不確定の証明を 大事なものなんて作るものじゃない。
愛したもの、愛しいもの、大切なもの、それらは人生に彩りを与えるだろう。けれども、それで満たすには魔法使いの人生はあまりに長すぎた。
綺麗な花ほど、枯れるのが悲しくなる。
大事なものほど、この手からすり抜けるのが恐ろしくなる。力尽くで閉じ込めてしまえるほど、自分は強くない。心も、身体も。初めから何も持たないでいるほうがよほど楽だ。たとえ灰色の道だとしても、失う痛みを味わうよりずっといい。
悲観的な思考は生来のものだろうか。きっと、魔法使いとして生きるには、心が柔すぎたのだ。傷つくことは多けれど、慣れたとて、治らない傷は百年経っても痛いままだ。忘れてしまえばいいものを、捨て置けばいいものを、どうしても拾い集めてしまう。
割り切ってしまえばきっと楽なのだ。捨てることに慣れてしまえば。持たぬことを貫きさえすれば。けれど一度食んだ幸せを追い求めてしまう。微かに光った希望とやらを抱こうとしてしまう。己の愚かさに吐き気がする。
数十年、数百年生きても姿の変わらないこの身は悟ることもなくただうじうじと縮こまっていた。浮いたり、沈んだり、喜んだり、悲しんだり。果たしてそこに、ひととの違いがどれほどあろうか。
ブラッド。ブラッドリー。
きっと彼が、ネロに全ての感情を教えた。
あたたかな幸福。煌めく喜び。切ないくらいの安堵。燃えるような怒り。心を締めつける憎悪。千切れるほどの悲哀。溶けない後悔。全て、全て。あの男に出逢わなければ、こんなに苦しむこともなかった。けれど、彼を知らなければ、あの世界が輝くような日々を見ることもなかった。つまらぬ石となって消えるはずだったネロを掬い上げたのは、間違いなくブラッドリーだった。
大事で、大事で、大切だからこそ酷く憎らしい。
「……こんなもんか」
深夜一人、自室のキッチンでひとりごちる。一人分には多いフライドチキンに、ハーブソーセージ。カボチャのキッシュ。見事に誰かを想定した料理たちにため息しか出ない。
ブラッドリーがくしゃみをしてから三日が経った。
そこまで長からずとも短からず。遠くの方へ飛ばされたのだろう。酷いときはもっと日が経っていたが、最近では長くとも三日で戻ってくる。消えてから作っていた料理は全て同じメニューだった。
腹を減らしているかもしれない、だとか。もしそうなら自分の元へ訪れるかもしれない、だとか。確信未満の想定で、一人キッチンに立っていた。一度は縁の切れ目と忘れかけたくせに、こうして食べられる確証もない好物を作って待っている自分は愚かだ。どうしたって元通りにはならないのに、あの日の続きを夢見てしまう。こんなにも心がぐらぐらと定まらないのは魔法使いだからなのか、ネロだからなのか。それすらわからない。
──三日前、ブラッドリーは酒瓶を携えてネロの部屋をノックした。
「よお」
「なんだよ」
「いい酒が手に入ったんだ。飲もうぜ」
「……俺は」
「なんだよ、今日もだめか? つれねえなァ」
こうした飲みの誘いは、よくあった。だが、ネロはそのほとんどを断っている。罪悪感がないわけではない。ただ、頷くことは難しかった。根負けして席を共にすることはあったが、ほんの僅かなしこりが消えず燻り続けていた。
ブラッドリーは、再会してからも何も変わらないように見えた。一見、変わったところもない。裏切ったネロを殺すこともしなかった。気さくに、肩を組んで、もう一度、と誘う。ブラッドリーも、あの日の続きを望んでいた。ネロだって同じだ。夢見るように、夢を語るように。けれど、もう知ってしまっている。その先に待つのは地獄だと。ただ幸せであれた日は来ないのだと。痛いほど、知っている。
ネロは、自己愛のないくせに、自分の心を守るのに必死だった。体が傷つくのはいい。いずれ、治るものならば。しかし、心が故に、望まぬものさえそれでいいと思うのならば。傷つき綻びた心が、大事なものを捨ておこうとするならば。そうならないよう、必死で掻き抱いた。
自分の愛し方もわからない男が、他者の愛し方などわかるものか。
あのときネロにできたことは、それだけだった。
