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    海老原

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    海老原

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    2022.2.27

    まる親天使パロこの世には、美しい容姿と真っ白な羽を持つ天使が存在する。










    街角の小さな酒場。清潔とは言い難い店内には、日銭を抱えた客がひしめき合い、安い飯と安い酒で腹を満たす。酒が入って気の大きくなった客達が騒ぐ中、両手一杯のジョッキを抱えた女が狭い店内を回る。高い位置で結わった髪を大きく揺らしながら、慣れたように客の間を抜け、隅のカウンターに座る二人の男の前へ乱雑にジョッキを置いた。声をかけようと口を開いた男を一瞥するに留め、注文だと呼びつける客の元へスカートの裾を翻して行ってしまった。
    出鼻を挫かれた草臥れた装いの髭面の男は、客の間を縫って歩く後ろ姿を舐めるように目で追っていた。布地から覗く足は生白く、ふっくらと柔らかに肉付いている。
    「あいつは無理だろ。やめとけよ」
     言葉と共に、隣に座る頬の痩けた男に肩を小突かれ、男は手元に視線を戻し、今し方来たばかりのジョッキに手をかけた。
     まるで唇を湿らせるように軽く口を付けただけの男は、重々しくジョッキを置いて話し始めた。
    「——お前、天使って知ってるか?」
     随分と神妙な面持ちの男を見て、痩身の男は揶揄うように答える。
    「ああ、羽の生えた人間だろ。童話とかに出てくる」
    「そうだけど、そうじゃねぇんだよ。天使は本当に存在するんだよ」
     天使はいる、そう息巻いて言うと、男は一気にジョッキの中身を呷った。口元に垂れた酒を汚れた袖口で拭って、馬鹿にしたような顔の痩身の男に向き直る。
    「お前、信じてねぇな」
     髭の男の眉が、不機嫌そうにぴくりと上がった。
    「当たり前だろ。何をどうやって信じろってんだ。天使だぞ? 居るわけねぇ」
    「それがマジな話なんだよ」
     店内の喧噪に消されぬよう、男は手招いて顔を寄せるように言う。安いアルコールの臭いが鼻を抜けた。
    「実はこの間俺、見ちまったんだよ」
     何が始まるのかと思えば正気を疑うような言葉を吐いた男に、不快な臭いも相まって痩身の男は顔を顰める。呆れて、何を見たのかと惚けてみせた。
    「天使だよ! 天使」
     男は口周りの髭を必死に動かしながら小声で吠え、話を続ける。
    「この街の金持ちじいさんの荷物が時々港に届くのは知ってんだろ。俺はこの間野次馬ついでに、ちょいと見物に行ったんだ」
     そこで一度言葉を切ると、興奮で口に溜まった唾を呑み込んだ。
    「その荷物の中に居たんだよ、天使が。檻に被せられた布の隙間から白い羽が確かに見えた。すげぇでかい羽だ。その辺の鳥とは比べものになんねぇくらい」
     身振り手振りで大きさを伝える男は、捲し立てるように一頻り話し終え、どうだと言わんばかりに痩身の男の反応を待った。鼻息も荒く、目も血走っている。目に見えて興奮しているようだった。
    その様子を見て、黙って話を聞いていた痩身の男は一つため息を落とす。目の前の男を落ち着かせるようにカウンターを叩いた。
    「あのな、白い羽って言ったって、この世に白い羽のある生き物がどれだけ居ると思ってるんだよ」
     鷲に梟に白鳥に、と指を折って数えてみせる。
    「この辺の鳥だって白くてでかいぞ。それだけじゃあ、天使だなんて言えないだろ」
    「いいや、あれは天使だったんだ」
     天使だという言葉を否定する男の声は、最早聞こえていないようだった。どれだけ論理だった批判を並べても、譫言のように天使だと繰り返す。
    「おい、お前おかしいぞ、どうしちまったんだよ。飲み過ぎたか? 今日はもう帰ろうぜ」
     一点を見つめてぶつぶつと呟く男の肩を叩くけれど、相当な力で叩いたつもりでも、やはり男は見向きもしなかった。
    苛立ちついでに男の頭を叩いてから、ひょろりと長い腕を上げて先の女を勘定だと呼びつける。その間も男はずっと、天使だ、あれは天使だったと呟いていた。



