Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    Lioia Toya

    @notle0237468a

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 28

    Lioia Toya

    ☆quiet follow

    ゆきのはな事勿れ
    レオアズ アズールVD&BD 年齢操作(未来)

    ##レオアズ
    ##年齢操作

    レオアズ「――あなたがいけないんだ!」
     頭に血がのぼり、気がつけばテーブルを叩きつけながら立ち上がって怒号を浴びせていた。
     前には険しい顔した恋人が。立ち上がった拍子に椅子は倒れ、胸ぐらを掴んで引き寄せられる。息苦しさが増すが、負けじと目力強く三角にさせた。
     柳眉を逆立てる彼がぎりと歯軋りし、諦観した様子を、怒りを顕にしていた自分は気づかなかった。押し戻すように襟を放し、ふらついた。喉を抑えて咳を一回、襟を整える間を置くことなく怒りに満ちた気配が鎮まる。
    「――ああそうかよ」
     感情を抑制したバリトンを僅かに下げる。待って、と手を伸ばしても既に遅く、彼は背を向け出て行ってしまった。玄関から施錠された重重しい音が先か、血の気を引くのが先だったか、同時だったか。
     切欠はなんだったか。意見の食い違いに背を向けたか、反りの合わない思考とぶつかったのか、虫の居所が悪かったのか。冷静さを取り戻した今となってはわからない。全て重なってしまったのかもしれないのだと、怒鳴り散らした後の祭り、彼は、レオナは出て行ってしまった。
     一か月に四回、一週間に一回の頻度でレオナは泊まりに来る。仕事終わりから直行してこの家に帰り、夕食を食べ、疲れを癒やすために風呂に入る。時には日常的な会話から愚痴混じりにグラスを傾けながら就寝時間まで夜を過ごす。
     次の日の朝には帰ってしまうが、時間を作って会いに来ているレオナは、会えなくなると数か月も空いてしまうからと泊まりに来る。当たり前になっていたことだから、男の存在がいないだけで違和感を抱える。
     一週間に一度の頻度の泊まりは多かったが、それも今夜のはずがレオナを怒らせて帰ってしまった。怒っていたのは自分だったか。勢いに流れて怒鳴り返すことなく、胸ぐらを掴んだのに暴力的に走ることもなく。弁明も説得も諦めて、もはや面倒になったのか帰ってしまったから、いっそのこと言い争った方がマシだった。
     ――いや、怒鳴り返されたところで火に油を注ぐ形となり争いは消えず、猛火することだろう。咆哮することも噛み付くこともなくいた彼だから、鎮火した。
    「……っ」
     伸ばした手を降ろし、白い肌が蒼白くなるほどのにぎり拳。後悔の涙は出ない、感情のままの悲しさもない。ヒステリックから引き起こした虚しさだけが残る。
     喧嘩することだってしょっちゅうだというのに。ヒートアップしたのち頭に血が上った己の失態。急激な脱力感にふらつきながら、氷水をかぶったかのような寒さに震える。
     時計の針は夜を差す。着替えも電気もなにもかも後回しにして、暗い寝室へ転がりこみベッドへ倒れ込んだ。
    「…………」
     雪の降る二月七日の寒い夜、一人分あいた隣が寂しいのは気のせいだと思えなかった。
     就寝時に使う愛用の抱き枕を引き寄せて、ここにはいない背中に縋るように顔を埋める。綿の柔らかさに染み込んだ香水の残り香が、よけい虚しさを増す。投げやりにもなれない中途半端な罪悪感が胸の内から広がるように滲む。
     しんしんと降る雪のように、心が冷たい。


