き、ゆっくりと話し出す。
「それでもな、俺はオノールを嫌いにならないし、嫌だったなんて思わない。昨日オノールと話した事も後悔してないんだ」
「……」
「生徒の相談、弱音を受け止めるのが教師の役目だ。オノールは俺の生徒。俺が傷ついたかどうかなんて考えなくていい。オノールがそうやって助けを求めてくれて、嬉しいよ」
私は少しだけシエル先生の方を向いてみる。先生はこちらを軽く覗き込むようにしながら、私よりも低い目線になるよう体を小さく丸め、優しい眼差しでこちらを見ていた。
その瞳と目が合った瞬間、私の中で言いようもできない安心感が瞬く間に広がる。
「…シエル先生、酷いこと言って、ごめんなさい」
「謝ってくれてありがとな」
「八つ当たりも、ごめんなさい」
「仕方の無いことだよ、君も人なんだから」
私はこくりと、静かに頷く。
先生はゆっくりと立ち上がり、窓の方へと歩き出す
「それに、ノクスは君のことをただ嫌っていたわけじゃないと思うんだ」
「え?」
「あいつがまだ生きていた頃、君のことを聞いたことがある。」
シエル先生は窓をカラカラと開ける。優しい風が吹いた
「可愛くて素直で、自慢の妹だって言いながら君の書いた小説を読ませてくれたよ」
「うっ、うそ!!」
「嘘じゃないさ、俺が17、18の頃だから……ノクスが15くらいか?」
「……私が、9歳の頃。」
「いつも持ち歩いていたよ、君の書いた小説。」
「そんな、なんで?兄様は私の事が嫌いだって」
「当時の俺は深く聞かなかったが、ノクスは君の話をする時に、決まっていつもつらそうな顔をしていたよ」
先生は窓の縁に手をかけ、当時の事を思い出したのか、つらそうな顔をして笑った。初めて見る表情だった。口調も一人称も、なんだかいつもと違う。
_____それなのになぜだか、懐かしく感じる
「複雑な事情があるんだろうな…。だが、これだけは確かなことはある。」
「なんですか?」
「アルバちゃん、君の存在がノクスを支えていたんだよ」
暖かい風が頬を撫でた。
先生の、シエルさんの髪が風に乗ってなびき、カーテンがゆらゆらとはためいた
ゆら
ゆら
ー○ー
私は気付くと真っ白な空間にいた。
どこまでも続く果てしない白。温度も匂いも、何も感じられない空間。
これは何度も見てきたあの夢だ、あの少年がどこかに居るはず。今度こそ、傍に居てあげないと_
彼と約束したんだから…。
私は探す。柔らかい白髪の髪が揺れるその少年を。時間なんて存在しないこの空間で、私は時間も忘れ探し続けた。探さなければいけない。そう思わずにはいられない。
『お姉ちゃん、誰を捜しているの?』
はっと振り返れば、よく見知った少女が立っていた。
さらりとした白い髪におぞましい赤色の瞳。可愛らしいワンピースを揺らした少女は、私の方へ一歩、一歩と歩み寄る。
少女は可愛らしい笑みを浮かべているが、それは感情の見えない人形のような微笑み。可愛らしく微笑んでいるのに、どこか恐ろしい。赤い瞳はよどみなく私を見つめる。
こわい、だれか、ユリス…っ
『イジワルをするのは止めなさい』
少女の後ろからスラリと影が伸びた。
何も色を落とさなかったキャンバスのような白い髪。深海に煌めく赤い瞳。右の瞼には無数もの傷が彫られ、それは見るも耐えぬ痛々しさ。
「兄…様」
『久しぶりだね、アルバ』
兄は柔らかな笑みを浮かべた。小さな口は優しく弧を描き、するどい左目は慈しむようにこちらを見ていた。うれしい、こそばゆい、会いたかった、謝りたかった、いくつもの感情が、兄の微笑を見た瞬間、雪崩のように頭の中を埋めつくす
