相手の舌を噛まないと出られない部屋最悪だ。何かと腹が立つ男七海建人と変な部屋に閉じ込められてしまった。戦闘中に逃げこもうとして廃墟の扉を開けて閉めたらパッと景色が変わってしまったのだ。
二人で何をどうしても扉は開かない。何度舌を噛んでも鍵が開かない。相手の、とあるけどまさか七海の舌を噛めとでも言うのか。それか七海に噛まれろとでも言うのか。どちらも嫌だ。念の為順番に自分の舌を噛んだけれど部屋は開かない。力いっぱい噛んだせいで口の中は血の味がしている。
「フ────………。では、……私が噛まれます」
「嫌だ……」
「私が噛みますか」
「それもすごく嫌……」
「このままここで死にたいのですか」
「それはもっと嫌……」
深い深い溜息を吐かれたのが癪に触る。なんで私が悪みたいになってんの。そもそもこんな部屋に閉じ込められるのが悪いんじゃん。なんで扉閉めたわけ?……閉めたのは私か。閉じ込めてくる呪霊だか建物だかが悪いんじゃん。この廃墟が畏怖を集めて受胎したのか?それとも外にいる呪霊?よくわからないけどとにかく最悪。やるしかないのか。でもめちゃくちゃ嫌だな……。何か解釈に隙は無いだろうか。相手の舌……相手とはそもそも誰だろう。この空間にいるのは七海だけ。……舌ってなんか他にないかな。……ないな……。
「呪霊の舌……とか……」
「……私よりも呪霊の舌を噛む方が良いと?侮辱するのも大概にしてもらえませんか」
「いやそこまでは言わんけど……呪霊なら後腐れないかなって……」
「……別に私は何も変わりませんよ」
「私が変わる……」
「……え?」
舌なんか噛んだら変に意識してしまう気がするんだけどなんでこの男は平気って言い切れるんだろう。モテそうだし経験があるんだか知らないけど、こっちは学生時代から知ってるような長い付き合いの人なんて手を出したことがないから、接し方が変わってしまいそうな気がしてるんだ。
「……いや、変わらん。変えない。うん、噛む。噛む強さどうする」
「……貴女が自分の舌を噛んだのと同じくらいで」
「わかった。体勢は……、……座ろうか」
「……わかりました」
扉の真横の壁に凭れて座った七海の隣に座る。ふわりと香る柔軟剤か何かの匂いに頭を抱えた。なんで同僚とこんなことをしなくちゃならないんだ……。間違ってもキスとかにならないように気を付けないと……。おずおずと七海の目を見て、すぐに逸した。
「……顔、触るよ」
「どうぞ」
お互いに向き合って、少し顔を近付ける。一時的な退避が必要な程強い相手との戦闘と、部屋を壊すための試行錯誤で七海の前髪は少しハラリと垂れている。落ち着いた海色の瞳。何かはわからないけど良い匂い。ガッチリした顔の骨。うわ、男だ。同僚のそういう面なんて知りたくないんだけど……。
「……舌出して」
べ、と出された赤い舌から思わず目を逸した。七海の唇の横に親指を添えて、親指で位置を確認する。指先が少し舌に触れてしまい慌てて謝る私とは対称に無表情でじっと見つめてくる。なるべく不必要に触れない様にほんの少し歯を剥き出しにして、歯と歯で舌をほんの一瞬挟んだ。すぐに顔を離して立ち上がり扉をガチャガチャと動かしたけれど鍵は閉まったまま。これは、どっちだ。力が弱かったのか、私も噛まれないといけないのか。座って片膝を立てた七海が真っ直ぐ見上げてくる。
「噛む力が弱いのでは」
「……人を噛むの抵抗ある」
「今まで噛んだことがないのですか」
「……」
無くはないけど。でも彼氏だったし、行為中だったし。性欲が無い今改めて触れると赤の他人の舌ってめちゃくちゃ生々しい。私が当てたのは歯だけれど、それでも舌の少しぬるっとした感触が伝わった。あれを力強く噛むなんて出来ない。
「もう一度」
「えー……」
「それか私が噛みます」
「えー……」
「どちらにしますか」
「どっちがいい」
「私はどちらでもいいです」
「私はどっちも嫌だから七海が決めて」
「……私が噛みます」
