マヨイさんは片手に紙袋を下げていた。一彩さんと藍良さん、そして同室の友也さんへのお土産である。一彩さんは水族館に行ったことがないだろうから、話をするだけで目を輝かせるだろう。この水族館はESビルから1時間足らずの距離であるから藍良さんは足を運んだことがあるかもしれないが、マヨイさんが選んだ可愛らしい箱のクッキーならきっと喜んでくれる筈だ。別の機会にユニットの皆で訪れるのもまた楽しそうだ。
俺の方も年下二人へのものとは別に、同室の一人と一匹へのお土産を手に下げている。マヨイさんとの関係は誰にも話していないので、二人して同じ場所のお土産を渡していたことが知られたら不審がられてしまうかもしれない。でも、そんな心配は二の次になるくらい今日は楽しかった。自分でも気づかなかったが、すっかり浮かれていたのだ。
海沿いの道はすっかり暗くなっていて、砂浜とは反対側に連なる店の電気と街灯だけが俺たちを照らしていた。時間はもう九時を回っている。午前中から水族館にいたのだから、随分と長居をしてしまったものだ。
海から刺すように冷たい風が吹いてきて、思わず繋いでいる手をぎゅうと握りしめてしまう。すると彼は驚いたような声を出して、同じように握り返した。分厚いマフラーから覗く鼻の先が真っ赤に染まっている。俺もきっと同じような顔をしているのだろう。寒い筈なのに、全く辛くはなかった。
空を見上げると、暗い空から白くて軽い粒がちらちらと降ってきているのが見えた。
少し都会から外れた場所にあるこの駅舎は、木造でレトロな雰囲気を感じさせる。蛍光灯で明るく照らされているその場所で手を繋いだままでいるのが恥ずかしかったのか、彼は手をコートのポケットに引っ込めてしまった。
駅の掲示板で時刻表を確かめると丁度電車が発車してしまった後だったようで、次の電車はあと三十分後とのことだった。スマホで乗り換え時間を検索していたのだろうマヨイさんも同じ答えに辿り着いたようで、困った顔をこちらに向けてくる。改札から伺える駅のホームは屋根すらなくて、寒空の下で三十分もの間電車を待つのは辛いものがあるだろう。
「少し歩きませんか。お店があれば温まれるかもしれませんし」
マヨイさんは「そうですねえ」と言って手袋を擦り合わせた。
窓の外で看板がゆらゆらと揺れている。風は次第に強まっていって、吹雪のような有様であった。喫茶店の窓がガタガタと音を立てているのを聞きながら、ホットコーヒーを一口飲んだ。苦いけれど、身体の芯から温まる。
スマホを見ていたマヨイさんが「あっ」と気の抜けた声を上げた。その画面には電車が運行停止になった旨のメッセージが赤字で大きく表示されている。たった今待っている電車であった。この近くの駅は先程の場所しか無い。電車が動かないのであれば、帰るための交通手段はバスやタクシーくらいしか残っていなかった。
「一年に一回の大雪、だそうですねえ。すみません、出かける前に天気予報を見ておくべきでしたぁ……」
「いえ、俺も同じですから……」
思い返せば午前中にあれほど水族館を賑わせていた人々も、帰り際には殆ど居なくなっていたような気がする。気づくきっかけはあった筈なのに、彼との距離が縮まったことが嬉しくてそこまで思考が回らなかったのだ。
そういえば、細かなことによく気がつくマヨイさんがこのことに気づけなかったのもおかしな話なのである。彼も同じことを考えていたのではないかとふと思って、頬が緩んでしまう。だとしたら、とても嬉しい。
「うーん、近くの路線バスは行き先が少し違いますねえ。お金はかかりますがタクシーが良さそうです」
慣れた手つきでスマホを操作する彼は非常に頼もしい。早くも何処かのウェブサイトを開いて近くのタクシーを呼び出そうとしている。
「——マヨイさん。明日の予定はありますか」
「えっ、ありませんけどぉ……」
スマホから顔を上げたマヨイさんはきょとんと目を丸くしている。
「俺も、ありません」
細く骨張った彼の指先に自分の指を絡めていく。指の付け根に軽く触れてすりすりと撫でると、「んんっ」とくぐもった吐息を漏らした。
「その。マヨイさんが良ければ……なのですが。——今夜、ホテルで一晩過ごしませんか」
血色の悪い彼の滑らかな肌が、みるみるうちに朱に染まっていく。わなわなと口を震わせて、絞り出すように声を出した。
「……ヒィ」
これは肯定だろうか、否定だろうか。普段の彼なら手に取るように分かるのに、今回ばかりはさっぱり分からなかった。答えを伺うように彼の澄んだ瞳を見つめると、恥ずかしそうに目線を下げてもじもじと身体をくねらせる。
「あの、えっとぉ。わ、私で良ければ……」
伏せられた頭の柔らかな髪の間から、上気した顔がちらりと覗く。ふふ、と笑って、彼の手の甲に軽く口付けをする。
「あ、あう」
狼狽える姿が愛らしい。もっとその姿を見たいと思ってしまって、ついそのまま指の間に舌を這わせてしまう。
「〜〜っ!」
びくりと身体を震わせた彼は、僅かに汗を額に滲ませながら恨めしげにこちらを見つめていた。両足を擦り合わせてもじもじと身を動かしている。
「た、巽さん——! 意地悪ですよお」
意地悪、と言われて何を言われているのか分からなかったが、一時の思考の末納得する。そういえば先程の二人きりで水槽を眺めていた時、俺に触れると興奮すると、そう言っていたのだった。つまり、彼は今、俺に欲情しているのだ。
自分自身、性欲は人並みにあると自負しているが、それでもこのような触れ合いだけで高まってしまうのは驚きである。繊細な分、感じやすい体質なのだろう。男性から欲を向けられるのは初めてであったが、不思議と嫌な気持ちはしない。
「すみません、つい」
にこりと微笑みかけると、「あうあう」と目線が宙を彷徨う。テーブルの上に置かれている二つの珈琲はどちらも半分ほど残されたまま、いつの間にかぬるくなってしまっていた。