「兄様…っ、」
『ん。…おいで?』
兄様は両手を控えめに広げ、少し困ったような顔で私を迎える
「兄様!兄様っ、兄様ぁ……っ」
私は縋り付くように兄に抱きついた。
涙が兄様の制服を濡らす。忘れていた兄の声、兄の香り、兄の表情、兄の姿…。6年という月日は私から兄の全てを奪っていく
ずっと大好きだった、愛していた、会いたかった_____
『…アルバ、よく頑張ったな』
兄様は私の頭を優しく撫でる。生前の兄様はどんな人だったのか、私の目にはどう写っていたのか、今となってはよく思い出せないけれど
決して溶けることのなかった氷が、兄様の手で溶けていくような気がした
『1人にして悪かった』
いったいどれほどの間抱きしめあっていたのか、この真っ白な空間では時を感じない。私の呼吸が落ち着いたところで、もう一度兄様の姿を見るため手を離す。
兄様は大学四年生の、そのままの姿でそこに立っていた
「…毎年、兄様の命日にね、夢を見るの」
『うん』
「ここと同じ白い世界に私は居る。けど、今年は違った。ここに、小さな男の子がいたの」
『あぁ。』
「その男の子って、兄様だったんだよね?」
『……毎年、俺の命日に夢を見させていたのは俺だよ。けど、その子は俺じゃない』
「えっ!?ち、、ちがうの?じゃあ…」
『父様だよ』
小さな女の子は、夢で見た男の子の手を引き私のそばに来る。立っている男の子は記憶よりも痩せ細っており、ガクガクと震えていた。
でも、それよりも
「と、父様!?」
『うん、とーさま』
『そう。俺達の父さん、ヒペリカ・オノールの幼少期の姿だよ。』
「……、」
信じられなかった。私の中の父様は、いつも怒っていて、恐くて、王様のような人だった。__けれど、最近の父を思い出す。つらそうで、弱くて、何かに怯えているような、脆く、ボロボロな父の姿。
相反する2つの父の顔、どちらが本当で、どちらが偽りなのか、
私は、何を信じればいいの?
『…。目が覚めたら、話だけでも聞いてやってくれないか?』
「ぇ…。」
『父さんと、母さんの話を聞いてやってほしい。』
「………。でも、私こわいの、今まで2人に向けてきた怒りが、行き場を無くしてしまいそうで…どうしたらいいか…」
『アルバはそのままで良いんだ。あの人達がした事は変わらない。アルバは一生分以上傷ついた。それでいい。聞くだけでいいんだ、知っていてほしいだけなんだよ』
「…うん。ねぇでも、私、ここから目覚めたくないよ」
兄の袖を少しだけ掴み、細い腕をこちらに引き寄せる。
せっかく逢えたんだ、やっと、兄様と話せるんだ。本当の私と、本当の兄様。ここはずっと私が望んでいた世界。それなのに、目覚めたいだなんて思えない。
『アルバ…』
「私、兄様に伝えたい事がたくさんあるの、兄様の話をもっと聞きたいの、私には兄様しかいなかった!だけど兄様は、……現実の世界には、いないじゃない…」
泣き尽くした涙はまたポロポロと頬を伝う。
もう二度と会うことは出来ない、声なんて聞けない。死にたいわけじゃない、だけど兄様のいない世界がこわい、せめて、もう少しだけ一緒にいたい
兄様は困ったように微笑む。
『アルバ、よく聞くんだ。』
「…」
『お前はまだ死んでない。』
「……けど、」
『今ならまだ間に合うんだ』
「目覚めろだなんて言わないで?あと少し…、あと少しだけ一緒にいようよ」
兄様の温かい手が、私の頭を撫でる
『…手紙、読んでくれたか?』
「兄様…。……うん、読んだ、遅くなっちゃったけど、読んだよ……」