     果たして天使は本当に存在するのかと言えば、彼らは確かに存在する。
     おとぎ話の住人でも、天の使いでもないけれど、人間と同じ姿形に羽を持つ生物。他の命を必要とせずに生きていくことができ、人知を超えた生命力を持つ。
     人の立ち寄らない霧深い森の奥、決して人の目に触れないその空間で、彼らはひっそりと暮らしていた。
     一面に咲く花畑の中で歌を歌い、森の動物と戯れ暮らす光景は、人間にはまるで楽園のように映るだろう。そこだけが、彼らの安寧の地だった。

     その日フェリクスは、いつものように一人森へ出掛けた。
     花畑を抜け、木々の並ぶ入口を抜ける。慣れた道をどんどんと進み、背にしていた花畑もあっという間に小さくなって見えなくなった。
    通りすがる動物たちに馴染みのない顔が増え、どうやら、いつもよりも遠くまで来たようだった。
    今日はとりわけ天気がいい。朝露に濡れた草花が、日の光で一層輝いた。
    夢中になって歩き続けたけれど、少し疲れてしまった。この辺で休憩にしようと、フェリクスはその場に座り込んだ。
    出かけに摘んできた大好きな花の蜜を堪能し、寄ってきた茶色い野ウサギを膝に乗せて撫でてやる。温かな大地に体を預ければ木々の呼吸が聞こえた。
     ふと、フェリクスの耳に地面を通して小さな音が届いた。ぱきぱきと小枝を踏みつけるような音。それから僅かな話声。それらがフェリクスの居る場所へ段々と近付いてくる。
     フェリクスはハッとして身を起こした。頭の中に皆が何度も口にしていた言葉が過る。
    ——森へ行ってもいいけれど、霧の向こうへ行ってはいけないよ
     辺りを見回してみても霧はない。澄んだ空気が満ちる森は視界が良く、遠くまではっきりと見える。フェリクスは知らぬ間に、行ってはいけない霧の向こうまで来てしまったのだ。
     フェリクスのすぐ後ろで茂みを分ける大きな音が響いた。傍に居た野ウサギが遠くへ走り去る。フェリクスは、地面を蹴って駆け出した。
     無我夢中で手足を動かした。後ろから大きな声と忙しない足音が聞こえても、怖くて振り返ることもできない。ただ前を見てひたすらに走り続けた。肺が押しつぶされそうな程苦しくて、口の中に血の味が滲む。鋭利な枝や荊棘で傷ができるのも構わずに走り続けた。木々の密集した森の中では羽を広げることはできない。フェリクスは走り続けるしかなかった。
    「あっ!」
     突然フェリクスの体が地面に打ち付けられた。疲労で上がらなくなったフェリクスの足が、地面に突き出した木の根に躓いたのだ。バランスを崩して、フェリクスは走っていた勢いのままに地面へと倒れ込んだ。
    思い切り前面から転んだために、手のひらや膝がじんじんと熱を持って、焼けるように痛む。小さな擦り傷や切り傷以上の無視できない痛みに、思わず顔を顰めた。気に入りの白いワンピースも、走っている間に汚れて裂けてしまった。
     走るどころか、起き上がる気力さえフェリクスには残っていなかった。一体どれくらい走り続けたのだろうか。忙しなく上下する胸が、失った酸素を必死に取り入れる。
     その場に転んだまま、フェリクスは膝を抱えた。
     どうして、言いつけを忘れたりなどしたのか。怖い。帰りたい。
     小さくなって息を殺すけれど、意味の無いことだとわかっている。あの声はもうすぐそこまで来ている。直に見つかってしまうだろう。
    「おい、見つけたぞ!」
     大きな声がして、地面を踏みつける音と共に、足音がばたばたとフェリクスに近付く。しっかりとフェリクスの傍で止まった音に、やはり自分を追っていたことを悟る。天使である自分の価値を知らないわけではない。消えた仲間を今でも覚えている。ただ、どこか他人事のように思っていただけで。
     足音の主は、フェリクスを取り囲んで何事かを話しているようだった。怪我だとか暴れるだとか、フェリクスにはよくわからない。
     その内、一人が横たわるフェリクスの体をつま先で小突いた。腰の辺りに鈍い痛みが走るけれど、恐怖で体は動かない。フェリクスは一層強く目を瞑った。
    「このまま担いで行くか」
     反応を示さないフェリクスを見て、男が話し始めた。