七海の大きな両手のひらが私の頬を包む。手の大きさとか、厚さとか、硬さとかが妙に生々しく伝わってくる。意識したことがなかったけれど、こいつやっぱりしっかり男だ。しかも結構良いオトコの部類。あー、あー、不要なことを考えるな。同じように唇の端に親指が添えられた。
「舌、出してください」
「……変なことしないでよね」
「変なこととは」
「……わかるでしょ」
べ、と舌を出す。恥ずかしい。深い溜息なんて吐いてないでとっとと噛み付いてほしい。恥ずかしさを『噛まれなきゃ死ぬ』という思いでどうにか押し殺して、ぎゅっと目を閉じた。瞼の裏、真っ暗闇の中私の唇の右のほうに、ふにゅと何かが触れる感覚。これ、絶対に違う!反射的に目を開けて胸板を押したけれど顔と顔が離れた程度でビクともしなかった。
「変なことしないでって言ったじゃん!」
「してません」
「だって今当たったの上唇だった!」
「いきなり歯を当てたら痛いでしょう」
「痛い方がマシ!」
「歯よりも唇や舌の方が貴女の舌を探しやすいんですよ」
「探すも何も出してるじゃん、下手くそ」
「……ちゃんと出てないから探すハメになるんです。下手くそなのは貴女の舌の出し方」
出してるじゃん、と不満を眉間に出しながら自分の舌を触ると、確かに舌は外気に触れていたけど唇より外側へは出ていなかった。……確かにこれは探す必要があるのかも。
「……唇は嫌」
「どうして」
「キスみたいになるから」
「……」
「指で探して」
「戦闘直後であまり清潔ではありませんよ」
確かに七海は使い古した鉈を握って戦う。さっきもそうして戦闘していた。確かにそれで舌触られるのは嫌だな……。返り血や手汗が付いているかもしれない。もしもヘンな味なんてしたら最悪だ。でも舐められるのも嫌……。でも手よりは舌の方が綺麗というか、人体への影響は無さそう……。呪霊の返り血なんてもし舐めたらどうなるかわからないし……。でも舌で探してとか口が裂けても言いたくない。
「……ン、七海の好きにして」
「フ─────………。……舌、出してください」
大人しく、さっきよりも舌を突き出す。ちゃんと唇より外側へ出ているかな。これなら変な感じにならずに噛めるのかな。もっと出したほうがいいのかな。目を閉じたまま悶々と考え込む私の舌に、七海の舌がぴとりと触れた。驚きで思わず声が漏れる。同時に身体がずくりと疼いてしまった。舌を当てたまま次はそっと唇が触れて、我慢の限界を迎えた私は舌を引っ込めてしまった。そのせいでただ七海と唇を重ねることになる。すぐに顔を離して俯いた。こんな赤い顔を見られるわけにはいかない。
おそらく七海は舌で探して唇で位置を把握しながら歯で挟み込むつもりだったんだと思う。その証拠に私が舌を引っ込めた時には、七海も舌を引っ込めて唇が閉じていた。……キスしたみたいになっちゃった。これは、不味い。部屋を出ようと試行錯誤しているはずなのに私の中の"女"の部分が顔を覗かせてきている。この男、多分身体の相性が抜群に良い。キスしたら身体の相性がわかるってこういうことだったんだ。まさか七海で実感するなんて思わなかった。七海みたいな潔癖そうなやつ絶対性欲薄い(もしくはそもそも無い)のに最悪。相性なんか知っても出来ないなら意味がない。
「何回キスさせるつもりですか」
「一回もするつもりないししてもない」
「今のはそうでしょう。貴女が逃げたから」
「……舐め回してくる男がいたから」
「回してはいない」
「舐めてる自覚はあるんだ」
「不本意ですが」
「本当に不本意なんですかね」
「さあ」
「混乱に乗じていやらしいことしてくる男って最低」
「その最低な男に舌を噛ませないとこのままここで死ぬことを理解してますか」
「理解してるけど舐めてくるだけで噛まねえのよこの最低な男が」
「噛もうとした途端にビビリの女性が土壇場で怖がって舌引っ込めるから噛めないんですよ」
「は……?ビビリ……?ホンット腹立つよねオマエ」