     喧嘩した夜から一週間が経とうとも、互いに音沙汰もなく日常を繰り返すばかり。
     仕事帰り、夜空を隠す雪雲の下。甘い匂いをただよわす街中はピンクローズ色に染まりきっている。どことなく胸焼けを起こしたように胸を押さえながら、アズールは一人、買い物を。
     店中にはずらりと並ぶお菓子の陳列棚。世間を賑やかにさせる猫にちなんだお菓子が一台の商品棚を埋めている。ネコ型クッキー、黒猫のシルエット、優雅に佇む金色のキャッツアイ、どの猫型お菓子も目立っていた。世間の猫ブームは落ち着いたが、お菓子には定番だ。
     猫をよけて、無難に――アニマルクッキーが詰め込まれたファンシーな缶を手に取った。陸に生きる動物の形をしたクッキーがプリントされている包装紙。バニラとカカオ、カフェオレなどの豊富な味揃え。苺や抹茶などもあった。幼い子どもが喜びそうなクッキーだ。
     それと、すぐ隣の商品棚に濃密なボルドーの包装がされたエレガントな小箱もお買上げ。
     気まぐれに手に取ったクッキー缶と底が尽き始めた愛飲の紅茶缶を購入して、降り積もる雪道を歩く。今だけは、この寒さが好きになれない。グローブを嵌めた手は火傷したような痛みを伴い冷たい。
     自宅の玄関を開けて、外気とまた違った重たい冷気に身を震わした。居間へ続くスライド式扉を開けると温風が冷えた身体を包み込む。
    『おかえり』
    「……ただいま」
     男の耳に残る穏やかなバリトンを思い出す。自分よりも先にソファで寛いでいる姿が重なるようにブレるも、今夜は彼が訪れることもなく、違和感がふくらむ。
     それもそうか。あれだけ喧嘩すれば顔も見たくなかろう。スマホを覗くが、仕事に使っていない私用のスマホにはレオナの名は映っていない。
     二人の距離を開けて、考える時間と冷静になる時間を作らなければ。部屋着へ着替える際に、当たり前となっていた日々への違和感を払拭しなくてはならない。手帳と向き合いながら予定を組み、予定通りに進むことこそ完璧なスケジュール。しかし、急なアクシデントに弱く、普段の口喧嘩なら「はいはい」とあしらわれながらアズールの方から鎮火する。
     今回の喧嘩はいつもより激しい。ソファに深深と腰掛けゆっくりと息を吐き捨てる。ぼんやり天井を見上げ「……寒いな」室内は暖房が効いて暖かいはずなのに、ちっとも温もらない指先を摩る。
     何気なくテーブルに立てかけたフォトフレームに視線を向け、音を立てることなく伏せた。美術館へ出かけた際に、スタッフに記念に一枚に、と撮られた写真だ。驚いた顔したアズールと、引き寄せたことでイタズラ小僧のような顔したレオナと、僅かな出来事を一枚におさめたツーショット。会いたい男の顔を、写真といえど、煙を焚く心では見れない。
    「何か、飲むか」
     温かい飲み物でも飲もう。きっと温まる。それと購入した缶も仕舞わなくては。重たい腰を上げた。
     食器棚からケトルを取り出し、磁気のネイビーマグカップからマドラーもセラミックトップにならべる。
     ピッチャーから水を注いだケトルを焜炉にセットし点火スイッチをぽん。カチカチと火花が散ると青い炎が縁を描くように点された。丁度良い時間にタイマーセット、湯気立つまでの間に購入したクッキー缶を目隠し棚へ仕舞った。
     ――ガチッ。インターホンもなく、玄関から聞こえた解錠音に肩が跳ねた。
    「え?」
     反射的に卓上カレンダーと夜九時を回っている時計を確認して、焜炉にかけたケトルをよけた。玄関へ向かえばそこには頭や肩、衣服に雪を散らしたレオナが佇立していた。
    「……」
     見つめ合うこと数秒。普段と代わりない愛想のない顔してとがりの目をした恋人がいる。けれど、頭に雪が積もったままなのは少しだけお間抜けだ。
     家の合鍵を渡してあるのだから、いつ、どの時間にこの家に来ようがレオナの自由だ。
     どうして帰って来たのか、帰って来てくれたのかの予測するより以前に考えつかない。仲直りの選択が浮かんだものの、来る予定はなかったのに習慣となっている泊まりに来てしまった、だとか。深読みは得意だ。
    「……忘れ物ですか?」
    「……」
     何も言葉を発さないのならばアズールも何も言わない。嬉しいような嬉しくないような。下手に刺激するよりマシか、とおしゃべりに花咲く唇は閉じておく。
     冷たい雪だけは払ってやる。雪降る寒空の下を歩いて来たからか、鼻の頭も赤くして。冷たい頬に触れて、
    (……おっと)
     寄った眉根に手を離す。触れられたくなかったみたいだ。
     何用で訪れたのか分からず終いだが、大事なことならばそのうち伝えてくるだろう。焦ることなく、先週のように火花を散らさぬようにくるりと踵をかえした。キッチンへ戻らなければ。後ろから足音にあわせて追いかける気配。何も言葉を発しないが用はある模様。
     リビングルームへ踏み入れる頃には彼も洗面室へ。
    「寒空の下、ご苦労様なことで」
     雪道を、雪がちらつく空の下を歩いて来たのだ。来ないからと使わずに四隅に寄せていた電気ヒーターを定位置へ移動し温度調節も済ませ、手を摩りながらキッチンへ戻った。指先まで冷たいアズールが寒さに震えていたから、丁度よかった。
     再びケトルに火にかけ湯を沸かそうとして、冷蔵庫からミルクを取り出し、一四センチほどの片手鍋を隣の焜炉へ並べ注いだ。あまく優しい香りがする。
     苦みのあるコーヒーでもいいかもしれないが、寒い日だからこそホットミルクも温まる。レオナは寒い日にはホットミルクを飲んでいた。
    (職場でイヤと言うほどコーヒーを飲んでいるから、飲み始めたんでしたっけ)
     ガキっぽいから嫌だとか乳くせえなどと言わず、自分に合った温まるドリンクを飲むようになったことを思い出す。温めたミルクを嗜む姿は様になるけれど、真顔で飲むものだから大笑いしていた。
     自分用の飲み物はカフェインレスと印刷された市販のドリップコーヒーと、シュガーとミルクの代わりにマシュマロを落とすだけの簡単なコーヒーにしよう。彼にはホットミルクを。飲まずに残るのなら自分で飲むさ。寒さを凌ぐように、腕をさすった。
     ケトルの底から泡が浮上している音。とても小さな音だが、海にも似たような音がある。海底から吹き出る泡の湧出だ。口から泡を吹き出す空気泡だとか、欠伸して浮かぶ泡とか。
     泡音、揺れる炎の音、時計の音をお供に、食器棚から絵付けもされていないまあるい白磁食器を取り出し、大輪の花ガーベラを彷彿とさせるレースペーパーを敷いて、仕舞ったばかりのクッキー缶を取り出した。ラッピングシートを剥がして手早く小さく丸めてダストボックスへ。
     銀色の四角いプレーン缶が顕に。金色に塗られた縁に引っ掛け蓋を開ければ甘いバターの香りがほんわり、ふんわり。
     スイーツトングを握って好みのクッキーを取り分けた。バターが香るバタークッキー、口の中でほろりと砕けるラングドシャ、窓のように四角いツートンクッキー、ラズベリージャムのジャムクッキー、チョコチップが練りこまれたチョコチップクッキー。一枚ずつ並べた。
     オープンキッチンだから、どこに立ってもリビングルームを一望できる。いつの間にか手洗いを済ませたレオナが正面に立っていて、ぎくり。視線が合う前に、彼が使うマグカップを用意しなければならないからと、わざと体ごと背けた。背中から突き刺さる視線を無視しているから気まずさがより増し渦中にはまる。底の深いマグカップを並べて呼吸に紛れてため息がこぼれた。
     言葉を交わさない時間が過ぎるだけ。正面に回っていたレオナはキッチンへ踏み入れると、肩を並べるように隣へ移動した。
    (わざわざ隣に移動してまで、言いたいことでもあるんですか?)
     三つ編みに結われたトレードマークを一見してから揺れる青色へ。焜炉から吹き出る青い炎を静かに眺める。冷たい色した炎なのに、ほんの少しだけホッとするあたたかさに落ち着く。
     ピーッ。キッチンタイマーが終わりを知らせた。スイッチオフにして、愛飲している紅茶からコーヒーが押し込められた目隠し棚から取り出して、それと疲れた夜のためのマシュマロも。おやつにして食べるのではなく、飲用に。
     ドリッパーとペーパーフィルターをセットし砂時計をひっくり返す。円を描くようにお湯を注いで細かな泡がぽこり、縁へ広がるごとに泡の層が濃くなるコーヒーグラデーション。マグから舞う湯気にコーヒーの香りが充満した。
     小鍋を確認しながらフィルターを取り外し、マグカップにふわふわのマシュマロをひとつ落とした。壁際に立て掛けているトレーを手に取り、お菓子と自分のマグカップを寄せておく。
     ぽこぽこ泡立ち吹きこぼれないように手のひらサイズの泡立て器で円を描きながら牛乳を温めている。小鍋のハンドルを持ち上げて、縁にある一箇所の注ぎ口から橙のマグカップに注いだ。温めている最中もただよっていたが、香り立つあまい香りが優しい眠気を誘われる。こぼれた白い水たまりは布巾でサッと拭き取った。
    「どうぞ」
     レオナへ取っ手を向けるのだが受け取る動作もなく。隠すように摘んでいる「なにか」をマグカップへ沈めた。マドラーを抜き取りミルクをかき混ぜる。
    「あの、」
     今、何を入れた? 大きな手に隠れていてよく見えなかったが、僅かに見えた黒い塊は……チョコレート? まろやかな乳白色が徐除に黒く渦巻く様子は、ミルクの熱で溶け出している。刻んで入れないから、チョコ玉が溶け切れず底に沈んでいるだろうに。
     マドラーは抜き取りマシュマロをひとつ落とされ、完成したものはホットチョコレートだ。「ん」と言葉にせずとも差し出した。マグカップを両手に持つと、冷えた手のひらに染み込むように熱が伝わる。
    「……あなたが、ホットチョコレートを?」
    「目の前で見てただろ」
     ミルクを温めたのはアズールだが、家主であるアズールは家事も全て自分の手で行っている。が、レオナの場合は家政婦顔負けの知識と行動力を携わる後輩に任せている彼がホットチョコレートを? 肩を並べているレオナを仰いで、片眉吊り上げ機嫌が悪いと主張するように唇は曲がり、仏頂面したレオナのを認識する。
    「んっ、ふふ、あはっ」
     こんな顔してマドラーで混ぜたんだ。おかしくはないはずなのに笑いが込み上がる。耐えるように口唇を鉄扉のように閉じ手で抑えるが、隙間から漏れる噴き出し息が塞ぎきれていない。隣から、笑うな、と落ち着かずに咎める言葉に今以上に零れそうになる笑いを耐えた。
     カレンダーを一瞥した。
    「今日がバレンタインだとご存知で?」
    「毎年にげぇチョコ用意してただろ」
    「甘いの、あまりお好きではないようなので」
     二月一四日。カップルを賑わすバレンタインデー。家族へ贈ったり、友人へ贈ったり、世話になっている者へ贈ったり、感謝を伝えたり。
     甘いものはあまり好きではないからと、毎年この時期にはミルクチョコレートではなく、ブラックチョコレートよりも苦みの深いダークチョコレートを贈っている。
     それを覚えていたらしい。今年は彼からの逆チョコとやらだ。たくさんの贈呈品を受け取るだけ受け取り四隅へ置きっぱなしにする彼が。いや、これも彼らしいのか。
     豪勢な贈り物でもなく、詫びのお菓子でもなく土産でもない。チョコレートを飲み物にして贈るなんて、これも彼の後輩による入れ知恵かそれとも義姉のアドバイスなのか。
     くふくふと笑いが溢れてしまい、止まらない様子にすっかり拗ねてしまった彼がトレーを片手に持ち上げ、暖かみが広がる空間までアズールを導いた。
     ソファへ腰を落ち着かせるも、笑いが止まらずひいひいと引き攣る腹筋を落ち着かせるために腹を撫でた。お腹が痛い。
     手に持っているマグカップはしゅわり、しゅわしゅわとマシュマロが溶け出していた。泡吹く真白のお菓子。ふう、と一息ついて呼吸を整える。落ち着いたところで手に持つ温まるマグカップを持ち直した。
    「今月は泊まりには来ないだろうと思って、チョコレートは用意していないんです」
     喧嘩は長期戦も覚悟していた。連絡を取ることなくフェブラリーは泊まりに来ないのだと、一人の時間で考えることも必要だと腹を括って用意していなかった。覆る出来事となり、月に四回の泊まり当日に顔を出してくれた。
     ふーんと鼻抜けた返事だが、視線を彷徨わせ重ねられたクッキーの中から一枚、ココアが使われたクッキーを頬張った。ぱきんと割れた菓子くずがぱらぱら落ちて、指先に付着した粉くずを舐める。
     目の前で見せつけられた動作にぎくりと心臓が揺れながら、自然な動作で熱い視線から逸らす。ごまかすように湯気立つホットチョコレートを一口――にがい! 舌に襲いかかる刺激にマグを遠ざけた。
    「こ……っ! 投入したチョコのカカオ含有量はいくつです? 九〇以上はありますよね?」
    「カカオ一〇〇パーセントだったな」
     またど偉いものを溶かしたな。一口啜るホットチョコレートはブラックコーヒーと違う苦味が……。すごく効く苦味だ、これがまた癖になる、と唇を濡らすチョコを舐める。見えずとも伝わる視線に瞬く顔を見上げた。
    「飲んでみます?」
     飲みかけですけれど。マグカップを傾け色濃い波がうねった。ぬくもった手ごと掴んで引き寄せた熱に包まれる。一口含んた苦みの強いバレンタインチョコ。さて、一口飲んだ感想は?
    「……苦いな?」
     想像して以上の苦さに瞠目したレオナの顔に忍び笑い。
    「僕から渡すチョコレートでも、せいぜい八〇から八五パーセントですよ」
     毎年、アズールから渡すバレンタインチョコは甘さ控えめのハイカカオチョコレートだ。洋酒漬けしたチェリーボンボン、しっとりしたガトーショコラ、ナッツやフルーツが練り込まれたブロックチョコ、生チョコにトリュフ、味を変えてフレーバーチョコ。バリエーションは毎年変えている。
     受け取るチョコは全て苦味の強いもの、アズールへ渡した苦いチョコだった理由は恋人から贈られる苦みの深いチョコをチョイスしていたからか。赤色に甘いチョコレートではないところも彼らしい。糖分の高いお菓子に気遣ったのかもしれない。甘かったとしても、味わって食べるつもり。
     たっぷりあるホットチョコレートは、名前に騙されて甘いのだと飲むと口の中が渋くなる。ミルクでまろやかにはなってはいるが、カカオの強い風味が覿面に効いていた。
     玉になった塊を舌でこねつぶして飲み込む。やっぱり苦くて、甘いものが欲しくなってしまう。「ほら」と口に押し当てられたクッキー。それはあなたのですよ。口を開く前に唇に挟み込んでくるから前歯で挟んだ。押し込むクッキーは香ばしいバターが鼻から抜ける。咀嚼を繰り返しながら苦味が緩和されるが、口腔内に残る粉っぽさに流し込む。横から口内へ押し込められたラングドシャが舌の上で砕けた。咀嚼して飲み込むまで、次を口許へ押し付ける構えをとっている手を掴みとめた。
    「餌付のつもりですか」
    「腹いっぱいなんだよ」
     満腹だからと、一枚、また一枚と食べさせてゆく。今度は甘酸っぱい香りのするクッキーを舌の上へ押し当てられ、コーティングされたラズベリージャムが舌の上で溶けた。
    「ん、食ったな」
     最後に残った四つ窓クッキーは自分の口へ。一口で頬張り、コーヒーを優雅に嗜む。
    「わかっててやってますよね?」
    「なんのことだかさっぱりだ」
    (わかってやってるな、この男は)
     結局、レオナが食べた来客用お菓子はチョコレートが入ったクッキーだけ。もう確信して食べている。
     菓子くずが付いた口周りを親指で拭われ、口直しにマグを傾けようとして横から掠め取られた。「ちょっと」咎める言い回しに続いて取り返そうと手を伸ばし、あめえなんて言いながら自分用に淹れたコーヒーが甘くてマグカップを入れ替えられてしまう。レオナの手には簡単に作られたホットチョコレート、難なく飲んだ。苦いのに……よく耐えている。アズールの手にはマシュマロが入ったコーヒーをひとくち。
    (……甘い)
     小さなマシュマロひとつでこんなに甘いのだから、彼には甘すぎるだろう。熱に面した部分から溶け始め、浜辺に打ち寄せた波の花のように泡吹いているマシュマロをするんと吸い込んで、しゅわしゅわと溶けている。口の中で溶けた強い甘味を転がした。
     心も体もあったまる、暖かな気分とはこういうことだろうか。むず痒い。
    「っ……」
     すりすりとこすりつける指先に、マシュマロごと飲み込んだ。指の形を確かめる相手の指が、微動した指先を捕まえる。爪先へ滑らせて、爪の形を確かめるように、珊瑚色の爪が桜貝色の爪と重ねる。
     ……むず痒い。
     かち、とムードに似つかわしくない音のはずなのに、全身の産毛が逆立ち呼吸がしづらくなる。緊張した面持ちで黒い鏡を覗き込む。縋れるものは半分に減ったコーヒーだけ。瞬かないコーヒー色したスカイブルーが揺れている。
     柔らかな空気でもあり、張り詰めた空気が部屋いっぱいに広がり押し合っている。
     会話はない、モーター音だけが聞こえる。棘はないけれど緊張の針はある。空気が送り込まれて今にも破裂してしまいそうな風船に掠れそうなほど張り詰めていた。
     何度この気配の下にいても慣れない感覚に、口から心臓が飛び出てしまいそうになる。
     片手に握るマグカップに縋るが、黒い鏡を覆いマグカップを奪われローテーブルへ押しやられた。手持ち無沙汰になってしまった手を掬われ、硬い手のひらを撫で握り拳ごと包み込む。手で掬っただけの力だ、振り解けるけれど――揺れる気配に解けることなく、このままで。
     側頭部をこつん。耳許で聞こえる低い唸り声。威嚇でもなく、怒りでもなく、警戒したものでもないその唸り声の感情はもうわかってる。
    「〜っはあ……」
     彼なりの「ごめんなさいあまえたい」に心臓が爆発してしまいそう。普段は誰にも見せることのない行動に、何を企んでいるのかと警戒や訝しげるよりも悟ってしまった。
     掬われていない手をいっぱいに広げるように片腕を伸ばした。器用に腕の下を潜ってアズールへ伸し上げてくる。
    (僕の腕はトンネルではないんですけど)
     言葉を紡がないレオナ、巨軀を腕に抱き締めた。
    、ごめんなさい」
     彼の後ろに回した手で頭を撫で回した。卒業してから好き放題に伸びた長い黒髪を指に掬って、もう片手は後頭部へ。指が耳を捕まえ揉んだ。力の抜ける喃語が息とともに吐き出されながらソファと挟まれながら沈むように潰される。
     押し当てた側頭部がぐりぐりと擦り寄ってくる。
     首を掬われ開いた唇から覗いた舌を食んだ。「あめぇ」なんて口走っているけれど、マグを交換したのは自分のくせに。文句をこぼすよりも先に塞がる唇は離れることはなかった。


