1960年1960年
ヴォックスはアラスターの電波塔、放送室のソファで放送の終わりを待っていた。ワインの注がれたグラスを口に当てると、コト、と固い音が鳴る。
『ヴォ~ックス。ヴォクシー』
放送は終わった。が、彼の声には未だ電波越しのノイズがかかっている。いつだってそうだ。アラスターは右手で獲物を引きずりながらソファ越しにヴォックスの背後に立った。どちゃ、と上級悪魔だった肉塊が投げ捨てられる。
『いつもどおり頼みますよ』
「ああ」
ヴォックスはグラスを置き、立ち上がる。アラスターの方を向き、ソファのへりに尻を乗せた。アラスターは自慢のジャケットを脱ぎ、蝶ネクタイを解いていた。赤いシャツに返り血が赤黒く重なっている。髪も少しだけ乱れていた。
「長かったな。……三日か」
『ご満足いただけましたか?』
「とっても」
ヴォックスは寝不足の頭でアラスターの満足げな顔を見つめた。彼は注目されるのが好きだ。ヴォックスは肉塊を掴む。
「じゃあ、また後で」
『ええ。遅れないでくださいね』
挨拶をすると、ヴォックスは自身を電気に変えた。掴んでいた肉塊もまた、信号の一種になり、この場所から跡形なく消える。アラスターがひらひらと手を振るのが一瞬だけ見えた。
『死体の後始末をしてください』
それがヴォックスとアラスターの一つめの取引だった。
ヴォックスは街の外れにある荒れ地に飛んだ。肉塊を置いて荒れ地にある唯一の建物、すでに放棄された屋敷のいかめしい扉を押す。入ってすぐは広く、吹き抜けになっていた。ヴォックスは火のついていない暖炉のそばに置いていた麻袋とシャベルを手に取る。
名目上ここはルシファーの領地だ。かつてはここに居を構えていたのだろうが、偉大なる奥方との不和が原因で屋敷ごと捨て去ったのだろう。少なくともアラスターとヴォックスはそう考えていた。雑魚の悪魔は怖れて近寄らないが、それゆえに隠し事をするにはぴったりの場所だった。
ヴォックスは再び外に出て、麻袋に肉塊を丁寧に詰め込んだ。屋敷の裏手に回り、事前に用意していた墓穴に袋を捨てる。シャベルで袋の上に土をかけていく。
「♪〜」
ヴォックスはラジオ・ヘッドから「第三の男」のテーマを流し、鼻歌混じりに死体を柔らかな土の海に沈めていった。罪人は地獄においてほとんど不死の存在である。弱い悪魔にとっては生き地獄が延々と続く罰であるが、強者にとってはむしろ利点足りうる。数日をかけて肉体は再形成され、また地獄を闊歩できるのだ。だが、その肉体が土の中にあったとしたら?蘇生しても、呼吸ができずに死に、また蘇生し、死に。重い土の感触と死に際の苦しみを淡々と味わうことになった悪魔はやがて狂う。これがアラスターがやっている「上級悪魔殺し」の最後の工程である。この館の裏手にはアラスターが殺し、ヴォックスが埋めた数百の悪魔たちが声にならない呻き声をあげているのだった。
ジッターの音が途切れる。ヴォックスはシャベルの背で土を均した。一張羅のスーツに泥が飛び散っていたが、ヴォックスは一向に気にしていない。館内に戻り、道具を元に戻すと、一度オフィスに戻ることにした。
オフィスまで飛んで帰ると、ちょうどガンバスがテレビを観ているところだった。彼はヴォックスを見とめるとひらひらとヒレを振る。
「あんたの番組だ」
ヴォックスは無言で彼の隣に腰かけた。冗長なCMの後、番組タイトルがぐるぐると陽気に回転しながら現れた。
「ウォクス・ポプリー・ウォクス・デイー」
タイトルが消えるとスタジオでマイクを握るヴォックスが大写しになった。
「みなさまごきげんよう。地獄の地獄なる日々に一服の娯楽はいかがかな?本日はプライド・リングに拠点を構えるインプの大サーカスをお呼びしています。さっそくご覧にいれましょう」
カメラが移動すると、派手な化粧をしたインプ達が思い思いの演技をし始める。一分もしないうちにまた画面はヴォックスの顔を映し出した。
