恋は闇皆が寝静まったバスの中、2人掛けの席に座った私の炎だけが壁に色を落として揺らめいている。
不寝番の日の密やかな楽しみ。彼の来るのが待ち遠しい。
背中越しに小さく扉が閉まるのがわかった。眠る時の格好にしては似つかわしくない、硬い革靴の音がゆっくりと乱れなく近づいてくる。
「管理人様」
<うん。おいで、ムルソー>
これがいつものお約束。窓の方につめて、彼に席を譲る──いや、元から彼の定位置であるその場所を返すのがいつの間にかできていた習慣だった。
今日は誰が突っ走っただとか、夕飯の何がおいしかっただとか。他に誰もいないのをいいことに、ただとりとめのないことを話すこの時間が私はとても気に入っている。ムルソーも問えば答えるばかりか、最近は抱いている疑問や彼の持ちうる情報についても少しずつ教えてくれることが増えてなかなか嬉しい。
気がつくと左の手の甲があたたかい。彼の大きな手がいつの間にか重ねられていて、視線をあげれば炎のうつったエメラルドが文字盤の中心あたりを見据えている。
それがなんだかとても綺麗で思わず身をよせれば、彼の顔も大きく近づき額同士が触れあった。
首筋を這う無骨な指にくいと顎をひかれ、柔らかな唇が針を留める。間近で揺れる前髪で際立つ存外幼い顔立ちは、日頃のポーカーフェイスの奥に潜む可愛らしい彼の甘えをこうして許す理由の一つでもあった。
針がまた時を刻みだすと共にほうと息をついたムルソーの、やや水気をはらんだ宝石が先程よりも濃く炎の揺らぎを宿している。
<……今日はだめだよ?>
眉間を小突いてやれば、切ない吐息を僅かに漏らして彼は従順にも身を退いた。
<次、不寝番じゃない時にね>
「はい。……では、せめて」
<え? わ、わっ>
太ももと背中に彼の両腕がまわり、そのまま膝の上まで引き上げられて、腕に、お尻に、腿に、彼のじんわりとした熱を感じる。
「夜間は……冷えますから」
<ふふ、あったかい。……困ったな、眠くなっちゃうよ>
「眠気が生じたのであればそのままお休みになっていただいて構いません。お目覚めになるまで、不寝番は私が行います」
業務的な言葉とは裏腹に、ムルソーから与えられる甘いスキンシップが心地いい。頭頂部の縁に押し当てられた唇はそこを定位置と決めたようで、かたい彼の手の数少ない柔らかな場所、親指のつけ根のところがベゼルと首を緩やかに愛してゆく。
<じゃあ……お言葉に甘えて、ちょっとだけ……>
「はい。……おやすみなさい、管──」
言うと思った。言葉のために少しだけ作られていた隙間をぐいと頭を押しつけて埋め、わからずやの口を無理矢理塞ぐ。
<…………やだよ、ムルソー。おやすみのキスをするときくらい、名前で呼んでくれなくちゃ>
「現状許可されているのは──むぐっ」
もう一度、今度はちょっとだけ眠気で弱った頭突き風味。みなまで言うな。本当にそういうところはびっくりするくらいに忠実で、面白くないくらいに厳密だ。
<……『恋人』として一緒にいるときは、いいの>
「わかりました」
ああもう、ずるい。私にしか見せないってわかってる。嬉しそうに目を細めて微笑むだなんて。雰囲気が台無しになってしまって拗ねた気持ちさえどこかに飛んでいってしまう。
「では……」
黒手袋の指先へキスが落ちる。抱えなおされてより密着したその逞しい胸に頭を預ければ、規則正しい鼓動の音が聞こえてふっと力が抜けた。同じように首元を優しく愛されて、今度こそ抗えない眠気の波がやってくる。
<じゃあ……お願いね、ムルソー……>
「はい。おやすみなさい、……ダンテ」
針の音と心臓の音が溶けあっていく微睡みは、どうしようもないくらいに幸せだった。