1952年──お前は成功できるよダーリン。自分が信じていないだけさ。ずっとあいつに夢見さされてるだけ、あいつのための夢を。もう、起きな…。
1952年
ビルは覚醒する。と同時、反射的に起きあがろうとして体勢を崩し、ベッド代わりに並べていた二脚の椅子ごと床にぶっ倒れた。
「あッ」
痛みに裏返った声が漏れる。近くをスタッフが通りかかり、悪い笑いを誤魔化すように咳払いをした。
「あと五分寝れるぞ」
プロデューサーがテーブルに手をつき、彼を見下ろしてニヤついていた。
「わかった、起きる起きる。最悪な夢見だ。気色の悪い夢を見た」
ビルは踏ん張って立ち上がり、倒れた椅子を元の位置に戻す。
「どんな夢?」
「もう覚えてない。ただ、気色悪かったことだけ覚えてる。おぞましい、怪物かなにか。それだけ」
「疲れてるな、きみ。出番までリラックスしておけ」
「ああ」
ビルはこめかみに親指を押し当てた。椅子に座り直し、テーブルの上に置かれた台本を手に取ってなんとなしに眺める。内容はもう覚えている。というよりは、いつもどおり。そう、こんな感じだ……。
『本日ご紹介するのはこちらの洗剤! 以前同社から発売されたものから洗浄力がさらにアップ!さらに湿気に強い箱に入れてますので取り扱いも簡単。お値段は据え置き!お隣の奥様もこれを使っているんです!素敵な、真っ白なシャツで旦那様を会社に送り出しましょう!』
ウィリアム・ホワイトが働いているのはローカルのテレビ局だった。主要テレビネットワーク配給下の従業員が百人もいない会社。ほとんどの番組とコマーシャルが配給元の指示通りに流されていたが、隙間をぬうような空白の時間があり、自社の番組や宣伝を差し込むことがかろうじてできていた。
「お疲れさま。今日もほれぼれするような名演技だったよ」
本番が終わり、プロデューサーはビルをいたわるように肩を組んだ。
「それはどうも」
「しかし、ビル、湿気に強い箱のことなんて台本にはなかったと思うが」
「嘘に決まってるだろ?どこのだれが洗剤を湿気るまで置いておくんだ。少しでもいいとこをあげないと」
ビルは息をつく。
「こんなものだれも買わない」
ビルがいらいらしているのはだれの目からみても明らかだった。プロデューサーは帰りに飲みにいくか、というようなことをジェスチャーで示したが、ビルの反応がいまいちだったのを見てそばを離れた。ビルはスタジオの簡易的な控え室に戻り、テーブルに散らばった紙を集め始めた。
「ない」
だれかの台本、くだらない企画書、今年度の決算書、なんでもあるのに、ビルが三日前に出した新しい番組の企画書だけがなかった。だれかが間違って捨てたのか。くしゃくしゃに丸められた紙がゴミ箱に投げ捨てられる画がありありと浮かんだ。ゴミ箱を覗き込んだが、定期的な回収のあとだったようでそれの底面を眺めるに終わった。
「ビル?」
かんかんと金っぽい声が名前を呼んだ。振り返ると黒髪の女がいる。彼に向かってはにかんだ。ゴミ箱に顔を突っ込んでいるところを見られ、少々ばつが悪い。彼女は局の雇われ女優だ。ビルより十は若く、子どもっぽいところが抜けていない、かといってそれを武器にすることもない、うまく言えば純粋な女だった。彼女が持っている正方形の紙袋を見て、ビルはほとんどそれをひったくりたい気持ちになった。彼は胸ポケットから財布を取り出す。
「いくらがいい?」
「なにをしてらっしゃったの?」
ビルは手の中で財布をもてあそんだ。
「いや、きみには関係のないことだ」
「話してよ」
つっけんどんに言われ、ビルは不愉快になった。
「書類を探していただけだ。きみには関係ない」
彼女は目を伏せた。
「ジュニー、本当だ。いじわるじゃないよ。新しい番組の企画を出してたんだ。どっかいっちまってね」
「どんな番組?」
「……バラエティ番組だ。参加者を募って歌を披露してもらったり、トークをしたり」
「そういうの見たことあるわ」
「ここでやるってのが重要なんだ。うちの局の番組を見てもらわないと」
「多分つまらないから捨てられちゃったんじゃない?」
「わたしならなんでも面白くできる」
ビルはジュニーの荷物の端をつまんだ。
「いくらだ?」
「ビル」
ジュニーはビルの瞳を熱っぽく見つめた。
「あたし、お金がほしいんじゃないの。ねっ」
ビルは彼女の甘えたな態度にうんざりした。しばしの躊躇があった。
「……じゃあ日曜だ。夕方に迎えに行くから、いつものところで待っていてくれ」
「ええ」
結局ビルは折れた。ジュニーは紙袋をビルに渡す。
「あとどのくらい残ってるんだ」
「まだあるわ」
あいまいな返事だった。紙袋の上から形を確かめるように撫で上げると目に力が入り、ぞくぞくと興奮が伝播していくのを感じた。
車を家の前につけると、エンジン音を聞きつけた小さなお嬢さんが玄関のドアを勢いよく開き、ビルの元に走ってくるのが見えた。開けっぱなしの扉から、ラブラドールの子犬が飼い主の真似をして無邪気にたったと駆けよってくる。一人と一匹は、家主の周りをぐるぐると囲み、思ったことを思った順に話し始めた。
「パパぁ!パパ!あはは!今日はピクニックした!お庭で。何食べたか知ってる?ピーナツバターサンドよ!ブランコのとこで食べた。わたしが作ったの。ダイが!まだあるからパパにもあげる。ママと、わたしと、ハッティーで食べた。ママはハッティーにあげちゃだめって言ったけど、こっそりあげたの。だって、よだれたらしてたわ。それにね、喜んでた!」