    「手足くらいは縛った方がいいだろ」
    「とにかく早く車に乗せよう。誰かに見られたら面倒だ」
     話し声が止んだかと思うと、男はフェリクスの体を乱雑に転がして、手早く縄で縛りあげた。無理やり後ろ手に縛られて、無骨な縄がフェリクスの肌にきつく食い込む。無理な体勢で縛られたことで関節が痛むけれど、ここで声をあげればどんな扱いを受けるかは想像に難くない。
    フェリクスにできることは、自身を待ち受ける運命を大人しく受け入れることだけだった。



    ぼんやりとした意識の中、遠くでまた話し声が聞こえた。森とは違うひんやりとした無機質な平面が体を支えている。どうやらあの後、フェリクスは意識を失っていたようだった。
    重い瞼を上げると、久方振りの明るさが網膜を焼いた。痛む体をゆっくりと起こし、見慣れぬ空間を見回した。
    背中を向けて立っている小太りの男と、それから黒尽くめの男が二人鉄格子越しに見える。見回した部屋は豪華な装飾がなされ、壁には数えきれないほどの書籍が並んでいた。
    話し合っているらしい彼らの空気はピンと張りつめた糸のようで、互いの雰囲気からも話し合いが上手くいっていないことは明白だった。怒鳴り散らす小太りの男の、苛立ちの混じった声音が、フェリクスの鼓膜にきつく響いた。
    「おい、これはどういうことだ!話が違うぞ!傷だらけだぞ、全くッ」
     小太りの男は、掴みかからんばかりの勢いで、二人の男のうち背の低い方へ捲し立てた。手に持ったワイングラスがわなわなと震える。鮮血のように色濃い液体が、グラスの縁に当たってとろりと伝った。
    「捕まえようと追いかけたら逃げるに決まってる。無傷でなんて、はなから無理な話だ」
     怒りに震える男を諭すように、背の高い男が間に入った。冷静な声音の裏に、静かな怒りが垣間見えた。
    「何のためにお前らみたいな汚い連中に高い金を払ったと思ってるんだ! 明日のパーティーで飾る予定だったのに、お前らのせいで台無しだぞ!」
     それでも怒りの収まらないらしい男は、一頻り喚き散らしてから手の中のグラスを重厚な机に置き、代わりに茶色い革製の袋を手に取った。肉付きのいい男の手でも片手では持ちきれない袋は、中の重みでふにゃりと形を変えていた。歪んだ袋の口を開くと、男は徐に手を入れ、掴み出した丸い金貨を机に置く。重みのあるそれは、机に当たると大きな音を立てた。
     何度か金貨を掴み出したことで幾分か小さくなった袋の口を閉じ、男は背の高い男の足元へそれを放った。鈍い音を響かせて落ちた袋と、投げてよこした男とを、怪訝そうな顔で見比べる二人。
    「とにかく、こんな状態なら提示した金額は払えん。半額だ」
     彼らが口を開くより先に、男は追い払うように手を振りそう言い放った。
    「おい、それこそ話が違うぞ。こいつを捕まえるのにどれだけ張ったと思ってるんだ。満額だって、相場に比べたら随分安いはずだ」
    「……おい! 入ってこい!」
     背の高い男が即座に言い返すが、男はその言葉には答えず、机の上のベルを鳴らして使用人を呼びつけた。一瞬訪れた静寂と、そこに響く控えめなノックとは対照的に、入ってきたのはボディーガードかと思われるような屈強な男だった。一連のやり取りを息を潜めて窺っていたフェリクスも、怪物のように大きな背丈と厚みのある体を見て、一層縮こまった。フェリクスの細い体など、片手で締め上げてしまえそうだった。
    突然の劣勢に、小太りの男へ距離を詰めていた二人も後退った。こうなることを見越して、扉の外で待たせていたのだろう。
    「こいつらを私の屋敷から締め出せ! 二度と敷居を跨がせるな!」
     男が短い腕を必死に振りながら言いつけると、もうすっかり大人しくなった二人を連れて、屈強な男は出て行った。
    「全く……卑しい奴らだ」
    去り際にしっかりと袋を拾って出て行った男達に蔑んだ視線を向ける男。疲れたように肩を揉んでから、机の上のグラスを呷った。
     フェリクスは男の動きから目を離さないでいたが、ふいにフェリクスを捕らえた視線と交差する。慌てて立てていた膝に顔を埋めた。
    緊張して早鐘を打つ心臓の音と、フェリクスに向かって近付いてくる革靴の音だけが鮮明に聞こえる。
    「おい、顔を上げて見せてみろ」
