説教が必要なのは貴女人間というものは、本当に驚いたとき何も声が出ないのだと知った。それを教えてくれたのは七海くん……の、高い鼻にさり気なく塗られていたライトベージュのコンシーラーだ。
「どうしましたか、人の顔を見るなり絶句して……」
「な、七海くん化粧してるの?へぇー……」
「え?……ああ、コンシーラーですか。よく気付きましたね。肌と同じ色を選んだつもりだったのですが」
「哀れな女を落とすための化粧ですか?」
「貴女まさか酔ってます?」
「バリバリ素面ですが?」
酔い潰れた七海くんを見てみたくて、少人数での飲み会にて飲み比べを挑んで見事返り討ちにされたことがある。ベロンベロンに潰れた私はなんと七海くんの大きなお家にお持ち帰りをされて、そして……何事もなく帰されたのだ。その日の朝状況が飲み込めない私に『肩を貸すなどはしましたが、性的な意味では指一本触れていませんよ』と言った。酔って朧げな記憶の中、何度もキスをせがんでは拒まれたことだけはハッキリと覚えていた。呑兵衛としてのプライドも女のプライドもズタズタに引き裂かれた私は七海くんを見る度に胸がピリピリと痛み、こうして少し圧力高めに絡んでは受け流されているのだ。
「コンシーラーだけでそんなに綺麗に仕上がるなんて北欧産の色男はよろしゅうございますね」
「貴女も大して厚化粧には見えませんが……」
「ナチュラル風なので……って、ジロジロ見ないでくれる?色男慣れしてないから顔赤くなる」
「綺麗ですよ」
「うわ、最悪。しばらく話しかけないで」
「今から任務でしょう」
「最低限で抑えて」
「ハァ────………」
移動を含めた任務の最中、本当に七海くんは最低限の会話しかしなかった。無口な補助監督さんだったから、車内は雪降る夜のように静まり返っていた。最低限で抑えてと言ったのは私だけれど、会話が無くてめちゃくちゃ寂しかったなとしょげる。なんて面倒な女なんだ。七海くんといると自分のことをどんどん嫌いになっていく気がする。このまま解散するのが寂しくて、帰りの車で窓から景色を眺めながら話しかけた。
「コンシーラー何使ってるの」
「話しかけて良いんですか」
「うわ、嫌い!」
「知ってますよ」
「………」
知らないじゃん!わたし七海くんのこと好きだし!本当に嫌いになってやろうかな!なれないけど!
プイとそっぽを向く私の腕を七海くんが何かでツンとつつく。反射的に身体を震わせて七海くんを見ると、何か白いスティックを渡された。ああ、コンシーラーか……。知らないメーカーだけど、メンズブランドなのかな?きゅぽんとキャップを外してその白さに驚く。これが二十半ばの男の肌か?デンマークの血が入っていることは知っていたけれど、血だけで二十年以上も美白でいられるものなのかな。一言断って、手の甲をハンカチで拭いて塗ってみた。うわ、完全に負けてる。色味が全然違う。
「白すぎてムカついてきた」
「箸が転んでもムカつく年頃……」
「うるさい嫌い。スキンケア何してるの」
「普通のスキンケアですよ。洗顔、化粧水、乳液」
「何使ってるの」
「……。……これです」
スマホで商品ページを開いて見せてくれた。そこに映っていたどれもが美肌効果だけで、美白効果は謳われていなかった。ブランドはやっぱり知らないものだったけれど、サッとスクロールして見えた値段が高すぎて言葉を失くした。黙りこくる私からスマホを取り返してポケットにしまった。その一連の動作でさえスマートで、やっぱり好きだなと思ってしまうのが悔しい。向こうからは女として見られていないのに。
七海くんの手を掴んで、その甲に塗ってみたけれど少し色が浮いた。あれ?顔の方が白いのかな。疼いた好奇心に勝てず七海くんの顔に塗る許可をもらった。溜息の後、グイッとこちらに寄った顔が綺麗すぎて思わず息を呑む。日頃丁寧にスキンケアされているらしい肌はキメ細かくてシミ一つ見当たらない。間近で真っ直ぐ見つめられるからどんどん顔が赤くなってしまう気がして、目を閉じてとお願いしたら本当に目を閉じてくれた。