「最低な男ですので」
「次は私が噛む」
「………お手柔らかに」
七海の頭をガッと掴んで顔を寄せる。べっと出された舌にガリッと噛み付いた。『、』と籠もった声が真正面から聞こえる。噛み付いた時点で堪えるようにグッと握られた拳は、そこからさらに咀嚼したことでプルプルと震えた。満足するまで咀嚼した後、解放すると少し血の味がした。
「不味……」
「……仕返しされるとは思わないのですか」
「七海が先輩の女を痛めつける姿が想像出来ない」
「立場に胡座をかいていると痛い目見ますよ」
「じゃあ血が出る程噛むの」
「……噛みませんけど」
「ほら」
「何も痛みだけが復讐じゃないでしょう」
「……ん?」
「後先考えずに突っ込んで行くのは呪霊だけにした方が……いや、呪霊相手も止めた方が良い」
「余計なお世、話……え?」
どさ、と押し倒された。後頭部でクッション役を担った七海の手はすぐに抜かれて私の手首を掴んだ。下腹部に腰を下ろされて何も抵抗出来ない。体重は掛けていないらしく、さして重くはないけど動けない。
え?あれ?なんで?
よく考えたらここ、どこにも逃げ場がない。七海が敵になるなんて想定してなかった。なんで。いや、敵へと変貌させたのは私か。もしかしてやりすぎた……?
「え?……何する?の?え?」
「……」
熱い手で手首を掴んだまま、ただ黙って真っ直ぐ見下ろしてくる。何これ。どういう状況。なんで七海が馬乗りになってるの。なんであの私嫌いの七海がこんなことするの。そんなに嫌いなの。
「何か言ってよ。え?嘘、これは違うでしょ」
「最低な男ですので」
「確かに目も当てられない程最低だけどこれは本当に違う」
「私が貴女を噛まなければ、貴女はずっと出られない。逃げ場のないここで最低な男と二人きりです」
「……」
「この期に及んで煽り続けるその性格、直したほうが良いですよ」
「この年で性格なんか変わらない」
「でなければ最低な男に食われます」
「食……………」
「スキンのない今、ここで」
「………」
無言の抵抗も虚しく両手を一つにまとめられて、自由になった大きな手が私の顎を掴む。真っ直ぐ七海の目を睨む。こうすることしか出来ない。どうするつもり。まさか本当に手を出すの。七海は嫌いな女を抱けるの。
「舌を出してください」
「……」
「もっと出せ」
べ、とみっともなく突き出した舌を舌で捕まえて唇で挟んだ。至近距離で目が合ったまま。目を逸らせば負けという気さえしている。唇で挟まれたまま舌先をツゥと舐られて背筋に甘い痺れが走ったせいで、また反射的に舌を引っ込めてきゅっと目を閉じてしまった上に上擦った声が漏れた。
「んぅ……っ」
「……誘っていますよね」
「馬鹿なこと言ってないでとっとと噛んで退いてよ……」
こんなのおかしい。なんでこんなにゾクゾクするんだ。私のせいで流れた七海の血の、鉄の味さえ妙に身体を刺激する。
「貴女が舌を引っ込めるから」
「舐める必要はないでしょ」
「噛まれた仕返しです」
「復讐の仕方が変態臭い」
「舐める程度で済ませている優しさに気付いた方が良い」
「噛まれる方がマシ」
「復讐なので貴女の言うことは聞きません」
「七海の舌鉄臭くて嫌」
「貴女のせいでしょう」
「もう舐めないで」
「位置確認しないと何を噛むかわかりませんよ」
「下手くそ」
「またそうやって性懲りもなく……。ただのディープキスされたいんですか」
「……」
「……は、」
自分でもわかるくらいトロンとした目でじっと見てしまう。何か、何か言わないと。でも七海とするディープキスで蕩ける程気持ち良くなれるという確信がある。したい。身体の相性が良いオトコとディープキスしてみたい。舌が少し触れるだけでこれ程身体が疼くんだから、ディープキスなんてしたらどうなるかわからない。
こんなの初めてだ。好きでもない男とキスするのも、手首を拘束してキスされるのも、ヘンな部屋でキスするのも……。……まさか、部屋のせい?
