春の待ち人 吹奏楽部のファンファーレが、桜舞う校庭に鳴り響く。
四月一日。身の丈よりも少し大きな制服に身を包まれた学生たちが体育館から一斉に流れ出て、校門へ向かって列を成していた。その列を囲い込むようにして、様々なユニフォームを纏った生徒たちが大声で何やら呼びかけている。
「新入生体験入部十三時からでーす! マネージャー志望も大歓迎……」
「十三時から説明会を行います。ご興味がある方は……」
列に沿って歩くだけで問答無用でチラシを押し付けられる。中には手を引いて呼び止めてくる者もおり、学生たちの浮かれた熱気と勢いにタケルは辟易とし、人混みを抜けられる場所を探した。
入学式に相応しい晴天であったが、心中はあまり晴れやかとは言えなかった。
父に言われるがまま選んだ学校を受験し、そして受かった。特に行きたい学校があった訳ではなかったが、周りが自分の意思で進路を決めていく中、幼い頃からの惰性で父の望むままにまた自らの道を定めてしまった。いつまで私は父の言いなりなのか。しかし、父に抗うだけの目標も目的も、今の自分にはない。そうして迎えた新たな門出に浮かれた気持ちになれる訳もなく、気付けば周りの楽しそうな声から逃げるように人気の少ない場所へとやって来たのだった。
裏門か何かがあるだろうとそのまま敷地内をうろうろとしていると、小さな中庭のような場所へ出た。貼り替えたばかりであろう柔らかな芝生は、踏み締める毎に爽やかな青い匂いが沸き立つ。先程の人集りが嘘のように静かで、人の気配が全くなかった。静寂が広がる中庭の中心には立派な枝垂れ桜が立っており、見事な花を付けている。誰にも気にかけられず孤独に佇むその木は寂しそうにも見えた。吸い寄せられるように桜の下へ歩を進め、天から降ってくるような花々を見上げる。雲一つない青に薄桃の花弁が映え、枝花はタケルの顔に木漏れ日を落とした。
美しい。正門へ向かった者たちはこの美しさを知ることなく帰っていったのだと思うと、わずかに愉悦を覚え、暖かな日差しに心が和む。タケルは木の袂へ座り込み、花見を楽しむことにした。買って間もないスマートフォンでカメラを起動し、揺れる枝先を画面に収める。暫く画面を眺めていると、近くから声が聞こえた。
芯の通った、覇気に満ちた男の声。何かの稽古か。声がする方へ視線を向けると、中庭の片隅に建てられた剣道場らしき建物の側に一人の人影を見つけた。剣道部の学生だろうか。剣道衣姿で竹刀を振るっており、伸びた背筋と静かに素早く振り下ろされる剣筋はどこか目を惹く。声が止んだと思えば、男は剣を振るうのをやめ、こちらへ向かって歩いて来た。何故かその姿から目が離せず、彼が目の前へやって来るまで座り込んでいるのを忘れてしまっていた。ましてや自分に用があるなど露程にも思わない。
「貴殿は新入生か? 具合が悪いなら保健室に案内するが。もしくは道に迷ったか?」
心配そうな表情を浮かべた男はこちらへ手を差し伸べた。澄んだ水面のような彼の瞳に自身の呆けた顔が映っている。タケルははっとし、即座に立ち上がると丁重に断りを入れた。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。……桜が綺麗だったので花見をしていました」
「ああ、そうだったのか。確かに校内の中でもこの桜は一段と美しい。人目に付かない場所にあるのが勿体無いがな」
男は桜へと視線を投げると優しい笑みを浮かべた。自分から必要以上の言葉をかけたことに少し驚く。初めて会ったはずなのに、自然な会話が続くことに不思議な心地がした。
「そうですね。そろそろ散ってしまうだろうから今のうちに見ておかないと」
「そうだな……っと。すまない、邪魔をした。俺は鍛錬に戻るが、帰り道は解るか?」
「いえ、こちらこそ鍛錬の邪魔をしてすみません。……あの、貴方は剣道部の方ですか?」
自然と口をついた言葉は彼を引き留めるために出たようだった。まるで、別れを惜しむように。
「ああ。貴殿も剣道に興味があるのか?」
「興味というか……一応、経験者なので気になって」
「そうだったのか。ならば、この後新入生向けの体験入部があるから見に来ないか? 嫌なら断ってくれて構わない」
それまで淡々と話していた彼が僅かに声色を弾ませ、初めて学生らしい笑顔を見せた。
「解りました。時間になったら顔を出します」
「そうしてくれると嬉しい。では、待っている」