「ところで皆様。食い散らかした後の服!ケチャップやソースで汚れてはいませんか?それではとてもモテやしない。このT&F社の洗剤『ウォッシャブル』をどうぞ。とんでもない量の化学物資が入っており、服の柄ごときれいさっぱり落とします。今この番組で見たと伝えればなんと二割引きになるとか。どこに言えばいいのかはさっぱりわかりませんが。とにかく買え!」
その後もインプの大サーカスは全く映されることなく、ヴォックスがいくつも商品を紹介して三十分の番組は終了した。
「全く!これは…」
ガンバスはテレビ画面からやっと目を離した。
「ああ、とにかく」
ヴォックスは目を閉じてため息をつく。
「最高だ!」
二人は同時に声を上げ、不気味な笑い声をあげた。
「広告代はがっぽり」
「視聴者数は右肩上がり」
「資産は莫大」
「オフィスも引っ越して広さは5倍!」
ひとしきり笑うと、ガンバスは頭を抱えながら言った。
「まったく、勝ち馬に乗りやしたぜ、坊ちゃん」
「どれもこれも君の献身のおかげだ、副社長。さあ、今日も商談がある。ひとくいタウンのやつらを一気に客にするぞ」
「替えのスーツは用意してますぜ」
ヴォックスは立ち上がり、ジャケットを脱いだ。
「彼女らに取り入りたいなら、まずテリトリーに入ることです」
アラスターはマイクをくるくる回しながら言った。
「仲間であるということはひとくいたちにとってなにより重んぜられる。わかりますか」
「…やるだけやってみるさ」
ヴォックスは小脇に荷物を抱え、アラスターと共に臓物の食い散らかしが散乱している道を歩いた。ヴォックスは一度目玉を踏み、転びかけたが荷物を落とさないようにぐっとふんばった。百貨店へ着くと、そこに並んでいる行列をアラスターは悠々とかき分けていった。
『ロージー!』
「アラスター!」
アラスターを認めると百貨店の女店主はカウンターから身を乗り出し、アラスターと抱き合った。そのまま二言三言交わすとアラスターは入り口に立っていたヴォックスに手招きした。
「この度はどうも」
ヴォックスが挨拶すると女店主はヴォックスを値踏みするようにしげしげと眺めた。
「こんなところまでよく来ていただいたわ!本当に」
「いえいえ」
「まあ、座っていただいて……みんな!今日はもう閉店よ」
アラスターとヴォックスに椅子を用意しながらロージーは行列を崩していった。
「それで……なにを持ってきてくれたのかしら」
二人の前にはコーヒーと、人の指のようななにか──強いて言えば人の指だろうが──それが高級と一目でわかる食器の上に並べられた。ヴォックスの笑顔はひくついたが、アラスターはもうコーヒーを啜り、指のひとつをぱくついている。
「まあアラスター、お下品なんだから。ヴォックスさんを見て。私が言うまで待っているじゃない」
「いや、その、はは」
ヴォックスが頭をかくと女店主は手のひらを向けた。ヴォックスはやけくそで、一番小さい指を手に取るとほとんど飲み込み、コーヒーを口に流しいれた。
「すてきな食いっぷりね!私はロージーよ。ここらのシマは私が取り仕切ってる。こちらは夫のフランクリン」
ロージーの隣に彼女と同じように着飾ったひとくいの男性が座った。彼は軽く会釈する。
『彼女の三番目の夫です』
アラスターが口を挟む。
「もちろん、三人と同時に付き合ってるわけじゃない。こんな場所でしょ、家族になってもエクスターミネーションがあってはね」
ロージーは溜息をついた。
「あの……今日持ってきたのはテレビなんです。この百貨店にテレビを置いていただきたくて」
「あら」
ヴォックスが口火を切ると、ロージーの目がするどくなった。
「ひとくいタウンにテレビは置いてないのよ」
「そうでしょうとも。事前にリサーチはすんでおります」
ロージーは、厄介な男を連れてきたわね、と言いたげにアラスターに視線を向けると、指を組んだ。
「少し見て回っていただけたかしら、この町を。車だってそうは走ってないわ。そういう、文明の利器っていうのは、みんなからの反応がよくないのよね」