     フェリクスを囲む鉄格子の傍まで来た男は、縮こまるフェリクスを見下ろして顔を見せるように言った。先程のような怒気を孕んだ声音ではないけれど、高圧的な態度だった。
    頭上から降り注ぐ声に、まるで体が押し潰されるような心地がした。フェリクスは顔を上げずに、できるだけ小さくなれるよう羽も畳み込んだ。
    「そうしていては鑑賞できないだろう」
     何が面白いのか、フェリクスの反応を見て男はしゃがれた声で笑う。望んだ物が手に入って幾らか機嫌が良くなったのか。フェリクスが今まで聞いたこともないほど、耳障りな声だった。
    「お前らは花の蜜が好物なんだろう。その傷だらけの体では困るからな。これでも食べて明日までに治せ。天使の治癒力なら簡単だろう」
     フェリクスが怯えていることに気付いていないのか、興味もないのか、男は得意気に話し続ける。部屋の隅まで歩いていくと、大きな壺に活けられた花束を掴んだ。
    とても美しい、色とりどりの大輪の花だ。花が魅せる美しさはほんの一時で、きっと明日になれば、新しいものに取って代わられてしまうのだろう。少し萎んだから、花びらの色が悪くなったから、そんな他愛もない理由で捨てられてしまうのだ。散っていく花が魅せる儚さに、心を動かすこともなく。
     ぼたぼたと水を滴らせながら花束を持ってきた男は、格子の隙間からフェリクスの足元へそれを投げ入れた。落ちた衝撃で僅かに散った花弁を、フェリクスは横目に見る。瑞々しさを湛える花弁は、美しくも泣いているようだった。
    「それから、そのボロ布のような服も脱いでおけ。見苦しくていかん」
     フェリクスの纏うそれは、ボロ布なんかではないのに。白くて、ふわりと広がる裾が好きだった。一番のお気に入りだったのに。この一件のせいで、あの頃の美しさは失われてしまった。
    俯いたまま悔しさに歯噛みするフェリクスを残して、男は部屋を出て行った。
     段々と足音が遠ざかって、扉を閉める重たい音が聞こえてから、フェリクスはようやく顔を上げた。浅い呼吸ばかり繰り返していたからか、軽い眩暈を覚える。部屋を見回して男が居ないことを確かめて、そっと体を横たえた。
     ひんやりとした金属が肌に触れて、それからじんわりと体温に馴染んでいく。
    男が何者なのか、ここがどこなのかはわからない。森の中で追われ目を覚ませば、恐ろしい男が自分を我が物のように扱っている。後悔と恐怖と絶望と。フェリクスの胸の中にはそれだけだった。
     脇に捨て置かれた花束を抱き寄せて目を瞑る。噎せ返るような強い芳香が、フェリクスの肺に満ちた。



    「おい、起きろ」
     次の日、フェリクスの眠りを覚ましたのはあの男の声と、ガンガンと金属を叩く音。これ以上ない程に最悪の目覚めだった。胸に抱いた花束は、水気を失ってすっかり萎んでしまっていた。
     男の革靴が鉄格子を蹴る度に、振動が地面を揺らす。
    わけのわからない恐怖心で格子を挟んだ目の前にいる男から距離を取ろうとすれば、伸びてきた腕に髪を掴まれた。趣味の悪い指輪で飾られた指が、柔らかなフェリクスの髪を乱す。
    そのまま格子の傍まで体を引き摺られて、男の指に絡んだ髪で皮膚が引き攣った。痛みに顔を顰めるけれど、男はフェリクスを抑えつけたまま離そうとしない。
    「離せッ……‼」
    「大人しくしていろ、クソ」
     自身を掴む男の腕に爪を立てて暴れるフェリクス。手も足も夢中で動かした。体を丸めなければ眠れないような狭い檻の中で、フェリクスにできる精一杯の抵抗だった。
    フェリクスを抑えつけたまま、男はもう片方の手を背中の真っ白な羽に伸ばした。フェリクスの動きに合わせて羽が僅かに開いた隙に掴み、力任せに一本むしり取る。根本から無理やり引き抜かれる感覚に、痛みで声が漏れた。
    「手こずらせるな」
    フェリクスは痛みで熱を持ち始めた羽を抑える。今までに羽根を抜かれたことなど勿論無い。そこにぽっかりと穴が開いてしまったような感覚がしたけれど、視線の先の羽は変わらず美しいままだった。
    「こんなに傷だらけでは、今日のパーティーで出すのは無理だからな。これだけ貰って行くぞ」
    男は大人しくなったフェリクスから手を離すと、手に入れた真っ白な羽根に唇を寄せた。激しい嫌悪感に襲われて、フェリクスの体が急激に冷えていく。 