そう云うと男は早々に踵を返し、剣道場へと向かって歩き出した。広い背中に揺れる癖毛を纏めた赤い結紐が目に留まる。その姿が見えなくなるまで見送ったが、彼が振り返ることはなかった。
部活に入る予定などない。しかし、彼との会話をこれきりにするのは惜しく、これ幸いと二つ返事をしてしまった。初めて会った相手にどうしてそのように思うのか、タケル自身にも解らない。それでも薄雲のかかる心に光が差した気がしたのだ。
午後一時。それまで人ひとりいなかった中庭にぱらぱらと人影が見え始めた。中には美しく聳え立つ枝垂れ桜に気付き、写真を撮る者もいた。自分だけが見つけたものだと思っていたから、少しだけ面白くない。ここへ足を運ぶ者を観察していると、そのほとんどが剣道場に入っていくのが見えた。竹刀を抱えた者は先輩の部員たちか。時折、その先輩らしき人に手を引かれやってくる新入生もおり、あの包囲網で捕まったのだななどと遠目に眺める。中庭の周囲をぐるぐると歩き時間を潰していたタケルも、彼との約束通り剣道場へと向かうことにした。
剣道場の引戸を開けると、木と埃の香りが鼻を突いた。すでに十人程の新入生が入口近くで正座をして待機しており、彼等の視線の先では先輩部員たちが準備に追われている。その中に彼の姿もあった。他の部員たちが浮かれた様子で話しながら準備をする中、一人黙々と物を運び入れている。時折、辺りを見渡すような仕草をし、特に新入生の集まるところを見ているようだった。もしやと思い、新入生の列の後方に座っていたタケルは少しだけ座る位置をずらし、手を小さく振ってみる。すると、それに気付いた彼がこちらに向かって微笑んだ。
何故か。胸の奥がきゅっと締め付けられ、鼓動が早まる。ずっと目を合わせているのが途端に恥ずかしくなり、視線を落とすと、彼も準備へと戻っていった。
先輩たちの準備が終わった頃、漸く乱れる鼓動がおさまった。一人の部員が手を叩くと、皆が横一列に並び、新入生に向けて綺麗に揃ったお辞儀をしてみせた。
「新入生の皆、よく集まってくれた。剣道部へようこそ」
一言で表すなら「白」と表現すべきだろうか。絹糸のような白髪を高い位置で結い、白磁器のように白い肌を彩る翠玉の瞳。凛とした声の持ち主は、誰が見ても綺麗だと言ってしまうような美人だった。
「私は剣道部部長、三年の由井正雪だ。今日一日よろしく頼む」
そう言って彼女が深々とお辞儀をすると拍手が起こった。
「早速だが、この中に先輩とひとつ打ち合いをしてみたい者はいるだろうか? 経験者も中にはいるだろうし、見て体験してもらうのが一番我が部を理解してもらえるだろう。もちろん、手加減はしてもらうから安心してくれ」
突然の提案に新入生たちがざわつく。これではいつまで経っても決まらないと踏み、名乗りを上げた。
「ふむ、では私が」
「ほう。腕に自信がある経験者かな? それでは、宮本伊織」
「はい……って、俺ですか?」
その声と皆の視線が集まる先を見て再び胸が波打つ。指名されたのはタケルを体験入部に誘ったあの男だった。宮本伊織。そういえば名前を聞いていなかったことに気付く。
「貴殿が出ずしてどうする。彼は二年生にして、我が部の大将を担う者だ。言うまでもなく、一番の実力者である」
正雪がそう言うと、上級生と見られる何人かが伊織に向かって意味ありげな視線を投げかけた。伊織もどこか気まずそうにしている。上級生としては、後輩に立場を奪われた挙げ句、新入生の前で剣を振るう前からその実力差を示されるのだ。快くは思わないだろう。しかし、こういった競技は実力が物を言う世界だ。正雪にも悪意はなく、むしろ真っ直ぐ過ぎる人柄ゆえ出た言葉なのだろう。話したこともない相手をそう断定するのは可笑しなことだが、その立ち居振る舞いから見て取れるものがある。タケルも正雪の言い分に納得していた。
「伊織殿、経験者とはいえ一年生だ。加減するように」
「……解りました」
伊織とタケルにはスポーツチャンバラ用のエアーソフト剣が手渡された。あくまで体験のため、防具は貸し出せず、怪我をさせないようにと配慮をしてくれたようだ。だが、竹刀であろうとなかろうとタケルにとってはどちらでも良い。
斬れば終わる。それだけだ。
「確かに、宮本先輩は他の方に比べれば腕が立つようです。しかし、加減は要りません。全力で来てもらって結構」
