「ねぇ翔太郎、くつを買いに行きたい」
「靴ぅ?」
静かに白いひかりが街の凸凹を撫でて、すでに乱反射が目に痛いほどほどあかるい朝だ。風は少し穏やかで、予報では昨日より少しあたたかいらしい。
茄子とかつおぶしのお味噌汁をずるずる啜りながら、左は寝ぼけた頭でオウム返しする。
ふんわりと鼻に抜けるお出汁の香りに、思わずほうと息をついた。
おいしいご飯を食べながらの話は、なんとなくよい方よい方へと進んでしまう気がする。
左はちゃんと聞こうと、気の入れ直しも兼ねてフィリップの顔を見た。
「そう、くつ。最近すこしつま先が窮屈なんだ。お気に入りなんだけど……」
「お。さては成長期だな?生意気な」
お気に入りではあるんだけど、と繰り返し、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げる。きゅっと箸を握る仕草はわりに殊勝で珍しい。
左はいいじゃねぇか、成長期。と声を弾ませて魚をつついた。
今日の朝はフィリップの当番だ。
ふっくら焼けている鮭を箸の先で割ると、ほろほろと崩れる。うまいもんだな、と感心しつつ頬張った。よく脂が乗った赤い身は、ほのかにふられた塩気のおかげで甘みがある。噛み締める度にじわじわと温かさが体に染みわたるみたいだ。また頬がほころぶ。
「上手く焼けているかな」
「すっげー美味い」
今の質問は、本当に焼き加減を確かめているんじゃないな、と左は気づく。
ちゃんとおいしく焼けているのをフィリップは分かっているんだろう。
それでも聞いてくるのがのがかわいくて、左はすこし笑った。
なんだいもう、とフィリップはわかり切った顔でぱた、と足を鳴らす。
かかとが擦り切れた、淡い茶色のブーツ。よく履いたなぁと左は、繕われた跡のある履き口を見つめた。
新品だった頃は、ずいぶん前のような気も、昨日のような気もする。
「翔太郎、待って」
「あぁ?お前が行きたいっつったんだろ、今のうち行くぞ」
からからとすきま風の音が鳴るような心持ちのふたりの日々も、少しずつこなれた頃。
左は開けたままのドアの前で手をついて、事務所の中を覗き込んだ。
フィリップはなぜか突っ立ったまま、こちらに踏み出さない。玄関の真ん前に居るのに。ぴっと敷居で引かれた境界線があるみたいだ。
さっきまでの勢いはどうしたんだろうか、と左はいぶがった。お前なんのためにガレージ居るのか言ってみろで断り続けた、何度目かの「外に出たい」の駄々を、ようやく聞き入れたところなのに。
押し花をどうしてもやりたいやりたいと聞かないから、もういいかなぁと、ようやくこっちが折れたのだ。
わかんねーやつだよなぁ、と思いながら、左はドアの外をまた見渡した。怪しい影は無いように見える。
それでも、ドアと壁の間のくらやみ、角に出る前の死角、通り過ぎていく遮光が貼られたバンの窓。
左には、フィリップを探している奴らが居そうな気がしてならなかった。
逃げ出してからもう数ヶ月。近所に花を集めに行くくらいならいいかと思ったけれど、そういう甘さで何度も痛い目にあっている。行くならさっさとした方がいい。
急いた気持ちでもう一度振り返ると、ぱちっと目が合った。
まるく、大きな瞳がくっと揺らぐ。
なだらかに曲線を描く表面は、濡れた紫陽花の葉の色だった。
左は、この間の迷い猫の眼差しに、よく似ているように思った。
太いように思える視線は目をこらすと実はふるふると揺らいでいて、なぜかと言うとそれは、細く頼りない糸を撚ってあるからなのだ。
しっかりとそこにあるように見えて、少し間違った方向で引けばぷつぷつ端から切れてしまうほどもろい。
フィリップは、もう一度、一音ずつ噛むようにしょうたろう、とつぶやいた。
「ねぇしょうたろう、ぼく、靴がない」
そのときは結局どうしたんだったか。
多分、上手く言葉を返せずに、そのまま外に行く話は流れてしまったような気がする。
「やっぱり今日はやめておくよ」って言わせてしまったか、自分からちょっと待っててくれって言ったんだか、定かでないけど。細かいことは忘れたんだけど。
その時の、急に喉がざらざらとして、頭の奥が冷たさで引かれるようにきゅっと痛んだのだけを、左は嫌になるほど覚えている。
「お前なぁ、何時だと思ってんだ」
ガレージから、ドアのすき間から浮き出すように明かりが漏れていたから、呆れて声をかけた。
ちゃんと明かり着いてんのわかるんだからな、と続ける。渋々の返事と、ぱちぱちと電気のスイッチを消す音。がさがさとブランケットを引きずる音がして、とん、とソファに登る音がした。
そこまで聞き届けて、もういいだろ、さすがに寝るだろ、と左は事務所のベッドに転がる。
薄手に変えたばかりのブランケットを適当にかけて目を閉じた。夜はまだまだすこし寒くて、手探りで捕まえた端を顎先まで引き上げる。
コツコツとなる秒針が刻まなければ、かたちのゆるい、眠りの前の時間なんて、まぶたのうえで霧散していくはずなのに。
左は柔らかにひろがる月の光から背を向けた。梅雨明けで雲がないせいで、夜でも赤みの混ざる紺色にうすあかるい。
少しだけ空いた窓枠の端から、外の風が細く入り込んできて、幽霊みたいなカーテンを揺らした。
