ジュンくん! と聞き慣れた声が気がした。辺りを見回したが誰も居ない、何よりここは星奏館の自室で、同室であるこはくも先程出掛けたばかり。今この部屋にはジュンひとりしか居ないはずだ。
日々相方の声を聞き過ぎて脳内で再生されたのかもしれない、時々ふと昔聴いた曲が頭の中で流れるような、恐らくそれに近いものだろうと思ってテレビでも観ようとソファへ移動しようとする。しかし再びどこからかジュンくん! と呼ぶ声がした。
ジュンくん! なにするの! 危うくこのぼくを踏み潰すところだったね!
そう聞こえてジュンは咄嗟に下を見て、仰天した。
「ジュンくん!!」
「…………はぁああああああっ!?」
ジュンの足元には、手の平に乗りそうなサイズの巴日和がちょこんと立ってジュンを懸命に見上げていた。
日和いわく、事の経緯はこうだ。目が覚めたらこんなに縮んでいた、驚いて誰かに助けを求めようとしたが部屋には燐音しか居らず、バレたら食われてしまうと本能的に危険を察知したため身を隠して燐音が部屋を出ようと扉を開けた隙をついて廊下へ飛び出し、必死で階段を一段ずつ下りて三階から一階まで移動し、ジュンの部屋の前まで辿り着いたは良いが開ける事が出来なかったのでこはくが扉を開けた隙に部屋の中に飛び込んで来た。
との事だが一から十まで意味が分からない。
「ぼく本っっっ当にものすっっっごく頑張ったんだからね! 特に階段! ぼくみたいな子のためにバリアフリーが必要だね!!」
「……いや世界中のどこを探してもこんな生き物はあんたくらいでしょうよ、知らねぇけど……」
ひとまず床に立っていては踏み潰しそうなのでテーブルの上に移動させたが、これほど小さくなってもきゃんきゃんと喚く日和の声量にあまり変化は感じられず常日頃からやかましいのだなと改めて実感した。
「……スマホで連絡すりゃあ良かったんじゃないですか?」
「高い所に置いてて届かなかったね!」
「……そもそも燐音先輩に助けを求めりゃすぐにオレに連絡がついたと思いますけど。何ですか食われるって、いくら何でも人間は食わないでしょ」
「食われるは言い過ぎたけどバレたらろくな目に遭わないのは間違いないね」
正直それは否定出来ない。危害は加えないだろうが少なくとも精神的に無傷では済まなそうだ。
「とにかく、元に戻るまでぼくはジュンくんに面倒を見てもらうからね!」
「はぁ、それは一向に構いませんけど……いつもやってる事ですし。むしろこんなに小さかったらその分手間も掛からなそうですよねぇ」
「手間ってなに! ジュンくん、いつもぼくの面倒を見ながら手間が掛かるって思ってるの!? 聞き捨てならないね!」
「手間が掛かるなんて生易しい言葉じゃ言い表せませんよぉ〜?」
「ジュンくん」
「はい」
「おなかすいたね」
「はいはい」
ぎゃあぎゃあ騒がしかったかと思えば突然大人しくなって、空腹を訴える我儘お姫様にジュンは笑った。最初はよく出来てるおもちゃだなとベタな感想を抱いて現実逃避をしたかったが、これは間違いなく自分の相方だ。
あのサイズでいったい何なら食べられるんだと迷いに迷って、パンやレタス、ハムを小さく切ったものを与えてみた。
「……キッシュが食べたいね」
「あんたのサイズじゃろくに味わえないと思いますけど……フォークや箸もねぇし。その辺りはどうにか調達してくるんで、今は手で食えるもんで我慢して下さい」
「うっ……惨めだね、いったい何でこんな事に」
「一応茨には報告したんですけど、写真を見せても疑心暗鬼な反応でしたねぇ……原因や対処法を調べてみるとは言ってましたよ」
「凪砂くんには言わないで、あの子の前では常に格好良くて可愛くて完璧なぼくでありたいの」
「分かってますよ、茨にも口止めしてますから」
もそもそとパンの欠片を食べながらあからさまに落ち込んでいる日和に流石に可哀想な気持ちになってくる。見ているこっちも訳が分からないが、当事者が一番意味不明だろう。
「お腹いっぱい」
「全然減ってねぇじゃないですか、これでも多かったか……今のおひいさんの胃袋のサイズもよく分かんないっすからねぇ。食器と、食えそうなもん調達してくるんで留守番出来ます?」
「ぼくも行くね」
「えっ!?」
思いもよらぬ返答にジュンは目を剥いた。
ジュンは胸ポケットがある服に着替えて、そこに日和を入れたら丁度顔が出るくらいのジャストサイズだった。これなら自分が転んだりでもしない限り落ちる事もないだろう。誰かに見付かっても、まぁ、人形だと言い張れば良い。相方の人形を連れて歩いているとほんの少し自分が火傷を負うだけだ。
散歩がてら愛娘であるメアリも連れて外へ出ると、リードに繋がれたメアリは歩きながら何度も何度も見上げてくる。胸ポケットに日和が居ると理解しているようだ。
「メアリ! ぼくの可愛い血まみれメアリ! ああ今ならきみと同じ目線で歩けるのに、それが出来ないのが歯がゆいね!」
「隣に並んだらそれこそパクッと食われちまうんじゃないですかぁ?」
「メアリはそんな事しないね!」