タケルには相手の立ち居振る舞い、体格を見ればおおよそ剣の実力が解る。幼い頃から様々な習い事に通わされていたが、武道の領域においては目を見張るものがあった。その中でも剣道はあらゆる大会で相手を打ち負かし、タケルが出る大会では優勝することが不可能だと言われる程の実力者である。──いわゆる「剣の天才」であった。
「打ち合う前から解るのか。……確かに、重心の取り方や足運び、構え、どこを取っても不足がない。なるほど、これはかなりの実力者と見た。ならば」
向かい合い、互いに間合いを取る。二人の剣幕にそれまで口を開いていた者たちも口を噤んだ。
「では、始め!」
正雪の掛け声と共に火蓋が切られた──が、その戦いは瞬く間に終わった。
二、三ほどの鍔迫り合いの後、伊織がタケルの小手を狙って剣を振るう。しかし、その攻めの一手も容易く受け流され、タケルの剣が伊織の面を貫いた。パンっと小気味の良い音が剣道場に響き渡り、空気を振るわせる。あまりの速さに皆何が起こったのか理解できず、暫しの無音が続いた。
「……新入生、一本」
思い出したように正雪が口にすると、部員と新入生が一斉にざわつき始めた。撃たれた伊織も自身の額に手をやり、放心状態である。タケルは一つ息を吐くと、伊織と向き合った。
「この大和タケル、この剣道部に入部を決めたぞ」
「そ、そうか。それは有り難い」
未だ心ここに在らずといった状態のまま、伊織はタケルへと手を差し出した。
「だが……きみは弱い。私よりずっと弱い。ゆえに、齢が私より上でも、きみを先輩と認めない」
「……は?」
タケルの放った言葉に伊織が間の抜けた声で返す。
「だが、見込みはある。きみの剣に対するその真っ直ぐな姿勢、私は好きだ」
一度剣を交えれば、それなりに人となりが解る。初めて彼を目にした時の胸の高まりはきっと勘違いなどではない。
この薄雲が立ち込める心に光をくれる人、きっと彼がそうなのだ。
「という訳でイオリ、今日からよろしく頼む」
伊織の手を取ると大きな温もりが手に伝い、花の香りを含んだ風が道場を吹き抜けた。
これから始まる新たな日々に期待と喜びを込めて、目一杯の笑みを伊織へと向けた。
***
【謎設定】
文武両道が校訓の名門校、東京都立盈月高等学校に通う。剣道部の伝統として、入部時にあだ名をつけられ、部員たちは互いにあだ名で呼び合う。
大和タケル:1年生。あだ名はセイバー。体験入部で最強の剣士が現れたと話題になり、対戦相手である伊織があだ名を付けることに。本人はとても気に入っている。由緒ある家柄の子で、幼い頃からタケルの才を見出した父が進路や習い事、交友関係まで口を出し、それに従ってきた過去がある。友と呼べる人はほとんどおらず、人との心の距離感が極端。
伊織にはタメ口だが、他の先輩には敬語で話す。
(むしろ他の先輩など眼中にないので、興味を持つに値しない人達には敬語で距離を置いている。)
宮本伊織:2年生。あだ名はピグレット。1年の文化祭で着せられたブタの着ぐるみがあまりに似合っていたためあだ名にされてしまった。入学してすぐはアルバイトに専念するため部には入っていなかったが、剣道界の重鎮である柳生が外部顧問に就いたのをきっかけに入部することを決意した。セイバーをタケルと呼びたいが呼ばせてもらえない。
由井正雪:3年生。あだ名は先生。剣道部部長。密かに伊織に恋心を抱いている。
去年の5月頃のメモから発掘。
「伊織さんとセイバーで新居探しとかしてほしい」という妄想から、馴れ初めを考え始めて何故か生まれてしまった謎設定。
高校時代にデートもするし、良い雰囲気にはなるけど、結局友か恋人かよく分からない関係のまま先に伊織が卒業する。
伊織が都外の大学に進学しちゃって離ればなれになる(セイバーと別れることは寂しいと思うけど、望んだ進路のためなら仕方がないと割り切る人)けど、伊織の後を追ってセイバーも同じ大学に入学する。
入学式当日に伊織と再会してそのまま勢いで伊織の家に行く。夜も更けてきた頃に「そろそろ帰らなくて大丈夫か?」って聞くと「きみと暮らすつもりで来たんだが?」ってあっけらかんと言うので、伊織が頭を抱える。ご両親にはちゃんと話してるのか伊織が確認すると、「友達と暮らすから大丈夫と伝えている」って言うのでさらに頭抱える。そして6畳ワンルームでの同居生活が突如始まる……
最初は安い賃貸アパートとか探して色々見て回るけど、最終的に築年数は経ってるけど手入れされてる長屋をセイバーが気に入って、じゃあここでってなったらハッピー。