     言葉を発することもなく、抱き合っている間も刻刻と時間は進む。時計の針はかち、かち、こち、と二二時を差した。音を拾ったレオナはソファと己の体で閉じ込めていたアズールを解放し起き上がらせる。傍に置かれた荷物と外套を手に取るその様子を口開けて見上げる。
    「今夜は帰る。仕事も残してきた」
    「あなたが仕事を残さない日なんてあったんですね」
    「期限付きのな」
     期限付きでも、ぎりぎりになった漸く重たい腰を上げていた口がいうのか。
    「二月は忙しくて、今月は帰ってこれそうにない」
     それは、二月の、月に四度の泊まりがないということ。先週は喧嘩して帰ってしまい残り三週間。二月の残日もここへ来れないというのか。だと言うのに、忙しい中、一度は切り上げアズールが暮らすマンションへ顔を出したのか。来てくれた喜びを受けていれていいのか、いつもなら必ず泊まる日なのに帰ってしまう淋しさなのか、仲直りしたのに落ち込んでいいのかわからず僅かな困惑を払う。
    「お見送りします」
     外套を羽織り玄関へ向かう後ろ姿を追いかける。「見過ぎだ」と振り返らずとも言われようが、目に焼き付けるように見る。
     夜は、一人の夜は寒いから、このまま帰ってほしくない。
     どうして仕事なんか残してくるんだ、と言いたいことは山ほどあるが、すべて呑み込む。
    『今夜、どうか、お傍に』
     開けかけた口を閉じて、声に発することなく舌を動かす。
     夜は寒いんです。また寒い夜を過ごすのか。本当に行ってしまうの?
     忙殺のレオナに無理は言えないまま、固く閉じる。
     その様子とは違い、レオナは口角上げて流し目にアズールの様子を見ている。防寒着に身を包む動きは止めない。
    「俺がいなくて淋しいのか?」
    「……そう見えますか」
    「ああ、見える」
    「そうでしょうね」
     悄気た感情を隠すことなく、心のままに淋しさを表す言葉。呆気に取られたのは一瞬だけ、引き結んだ唇が見えた。
     雪で湿っていたマフラーをつまみ取った。暖房の効いた部屋にあったから乾いていて、ぽかぽかと暖かい。
    「……
     暖かくして帰ってもらわなければ。マフラーを巻いて、雪道の寒さを凌ぐためにマフラーをしめすぎず緩すぎず丁寧に巻いた。頭上からじぃと見てくる翠目。視界を覆うように掌で覆いながら前髪をかきあげて額を合わせた。至近距離から覗く双眼が名残惜しくなる。
    「もう寝ろ」
    「レオナさんは眠くありませんか?」
    「濃いカフェインとったからには眠れねえよ」
     それって、苦いホットチョコレートを飲んだからでは。カカオ成分に含まれるカフェインを思い出して首を傾げた。
     指先が頬を掠めて、片眉がつり上がった。
    「冷てえな」
    「……!」
     触れてしまった手を離し後ろ手に隠す。そんなに冷たかったか? 後ろ手に隠した手を擦り合わせると、確かに……氷のように冷たい。手だけでなく身もひいたのだが、追いかけた巨軀、縮まない距離から息を奪われた。
     ちうと吸って、息を吹きかけるように流れてくる熱い魔力が唇から体の中へ流れてくる。灼熱魔力が逆流しているような、渦巻いているような、熱い。底から沸騰する感覚、見つめる翡翠も、重なる唇も、吐息も、体温も、注がれる魔力も。何もかも熱い。
     重ねただけのソフトなキスなのに、腰が砕けるかと思うほど体感的に濃厚なキスをした。
    「はっ……」
     離されて呼吸ができた。肺いっぱいに空気を送り込むが、胸は早鐘を打ち重なった口唇がふるえた。額を合わせたまま、色つやとした声が掛ける。
    「冷たくなる体の原因を教えてやろうか。淋しがり屋のタコ」
    「こ、答え、言ってどうするんですか!」
    「魔力をお前の中に送り込んだ。あったかいだろ?」
    「あっ! た、かい、ですけど」
     冷たかった原因は、アズールが淋しがっていたから。それだけの簡単なこと。魔力保持者にだけ降りかかる魔力の乱れだ。
     アズールの場合、後の祭りに燃えかすが舞う後悔と、焦がれるあまりに淋しさを募らせたことで情緒不安定となり魔力乱れを引き起こした。周囲の空気が極寒に立っている感覚となったり体が冷たくなるように冷えてしまった。体への害はないが、ただただ、淋しくて寒いだけ。
    「そんなに会いたかったのか?」
    「な、べっ、べつに、会いたいなどとは……! 合鍵もお渡ししているんです。いつでも帰ってこれるのですから、あなたに焦がれてなど!」
     それだけなのだと自覚した途端、頭から上気した。言い訳まがいな弁明ににやつかれる。
     後ろに回していた手を捕まえて頬に当てる、人体の体温が伝わって――ぽかぽかする。「寒くは?」「……さむくないです」安堵したように笑うから、照れ隠しの声もあげて言えなかった。指先まで温かくて、もう寒くはないのは本当だから。
     鼻先を肩に寄せて頭をこすりつける。「お前の身体なかから俺の匂いがする」おくられた魔力に留まらず獣人特有の匂いをつけられた。揺れる尾は機嫌が良さそうで、鬣に擽られながらふわふわなそれに白銀の髪を押し当てた。人魚の匂いは、つくだろうか。つくだろうと見込んでマフラーに埋めうりうりと擦り付け髪が揺れる。
     獣人属が集まった彼の仕事場で恋人の匂いを振りまいてしまえ。茶化されてもレオナなら恋人の存在を自慢しそうだ。淋しがりやだ、と余計なことを言わぬように釘を刺さなくては。
    「……ん?」
     ご機嫌に揺れていた尾がぴたりと止まっている。面を上げて見えた双眸に本能的に身を引いてしまうも、こちらも反射的に捕まえて目を見開いて凝視してくる。恨めしいような名残惜しいような、惜しげに大きなため息。「一発決めときゃよかった」と喉に詰まった物を吐き出そうとする声で下品なことを言うから、自分の顔は林檎のように赤くなっていると思う。
     気分を良くしたレオナ、「……腰を抜かすまでキスしてやろうか? それとも、このままいい子に寝るか?」寝室を促しながら鼻にすりすり。
    「ね、ねます」
     おでこをくっつけて覗き込む翠と唇に今度こそ腰が砕けかねない。子どもに言い聞かせるような口調に歯向かいたいところだが、彼との長いキスはねちっこくて離してはくれないのだ。歩けなくなる前に身を引く。
     入浴後のように火照った体を抱きしめられ、頬へチークキス。離れたのち頭を引き寄せ乱れた髪を梳る。
    「おやすみ」
     額にやわこい感触に見上げたが、見えたものは玄関へ遠ざかる広い背中。見送りに施錠の音を聞き取り、「キザなことをする……」口付けられた額を抑えてぼそり。
     手首を鼻へ寄せ嗅いだ。自分からレオナの匂いがする。体液とか体臭といったものではない。血液が循環するのと同じで魔力が身体の中に浸透している。感情に左右され乱れた魔力が補われたため、これ以上魔力が不安定になる心配もない。一時的とはいえ、ぽかぽかする。
     直接魔力が注がれるとなると、その分強力だが人前では言えないことをするため、魔力に包まれたり送り込むだけなら手などに触れるだけで十分だ。
     そう、皮膚との接触だけで十分。……気づいてしまった。
    「魔力を補うだけならキスする必要はないじゃないか!」
     雪道を歩いているであろうレオナに向かって声を荒げた。どさくさに紛れてセクシュアルなことを……!
     視界に入らない分では気づけないことも多々あるが、色艶を含んだ何気ない動作、行動に気づかないアズールは鈍感ではない。

     今夜も一人だ。来週も、一人。
     習慣になっていた泊まりがない、顔を合わせない違和感に寂しい夜を自覚してしまったが、ベッドの中に入って毛布へ移るぽかぽか体温とあたたかい魔力に、寒い夜ではなくなった。


     舟に横たわり、波打ちかのような強い揺れに目覚めた。
     瞼を開けて、横たわり乗っていたのは舟ではなく自室のベッドだったようだ。スプリングのきいた揺れで目覚めたらしい。
     カーテンからすり抜ける月明かりで見えた広い背中に、誰の背中なのか理解するよりも安心に包まれた方が早くて、深呼吸に混じって安堵の息を吐き出した。背中に言葉をかける。
    「……仕事は……?」
    「抜け出せる分だけ終わらせた」
    「……帰ってこなくても、よかったんですよ……」