    「お前ら天使は美しくなければ意味がないんだぞ。そのことをよく肝に銘じておけ」
     フェリクスの羽根をジャケットの胸ポケットに挿し、男は大手を振って出て行った。



     部屋に闇が落ち、すっかり夜の気配に飲まれた頃、男は再びフェリクスの元へ現われた。
     フェリクスはすることもなく、窓から小さく見える月を眺めていた。逃げ出そうと足掻いてもみたけれど、頑丈な檻はフェリクスの力でどうこうできるものではない。結局、許された僅かな空間の中で置物のように大人しくしているしかなかった。
    男が入ってきたことで突如明るくなった部屋に震駭し、身を強張らせるフェリクス。恐る恐る視線を向けた先、扉を開けて入ってきた男はなにやら足取りが覚束ないようで、燕尾服を着た使用人らしき男に支えられながら歩いていた。
     酒が回っているらしい男は、焦点が合っているのかいないのか、フェリクスの方を見てはいるが視線が合うことはない。その代わりに使用人の方がフェリクスを見た。
    撫でつけられた黒髪に糊の利いたジャケット。脂ぎった男とは違い、清潔さと品の良さを感じさせる装いだが、フェリクスを見る視線はどこまでも冷たい。命も意思もあるフェリクスが無理矢理捕らえられていることに対して、一切の感情の揺らぎも無いようだった。
    「旦那様、今宵はもうおやすみになられた方が宜しいかと」
    「いいや。あれを一目見てからにするぞ」
    使用人の男が止めるのも聞かず、男はふらふらとフェリクスへ近寄った。
    使用人の言葉で男がこの部屋を去ることを期待していたフェリクスだが、その想いに反して、男の意思は揺らがないようだった。
     腹の肉を押し分けて檻の前にしゃがみ込んだ男に、フェリクスは頑なに顔を見せようとしない。小さく小さく丸くなって、自身を守るように膝を抱える。
    「なんだ。何が不満なんだ。この檻か」
    いつになく機嫌の良さそうな男は、パーティーでフェリクスの羽根を見せびらかし、人々からの羨望の眼差しで悦に浸っていたのだろう。頑ななフェリクスの態度に怒るわけでもなく、ニヤついた笑みを張り付けて問いかける。
    「そんなに嫌なら、ここから出してやってもいいぞ」
     その言葉に、フェリクスは思わず顔をあげた。
    「ほう。出たいのか」
     沈黙と共に、窺うように男の目を覗き込んでいたフェリクスが、ゆっくりと頷いてみせる。この機を逃せば、一生このままかもしれない。この檻から出るまでは、すべての言動に細心の注意を払った。
     フェリクスの態度を見た男は、使用人に指示すると、檻を開けるように言った。
    「ですが……」
    「構わん。開けろ」
     躊躇いを見せる使用人に反して、男は檻の前にしゃがみ込んだままフェリクスが出てくるのを今か今かと待っている。
     悪手だな、とフェリクスは思う。そもそも男が酒に呑まれていなければ、こんな機会訪れることは無かっただろう。美しい見た目をしていたとしても、フェリクスは謂わば、手負いの獣。飼い慣らした気になっているのは、この空間でこの男ただ一人だけだった。
     胸元から取り出した鍵を持って、使用人が檻へと近付いてくる。鍵穴へ鍵を差し込んだその男とフェリクスの目が合った。温度の無い眼差しの奥の、忠告とも言えるような視線に気付いたけれど、フェリクスが大人しく従うはずもない。所詮目の前の男は、事が起こるまで動くことは許されない。フェリクスを止める理由にはならなかった。
     重たい音を立てて開かれた扉と、訪れた開放感。それよりも、フェリクスの心は緊張で満たされていた。
    「出てきてよく見せてみろ」
     今朝方、フェリクスを押さえつけた手を伸ばす男。鼻の先へ触れそうな手を払いのけ、フェリクスは男に向かって飛び掛かった。
    「——」
     フェリクスの奇行に驚いて声も出ない男は後ろへと倒れ込み、そこへフェリクスは馬乗りになる。肥え太った首に手を回し、力を込めた。
    「ぐぅっ——」
     苦しそうに藻掻く男と、駆け寄ってくる使用人。檻から出せばこうなるであろうことは予期していただろうが、羽を広げることでその動きを遮る。いつぶりかに広げられた羽は白く輝き、この場にそぐわないほど美しかった。