「……この部屋おかしいよ」
「何が」
チラリと七海の股間に目をやる。案の定そこは大きく膨らんで存在を主張していた。下腹部がずくりと疼く。
「多分催淫効果がある」
「……」
「キスすらロクにしてないのにこんな……おかしいよ。早く出よう。一線を超える前に。……復讐したいなら後で付き合うから。ここはやめよう」
「……ん」
『復讐に後で付き合う』なんて言葉を七海は信じるんだろうか。
べ、と出した舌をまた舐めて唇で挟んで、今度こそ歯と歯で挟まれた。目を合わせたままゆっくりと顔が離れていく。ガチャリと金属音がしたから、きっと解錠したんだと思う。この疼く身体を一体どうすれば……。
外には呪霊がいる、はず。そっちに頭を切り替えて身体の熱を冷まそう……。
▽△▽△
妙に漲ってしまったせいで、一度は退避にまで追いやられた呪霊を呆気なく祓除することが出来た。ヘンな部屋はおそらく敵の領域で、扉を開けるとすぐに主と思われる呪霊がいた。
アドレナリンが行き渡る身体を深呼吸で落ち着かせて、補助監督さんの運転する車で高専に帰った。戦闘後の荒んだ身嗜みを整えて、報告書を作成して、帰ろうとする男の手首を掴んで、今。
「……なんですか」
「……。……知的好奇心の探求」
「は?」
部屋から出て身体の熱は覚めたしアドレナリンが消えて時間は経ったけれど、気になって仕方が無いのだ。あの頭の中を支配するような甘い疼きが部屋のせいなのか、相性のおかげなのか。もしも後者ならそんな相手を逃したくない。手首を引けば簡単に着いてきた男を、人気のない資料室のさらに奥に引きずり込んでその頬を手のひらで覆う。いつも通り眉間に皺を寄せているけど、何処かへ行くような素振りはみせない。
「逃げないの」
「逃げられたいですか」
「質問に質問で返すな」
「私もこうしたいと思っていたので」
「……そう」
ふに、と唇を重ねるとすぐに七海の腕が腰に回った。ちゅっちゅと音を立てて幾度かキスを繰り返すと七海の舌がぬるりと入り込んでくる。舌と舌が合わさって、また途方も無い熱が身体中を走る。背筋が甘く痺れて、声帯が勝手に震えて音を出す。口の中を生き物のように這い回る舌を舐って吸って柔く噛んで、またちょっと吸って顔を離した。銀色の糸を唇に押し付けるようにねっとりと舐めとる七海の赤い舌。二人分の少し荒い呼吸。熱を孕んだ視線が絡む。きっと七海も同じことを考えている。
「……」
「……」
「……私の部屋でいいですか」
「ん、……いいよ」
─────────
お題
「舌を出して」→「もっと出せ」
土足厳禁の別ルート。
スタートは性欲しかないキス。
七海はそうでもないけどね。