     え、と溢れた動揺。全てではないにしろ、一通りの仕事を片付けて来たらしい。仕事を終わらせてこの家に帰ってきたのか。
    「そんなに帰りたかったんですか」
    「ああ。
     夜は寒いから、遠いのにわざわざ往復して。毛布の中を這い寄って、仕方のない人ですね、自分の感情を棚にあげて背中に額をこすりつけた。
    「……おかえり、なさい」
    「ただいま」
     背を向けて横たわる大きな背中。ヒーターに吸い込まれるように身を寄せ背中でじんわりとぬくもる。端へと追い込んでいるつもりはないのだが、ベッド中央で眠っていたから、ベッド隅で横たわるから少し窮屈そう。
     毛布の中からシーツを叩く音がする。毛布の中を覗けば、彼のご自慢の尾が揺れていた。ご機嫌なのだろうか、就寝の時は疲れているはずなのだが……。元気よく揺れる尻尾の房を捕まえた。ふわふわのふさふさ。毛並みに沿って撫でようとしたが逃げられてしまう。背を向いたままの彼が喋る。
    角質とげがあるから触んな」
    「久しぶりのレオナさんだったもので。つい」
     立派な尾と房に隠れる棘とやらは見たことがないが、誘惑してくる尾に惹かれて房の根につつく。ため息ひとつ、「棘には触んなよ」と棘に気をつければ問題なさそうな返答をもらったところで好きなように撫でた。
    (……房から連なっている尾は細いのか……)
     根から先にかけて表面を撫でているところ、爪で引っ掻かない力で細い尾を伝う。見えない視界から探るのはわくわく感が募る。長く太くなるロープのような尾を滑り、行き着く先は付け根だった。あ、尻側の毛が寝てる。へたる反対側へつぅと撫でぶわりと毛が膨らみ、瞬く間に毛布が宙を舞った。
    「誘ってんのか、あぁ?」
     暗室に鋭利な眼孔、勢いのまま振り返った彼が立てかけられた物を倒すように薙ぎ、ころんとひっくり返ったアズールの上に覆い被さった。
     心地いい低音が耳奥へこだまし、ふぅふぅと荒い呼吸が興奮を抑えている。抑えられているものの、場違いな思考に頭を傾ける。
    「もしかして、付け根が弱いんですか?」
     これは新たな発見だ。つい好奇心が働いてしまったアズールに反省の色はなかった。真上で深呼吸を繰り返し落ち着かせている様子だが、強烈に輝く黒い翠が笑う。スウェットパンツの紐に指を引っ掛けた。
    「好き放題触らせたんだ。こっちからも触らせてくれたっていいよな? 久しぶりに触れるんだ。なあ、アズール。いいよな? いいに決まってる」
    「言ってません」
    「聞こえねえな」
     にっこりと貼り付けた仮面笑顔、ふかふかのシーツに受けとめられたアズールは笑った。にこっと花が咲くような笑顔、めったに見れない素敵な笑顔が見つめ合う。片方は目が笑わずぎらぎらとしているが。
     話している間にも指かけていた紐を引っ張られスウェットパンツが下ろされる。膝まで下ろされてしまうもスウェットパンツを掴み止めた。引き攣る笑顔のまま、素敵な笑顔が下目に。
    「あ、脚だけは、脚だけはご勘弁を」
    「何でなんだ?」
    「触れるなら対価を」
    「なあ、何でなんだ? ちゃんと教えてくれよ」
     掴み止めていたが、ピンと張る力で引っ張られて届かない足先へ。ぽいと投げて素足が晒された。これはまずい、首を振って拒否を示す。
    「脚だけは、いやです」
    「尻尾、触らせてやったろ? な? 少しだけだ」
    「何でもしますから、脚以外で――」
    「やだ」
    「脚に触れられるの、弱いの知ってるくせにぃ!」
     アズールがやったと同じように指先が足首から太腿へと滑らせ、大袈裟にまで体が震えた。「俺だって尾が弱いんだぜ?」至極幸福な顔して脚への愛撫にひぃひぃとなかされる。倍に返された。
     この陸でなしっ! なんでだよ、触れたいんだからいいだろ? ばか、やめろ! 疚しさを抱えてるに決まってんだろ。ここ、弱かったよな? ひっ……、こ、この、へんたい……! 劣情そそるんだから仕方ねえだろ。気持ちいいくせに。むっつりぃ! お前だけだ。やだー!
     愛撫の合間も囁くことはやめず、罵りに拒んでも、怖いくらいにまできれいな笑みを浮かべながら脚の付け根まで滑らされた。肉と骨の凹みに指をはめ、肌の皺をなぞり、唾液で濡れた舌が這えば背筋を走る冷たい電流。バタつかせる脚を押さえ抱えて、甘く切なく声を上げる。もはや「やだやだいやだ」と突っ張る悲鳴だが。
     腹に抱えているものは計り知れないレオナの愛情に押しつぶされた。半分以上はアズールの自業自得だ。


     朝日の光りに目覚めて、手を伸ばしてもあるはずのぬくもりがなく、隣で眠っていたはずの彼はいなかった。まだ温かい。いないと理解してからの行動は早かった。肩までかけられた毛布をおろし、スリッパも履かずに裸足で冷たい廊下を進んだ。
     朝に弱い彼は、起こす者がおらずとも自力で起きれたのか、と吃驚している。先に起きるのはいつも自分で、食事を用意してから起こしていたから肩の力が抜けた。
     玄関で見えた姿は、防寒着を身に着けた広い背中。
    「いってらっしゃい」
     扉を閉められる直前だった。扉の隙間からグローブが手を振られた。扉は閉められ、廊下まで施錠が響く。
     見送りは聞こえていたと思う。裸足のまま出てきたから足裏は冷たく、寝室へ戻る。寝ぼけた頭でお間抜けな行動を取ってしまった。おかげで目が覚めた。スリッパを履いたところでぴこん。スマホの通知が鳴った。伏せていた画面を開いて、
    『おはようさん。飯はもらってくよ』
     と綴られている。冷蔵庫に何があったか、就寝前の日課で朝食用に作り置きしていたサンドイッチならある。夜に作り置きしても、次の日まで鮮度が保つように呪文を唱えているため腹をいためる心配はない。冷蔵庫の最新機能も備えてばっちりだ。
     冷蔵庫を確認すると、タマゴサンドとツナサンド、ビーフサンドがなかった。それとデザート用の苺サンドも。
     朝早く実家へ帰るのであれば持たせて帰るし、空いた時間があるのならば食卓にならべて共に頂く――眠気も覚めているのに寝癖をなおさない怠惰が出てくる――。今朝は持ち帰って頂くようだ。
    「野菜、残してあるじゃないか」
     ちゃっかり野菜が挟まれたサンドイッチは残ってある――トマト、レタス、オニオンだ――。
    「しょうがない人だな」
     お前のために残してんだよ。細い体に蓄えな。と言い訳が聞こえた。いや、憶測の幻聴よ待て。この体に肉をつけろと言うのか? 理想に体型に罅を入れてたまるか。肉よりヘルシーな野菜をいただくに決まっているだろう。彼の幻聴に向かって一人グチる。残されたサンドイッチに手を伸ばして、隠れている存在に気づいた。
    「あっ」
     取り出した皿にはからあげサンドが寄せられ隠れていた。こちらも肉を使っているのだが、レオナは持っていかなかったのか。研究を重ねた黄金レシピで揚げた唐揚げだ。彼も好んで食べてくれる。アズールの好物だから残したのか。今日のカロリー計算、全部白紙にして計算し直さなくては。
     それと、果肉を齧れば甘くクリーミィなメロンを挟んだホイップサンドも残っていた。甘いメロンをチョイスして生クリームに包んで挟んだものだが、もしかして、メロンは野菜を意識して手つかずに残していたりする? デザートに苺サンドを選んだのも好みなのかもしれない。苺だってメロンだって、野菜的果物に分類されているから、もしかして。
     春を迎えたら、苺シーズンが始まる。あまくて大きい苺を摘んで食卓に出してやろう。

     *

     日中は仕事に専念するからと、モストロ・ラウンジ二号店はいつも通りの朝会。トラブルが起きることなく昼を過ごし、仕事を進め、休憩の合間に雇っている社員から「支配人、おめでとうございます!」と祝いの言葉が贈られる。
     今日こんにち、支配人であるアズールは誕生日を迎えていた。
     店は閉店時間まで深海チックな店内の明かりは灯され続く。スタッフルームへ戻ってからも、二号店は賑わいを見せていた。アズールのバースデーを知る常連客から、社員一同から祝福される。
    「今夜は誰かの誕生日なの?」
     来店した客が顔を寄せ合ってひそひそ。スタッフの小声話からカウンター席へ広まり、テーブル席についた客の耳に入り、そして伝達されるようにまたたく間に広まった。
    「あら、おめでたい日なのね!」
     客の一人がワインを傾け、祝杯をあげてくれたり。二月二四日の夜、紳士淑女の社交場はしずかな賑わいをみせた。
     一方その頃の主役であるアズールが表に現れることなく、帰宅準備に取り掛かっていた。いつもより帰宅する時刻より早いのは誕生日だけは帰ることにしているから。アズールに恋人がいることは周知のこと。社員一同から一年に一度のめでたい日は恋人と過ごすことは暗黙の了解となっていた。
     支配人だけに限らず、希望者にはバースデーは早めの帰宅を知らせている。家族と、親しい友人と、恋人と、一人の夜をワインを片手に満喫する者だっている。
     制服から私服へ着替え、ロッカーにある私物を整理し、貴重品と常備品を詰め込んだショルダーバッグを持ち上げた。
    「アズール」
     呼ばれた自身の名に振り返れば、緩やかな楕円に垂れ唇は愉に伸び、鷹揚にかまえたフロイドが扉に背凭れていた。エプロンをさげている姿に厨房から抜け出したようだ。
    「アズール。今年もアイツと過ごすんだよね?」
    「いえ。今年は我が家でゆっくりと過ごします」
    「エッ、一人で? 毎年二人きりで過ごすって突っぱねるトドは?」
    「多忙だそうで」
    「うそぉ」
    「そんな年もありますよ」
     信じられない顔して驚きの声をあげるのも無理もない。魔法学校在学中に恋仲という特別な関係となり、卒業後から独り暮らしをはじめてからも交際は続き、毎年欠かさず二人きりの夜を過ごしていた。「在学中はリーチてめぇら兄弟に譲ったんだ。自立したからには国へ連れて行く」と言いのけるほどだった、らしい。実際に聞き見していない二人の情報だ。
     結構嫉妬深いのだ、レオナは。アズールとて同じ感情を抱えている。ライオンとタコの愛情の器を比べるとするなら、いつだって自分が勝っていると信じてる。先週は押しつぶされたのは、外面的に伝えるのは彼で、内面的に伝えるのは自分だ。
     未だ信じられない顔して口を開けているフロイドに、「その顔、どうにかなさい」と窘めたところ、かわいた音を立てながら頬を叩いていつもの表情に戻した。
     今年のバースデーは恋人が多忙で、共に過ごすことなく一人で過ごすと決めていた。自分の好きなものを食べ、ワインを開けて一人の夜を満喫するのだ。当たり前だった二月二四日だが、初めての一人の夜だと楽しむことにする。
     今夜はお酒が飲みたいから、今年も早めの帰宅準備に取り掛かる。
    「喧嘩してたりする?」
    「いいえ?」
     喧嘩はしたがとっくに仲直りしている。掻い潜られる前に会話を途切れさせるように返答した。何か言いたい、けれど口を噤み歯痒そうに鋸歯をもごもごと食んでいる。
     仲直りした二月一四日からレオナと定期的に連絡をとってはいるのだが、互いにその日に何があったのか、愚痴だとか、デスクから離してくれないだとかばかり。
     会いたいだとか、好きだとか焦がれる内容は送っていない。送ってしまえば、また寂しくて嘆く未来が待っているから。
     二月はアズールの誕生日がある。恋人だからって、多忙な彼に自分から誕生日を祝って欲しいと伝えるほど誕生日に飢えていない。物乞いでもない欲しがりでもない――貰える物はしっかりと頂く――。会えないことに変わりはないのだから、ないものねだりをしても仕方がないと開き直っている。
     気丈に振る舞い、お疲れな彼が帰ってきたらいけ好かない顔と言わしめた笑顔で、彼の好きなもので迎えてやるのだ。たったそれだけのこと。
     春はもう目の前。ディスプレイに映る字形から、ずっとデスクに齧りついている、離れらんねえうんざりだと嘆いていたレオナが帰ってくるのも、あと四日なんだ。寂しくはないが待ち遠しい。待ち遠しくて、焦がれた気分が膨らみだして息と共に吐き出した。
    「んも〜!」
     酸っぱい物を食べた顔したフロイドが力んだ声をあげる。地を踏む音はきっと「ドスドス」だ、大股でスタッフ利用の小型冷蔵庫から白い小箱を取り出した。簡単に組み立てられるケーキボックスを胸に押し付けるように差し出される。受け取った直後、肩を掴んでくるんと回して背を押された。
    「オレからバースデーケーキ、アズールおめでとッ! 自信作だから持って帰って、メレンゲドールはとくに見て、ちょーがんばったから!」
    「フロ――押すな、こらバカ!」
    「箱は魔法で作ってあるから一日くらい常温に置いても大丈夫だかんネッ! しょぼくれてないで、寄り道しないで帰って食べて!! オヤスミィ!!」
     強引に裏口まで押されてしまい、鉄製の戸は重重しい音を立てて閉められてしまった。お礼を言う間もなく追い出されてしまう。足元に丸めて固められた雪だるまの行列――手のひらに乗せられる小さな雪だるまは約二〇体――のうち、二、三体が倒れ首と胴が離れてしまった。
    「そんなにしょぼくれた顔だったか?」
     自分の顔に手をあてながら、はてと傾げる。
     首と胴が離れてしまった雪だるまは重ね直しておく。この雪だるまたちは、フロイド率いるナイトレイブンカレッジ在学中にスカウトした職員たちの自信作だ。休憩時間、降りつもった雪が邪魔だからと雪かき作業の合間、休憩中に作ったものだ――仕事は真面目に紳士に取り組むのなら構わない――。
     早めの帰宅に歩を進めようと立ち上がって、店から裏道へ続く曲がり角の先から、雪踏む重い音、半刻ぶりに顔を見た副支配人が。私服姿のアズールを認識すると、つり目がやさしげに撓んだ。
    「おかえりですか、アズール」
    「ええ。お前は漸く帰って来たのか」
    「お誂えの品を受けとりに店を空けておりました」
     ジェイドと入れ替わりで戻ってきた。手には長方形のギフトボックスを抱えている。差し出された物を受けとれば、たぽんと揺れ打つ水音が。
    「アズール、誕生日おめでとうございます。僕からのバースデープレゼントです」
    「ありがとうございます。ジェイド」
    「強いお酒です。お飲みになりませんように」
    「……お前、僕の予定を知っていて渡しているのか?」
    「こちらはチョコレートです。ご一緒にお召し上がりください」
    (無視か)
     率先して話すことではないから副支配人にしか今日の予定は話していない。誕生日プレゼントにお酒を贈られたのは嬉しいが一人で飲むなと言われても……、今夜は一人で過ごすことも伝えてある。何の嫌みだ、と睨め付けるがわざと無視して酒のつまみにチョコレートも添えられた。
    「素敵な夜を」
     代わりのないジェイドの柔らかな笑みだ。ろくな笑みではないことなど、海からの付き合いとなっているアズールは察している。