外に出た開放感か、メアリのおかげか元気を取り戻した日和はまたやかましく喚き始めて少し安堵する。やはりこうでなくてはジュンも調子が狂うのだ。
「あとで人気の少ない公園にでも行きましょうか、そこで下ろすんで」
「うん!」
ぱあっと日和の輝く表情が見上げてくる。胸ポケットに太陽をしまい込んだかのようだ。
日和でも使えそうな食器と言えばまず思い付くのはおままごとや人形用に作られたおもちゃの食器だ。おもちゃ屋に向かってそれらしい物を物色して、目論見通り使えそうな箸やフォーク、皿やコップまで一通りの食器が揃ったおもちゃを発見した。
いつまでこの姿なのかは全く不明で、寝て起きれば元に戻るのかもしれないのでこんな物を購入した所で無駄になるかもしれないが。例え一晩であれ今の日和に何かを我慢させたくはないし、一晩の事で済むならそれに越した事はないと思っている。
「これならおひいさんでも使えますねぇ、最近のおもちゃは作り込まれてんなぁ〜……」
「これで手掴みの食事やコップ代わりのペットボトルのキャップから解放されるね! 良い日和!」
「ペットボトルのキャップで水を飲むおひいさんは個人的にめちゃくちゃ面白かったですけど」
「笑い事じゃないよね!」
今からレジに向かうというのに思い出し笑いしそうだ。喉が渇いたという日和にどうやって水を飲ませようか悩んで試したのがペットボトルのキャップだったのだが、これが思ったより良い仕事をした。軽いので日和でも両手で持ち上げられたし問題なく飲む事が出来ていたが、その光景はあまりにも面白くて写真に収めたいほどだった。全力で嫌がられたが。
おもちゃの食器やついでに人形用の服も数着購入し、食器のおかげで食事の選択肢が増えたので食料選びもそれほど難航はせず、日和の熱い要望でキッシュも買った。ほとんどはジュンの胃に収まるものになるので、しばらく日和の食生活に合わせたものになるかもしれないなと思う。日和にとっては米一粒すら巨大なので日和の苦労に比べればなんて事はないのだが。
「疲れたね……」
「一歩も歩いてねぇでしょうがよ」
「揺れるんだよね、結構……近所を買い物しただけで、見慣れた景色ばかりのはずなのに何もかもが大きいし目眩がするね」
「あ〜……そりゃすみません、言ってくれりゃ休憩したのに」
「ううん、どこに居ても同じだからね。ちょっと休憩したら遊ぶから待っててね、かわいいメアリ」
予定通り公園に辿り着いて、ベンチに敷いたハンカチの上に日和を下ろすとぐったりと横たわってしまった。こんな風に疲れやすくなっている日和も珍しく戸惑ってしまう。そういえば三階から一階への大冒険の後だったのを思い出したがそれでも着いてきたのは好奇心か、単に留守番が嫌だったのだろうか。
「でも楽しかったね」
「はぁ? こんな状況でも何だかんだ楽しむ余裕があるんだから、おひいさんらしいっすよね」
「うん、こんな姿になっちゃって、訳が分からなくてらしくもなく不安でたまらなかったけどね。ジュンくんの顔を見たら何もかも大丈夫って思ったから」
「…………突然何なんすか、もぉ〜……」
耳が熱くなるのを感じる。世界の全ては自分のために存在していると豪語する日和でも、その世界が一晩にして変わってしまえば不安も覚えるのだろうか。そんな男が自分の顔を見ただけで不安が消し飛ぶと言うのなら。
「……ならオレが居れば、あんたはこ〜んなに縮んでも無敵って事っすねぇ」
「あっ、調子に乗ってるね! まぁもし元に戻らなかったら世界一小さいアイドルとして一世を風靡してみせるから、何の問題もないね!」
「はは、その前に捕まってやばい実験とかに使われませんかねぇ〜?」
「怖い事言わないで!?」
当然、一生このままだとしても自分たち仲間が日和を危険な目に遭わせるはずもないが。見た目こそこんなにも小さい、手の平に包んでほんの少し力を込めれば潰れそうなのに、何故こんなにも誰より何より大きく見えるのだろうと思う。
「さて、少し休んで回復したし遊ぼうね、メアリ! ジュンくん下ろして下ろして!」
「はいはい」
「えっ、えっ!? どこに下ろし……」
言われるままに日和の体を手の平に乗せると、そのままメアリの背中に乗せた。どんな最高級の毛布より極上の乗り心地のはずだ、なんたって自分達の世界一可愛い愛娘なのだから。賢いメアリは満足そうに一鳴きしたあと、日和を落とさないようにゆっくり歩き始める。日和はしばらく呆然としたあと、そのままぺたりと身を伏せた。
「なぁにこれ、最高だね……」
「……今ばかりはおひいさんが死ぬほど羨ましいです」
「ふふふ、そうだろうね、そうだろうね……! メアリに乗ったまま寮まで帰るね」
「重いんじゃないっすかぁ?」
「ぼくは重くないね!」
五分で良いから自分も縮んでメアリと同じ目線で立って、メアリに乗ってみたいと心底思いながら帰路に就く。この先どうなってしまうのだろうという思いはあるか、ジュンが居れば何もかも大丈夫だと日和が言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。