「ええ、ええ、ひとくいの皆様が伝統的な文化基準を守ることに注力していらっしゃるのは存じております。それこそがこの町の魅力たるところ!」
ヴォックスはテーブルに持ってきた荷物を乗せた。
「そこでこちら、ラジオ型テレビです。サイズもラジオ受信器よりやや大きい程度。見た目は全くラジオそのものです」
「でも、この丸く空いている穴はなに?」
「さすが目の付け所がいい!ここがテレビの画面になっているのです。決して主張は強くない。普段はラジオとしてお使いいただき、必要な場面でテレビに切り替えるんです。流行りのカラーテレビではなくあえて単色で映るようにしています。けして目立つことのないよう、この町の主役はテレビではありませんから」
ヴォックスはさっとコードをつなぎ、ダイヤルを回してチューニングを合わせた。丸い画面は番組を円状に歪める。そこでは小さなヴォックスが最新のニュースを読み上げていた。
ロージーは眉をひそめて唇に手を当て、彼女の夫に耳打ちをした。彼は鷹揚に頷く。
「わかった。そのラジオテレビ、置かせていただく。でもここじゃなくて、食事を提供する場所がいいわ。三百は手配してくださる?」
「もちろんですとも。もう生産はすんでいます。すぐにでも送らせていただきます。送り先の住所は?」
「ここで結構よ、ヴォックス。私から配給することにするわ。あなた、なかなかのやり手じゃない。アラスターが指南したのかしら」
ロージーが微笑むとアラスターは彼女に目くばせをした。
『私はパイプをつないだだけです。アイデアは全部彼が』
ヴォックスは照れ隠しに唇を尖らせた。ロージーがにわかに立ち上がる。
「よい商談ができてうれしいわ。あなた方にとっておきの部位を用意するわ、たらふく食べて行って」
「部位……たらふく……?」
『テリトリーに入ることですよ、ヴォックス』
震える体を押さえるヴォックスの横で、アラスターは舌なめずりをした。
「乾杯」
夕方、ペンタグラムシティの中央にある高級レストランで、アラスターとヴォックスはワインのグラスを掲げていた。
『ロージーを納得させるとは思いませんでした』
「君のおかげだ。私一人ではひとくいタウンに入ることだってできなかった。なにもかも……君のおかげだ」
ヴォックスはアラスターを熱心に見つめた。彼はその視線を感じワインの方に目線を寄せた。
『それで、どうするつもりなんです』
「そうだな、次は工業地帯で……」
『あなたがですよ』
「だから……」
『そうやって事業を「成功」させて……お金を稼ぐ……それがあなたの成したいことなんでしょうか』
アラスターはワインを口に運んでゆっくりと息を吐いた。ヴォックスはグラスを置いた。食事が運ばれてくる。
「成したいこと……?いや、考えたこともなかった。そうだな、今やってることは現世でやりたかったことの延長線だ。有名になりたい。金持ちになりたい。現世での失敗を取り返したい。……君はここで、地獄でやりたいことがあるのか?」
アラスターはナイフを行儀悪くもてあそぶと、レア肉のステーキに突き立てた。
『ええ』
一瞬、彼の目が深い暗闇を見るような黒に染まった。次の瞬間には、アラスターは何事もなかったようにナイフとフォークでステーキを切り分けていく。
「そうだな、そう……家族がほしいかな」
ヴォックスも食事に手をつけながらつぶやくように話し始めた。
「妻と娘がいたんだ、地獄に来る前は。私にはできた妻にかわいい娘だったよ。それに子犬だっていた。ある日、急にすべてを失った。君には話したことがなかったかな。どうも死ぬ前の数年の記憶がないんだ。なんで地獄に堕ちてしまったのか私にはわからない。わかったところで、もうずいぶん悪事をやったからな、戻れるわけでもない。ただ、彼女たちのことが気がかりなんだ。私を失って、今どうやって生きてるのか。本当に、ひどい……。彼女らが地獄に来るわけがないが、「正しい」情報を探してはいるんだ」
『そうでしたか』
「恥ずかしい話だが、生前は君のレコードを集めていたんだ。いくつも集めて、何度も何度も聞いた。困ったとき、悩んだとき」