     帰宅した玄関はひやりとした空気でいっぱいだった。家主が帰宅するとセンサーが働き、花開くようにぬくもりの明かりが、リビングでは暖房がつくように設定されていた。まだ冷たい機械の風が掠めて、一度だけ震える。
     手洗いと着替えを済ませれば、知人から、実家から、母が経営するリストランテスタッフ一同から、祝いのプレゼントが届いていた。母とリストランテスタッフたちからのプレゼントを開封し、
    「皆んなったら、また懐かしいものを」
     おかしそうに唇を緩めた。懐かしい貝殻ノートだとか、深海で獲れるが陸には滅多にあげられない極上の珍魚だとか、海に因んだ贈り物が。珍魚を魚専用冷蔵庫へ転移魔法。冷蔵庫からゴトッと音が聞こえた。
     海を忘れさせない、海の文房具一式はバスタイムにでも使おう。水に濡れても滲むことのないノートなのだ。良い案件が浮かんだのなら貝殻ノートに記入だ。これは丁度よく実用性のあるものを贈ってくれた。自宅へ届いたアズール宛てのプレゼントに生ものがないかチェックしてから四隅へ移動させる。開封はまた後で。今夜だけは静かに過ごせる空間にしたかった。
    「さてと」
     仕込んでいたディナーを広げる前に、ローテーブルに酒の肴を広げる。好物である唐揚げは後のお楽しみだ。ローストポークを盛り付けて、今夜のために用意しておいたカクテルとジェイドから受け取ったボトルのどちらを開けようか、背比べするようにならべて吟味。
    「どちらにしようか……ん?」
     ふと、フロイドに渡されたケーキボックスに目移りする。皿とフォークも用意してローテーブルへ。テープを剥がしながら側面から開く。中には雪のブロックではなく、丸みを帯びたイグルー――東方の国ではカマクラというらしい――のようなホイップクリームの真白ケーキ。
    「なんだ。メレンゲドールはいないじゃないか」
     フロイドの言っていたメレンゲドールはいなかった。いないのだが、意味深く「Open」とチョコペンで書かれた飴細工のドアプレートとドアノブが。既に切り込みが入ってあるスポンジ扉だ。ナイフで形を崩さぬよう扉を抜き取ると、中は空洞になっていて、自己主張の激しいウツボのマスコットが二体と挟み込んでいるタコがいる。
     これがフロイドの言っていたメレンゲドール。だが四本腕だ。
    「なんだよ、これ」
     四本腕のタコにはちょっぴりだけ解せないが、前脚二本で「Happy Birthday AZUL」とホワイトチョコで描かれたメッセージチョコプレートを支えている。今年のサプライズプレゼントに忍び笑いだ。子ども心を擽らせるようなケーキだったか。
     スマホを構えてドームケーキを記念に一枚。中にいるメレンゲドール三体とチョコプレートが写るように角度も念入りに調整して。ディスプレイ越しから真白のケーキを見るが、食べてしまうのはなんだかもったいなくて。解体するように食べるのは後の楽しみに残しておこう。
     一人で食べるには、大きいから。食べるなら開いてしまった扉にしよう。
     ドームケーキをボックスへ押し戻し、黄金色したスポンジと均等にぬられた生クリーム、苺はないけれど飴色の飴細工がある。
     口の中でパキッと割れる飴細工が唾液に包まれ、ゆっくりと溶かしてゆく。形に確かめるように舌先で飴を味わうのだが唾液まで甘くなってしまった。
     ぴこん、テーブルに投げたスマホが知らせる。誕生日を知る知人から祝福のメッセージが表示されるディスプレイを伏せて遠ざけた。
     今夜はドームケーキとメレンゲドールを眺めながら飲もう、ギフトボックスを手に取った。
     未開封であるため、包装紙を丁寧に、つるりとしたラッピングペーパーを開花させジェイドからのプレゼントをローテーブルに広げた。目を惹くボトルの色、そろりと滑らせラベルを読み、心臓が縄で締め付けられたような感覚に息が詰まる。
    「……ジェイドのやつ」
     水で象られた透明な花と、「Water Flower水の中に咲く花」と書かれたラベルをなぞる。人魚専用と言わしめた、通称「水の花」と言われているカクテルだ。
    「一人で飲むなと言われてもな……」
     ちらりと隣を見る。誰もいないけれど、自分以外に飲む人がいたからいつもの調子でついカクテルグラス二本を用意してしまった。習慣とはある意味おそろしい。
     もう一度ラベルにプリントされた文字をなぞる。
     家の戸締まりはした。動いている家電も居間の暖房とルームライトだけ。静かな夜を過ごすためにお気に入りのジャズはなしだ。カーテンは隙間なく締めてる。
    「よし、飲もう」
     即決した。
     ひとりの夜だから、ひとり酒の気分だからと夜を満喫し空になるまで飲む。強い酒を一人で飲むなと忠告されたが、誰も来やしない。グラス片手に張り切った。
     グラスに注いだ空気と流れる音。初めの一口が待ち遠しい。楽しみにとってある御馳走でお腹いっぱい食べて、幸福に満たされたまま眠ろう。
    「ひとりの夜に、乾杯」
     口に含ませたカクテルは確かに強いアルコール。初めて嗜むが、グレープフルーツを絞った甘酸っぱい喉越しと、すぅと抜ける炭酸。おいしい。「水の中に咲く花」と一緒に添えられていたチョコレートをひと粒食べ、噛み砕いたところで初めてナッツが混ぜ込まれていることに気づく。くちどけ良し、ナッツの食感もしっとりさっくり。シンプルだがカクテルと合う大人の風味に、指先の熱で溶けたチョコを舐めた。
    「ジェイドも良い物を用意する」
     ローストポークも忘れてはならない。一口で含んで咀嚼しながらドームケーキを覗き込む。まるで外の世界に怯えて家に隠れている獲物を探している怪獣になった気分だ。三匹の家はあとでフォークで解体するからな。全て胃袋に落とされる。……怪獣ではない。
     グラスを呷り、一口分を舌の上で転がした。ぽってり火照る体にアルコールが染み込んでゆく。花開くような気分だ。正に、水の花になった気分なんだ。


