優しい時間 それは何気もない、いつもの朝。
葵はシャツのボタンを閉めるとタンスにかかっているネクタイを見る。そのうちの2本を手に取った。鏡の前でそれぞれを合わせるがよく分からない。
「千歳ー」
「なに?」
「どっち?」
葵は両手に違う色、柄のネクタイを持ち、千歳に見せる。
千歳は訝しげに葵の顔を見つめると、1つため息をついてから葵の姿をまじまじ見た。
「……どちらも違うわね。そのシャツとそのスーツなら」
千歳は葵のネクタイがぶら下がっている棚から、ひとつ選びとる。
「はい、こっちの方がいいと思うわよ。と言うか、少しは自分で選びなさいよ」
「お前が選んだ方が評判いいんだよ。さすが元お嬢様」
「元じゃないわ、現役よ。現役!」
そう言いながらも、千歳は手際よく手に取ったネクタイを葵の首に巻き、締めていく。
「元だろ」
葵は千歳の腰に手を回し、優しく自分に引き寄せる。
「今は奥様じゃねぇか」
誰の、とかは言わない。でも得意気な目で千歳を見つめた。
「まあ……そうだけど……」
頬を紅く染めながら、千歳はネクタイを整える。1歩後ろにさがろうとするが、葵が離してくれなかった。
「ちょっと」
「もうちょい」
千歳の腰に回っている腕に力が込められ、更に引き寄せられる。
居て欲しい位置に彼女が収まると、葵の手は彼女の背中と頭を押さえ唇を奪った。
「んんっ……」
触れ合うだけの口付けから、角度を変えて彼女の唇を開かせ、ゆっくり口内に舌を這わす。
「あ……おい……」
もうダメだと言うように、千歳が葵の胸元を押し返す。
「ネクタイ崩れちゃうでしょ。これ以上は我慢してよ」
そう言われてしまうと、葵は不服そうに唇を尖らせた。千歳はそんな葵に気がつきながらも、気にしないようにネクタイを整え直す。
満足気に微笑む千歳は、葵のアクセサリーボックスを開き、その中から一つのネクタイピンを取ってそっと飾り付けた。
このネクタイピンも2年ほど前に千歳が葵にプレゼントしたもので、シンプルながらもセンスの良いデザインだ。葵も気に入っている。
「他の色のシャツやスーツなら別のでも良いんだけれど、基本はこれが一番似合うわね」
千歳はポンと葵の胸元を手のひらで軽く叩くと満面の笑みで微笑んだ。
「うん、格好良い」
はたと、2人は止まる。
「へー? 今なんて言ったんだよ、千歳」
葵は口の端を上げながら千歳を見つめる。
千歳は茹でダコ状態のレベルまで顔を赤くし、そっぽを向いた。
あまり近すぎると千歳が直してくれたネクタイが崩れてしまうので、顔だけを千歳の耳元へ寄せる。
「普段、お前が言って欲しいってねだる言葉は言ってやってるだろ。たまにはオレのワガママもきけよ」
そう言われてしまうと返す言葉もない千歳は潤んだ瞳を葵に向ける。
嫌な訳では無いのは分かってる。照れているだけなのだ。そこがとても可愛いのだが、愛おしい妻が滅多に言わない言葉をちゃんと聞きたい。
「ちーとせ」
意地の悪い笑を千歳に向けながら、普段は聞かせない、愛しさを込めた甘い声で囁いた。彼女がそれに弱いことを知っているから。
涙目で真っ赤に頬を染めた千歳が眉を八の字に葵を見上げる。
ああ、ちくしょう――
葵にはこの表情がどうしようもなく可愛いと思ってしまうのだ。
とは言え、あまり虐めすぎると泣かせてしまうかなと、残念だが、そろそろ引こうかと思った矢先だった。
「わたしの旦那様が格好良いって言ったのよ!!!」
殆ど不意打ちだった。
千歳は変わらず真っ赤になったまま、葵の頬に彼女の唇があたる。
「これでいいでしょ」
葵が聞きたかった言葉を、しかも「私の旦那様」の言葉と頬にキスなんておまけを付けられてしまい、今度は葵の方が顔が熱くなった。
葵は冷静を装いながら千歳を優しく抱き締め、彼女の額に唇を落とす。
「お前、ズルい」
こんなの完全降伏以外のなにものでもない。
「葵……」
「ネクタイは後で直せよ。今はお前を抱きしめるのが最優先だ」
自然と唇を重ねる。
10年前に出会った頃は、顔を見合わせれば喧嘩ばかりしていた。彼女の意識が、いつの間にか葵を捕えられ、葵も彼女を意識するようになっていた。
想いを伝えたくても互いに素直じゃないから時間がかかった。それでも、惹かれ合い、求め合い、そして実らせた。
千歳の母親に認めてもらうのは特に大変だったけれど、2人で乗り越えたから今がある。
唇を離すと、葵は千歳の額に優しく自分のそれを重ねた。
「好きよ」
「好きじゃ足りない」
不貞腐れたような表情を見せると千歳はくすりとあきれたように微笑んだ。
「愛してるわ、葵」
葵は満足気に笑うと応えるように彼女の頬にキスを送る。
「愛してるよ。オレの可愛い奥様」
それは、いつもの時間の優しい時間。
Fin