嗚呼やっぱり腹が立つ。私のことを意識してないにも程がある。私があれ程キスをせがんでいたのを忘れたのか?無防備すぎる。補助監督さんは無口な人、そもそも真剣に運転中。少し古い舗装の高速道路だからタイヤがごうごうとうるさい。七海くんは目を閉じて顔をこちらに向けている。……ええい、やってしまえ。
ふにゅ、と音を立てず重ねるだけのキスをしてみたら七海くんがまるで弾かれたかのように後ろに身体を引いて、肩を窓にぶつけた。唇、柔らか……。
「そんなにびっくりする?」
「何してるんですか」
「啓蒙」
「何考えてるんですか」
「腹がたった」
「腹がたったら誰にでもこんなことをするのですか」
「さあ。ところで唇もしっとりしてたけどそこも何かしてるの」
「……リップクリームを」
「色付き?」
「いいえ……」
口元を手で抑える七海くん。まるで生娘みたいな反応だ。悪いことしちゃった……いや、キスしてって言ったのを散々拒んだ癖に無防備に唇を晒す七海くんが悪い。先輩としてわからせることも大事。……いや、普通にやりすぎだよね。居た堪れなくなって黙り込むと、それ以上に話しかけられることはなかった。
高専に着いて解散した後、七海くんに空き教室に引きずりこまれた。目に見えて怯える私を七海くんは隅に追いやって腕を組んで真っ直ぐ見下ろす。
「どういうつもりですか」
「何が」
「キス」
「だから、啓蒙。……というか、説教」
「説教が必要なのは貴女でしょう」
「私が酔っ払ったとき、キスしてってせがんだの覚えてる?」
「ええ」
「それを断りきったくせに無防備にしてるから腹が立った。他人をナメるのもいい加減にしてほしい」
「ナメてませんが」
「キスする度胸なんてないと思ったんでしょ」
「嫌いな男とでもキスする人ではないと思っていました。だからあの夜も断った」
「ああもうムカつく……」
私が七海くんを好きって本当にわかってないんだ……。嫌いな男とキスしないのは合っているけれど、例えどれだけ酔っ払っても嫌いな男にキスをせがまないとか、好きな人としかキスしないのはわからなかったんだ。
「嫌いな男とキスなんかしないよ、私」
「……」
「どんだけ酔っ払っても」
「……」
「モテまくって相手に困らない色男にはわからないかもしれないけど、キスは、……す、好きな人としかしないから……」
「……え?貴女好きな男に嫌いとか話しかけないでとか言うのですか……?」
「そうですが何か」
「……ハァ─────………」
「もういいでしょ、どいて」
一本引いた七海くんの前を通り抜けようとしたのに、太い腕に絡みつかれて動けなくなった。心拍数が跳ね上がって顔に熱が集中する。
「な、なに!?」
「あの日どれだけ私が我慢したか……」
「我慢!?」
「好きな女性がベッドでキスをねだってきて、どんな思いで耐えたと思ってる……」
「え、」
「酔って何かするような男なんて貴女は嫌いかと……今以上に嫌われたくなかったから何もしなかったのに……クソッ」
「んぅ!?」
ぐるりと身体を回転させて、唇に噛み付かれた。キスの比喩とかじゃなくて、本当にがぶりと。力はあまり籠もっていないけれど、少しだけ痛い。びっくりして瞬きを繰り返す私に今度こそ唇を重ねた。
「好きでもなんでもない女性を家にあげたりしない」
「え」
「好きですよ。苛々しながら私に何か文句を言う姿でさえ可愛らしくて仕方がない」
「嘘……」
「あの日をやり直します」
「えっ」
「今度はアルコール抜きで、恋人として」
「あの」
「我慢させられた分全て返すから覚悟しろ」
「ごめんなさい」
「絶対に許さない」