『勝手な事書いてごめんな?』
「ほんとよ…兄様のばか、、」
大学4年の春。シエル先生に兄様の日記を読ませようと、もう一度家に行った日。私は兄様の遺した二通の手紙を見つけた。私宛と、ネーロさん宛の手紙。6年間1度も封は切られていなかったようで、その手紙はずっと私を待っていたのだ。
『こんな俺を、愛してくれてありがとう』
「……。」
『もうあまり、無茶をするなよ?』
「…、、うん」
その時、真っ白な空間にパキリと音がした。兄様は何かを堪えるように深く、息を吸い、ゆっくりと肩を落とす。
兄様の綺麗な真紅の瞳に吸い込まれそうになる。
(綺麗な……赤。これが兄様の、赤色)
『この世界はすぐ崩れ落ちる。俺達は一緒にはいられないんだ』
「…そんな、、。でも、でも…!」
『はい。』小さな女の子は私にランタンを差し出す。中の蝋燭はゆらゆらと静かに揺らめいていた。
私がそのランタンを受け取ると、兄様は寂しそうな顔をしながら口を開く。
『このランタンを持って進めば、元の世界に帰れる。』
冷たい風がどこからともなくやって来て、白い世界にヒビが入っていく。
それは兄様との別れがすぐそこまで迫っている事を示していた。
「やだ、やだよ兄様」
『ネーロとシエルによろしくな』
「ねぇやだ、いきたくないよっ…お兄ちゃん!」
『ホープにも優しくしてやれよ』
「待って!やだ!!やだぁっ!!!」
女の子と男の子はいつの間にか居なくなっていて、白い世界には私と兄様の2人だけ。だけど兄様に、もう手は届かない。何度手を伸ばしても、私の腕は空を切る。白い世界は音を立てて崩れていき、次第に冷たい風がびゅうびゅうと吹き荒れる。
兄様はこちらに背を向け、光の方へと歩き出した_____
「お兄ちゃん!!待ってよぉ!!!!」
「なんでっ、やだ!お兄ちゃんといる!!」
「ずっと一緒にいる!!」
「ねぇってば!お兄ちゃんっ!!」
どれだけ声を張り上げても、立ち止まってはくれない。私の声は虚しく、崩落する世界に消えていく。
そうやってまたおいて行くんだ、先に行くんだ、やっと会えたのに、やっと対等に話せたのに、私は、
「待って……。__独りにしないでぇっ!!!!!」
ゆっくりと、兄様が振り返る
『アルバはもう、独りじゃないだろ?』
兄様は穏やかな笑みを浮かべ、私を愛おしそうに見つめた。そして、
_________それでも俺は、アルバが生きてくれたら嬉しいよ」
____だってアルバ、ほっとけないんだもん」
___さっき、アルバが走っていった時、咄嗟に手を掴んでおけば良かった。ねぇアルバ、……独りにして、ごめんね」
_____ねぇアルバ、いつ目を覚ましてくれるんだい…?、アルバ…………。」
ユリスの声が、聞こえた
手がほんのりと暖かい。私はそっと手を握る。
そうだ、私にはユリスがいるんだ。何も無くても、全てが変わったとしても、隣にユリスが居てくれる。それが、私の ”今を” 生きる理由。
__あんたはいつも、私を引き止めるんだから
『いい人と出逢ったな』
「………うんっ」
兄は安心したような顔をすると、再び光の方へと歩き出した
真っ白な世界はほとんど崩壊し、1つの眩い光を残して辺りには暗闇が広がる。私は兄に背を向け、ランタンを掲げる。一歩、足を前に踏み出した。
見渡す限りの果てしない暗闇、けれど、もう不安は感じなかった。私の行く先にユリスが待っている。私は、生きるんだ_______
焔は揺らめく ゆらり ゆら
___背の方から1度だけ、やさしく送り出すような、柔らかな風が通り過ぎていった