『ああ、あれですか。ラジオ局で試しに録ったようなものですから、よっぽど出回るようなものじゃないんですが。物好きですねえ』
アラスターはワイングラスを傾けた。赤紫の液体が揺れる。
「一度、不思議なことがあった……」
『まあ、役に立つものがあって……』
声が被る。お互い少し黙った。テーブルの真ん中にナイフが勢いよく突き刺さる。二人のテーブルに影が覆うほどの巨漢が彼らを見下ろしていた。
「アラスター、よくも親分を殺したな。仇を取ってやる」
クモの巨大な悪魔だ。その背後には虫型の悪魔たちがアラスターたちを取り囲んでいた。
『ちょっと、心当たりがありませんが……人違いでは?』
アラスターが首をひねると、ヴォックスがテーブルを拳で叩いて立ち上がった。
「なあ、アラスター。私が相手しても構わないか」
『ご勝手に』
「俺たちはラジオ・デーモンに用があるんだ!」
「雑魚がしゃしゃり出るな!」
虫悪魔たちは激昂した。
テーブルの下から黒い、電源プラグのコードが伸びる。いくつもいくつも。虫たちが気づくよりも早く、それは蜘蛛の首に巻きついた。
「ボスがやられた?しょうもない」
ヴォックスは指を鳴らす。
「食事の邪魔をするな!たかるしか能のない虫ケラどもが!!」
「ぐえっ」
コードがキリキリと締まり、それは容赦なく蜘蛛の首を締め上げた。人の力の及ばぬところまで。ぶち、ぶち、と首と体が分かたれ、悲鳴を上げる間もなく頭部はごろりとテーブルの方に転がった。ヴォックスは荒く息を吐いた。店内は恐ろしく静かになった。一瞬、群れの後ろにいた虫悪魔が金切り声を上げながらナイフを振り回し始めるまでは。そこからは大乱闘だった。ヴォックスはコードで相手を締めつけ電気を流し、虫たちは武器を持って応戦した。アラスターは蜘蛛の頭部を拾い上げ、テーブルに乗せるとそれに爪でゆっくりと傷をつけながらワインを口に運んだ。大人数相手に戦うヴォックスの、なんと愉快そうなことか。己が傷ついても構わない、ムチャクチャな戦いぶり。これぞ地獄の住人!虫ギャングの最後のひとりが地に伏すと、ヴォックスはケタケタと笑い声をあげた。
「見たか!今日のことはテレビでじっくり流してやる!二度とオレたちにちょっかいをかけるな!」しばらく笑い続けていたが、急に電源が切れたように崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。
アラスターはテーブルに代金とチップを置き、ヴォックスに肩を貸した。
『そんな傷だらけの顔でテレビに出る?いい修理屋を知っていますよ』
妖しい輝きの後、二人の姿はレストランから消え去った。
「なんてすばらしい頭なんだ!」
ヴォックスは鏡に向かって自分の顔をしげしげと眺め、鏡の奥に映るアラスターにウインクしてみせた。
『お似合いです』
アラスターは口角を上げたがどこか興味なさげでもあった。ヴォックスの新しい頭は黒縁のカラーテレビで、ダイヤルは左目側に移り、頭頂部にはよく電波を受信できるように一対をアンテナが建っていた。画面の中に顔が映り、視界は以前よりクリアだ。
「ありがとう、アラスター」
『気に入っていただけたようでなにより』
「一枚撮ってもいいかな」
『ええ』
ヴォックスとアラスターは修理屋の主人に頼んで写真を撮ってもらった。ヴォックスはカメラを返してもらうと胸ポケットにしまった。
「現像したら送るよ」
二人は店の外に出た。街は夜中にも関わらず、赤く光り、退廃している。
「世のたがが外れている」
『おや、シェイクスピアですか』
「地獄ってのは、まったくおかしなところだ。誰もが死んだ時代に取り残されている。……君もそうだろう?本来積み重なるべき時があちこちに散らばっていて、人を惑わせる」
『おやおや!』
アラスターは感嘆の声を上げたが、それだけだった。ヴォックスは続ける。
「新しいものを好まない君が、私のこの頭を寄越してくれたことに感謝しているんだ。それは私に対する尊重だ。ありがとう」