あたまのなかに、靴が無くて立ち尽くす子どもの姿ばかりが浮かんでしまう。左はもう一回寝返りを打った。
愕然とした、というのがいちばんしっくり来るだろうか。
あらためて、フィリップの置かれている状況を再確認させられたから。靴がなくても、何ヶ月も気が付かないような日々を送っていたことに、左は愕然としていた。
一緒に暮らすようになって、ご飯を食べたり、風呂に入れたり、検索で騒ぎだすのをなだめたり叱ったりして、あぁ、子どもだな、人間だな、と思うようになった同居人。
まだ成長途中の薄い背中に載せられた、想像のつかない重たいもの。
型を作った生活をくるくる回しているなかで、ぺりぺり、一枚一枚剥がれるように、異常性があらわになる。
靴は、履く人と世界を繋ぐもの。
他の誰とも繋がれてないあいつは、何に自分の姿を映して、自分のかたちを確かめればいいんだろう。人間は、周りの人を反響板にして、打ち返された響きで形作られていくはずなのに。
自分だってそうだった。たくさんの人に作ってもらった。
フィリップの鏡になれるのが、今、自分の背中だけだったことが、左は心底恐ろしかった。
自分が追いかけてきた背中とはなにもかもが違うから。
一番大事なものすら手から零した未熟さ。その腕で、一人の子どもを後ろに乗せているのが、指が震えるほど怖くて、申し訳ない、と思った。
それでも、その重たさを、少しでも背負ってやれるのも、心のかたちを映してやれるのも、まだ自分しかいないことにも気がついていた。
託された、もうただそれだけでは無いのだ。
日々の中で少しずつ降り積もる。自分の中に巣食っていく。応えたいなと、確かに思い始めていた。
翌朝、左はフィリップに靴を貸した。
まだ自分より小さい足のために、高校の時のくたびれたローファーだ。
高校生活後半、「小さくなったから買って欲しい」を叔母に言い出せなかった靴だった。育った足を無理に押し込んで三年履いたやつ。大分くたくたしているけど、それしかないから仕方ない。
「ワリ、考えてみりゃ小さめのあったんだから、昨日すぐ貸しゃあ良かったな」
「別に……僕はもう外に出たい訳では無いんだけど」
それよりも検索したいことが沢山あると言うフィリップの足に、まあいいからと構わず靴を履かせる。
左の足にはもう窮屈だけど、フィリップにはちょうどいいみたいだった。
真似してみろ、とかかとをトントンとやってみせる。フィリップは首を傾けながら、とんとん、と床で踵を打った。
「なんだい?コレ」
「外に出たくなるおまじないだよ」
「おまじないってなんなんだい?」
「え……なんなんだろうな、少しだけ、自分のことを応援してくれるものみたいな……」
適当なこと言ってしまったな、と少し言葉に詰まっていると、バサバサバサと音がする。おい、と思って、前を見る。
フィリップは迷わずするっと検索をしていた。するなら初めからしてくれ。こちらが下手な事言う前に。
風が止み、ぱちりと目を開けたフィリップは、左の方を見ると、おかしそうに目を細めてくすっと笑った。
「なに笑ってんだよ」
「いや、こういうの、大の男のきみがやるのが、なんだかね」
これ、小さな女の子の間でよく流行っていたって記述があったよ、とフィリップは調べたての癖にけらけら笑う。
なんだよ、今聞きかじりのくせに、と思いながら、左も釣られた。少しだけ肩に入っていた力が、笑い声に溶けて、二酸化炭素と一緒におだやかに還っていく。
「ねぇ翔太郎、早く外に出ないかい?」
かかとまでしっかり履いたローファーをかつかつ鳴らして、フィリップはきらきらと目を輝かした。試したいことがあるんだ、と言う。
さっきまで渋ってたのにな、と思いながら、左は何を?と聞き返してやる。
「明日の天気さ」
これもおまじないだろう?と言ってフィリップは靴を指さして、「とばす」と言った。靴飛ばし。
それはどっちかっつうと占いだなぁ、と言いながら、左は帽子を抑えてついて行く。裏返らないといいなぁ、とフィリップはつぶやいた。
「明日からもまた、これ履いて出かけたいからね」
貧乏くせぇこと言うなよ、と左は踏み出した勢いのままフィリップの頭をわしっと撫でた。何するんだい、と声が上がるのを気にせず、黒い髪の毛の下の丸い頭を、ぎゅうっと押えた。
「あれ、きみももしかしてこの靴買った時の事思い出したのかい?」
「お見通しかよ」
「ふふ、だってぼくもだからね」
フィリップはふと箸を止めて、茶色の皮に包まれたつま先を見つめた。
あの時より幾分育った中身のせいで、ぱつっと張り詰めている。丁寧に継ぎが当ててある靴は、過ごしてきた年月を思わせて愛おしかった。
これからたくさん歩くだろうからって、あのころ余裕なんてなかったはずなのに、張り切って自分に買い与えられた靴。ほんとうになったね、と思う。
「翔太郎、きみは知らないだろう。足が大きい人間は、背も大きくなるらしいよ」
「だからなんだってんだよ」
「ねぇ翔太郎、君の足のサイズはどのくらいだい?最近思うんだけどね、多分ぼくはきみより……」
やめろやめろ!と左がわめく声と、フィリップの楽しげな笑いが朝の事務所にひびきわたる。
継いだつま先、細かなキズや褪せた色。ふたりにとっては特別な意味を持つ。
無数の白い線は、幾分か登った太陽のひかりを反射して、きらきらとひかっている。