おつかれさま「おつかれさま」
時計の針はもう0時を回っていた。
スムースタイプの時計にして良かった。静かな部屋で秒針の音なんか聞いていられない。特に相手を待っている時には。
シンはリビングでダイニングテーブルに腰かけたままじっと時計を睨んでいた。
今日、夫であるアブトは、新婚祝いだとかで職場の上司に飲みに誘われたため、帰りが遅くなると予め聞いてはいた。
社会人のオツキアイというものだろう。
「祝ってくれるのはありがたいが、それよりも一刻も早く帰らせてもらいたい」と、洗面台の鏡の前で青いネクタイを締めながらブツブツ文句を言っていたのを
「せっかくの気持ちなんだから楽しんできて」と送り出したのは確かに自分だ。
しかしこんなにも遅くなるものなのだろうか。不満だけではなく心配も胸を占めて落ち着かない。
時間潰しに見ていたテレビもスマホも何だか詰まらなくてとっくに切っている。
もう先に寝てしまおうかと思ったとき、玄関から鍵を開ける音がした。
帰ってきた!
急いで立ち上がり広くもない部屋を走る。パタパタとスリッパの音が響いた。
「遅かったじゃないか」
おかえりなさいよりも先につい文句が出てしまった。
腰に手をやって精一杯怖い顔をして見せる…が、アブトはシンを見ていなかった。
玄関を入ったすぐの壁に体を預けたまま動かない。
長い前髪の下にある顔は赤く、酒の匂いが鼻を突いた。
「お、おい、大丈夫か?」
シンの声に反応してアブトが薄く目を開く。いつもの数倍潤んだ黄色の瞳。しんどそうに付かれた息。これは相当飲まされたな。
いつも自分がキープできる量しか飲まないのに。
「わるい、しん」
呂律も怪しく一言だけ呟くと、アブトはその場にうずくまりそうになった。急いで腕をつかんで立ち上がらせる。彼の方が体格がいいのだから、今ここで倒れられたら寝室まで持っていけない。
「もう、しょうがないな」
半分抱きかかえるように支えながら寝室まで連れて行った。あらかじめ敷いていた布団の上に文字通りバタンと倒れたアブト。
この状態でシャワーは危険だろう。布団に酒の匂いがつくのが気になるが、このまま寝かせてしまえ。
スーツの上着を脱がせ、きつそうなネクタイの結び目を緩める。靴下も脱がせてやる。
なんかオレ、襲ってるみたい…
ちょっと楽しくなってきた。
完全に弛緩した体は布団に沈んだまま動かない。
ベルトも外して、パンツのチャックも下す。息苦しそうな呼吸がすこし楽になったようだ。
「アブトぉ、生きてるか? 水飲める?」
返って来たのは静かな寝息。
ほんと、しょうがないなぁ。
さっきまでの不満はいつの間にか消えていた。彼がいるだけで時計などもう気にならない。帰ってきてくれただけでこんなにも喜んでしまっている自分に苦笑する。
本当、オレ単純だよな。
アブトの前髪をそっと顔から払った。現れたいつもより血色のいい額に、そっと身を屈めて唇を寄せる。
唇の先に温かさと、鼻に酒とアブトの匂いが掠めた。
「…おつかれさま」
自分のやっていることが急に恥ずかしくなってきた。
別にいいだろ! 新婚なんだから!!
と誰に対してでもないが言い訳して、熱くなった頬を手でパタパタと仰ぎながら寝室を出る。
歯磨きして、さっさと自分も寝てしまおう。
翌朝
「本当に返って来た時のアブトは大変だったんだぞ。ヘロヘロで完全に酔っぱらっててさぁ。真っ赤な顔でオレに好き好き大好き~って言っちゃって」
「そうか」
「そうそう。ちゅー魔人になってたから。だからさ、今度からあんなにたくさん飲んで帰ってくるなよ? 外で魔人になったら大変だからな」
「わかった」
昨夜のアブトの失態について大ぼらを吹くシン。
静かに相槌を打っていたアブトだったが、朝食のかじりかけのトーストを皿に置いて立ち上がる。向かいのシンへ近づくと、頭を撫ぜるようにシンの前髪を右手で払う。
突然の不可解な行動に首を傾げたシンに構わず、現れた健康的な額に唇を一つ落として
「それはお疲れ様だったな」
にやりと笑われて、シンは悟らざるを得なかった。
「起きてたなぁ!!!?」