『そうですか……。では私とあなたの仲を見込んでひとつ、明かしたいことがあります』
そう言ってアラスターは裏路地に入った。ヴォックスは彼の意図をはかりかねたが、もとより断る選択肢もない。素直に彼の後をついて行った。
『見てください』
彼は壁にもたれかかり、自分の首元に爪をかけた。指先から魔力の反応が現れる。その緑がかった魔力はアラスターの首を輪になって通り、鎖でどこかへつながっていた。
「アラスター。お前、誰かと契約しているのか?」
魂の契約。それは契約書に書かれた内容に絶対服従せねばならない強大な魔法だ。上級悪魔であるアラスターにそのような真似ができるのはアラスターと同じくらい力を持つ上級悪魔か、それ以上の存在――貴族悪魔や大罪の悪魔たち、もしくは王族か――しかない。
「なぜ、それを私に見せる?君にとって弱点でしかないそれを」
ヴォックスが問うとアラスターの笑みは三日月のように輝いた。
『なぜ?ヴォックス、あなたがいつかこの鎖を取り払ってくれると信じているからですよ。……確信があります』
「わ、私が……?」
アラスターはヴォックスの手を握った。頭が熱くなる。
『ええ、信じてますよ、ヴォックス』
それからいつアラスターと別れたのかわからない。ヴォックスが裏道をふらふら歩いているうちに、いつのまにか背の高い男娼に腕を握られていた。
「お兄さん、ホントにセクシ―な顔だね。オレ、テレビって大好き。お兄さんのチンポがどんなにセクシ―か、 見てみたいな」
「…………」
「無視しないでよ。いいでしょ、初めてなら優しくしてあげるからさあ」
「…………。なんだ、どこだここは。なんだオマエは」
「一緒にエッチなことをしようって言ってんの」
「私は男に興味なんかない。離せ、汚らしい」
ヴォックスが男の腕を払うと、彼はその場に立ち止まった。
「フン、なんだよ。でも言っとくけど、アンタ絶対男好きだよ。だってそうじゃなきゃ、そもそも話しかけてなんかない」
ヴォックスはその言葉に振り向いたが、男娼の姿はすでに夜の闇に消えていた。
もっと早く帰れる手段すら忘れ、オフィスに戻ったときには深夜になっていた。
「ガンバス、まだいたのか」
彼はソファに腰かけて帳簿をつけていた。
「帰りてぇのはやまやまですが、あんたに客が来ててね。戻ってくるまで帰らないの一点ばり。ああ、また女房にどやされる……」
「もう帰っていいぞ」
「はい。それから坊ちゃん……いい顔になりやしたね」
ヴォックスは扉を開く手を一瞬止め、しかしそのまま滑り込んだ。社長室の応接間で彼を待っていたのはインキュバスだった。部屋の灯りも点けずにキョロキョロと所在なく辺りを見回している。
「待たせたな」
ヴォックスの姿を認めると彼はすがるように近づいてヴォックスの服の裾を掴んだ。
「も、も、持ってきました!人間界から……あなたの情報!すぐ見つかりましたから……」
「けっこう」
ヴォックスは差し出された新聞を読み始める。日付は一九五六年の五月二十八日月曜日。一九五六年、五月二十八日、月曜日。
「またか……」
「あの、これで……返していただけるんですよね!?オレの十人の妻と三十三人の子どもは……!」
ヴォックスは落胆のため息を吐いた。
「実はこうやって情報を集めさせるのは君で三人目なんだよ、インキュバス君。一人目には正当な報酬を渡した。二人目にはもっと多額の金を渡した。それでもだめだったから、今度は人質を取ることにした。もっと本気になってくれればな!」
「オレは、オレはっ!本当に……ガフッ!?」
ヴォックスはインキュバスの頭を掴んだ。
「じゃあな」
脳に直接、電気が流し込まれる。インキュバスは白目を向き、泡を吹き、最後には部屋の壁に投げ飛ばされて動かなくなった。
「片づけは、明日でいいか……」
ヴォックスはオフィスチェアに座り、テレビの電源を落とした。机の上に無造作に置かれた新聞の一面には、こう書かれていた。
「人気テレビ司会者ウィリアム・ホワイトの不倫が発覚。妻と娘を銃殺し、その後自殺か」