     潤んだ瞳に水の膜は厚く、瞬くと大粒の涙をこぼす。
     はらりはらりと。
     ぽたりぽたりと。
    「ひっく……うえ、」
     美麗の顔立ちは両手で丸めた紙のように歪めて、止めどなく流れる涙。しゃっくりを上げながら愛でてやまない花唇から嗚咽がもれる。
     泣いても泣いてもグラスを傾け、酒を丸呑みしているかのようにとまらない。顔は涙でぐっしょりと濡れている。涙腺が決壊し涙が流れても、眼鏡が濡れても、伝いおちた涙で服が濡れてもお構いなし、勢い止まないまま酒を呷る。――空のグラスに天を仰いだ。空になったカクテルグラスを片手に、もう一杯のために伸ばした白磁の手を包む。
    「飲み過ぎだ」
     グラスがなくなった、握る動作を繰り返すが、ない。どこ、どこ、と彷徨う潤んだ双眸がこちらを向いた。とろりと甘そうで大変おいしそうではあるが、彼の視線は手にあるグラスに集中している。決してこちらを見ているのではないことは見て悟った。
    「お酒……まだ飲む」
    「だめだ」
     取り返そうと手を伸ばすが、グラスを遠ざけるように高く持ち上げ追いかける手に立ち上がる。泥濘みの上に立っているかのように蹌踉めく恋人の身体を受けとめ、ソファへ戻らせた。自分も隣に腰掛け空のグラスはローテーブルの隅へ追いやった。その隙に、半分まで減ったカクテルボトルを酔っ払いは腕の中に閉じ込めた。
    「俺の分も残せよ」
    「だめ、僕が飲むんだ。あげません」
    「グラスもねえのに、そのまま呷る気か?」
    「……なにか、くださいよぉ……対価です」
    「水ならやるよ」
     マジカルペンを介さずぱちんと指を鳴らし、冷蔵庫に仕舞われているピッチャーからグラスコップへ注がれた水を手の中に現した。唇に押し付けてやれば、小さな一口を飲む。
    「……ん、おいし……」
     一口にとまらず、熱い両手で持ち上げグラス一杯を飲み干した。唇の端から垂れてしまった水は行儀悪く袖で拭っている。普段お行儀のいい彼が袖で拭ったなどと知れば頭を抱えそうだが、ここは黙っておく。「水もうまいだろ?」「ん」空っぽになったグラスは避けた。
     ほれ、と手のひらを上に向けて差し出した。指をくいくい、寄越せのジェスチャーを見せるがぺちりとかわいい音を立てるだけで、手に乗せられたものは熱い手だった。
    「お手じゃねえ。おら、寄越せ。それは抱き枕じゃねえんだ」
    「やぁめ」
    「だめじゃねえんだよ。かわいこぶっても無駄だ」
     呂律が回らないまま、奪われそうになっているカクテルボトルを大事そうに抱きしめる。もう一度、寄越せと手を揺するも断固して離さず。とろんと潤んでいた目は酔いに揺れているものの、アルコールが回った瞼が閉じかけスカイブルーが隠れそうで隠れない。
    「ん〜……」
    「眠そうだな」
    「ぅん……」
     水を飲んで落ち着いたのか、涙を流していた様子から変貌した。それでも抱えるものを渡そうとしないのだから酒への執念に苦笑いだ。カクテルグラスではなく、自身の身体を抱きしめてほしいところなんだが。珍しいことを。
    「見て」
     見せびらかすようにボトルを掲げた。なんだ、と半分も減ってたぷたぷ水音をさせるボトルと眠たげな双眸を交互に視線を向ける。
    「このボトルは、レオナさんの色なんですよ」
    「あん?」
    「ほら、よく見て」
     ボトルの色は海緑色シーグリーン。みどり系統色となると瞳の色を示していることになるのだが、自身の瞳の色はもっと鮮やかに光る色をしている。お前が好きだと褒めていた目だ。どこがなんだ……? 不思議な疑問が浮上する。
    「海から覗いたレオナさんの色なんです」
     腹底から疼いた衝動が反射的に伸ばしかけ、手が彼に触れることなく握りしめる。静かに息を吸って、止めて、ゆっくりと吐き出す。
     どんなに耳許で甘い言葉を囁いても、高価なものや欲しがりに貢いでも、優しくしても、腕に抱いても、頬を撫でてキスしても。
     澄ました顔して綺麗に笑うから、満たされていた。今夜は宝物を見せびらかしている顔をしている、めったに見れない甘える顔だ。そうさせているのは海を覗いている自身である、と。初めて一面を見たのは想いを告げたあの日だけ。それ以降は一度も見ていない。
    (このタコ……こんなときだけ無自覚純情か……。こっちの気も知らねえで、仕方ねえヤツ)
     偽りのない感情と仮面を貼り付けた笑顔は身を持って知っている。もはや笑顔の鉄仮面だ。表情豊かな癖に、心内に底にある感情の塊は表に出さない。
     その顔は酔っ払っていない時に、目の前にいる男こそが恋人なのだと認識して、茹でダコになった顔が見たい。
     あぁ、とこぼれかけた感嘆を呑み込んだ。
    「……いい子だから、よこせ」
     見せびらかす宝物を受け取ろうとして、取られまいと腕の中へ戻ってしまった。だから、そこは俺がいいんだって。口にせずに見守る。「いい色だからって、あげませんから」と放してはくれない。眠い顔して大事に抱える。このまま寝かせた方がブツも引っこ抜けるだろう。
    「この俺を動かすのはお前だけだぞ」
     寝かせるために背を抱き引き寄せたが、首を振って遠ざかろうとする細い体。このタコ野郎。悪態つきかけて呑み込む。姿勢正しく伸ばされた背は丸く、「……レオナさん……」「ん?」「会いたい……まだ、帰ってこないんですか?」涙声にくしゅりと啜った。再び変貌した様子に肩の力が抜けたが、恋しく想う気持ちが涙腺へ伝わっているアズールににんまり笑って頭を追いかける。嫌がるように逃げられる。
     へこたる自身ではない。
    「なんだ、寂しがってんのか?」
    「寂しいです」
    「素直だな」
    「僕はいつも素直ですっ」
     きっ、と睨みつけるが洟も垂れている。情けない顔ながら大変愛おしいから困ったものだ。ペーパーを引っこ抜き洟を拭ってやりながら自身に惚気る。顎を掴み、こちらへ向けて見上げる潤んだ双眸が翠を捉えた。不思議そうに首を傾げている。
    「キスしてやろうか」
    「や。キスは、レオナさんとしか、しません」
    「動くな、こっち向け」
    「いーやーだっ、レオナさんつれてこーい」
    「ここにいるんだけどなあ」
     キスしてやろうと顔を近づけても、この酔っ払いは目の前にいる男がお前の恋人レオナであることに気づいていない。ピーピー泣きながら顔を背け、赤く紅潮した顔にキスを送ると黒髪が頬を掠めてくすぐったそうに身を捩る。やっぱり嫌そうだ。このタコ。
    「ほら、寝ちまえ」
     十日ぶりに帰って来てみれば、酔っ払いの泣き上戸を見ることになってしまった。ほっそりとした外形によらず重たいアズールの脇を掴んで脚の間に座らせた。逃さぬよう脚で挟み、あやすように背中を優しく叩いて寝かしつける。本人にバレたら絶対に怒るから、内緒だ。
    「ほんと、仕方ねえヤツだな、お前は」
     顔を上げた彼の頭を肩口へ寄せる。とっくに成人しているというのに、酒は性格も豹変させる。寂しがりやの泣き虫タコに戻ってしまったアズールも、酒に呑まれると昔のように退行してしまうみたいだ。初めて知った一面である。いつも晩酌に付き合う一杯だけで深酒はしない。酔っ払うのはレオナだ。
     眠そうな顔を上げた。寝てろ、と寄せる前に不思議そうに首を傾げたアズールは目前の釦を外し始めた。
    「大胆なことしてんな」
     厚着せずとも室内は空調が回るため暖かい。着込んでいた防寒着は全て脱いでしまったため、レオナはラフな格好だ。闇に溶け込むような黒のスキニーと動きやすく伸縮性のある薄手のワイシャツしかない。寝巻きと予備の着替えは持ち歩いた鞄の中に押し込められているため、着込んだものを脱いだだけ。
     何をされるのかじっくり見てやろうか。シャツの釦も全部外されると、引っ張るように脱がされてしまう。追い剥ぎされた気分だ。少し肌寒い。脱いだシャツを手に取り、「…………」鼻に寄せ沈黙が走る。流れた涙がシャツに染み込んだ。涙は止まったが、瞬いている。
    「レオナさんのにおいがする」
     本日、何度目の呆気に取られたことか。シャツ一枚に縋り泣きやんだ姿を捉えながら、今度こそ手を差し出せばカクテルボトルを出した。大事そうにしていた割にはあっさりと手放しているが、「あげないんじゃなかったのか」「対価です……」……だ、そうだ。
    「本人がいるんだがなあ」
     抱えている男こそレオナ、本人がいるというのに。
     シャツに顔を埋めておとなしくなった丸い背中を撫でてやる。のっそりした動きでしがみつく構えで肩を掴まれると、アズールはソファへ倒れ込んだ。瞬時にクッションを敷いてバウンドする。酒が回った頭でソファに突っ伏す恋人の雪色の旋毛を見下ろす。なおソファとはレオナのことだ。下敷きにされた。
    「このソファ、レオナさんのにおいがする……」
     恋人のにおいのするソファことレオナに擦り寄り、猫吸いならぬレオナ吸いを始めたアズールに「本物なんだがなあ」切実な言い得ているが聞こえていない。被さったままシャツを手放さず、素肌に当たる吐息が落ち着きを取り戻している。時々ハナも啜る。
    「ベッドに行くぞ」
    「ソファが何か喋ってます」
    「ソファじゃねえんだがなあ」
     このまま暖房が効いた居間で寝かせてもいいが、カウチソファとはいえ寝心地は幾分か悪い。眠るならベッドで寝かせたい。些か体勢が悪い、被さっているぽかぽかな恋人の背を撫で上げた。
    「レオナさん」
    「ん?」
    「……あの人の声で、『おめでとう』って……。会いたいだけなんです……わがままなぼくをゆるして、ひとりぼっちはいやだ……」
     何度目かの求め焦がれる番いの愁へ。空気に交えて凍る冷気がほのかに舞い暖房によって緩和される。
    「……我が儘くらい可愛げもあんだろ」
     ぬくもりに縋るように擦り寄る頭をわしゃりと撫でた。髪を梳くように撫でるも唸るのなんの。縋るのは良しとして撫でられることは許されなかった。相手が誰なのかまだ気づかないか、酔っ払っているとはいえ、王族をソファにする肝は大したものだ。酔っ払いの恐ろしい一面である。
     アームレストに頭を乗せ天井を仰いだ。白雪旋毛から見下ろせば寝息を立てている。
    「ったく、悪酒しやがって……あーあ、涎も垂れてら」
     もう一枚ペーパーを抜き取り、墨混じりの唾液を拭ってやった。
     今年は共に過ごせず祝えなかった。寂しい思いをしていたのはお前だけじゃない。電子越しから「おめでとう」を贈れば彼もひとり酒することなく夜を過ごしていたことだろう。墨を吐くほど寂しがらせてしまった負い目を感じる。どうしてもやらなければならないことがあった。
     眼鏡を外して涙跡も拭う。シャツを引っ張るが、放さない。
    本物おれよりコイツかよ。妬けるぜまったく」
     仕方ねえ、と締まりない顔を自覚しながら、脳内でクローゼットのイメージを拡げ中から毛布を引き寄せた。頭上から現れた毛布は自分ごと恋人の背にかぶせる。
    「おやすみ」
     おめでとうを贈るのは、明日の朝になりそうだな。
     小さく鳴る空腹の音、軽食を腹におさめてから帰宅したが、ここで過ごすつもりで帰って来たため胃袋はアズールの手料理なんだ。本人は御馳走を食べることなく酔っ払い寝落ちたため、食事も明日の朝だ。
     つまみでも食うかとグラスとカクテルボトルも引き寄せ、上にお眠りタコを乗せたままグラスを呷った。アズールがボトルの半分を飲んで酔っ払うほど強い酒だが、レオナの口からすれば甘口だ。だが調子に乗って飲めば仰ぐほど酒に呑まれるものだ。広がるチョコレートも一緒につまんでナッツを砕く。
    「……ん?」
     もう一口飲んで、酸味のある炭酸とチョコとナッツを飲み込んだのちに熾烈な交わりを体の中で感じ取り、片眉が高く釣り上がった。
    「……あ? これは……」
     食べて飲んでも害はない。だが、コイツは……?
     酔っ払ったアズールを見下ろすが、顔を紅潮させ深く寝入っている。
     ローテーブルにボックスが開かれたケーキを見る。箱に保冷剤の魔法効果があるため、一日くらいなら常温部屋に置かれてもぬるく傷むことがないため問題ない。イグルーに似た丸い雪山のケーキを覗く。奇抜な色した砂糖菓子と甘ったるいチョコプレートには気分屋ウツボことフロイドの手書きが書かれていた。
     指でカクテルを引き寄せ引っ掴む。貼り付けられたラベルを読み眉間に深く皺を刻んだ。アズールが用意したであろう未開封のカクテルと、掴んでいるシーグリーンボトルを交互に見やる。開封したのち丁寧にたたまれた包装紙の側にはメッセージカードが倒れている。書かれている筆跡にもう一人のそっくり顔が浮かんだ。ということは、だ。
    「……ちっ、嫌な顔を浮かべちまったな」
     向上した気分は一回転。ポケットにしまってあるスマホを取り出し、アドレスから目的の男の名を選び通話ボタンをタップ。受話口を耳に寄せ呼び出し音が一周したところで――『こんばんは、レオナさん』繋がった。
    「おい、腹黒ウツボ。テメェ、コイツになんてもん食わせやがった」
    『おや、これは大変なご立腹な様子で。二人きりの夜はお楽しみいただけましたか?』
     声量を抑えながら送話口に荒げた声を上げた。通話相手はジェイドだ。普段なら連絡をとるような行動はとらず、あったとしてもハイエナの右腕に任せているのだが、これには事情がある。「ん――」上で眠る恋人が寝言をむにゃり。転げ落ちないよう背に手を添えた。
    『おやおやおや、アズールはご就寝ですか?』
    「腹の上で寝てるよ」
    『おや、ラッコの方でしたか。それはそれは。トドの上でぷうすかお眠りのようで』
     受話口から聞こえる愉快に不快に花が咲いたように喋りだした。煽りに乗せた癪に障る言葉よりも大事なこと。アズールへのプレゼントに、フロイドからはケーキを、ジェイドから酒を贈ったことはもうわかっている。いくら羽目を外してもいいバースデーだとしても、贈ることを推奨しない酒だってあるのだ。
    「御託はいいから答えろ。何でコイツに酒を贈った」
     誰もいない天井を睨みつけながら。ジェイドは続けた。
    『どこかの誰かさんと喧嘩したとお訊きしまして』
     受話口から棘を突き刺してきた。図星であるが、それは先週の話だ。
    『いつもなら恋人と過ごすバースデーだというのに、アズールから一人で過ごすとお訊きしまして。愛する人がいない寂しい夜に、一人で呑むことを禁じられている「水の中に咲く花」を贈ったのです。お一人で飲んではいけないとお伝えしましたよ。あなたならどんなに忙しかろうともアズールのお傍にいてくださると思って』
    「ツボミナッツと『水の中に咲く花』は組み合わせると妙薬成分になる。人間や獣人属が摂取してもなんにもなりゃしねえが人魚属には覿面に酔っ払う」
    『おやよくご存知で』
    「笑ってんじゃねえよ。人魚専用と言わしめたカクテルにツボミナッツの組み合わせはわかってて贈ったろ」
     通称「水の花」、カクテルとツボミナッツという果実を組み合わせて飲み食いすると忽ち人魚を酔っ払わせてしまうマーメイドキラーで有名だ。アズールは気づかずにこの組み合わせで口にしてしまったのか。気づいていても飲んだか。寂しくて一人で飲んだのか。
    『おかげでかわいいアズールが見られたでしょう? 次は見せてくれませんよ』
     それはもちろん、可愛いものは見えたさ。泣きながら恋しく焦がれるアズールの崩れた表情や大胆行動もこの身に受けた。目の前にいる男が恋人だと気づかれなかったが。
     しかし、そのお節介も必要なかった。
    「これから毎晩見れるから必要ねえな」
    『はい?』
    「お前らの大事なタコは俺のもんなんだよ」
     ドスを利かせた返事だ。喧嘩はしても、すれ違っても、寂しがりやなタコを一人にすることはできない。モストロ・ラウンジへ出勤すれば右腕左腕のリーチ兄弟が支えてくれるが、将来を共に歩くのなら出番はない。証明するために彼のもとへ帰ってきたのだから。
    『ジェイド、アズールと電話〜?』
     奥からフロイドの声が。代わって! あっフロイド。携帯電話を奪われたのか、ヤツの声が遠くなった。その代わり明るげな声が大きく聞こえる。
    『アズール、ケーキ見てくれた? 気に入ってくれた? もったいなくて食べれないでしょ』
    「タコなら寝てるよ」
    『あ? 何でお前がいんの? トド先輩ならいいや。また今度かけるねぇ、はいさよなら〜』
     まともな会話を交わす間もなく、通話相手が幼馴染みではないとわかってからの切り替えの速さに通話は切られてしまった。アズールにしか向かない好意、それがレオナに向かなくて結構だ。ジェイドとの話はまた終わっていないのだが、この様子では折り返しの連絡もつかないだろう。スマホを適当に投げた。
     一息ついて、アズールの寝顔を頭上から覗き込む。寝言に乗せた呼び声に耳を傾けるが、どうやら夢の中でレオナと会っているようだ。
    「妬けるよ、まったく」
     まともな会話もないまま恋人と夜を過ごすことになるとは。酔っ払うのもほどほどに。
     寝顔を酒の肴にしよう。苦手な酸味も甘いチョコレートもすべて食す。次、でろでろに酔っ払っても世話してやらねえからな。
     マーメイドキラーなど飲まさずともアズールの良き一面は見れるのだから。たまにタコ野郎と蔑称し喧嘩するが、それもまた二人の日常的な喧嘩。口争いながらも付かず離れず。時間の経過とともにアズールの憤りも鎮火する。喧嘩したのち、大体はレオナから鎮火する。逆だと主張する脳内のアズールは振り払った。
     絹糸のような白髪を梳りくるくると指に絡め柔らかな髪を楽しむのだが、頭を振る動作に嫌がっていることに気づかされる。「このやろう」水で濡れたタオルを絞ったような声。今は夢の中で会っているレオナがいいらしい。
     妬けるよ。本当に。
     それほど自身へ向ける感情を知れて、嫉妬する心も満たされた。