     例えこの行為によって殺されることになったとしても、あのまま何もせず檻の中で死を待つよりずっといいと、フェリクスは考えていた。フェリクスの力では、男を絞め殺すことは叶わないだろうが、最期に一矢報いるだけでも良かった。
     必死に抵抗する男にフェリクスが気を取られているうちに、背後に回り込んだ使用人が動きを封じる。力が弱まった隙に、男はフェリクスの下から這い出した。背後の男を羽で押し退けようとするけれど、細身に見えても、フェリクスの力ではとても敵わない。そのまま床に押さえつけられてしまえば、身動き一つとれなかった。
    目の前の光景を暫く呆然と見ていた男だったが、あまりの衝撃に酔いも醒めたのか、はっとしたように身を起こすと口を開いた。
    「なんて野蛮な生き物だ! お前の首と羽だけを切り落としてやってもいいんだぞ!」
     男は激しい怒りを感じさせる足運びでフェリクスの元まで行くと、床に額をつけたままのフェリクスを何度も踏みつける。固い革靴の底が当たる度に、フェリクスは鈍い声をあげた。
    「旦那様、そのような行為は昨今社交界でも問題となっておりますので、どうか今一度お考え直しを。本日も、ジョーンズ様はあまり良い顔をされておりませんでしたし……」
    「ならばこいつをこのまま置いておくつもりか 私を殺そうとしたんだぞ!」
    「でしたら、次のパーティーまで庭の物置小屋に置いておくのはどうでしょうか。庭師に見させておけばお手間もかからないかと」
     焦ったような使用人の言葉に、男はフェリクスを踏みつけていた足を止めた。
    「あの小屋でしたら窓も無いですし、外から鍵をかけることもできます。庭師以外の出入りもありません」
     未だ是と言わない男に言葉を続ける。
    「庭師は真面目だけが取り柄のような男です。信用に値するかと」
     その言葉にようやく反応を示した男は、一度大きく息を吐いてフェリクスから足を離した。
    「……ならばそうしておけ。次のパーティーまでに大人しくなっていなければ解雇すると伝えろ」



     トーリスは真面目で素朴な男である。
     生まれ育った田舎を出て、街の小さな花屋で手伝いの代わりに住まわせてもらっていた時、この屋敷の庭師の募集を偶然見かけた。トーリスは特別草花に詳しいわけでもなく、庭師の技術があるわけでもなかったが、植物は好きだった。植物はいつだってトーリスの孤独な心を癒やしてくれた。
     花屋の主人は決して優しくはなく、ほとんどの仕事をトーリスに押しつけ、雀の涙ほどの賃金と物置のような寝床を提供するだけだった。夜遅くまでトーリスが冷たい水仕事をする傍ら、僅かな売り上げのほとんどを注ぎ込んで酒を飲み回っているような男だった。元々両親が遺した店を仕方なく継いでいたものが、代わりに働く者ができて都合が良かったのだろう。
     新たな環境を求めて藁にもすがるような思いで駆け込んだ屋敷の仕事は、殊の外あっさりと採用された。
     事の経緯と辞めること、今までの感謝を伝えたトーリスを店主は口汚く罵った。この店はどうする、今までの恩を忘れたのかという言葉に、愛想笑いを浮かべて頭を下げることしかできない自分を、トーリスは憎らしく思った。店など店主である男がやればいいのだし、男がトーリスにしてきた仕打ちは果たして恩という言葉に括れるものなのか。そう思っていても、トーリスは事を収める方法などこれしか知らない。ただ自分を殺して、男の言葉に頭を下げ続けた。
     屋敷での生活が始まると、トーリスの環境はより良くなった。かのように思われた。それなりの賃金と隙間風の吹かない寝床は手に入ったが、トーリスを取り巻く根本的な環境は何一つ変わらなかった。
     トーリスに雑用を押しつけても笑って受け入れることが屋敷中に知れ渡るまでに時間はかからなかった。
     トーリスの1日は庭師の仕事とそれとは関係の無い仕事で埋め尽くされた。毎日パンとスープをかきこみ、夜になれば泥のように眠って僅かな時間で体を休めた。そんなトーリスに優しくする者は屋敷の中にもおらず、やはりここでも、植物と触れ合っている時間がトーリスの唯一の楽しみだった。
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