ビルは一人娘を抱き上げ、柔らかなひたいとほおに口づけを落とした。
「ダイ。ピーナツバターはむし歯になりやすいよ。ちゃんと歯磨きはしたかい?」
ダイはこくこくと頷く。
「ハッティーは?」
「ハッティーは歯磨きしないもん」
「してるんだよ、パパが」
ダイアナはビルの顎に頭をこすりつけた。
「お帰りなさい」
家に入るとキッチンの方から声をかけられた。ビルは玄関の鍵をかけ、ダイを下ろした。ダイは子犬を捕まえようとリビングを走り回る。
「歯磨きするのよ!」
ビルはキッチンに入り、妻に口づけた。
「ダイはハッティーにサンドイッチを食べさせたらしい」
「まあ。きっと、大丈夫だと思うけど。味を占めたら困るわね」
彼女はオーブンの様子を確かめる。
「ダイの様子を見ていて。もう少しかかるから」
「わかったよダーリン」
ビルがリビングのソファに座ると子犬を抱いたダイがそばに寄ってきた。
「パパぁ」
ビルは彼女を抱き上げて隣に座らせてやった。ダイは犬の歯をしげしげと眺めている。キッチンに備え付けられたラジオから流行りの音楽が流れていた。
ダイを寝かしつけてから二人でソファにもたれかかり、テレビを見ている。同軸ケーブルから流れるドラマはチープだが、映画を観に出かけるのとは違う得難い体験だった。
「最近……」
彼女はビルの手を取った。
「疲れてるようにみえる」
「いや」
ビルは彼女のまだ若くすべらかな手を握る。
「ラジオのパーソナリティを辞めたこと後悔してる?」
「マーゴ……」
彼女は少しいじわるな、確信を持った顔をしていた。
「結果を出せないんだ。企画を持っていっても無視されてるも同然だ。……つらいよ」
「大丈夫」
マーゴはビルに腕を回し、親愛を持って彼を抱きしめた。
「きっと成功するわ、ダーリン。まだあなたが信じられてないだけ。ね。今日はもう寝ましょう」
ビルは彼女のほおに手を当て、存在を確かめるように首元まで指で探った。
「少しだけ、仕事がしたい。三十分したら寝室に行くよ」
「ええ」
ビルは立ち上がって、テレビを消した。マーゴを抱きしめ、キスをし、書斎に向かう。手元のランプだけを点け、机に置いた紙袋を取り上げた。不貞の証。中身を取り出す。
「……」
レコード。すすけた白い紙のジャケットに日付と局名だけがそっけなく書かれている。電気蓄音機に慎重にセットし、針を置いた。椅子に座る。胸がばくばくと鳴っていた。今まで見た日付の中で一番、古い。
『あ、あー…』
声が、きこえた。
『みなさま、ごきげんよう。いえ、これを聞くのは一人、でしょうね。レコードは複製しないと。あなただけです。この私を独り占めできるなんて、なんと幸運な人なんでしょう』
耳に血が昇る。握った手の親指に力が入った。真空管を使って録音されたレコードは彼の言葉をはっきりと話していた。
『今日はいい天気ですよ。あなたがこの街の湿った気候をいい天気だと思うなら、ですが。紹介が遅れました。私、アラスターがあなたにお付き合いします。さて、あなたは何がお好きかな?……ジャズをかけて見ましょうか』
レコードからかろやかなピアノの旋律が流れ始めた。ウィリアム・ホワイトは椅子の背にもたれかかり、額の汗を拭う。
『少しは落ち着きました?』
曲が終わる前に見透かした声が入り込み、背筋がぎくりと痛んだ。
『私も……少し考えました。今やっているこれは、非常に実験的なことなんです。少なくともこの街では。地方のラジオマンの声を録音する。その価値が私にあるのか、ないのか?』
ビルは立ち上がり蓄音機の前に立った。なんて弱気なことを言うんだ!
『意味があるのか、ないのか。私の声が後世に残ることが世界に変化をもたらすのか?もしくはまた戦争があって、こんなレコードは粉々に砕けてしまうやも?少なくともふだん、クレセントシティの住人に声をかけるのとは違う……』
少し、間があった。
『ただ。今ここに立っているあなたは。私を知っている。私を選んでいる。あなたになにか影響を与えられれば、興味深いことが起きるかもしれません。足早い歴史のさなかで、あなたの頭の中にピンを留めましょうか。名前は?』
「ビル・ホワイト」
反射的にそう答えて、ビルはふらふらと後退った。吞まれている。
『いい名前だ。あなたを完全に表している。きっとあなたは高慢で小心者で、書斎かなにかで私の声を聞いて悦に入ってるんですね』
ビルはその場に座り込んだ。止めなければ。彼の声を止めなければ。今までジュニ―から買い受けた(あるいは自分の価値を売った)レコードは、このようなものではなかった。アラスターのラジオ番組を録音しただけのものだった。彼の目はそこに生きる人々に向けられていたので、ビルはただ彼の話し声に惚れ惚れとし、興奮し、尊敬し、模倣を願い、時に己の昂ぶりを治めても、一人でいることができた。今、彼は、私を、見ている。
『私の愚かな崇拝者さん。パパ・ラバの交差点でまたお会いしましょう』
ぶつ、と音声が途切れた。終わった。ビルは這って蓄音機のアームを上げた。レコードを慎重に取り上げて、空の紙箱にしまい、ほかのレコードと同じように棚にしまった。ランプを消し、寝室に向かう。服を脱ぎ、ベッドに潜り込む。マーゴはもう眠っていた。彼女の髪にキスをし、ビルは目を瞑った。