     スッキリとしない重い頭、体がガチガチにかたくて石のよう。空腹にして強張った体を起こして見えた者は、いないはずのレオナで。
    「……へ?」
     寝ぼけているのかそれとも夢なのか。頭から眠りの鱗粉が降り注いでいるのか、本当にレオナなのか。寝顔をしばらく見下ろした。
    「……なぜ、レオナさんの布団になっているんだ……」
     しかも相手にどっかり覆い被さっている。背には毛布が被せられていて寒くない。テーブルを一望すれば、昨夜ケーキやつまみを食べてそのままだ。二本のグラスに底に溜まった残り酒。二人で飲んだ記憶はない。ならばここはレオナの家か? そんなはずはない、自宅である証明は持ち帰ったケーキの存在に目に付いて気づかされる。
     レオナは忙殺した生活で帰って来れないと言ってたのに。いつ帰ってきた?
     腫れぼったい瞼、握りしめていた皺だらけのシャツ、落ちないように回る腕。なぜ彼のシャツを握りしめていたのだろう、昨晩は一体何が……? レオナが脱ぐときは暑いからと軽装になる程度で、裸になるタイミングは風呂か寝る前だ。と言うことは。
    「脱がしたのは、僕……?」
     いやまさかぁ。引き攣り奇怪な顔を押さえて気のせいだ、そう気のせいそんな露出行為をさせるなどと。
     絶対とは言い切れないのは、カクテルを飲んでチョコレートを食べてからの記憶がない。寝ぼけている頭を掻いた。眼鏡を見つけて装着する。
    「起きてください、レオナさん」
     揺さぶり起こそうとするが、疲れているのか寝入っている。このまま寝かせておこう。彼の上から降りて、被せられた毛布を肩までかけた。
    「……おかえりなさい」
     少し痩せたか、いつもよりスマートに見えるお疲れな寝顔に、寝起きながらも半同棲相手を迎えた。
     転がっている「水の中に咲く花」を掴み上げれば中身は空だった。揺するがぴちぴち跳ねる水音しか聞こえない。広げていたはずのチョコレートも一粒残らず無くなっている。どうやらチョコに練りこまれていたナッツ――ツボミナッツが胃の中で合わさり酔っ払ったようだ。人魚専用の酒とツボミナッツの組み合わせは妙薬となる。マーメイドキラーの威力がどれほどのものなのか初めて自覚する。泥酔した記憶はない。
     一人で飲むんじゃなかった。後悔はしていない。
    「風呂、入るか」
     まだ寝ぼけているのかもしれない。アズールは朝風呂を決めた。呑んだくれの服が酒臭い。


