塩くんと古徹さん(健全編) 薄暗い空間を飛び交うスポットライト。腹の底まで響くような激しい音。そして、その音すらかき消さんばかりに上がる歓声と熱気。
生まれて初めて訪れたクラブハウスは、どうやら僕にとって刺激的過ぎたようだった。
「す、すっごいなぁ…。ちょっとクラクラしてきたかも…」
脳を震わすような音の渦に、僕はお酒も飲んでいないというのに酔いそうになっていた。
たまたまSNSで好きなアーティストさんが出演するという情報を得て、それが偶然近場だったから来てみたものの、どうやらその選択は間違っていたらしい。仕事の都合で途中入場になってしまい、見たかったアーティストさんは既に出番終了。せっかくだから続きも見てみようと思ったが、その独特の熱気と雰囲気にすっかり気圧されてしまっていた。
「ちょ、ちょっと休めるとこないかな…。…わっ!」
「おっと! 兄ちゃん、大丈夫かい?」
ふらふらと人の薄い場所を探していると、うっかり誰かにぶつかってしまった。顔を上げると、いかにも遊びなれてそうな、僕より年上らしい筋肉質な男の人が目の前にいた。
「あっ、ごめんなさい! ちょっと人に酔っちゃって…」
「ああ気にすんなって! 兄ちゃん、ここは初心者かい? 向こうに休憩スペースあるから、案内してやるよ」
「す、すみません…」
少しふらつきながらも、僕は男の人の後を着いていく。フロアを出て曲がったところに、少し大きめのベンチがあった。僕はそこに、よろけるように腰掛ける。
「ふぅ…。ありがとうございます」
「気にすんなって! 慣れないうちはこういう奴結構いるからよ! 先輩が世話すんのは当然当然!」
ほら、と言いながら、男の人はペットボトルを差し出してくる。ラベルを見ると、ミネラルウォーターらしかった。
「あっ、すみません、何から何まで…」
僕はそれを受け取ると、蓋を開けてごくごくと飲む。一息吐いたとき、男の人がじっと見てくるのに気が付いた。
「えっと…。どうかしたんですか?」
「ん? ああ、兄ちゃん可愛い顔してんなぁと思ってなぁ」
そう言って、笑顔で近づいてくる男性。可愛いと言われたことに動揺しながらも、急に距離を詰めてこられたことに少し警戒する。
「え、えっと…。ち、近くないですか…?」
「なぁ兄ちゃん。この後時間あるならよ、俺とちょっと遊ばねぇか? 無理にとは言わねえけど、俺兄ちゃんのこと結構タイプだぜ?」
「ふぇっ!? えっ、あの、急に言われても…」
これってもしかしなくても、口説かれてる…ってことだよね?
一瞬ドキッとしてしまうが、流石に今あった人と遊ぶっていうのも抵抗がある。いや、でもいい人そうだし、無碍にするのも…。
と、僕が逡巡していると、突然後ろから聞きなれた声が聞こえた。
「悪いな、おっさん。こいつ、俺の連れなんだ」
思わず振り向くと、そこにいたのは見慣れないスーツ姿に身を包んだ犬獣人。焦げたような色の毛並みに、珍しく眼鏡をかけている。
「こ、古徹兄ちゃん!?」
つい一月ほど前、無事結ばれたばかりの僕の憧れの人、神宮寺古徹。どういうわけか、彼が後ろに立っていた。…心なしか、ちょっと気が立っているようにも見える。
「なーんだ。もうお手付きか。ま、兄ちゃんくらい可愛けりゃカレシくらいいても不思議じゃねぇか」
男性は少し残念そうに言う。
「んじゃ、振られちまったことだし、俺は戻るかぁ。じゃあな兄ちゃん! イケメン彼氏と楽しんできな!」
そう言うと、男性は振り向いて行ってしまった。恐らく、先程のフロアの方に戻ったのだろう。
「ふぅ、行ったか…。…塩? 何でこんなとこにいるんだ?」
「へ? …って、あの、古徹兄ちゃん? 顔が怖いんですけど…」
少しばかり怒気の含んだ声に振り向くと、笑顔で凄まじいオーラを放っている古徹兄ちゃんが目に映った。え、何で?
「まだ付き合ったばっかだってのに、もう他の男と遊んでんのか? 流石の俺も、ちょっと凹むぞ?」
「はい!? い、いや違うって! これには事情があって…」
完全に勘違いしている様子の古徹兄ちゃん。とにかく誤解を解くために、事情を説明することにした。
「…っていう訳なんですよ」
「…なるほど。事情は分かった。ま、浮気じゃなくて良かったよ」
「そんなことしません! っていうか、古徹兄ちゃんこそ何でここに?」
「…たまたま、お前がここに入ってくのが見えたから。こういうところに積極的に入るタイプじゃないだろお前? だから気になって、仕事終わりだけどそのまま入ったんだ。でもチケットとかないからフロアに入れなくてよ…」
つまり、僕を心配して入ってきたという訳か。で、チケットも予約制だから入口スペースで待機してたと。
「…なぁ、塩」
「? 何ですか…、ってちょっ!?」
古徹兄ちゃんはいきなり呼んだかと思うと、僕のことを抱き寄せてくる。ってか、少ないけどここまだ人いるから!
「こ、古徹兄ちゃんどうしたの!」
「…俺、意外と嫉妬深いみたいだな」
そう言うと、古徹兄ちゃんは僕の耳に顔を寄せて、低い声で囁いてくる。
「塩、ちょっと付き合え。…あんなナンパ男より、俺の方が良いってことを教えてやるよ」