     レオナさん。鈴をころがした声音こわねで朝の目覚めを知らせる。すう、と深く吸い込む呼吸に続いて身じろぎ、毛布が捲れた。落っこちてしまいそうな毛布を掴み、重く閉じられていた薄い褐色瞼は開かれた。視点のあわない双眸、天井を向いた翠がこちらを定めた。すう。静かな深呼吸をもう一度だけ。
    「……おはようさん」
    「おはようございます」
     眠たげな目が撓んだ。いつものレオナがいる。お目覚めだ、どっしりとソファに横たわっていた巨軀を起こし、寝癖で跳ねた黒髪を撫でた。ぴん、寝癖は直らない。
     目覚めのキスの代わりに腫れぼったい瞼に指先が触れ、輪郭に沿って撫でられる。
    「お忙しいのに、わざわざ泊まりに帰ってきたのですか? 事前に連絡をいただければご馳走も並べたのに」
     夜遅くになろうとも、疲れたレオナを迎えて一夜を過ごしたのに。さすればひとり酒もしなかった。いつ帰って来たのかわからないが、夕食を食べないままでいたのならば空腹のはず。責めるような口振りで云ったせいか、レオナはふんと嗤う。
    「昨夜に間に合うように詰めて終わらせたんだよ。それなのに帰ってみりゃてめぇは酔っ払ってるしよ」
     萎れた。飲酒途中からの記憶がなく反論できなかった。批難を滲ませた目で睨んで、たたんだ毛布で顔を隠す。ふわふわに膨らんだ肌触りの良い毛布だがちっとも嬉しくない。くいくいと引っ張られるも、顔を上げられない。んんっと痰が絡んだ咳払いが聞こえ、顔を上げる。「今度は毛布かよ」不機嫌丸出しのレオナが毛布を掻っ攫ってソファへ投げた。広いカウチソファだから毛布一枚転がったところでスペースはある。
    (……今度は毛布、て……?)
     毛布が、なんだ?
     多忙だった二月は落ち着いたのだろうか。帰ってこないと言っていたのに。そうだ。昨夜、酒を呑んでからの記憶があやふやでレオナの上で眠っていた、おかしなことを口走ってなければいいのだが。片脚を膝に乗せ肘ついている彼に問う。
    「昨晩はおかしなこと言ってませんでした? お酒を飲んだあとの記憶がなくて」
     疑問を述べたが、望んだ回答はなかった。まだ不機嫌をぶら下げているのかと顔を上げると怖い顔から穏やかな表情になっていて、瞬いた。そして悪辣な顔して笑う。
    「普段のおべっかはどこいった、てくらいに呂律が回ってなかったな」
    「ええっ……?」
     呂律が回らなくなるほど酔っ払っていたのか? 何を喋っているのかもわからないほどに? 己の失態を見られたことに頭を抱え、頭上から落石が落っこちたように重い。
     蛸壺が恋しい、頭から入ってまん丸になってこもりたい気分だ。
     ぐうと鳴った腹の虫にはっと顔を上げる。レオナが「腹減ったな」と腹をさすっていた。そうだ、朝食を用意しなければ。泊まりに来ないからと事前に拵えるサンドイッチもないのだ。
    「朝食はまだご用意できていないんです。リクエストを訊きましょう、朝に何が食べたいですか?」
    「トースト」
    「ベーコンエッグの、ですね。かしこまりました」
     トーストと答えられてもただのトーストではない。朝食の気分を変えてサンドイッチ以外の朝食に作っているベーコンエッグトーストを差す。焼いたベーコンと金色の卵を乗せた朝食パンだ。
     立ち上がると体を慣らして伸びる。一晩中、アズールが乗っかっていたから寝返り打てずに強張っているのだろう。
    「朝風呂はいってくる」
    「いってらっしゃい」
     レオナがバスルームへ向かった姿を見届けると、入浴の間に朝食に取り掛かることにする。彼の朝風呂は早いんだ。もたもたしているとすぐ「腹減った」と背後に立たれる。
     ローテーブルに置きっぱなしだった食器をまとめてシンクへ置いた。朝食の後にすべて片す。バースデーケーキは蓋が開きっぱなしだが、指を差し込めば内部は冷蔵庫に入れたかのような冷えを保っていた。保冷が効いているようだ、それに保存効果も発揮されている。冷蔵庫へ押し込み、卵、ベーコン、トマト、バターと牛乳を取り出した。
     鍋に水を入れて沸かしトマトの下ごしらえに。十字の切り込みをいれ、沸騰したお湯へ落とした。ひっくり返しながら三〇秒ほどで冷水に浸す。ヘタまではじけた皮をむいて、トマトの湯むきはおしまい。あとは食べやすい形にカットするだけ。食べるのはアズールメインだ。
     ベーコンをかみごたえのある厚さに切り分ける。熱したフライパンにオリーブオイルを垂らし、満遍なく均す。ベーコンを寝かせるようにオイルの上に並べれば香ばしい香りが漂い出した。
     淡いクリーム色したふわもち食パン二枚をトースターへ、温度調節はいつもの温度にセットしてあたためる。
     叩き割った二人分の卵をボールに落とし牛乳を大匙四回、味付け少々。菜箸で白身を切るように混ぜる。熱したフライパンに一欠片のバターを落とし均しておく。泡吹くバターの上にとき卵を流し入れ、菜箸でかき混ぜながら黄金色したスクランブルエッグにしてしまう。溶けたバターと卵の香りが腹を鳴らす。
     あ、レタスを忘れていた。冷蔵庫から取り出し必要な分だけを毟った。水でサラッと流しまな板の上に並べ包丁を構えたところで、スープはどうしようか考える。昨夜から手付かずの鍋にはコーンスープが寝かせられている。決まったところでざくざくとレタスを切り分けた。
     後ろから抱きすくめられた。密着したがりな彼は隙間なく身を寄せてくる。遅かった。
    「包丁を握ってる間は背後に立たないでください」
    「抱くのはいいのか」
    「危ないでしょう」
     あと少しだったのに、彼の方が早かった。「あー」長い息を吐きながら肩口に顔を埋められる。リンッとトースターが完了の知らせ、指を振るい魔力に乗せたパンが浮かびプレートに寝かせた。
     食パンに焼き目がついた香ばしい朝の匂いがただよい、ぐう。すぐ後ろから空腹を主張する愛らしい腹の音が。水滴がついた手をエプロンで拭い、「風邪引きますよ」と頭の横にある濡れた頭を撫でた。定位置であるため、後ろを見ずとも手を乗せられる。
     テーブルに並べるのはもう少しだけ待ってほしい。
     それぞれのプレートにレタスを盛り付けた。頭のすぐ横から圧があるが、問答無用にトマトも盛り付けた。ヴヴゥ。そこ、ヴーではありません。百歩譲ってレタスとトマトは三切れずつしか盛り付けていない。その代わりベーコンエッグは多めに盛り付ける。
     嫌いなものが野菜と極端で、生野菜や素材の味が残るものは食べたがらないが、煮詰めたものは食べてくれる。オニオンスープとか、リンゴベース煮込みだとか。
    (思い出すな、偏食気味だった頃を)
     以前は食事に「肉」しか言わずに野菜を食べたがらない時期もあった。ラギー曰くいつも通り。ハンバーグだとかステーキだとか、肉本来の旨味だけを味わえるものは好んで完食していたが、栄養が偏るからと工夫を重ねた。
     ライオン種が野菜を食べずとも生きる力と胃袋があるが、同級生のハイエナからは「野菜も食べさせてくださいっス。すーぐ肉しか食べなくなるから」と三本ほど釘を刺された。自分より彼の方が好みや習慣を知っているのは百も承知、一緒に暮らすならとアドバイスをこっそり教えてくれた。全て頭に叩きこみ、代価も弾んだ。
     冷蔵庫に眠るコーンスープを取り出すためには、腹に巻きついている腕を突いて離してもらう。力が緩んだ腕から抜け出し、冷蔵庫から冷たい鍋を取り出して焜炉にかける。焦がさぬよう、お玉で渦を描きながら思い出にふけている。
    「大きなライオンですこと」
     火を前にしているからか、背中のぬくもりは控えめに密着する彼はとりあえずおいておく。
    (週一の苦労も思い出させる)
     ここまでのし上がると、どんなものを食べてくれるのか楽しくなってくる。だって「肉」しか言わないんだもの。食べたくないものにははっきりと言うからよぉくわかる。楽しくなると同時にアズールのプライドも高くなってゆく。
     定期的に開催されるマスターシェフ、審査員に選ばれたときも、同じ席に居合わせたレオナとイデアに挟まれながら提供された料理を食べ、旨いものには確実な点数札を挙げた。及第点の点数に、料理の厳しさを知る同級生とパートナーが神妙な顔して頷いていた記憶を思い出す。僅かながらレオナの舌には一歩及ばず、一層提供するメニュー開発に勤しむ教訓にもなった。
     好物が「肉」であることは生徒プロフィールにも記入されていた。好きなものを訊いたとしても肉だ。「肉は肉でもどこからどこまで好物なんだ!?」研究レシピを広げた上で台パンした記憶はもう古い。
     この男の感情はわかりづらいのだ。対話と素材本来の味わいと、食事を続けているうちに好みの味付けに気づいた彼、今となれば彼を満足させる肉料理は何でも食べるようになった。夕食に食べたいものは何か訊いた日には「肉」から「肉料理がいい」へ変化し、食べたいものも応えてくれるようになったのは進歩だ。さすがは僕。完璧だ。と鼻高々に胸を張った。
    「アズール」
    「はい?」
     普段は「タコ」ばかりで名前も殆ど呼ばないから、珍しさから反応してしまう。名前を呼ぶ時は決まって何かある。頼みたい事がある時とか、甘えたい時とか、下心がある時とか。
     ……ああ、さては。
    「何か隠し事でも?」
     においを堪能していたレオナが抱き込む力を緩め、甘えたいのか、頭一個分高い顔が押し付ける。濡れた髪が冷たい。温め終えた鍋は蓋をして、水滴がついた手はエプロンで拭って振り返る。
     滴る水。おや、思わずと声が。首にかけたタオルを引き抜いて長い髪をリズミカルにタオルドライ。このままでは風邪を引いてしまう。濡れた髪のままでいて風邪を引くのは自分だと仕方なさげに肩を竦めた――もしかして、髪から滴る水に肩は濡れてはいないか?――。
    「一緒に暮らすぞ」
     弾んだ声音こわねに紡いだ言葉に思考が揺れた。コツンと合わさる額。額が合わさる距離で砂糖を焦がしたカラメルのような瞳が甘く切なく瞬く。
    「寂しがり屋のタコにバースデープレゼントだ」
     今まで二人暮らしすることなく、アズールは故郷の海に近い国に店を構えて暮らしている。レオナは離れることができない夕焼けの草原で暮らしている。遠い国で暮らしている二人の遠距離恋愛は今年で何年目だったか、年号を確認した。
    「おめでとさん。恋人との同棲が始まるぞ」
    「……同棲?」
     恋人とてそう簡単に会える待遇ではなく、一週間に一度、遠い国から帰ってきて泊まりを繰り返せるその理由は、夕焼けの草原所有の転移の鏡を通じているから。遠い国から国へ行き来しているのは王族の特権を存分にふるえているからだった。
     此方から向かうには時間もマドルも必要となる。纏まった休日があれば夕焼けの草原へ向かうことはできるのに、店を構えたいアズールを尊重して夕焼けの草原へ越すことなく、レオナから珊瑚の海の国へ通っている。
    「故郷から離れられないと仰っていたではありませんか」
    「王宮から離れてこの街で暮らすために面倒なもんをもぎ取った」
     荒れくれた口調をするレオナだが、彼はやんごとなき御身分なのだ。そう簡単に街で暮らせるわけがない。わかった上でナイトレイブンカレッジに在校中から独り暮らしをすると決断していたのに。学校では共に過ごせる時間や一夜を過ごす夜があっても、卒業すればそれぞれの時間と生活と仕事が待っている。多忙だった理由がわかったところで疑問は膨らむ。
    「お仕事は? 故郷でしょう」
    「向かう先が逆になるだけで今までと変わんねぇよ。その代わり、護衛も越してくるがな」
     ご近所でも彼の護衛も引っ越し。どえらいことになってきた。これからも独り暮らしと近すぎる遠距離恋愛が続くものだとばかり。
     遠い国をものともせず、故郷からこの街へ鏡を経由し行き来している現状から、今度はこの街から故郷へ。
    「後悔はしませんか。故郷を離れて不便をするのはあなたです」
    「カレッジ卒業から計画は頭に入れてたことだ」
    「そんなに前から?」
     学校を卒業して何年分の歳を重ねたと思っている?
     これからも、またしょうもないことから言い争い、反りが合わず喧嘩だってするだろうし、怠惰なレオナに腹立たせたり、ヒステリックの自覚を持つアズールはストレスも溜まりやすく、八つ当たりだってするだろう。今後も家出騒動に勃発する喧嘩も起こるだろうなと未来を予想しているが、喧嘩をしないという考えは頭にない。喧嘩は控えることは頭に入れている。
     喧嘩して、「またか」と呆れた顔して仲裁する幼馴染みに背を押されて、仲直りして。
     同じ釜の飯を食べる日々へ変化するのか。泊まった次の日に帰ってしまう朝、玄関先のいってらっしゃいのたび、隠すように被せた募る寂しさに苛まれなくて済むのか。
    「腹減った。朝晩、アズールの飯が食いてえ」
     もう、プロポーズじゃないですか。花咲いた表情して背伸び。成人しても伸び続けた彼の頭は幼馴染みと比べれば下だが、十分すぎるほど高い位置にある頭を包むように抱いた。後ろに回った腕が腰を抱えるからつま先が少し浮いて体重が前にかかる。アズールだって低身長ではないのだが、海では誰よりも大きいからこのくらいが丁度いいんだ。
    「随分と庶民的な朝食を好んだ王弟だ」
    「うっせ、ターコ」
     ニヒルに笑い、表情してノーズキスをした。

     ゆきのはな事勿れ



    補足
    『Water Flower』
     水の中に咲く花というカクテル。グレープフルーツのような酸味の味わい。人魚専用のお酒。他種族も飲める。

    『ツボミナッツ』
     蕾のナッツ。蕾のようなナッツ。しっとりとした食感のナッツでつまみにもおやつにされている。魔法の実。

    『水の花』
     水の中に咲く花とツボミナッツを組み合わせた、通称。ナッツ、もしくはカクテル単体で食べてもなんともない。しかし、二つが組み合わさるタイミングで口に入れると、人魚の胃袋の中で溶け合いベロンベロンに酔っ払う妙薬となる。そのためマーメイドキラーになると有名。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works