尊大な口調をするのに、ブラッドリーは僅かばかり不安げにネロを見る。じくじくと胸が痛んだ。こんな奴など、放っておけばいいのに。裏切り者など忘れてしまえばいいのに。もう胸を張って相棒などと名乗れないのだ。それなのに、ブラッドリーがネロを見る目は翳らない。それが、苦しかった。
「……なあ、ネロ」
名を呼ばれただけだ。それなのに、全身の血がぐるぐると回る。ネロにだってネロのことを理解できないでいるのに、この男が名を呼ぶだけで、ぼやけた輪郭が明瞭になる。落ち着かない所在が落とし込まれる。ネロの居場所であった男。ネロの心を預けた場所。
絆された、とは言うまい。昔から、ネロはブラッドリーに滅法弱かったのだ。
「わ、わか……っ、た」
ブラッドリーの顔が、刹那止まって、喜色に和らいだ。その表情を見て、後悔する。頷くのではなかった。また、ブラッドリーの中に足を踏み入れてしまう。ネロの中にブラッドリーを招いてしまう。追い出すこともできない。拒むのに、遠ざけようとするのに、いざ離れると切なさで死にそうになる。曖昧で、ちぐはぐで。
割り切れないから、ずっと、居心地が悪いままでいる。
豪快に笑う様子から、ひっそりと目を逸らした。ここではない何処かに逃げ出したい気持ちだった。逃げ出したところで、止まれもしないくせに。
──ブラッド。
そう、追憶から、彼の名を呼ぼうとした。するとどうだろう。くしゃみをしたかと思えば高そうな酒瓶ごとすっかり消えてしまった。呆然として、ようやく、息を吐く。詰まっていた肺に空気が入った。問題を先延ばしにするのは悪い癖だが、安堵してため息をついた。
まだ、あの瞳に見つめられないで済む。そう考えてほっとしたかと思えば、がらんと静かな廊下に寂しさを覚える。噛み合わない感情に舌打ちをこぼし、扉を閉じた。
それから三日後の夜が、今夜だ。
揚げたてのフライドチキンを眺めて、ぼうっと佇んでいた。チクタクと、時計の針が進む。ネロだけで帰りを待つのは憚られた。ゆえに、ということもないが。差し出すものがあれば言い訳にもなる。こうして、好物という膜を介することで柔い内側に触れられぬようにする自己防衛でもあった。
直前の誘いが良くなかった。頷いたことも、良くなかった。お陰でただの少しも頭からブラッドリーが離れることがなかったのだ。不意に与えられた猶予期間はいつ終わるかわからない。だから、ずっと胸が騒ついている。期待などしていないはずなのに、背後の扉を気にしてしまう。山盛りのチキンから一つ摘んで、味見がてら齧った。美味いは、美味い。しかし、苦い顔を禁じ得ない。散々に作ってきたからわかる。無意識にだって、手が動いていたのだ。舌に乗る味は、ああ、これは、あいつ好みの味付けだった。
「おい!」
「うわっ」
急に、自分以外の誰もいないはずの部屋に他者の声が響いたものだから驚いた。正体を探すまでもなく、顔を上げると窓の外に不満そうなブラッドリーが飛んでいた。先日抱えていた酒瓶で窓を乱暴に叩いている。
「やめろ、割れるだろ」
そう言って窓を開けてやった。箒ごと狭い窓から入ったブラッドリーは、冷えたコートを翻す。
「やっと帰ってきたってのに、一人で食い始めてんなよ」
「……何で窓から」
「面倒くせえだろ。夜だしよ」
喧しいのに見つからったら、堪ったものじゃない。と、渋面を作った。その背後にある意図を察するのは容易い。帰ってきたブラッドリーが、誰にも見つからぬよう、ネロの部屋の窓を叩いた理由など。導かれた答えは自惚れではないはずだ。そこに、むず痒さと、やはり居心地の悪さを感じる。
己は、それに値する存在なのだろうか。
到底肯定などできない問いが、疼くのだ。
反応の鈍いネロを置いて、ブラッドリーは勝手にグラスを並べる。乱雑に脱ぎ捨てた上着を放り投げて、どっかりと椅子に腰掛けては晩酌の準備を始めていた。おずおずとベッドに腰を下ろしたネロにグラスを掲げる。
「乾杯」
かつん、と手元でグラスが小さく鳴る。たっぷりと注がれた琥珀色は、なるほど深い色味をしていた。軽く揺らせば、割れた氷の表面を辿って、とろり揺蕩う。舐めるように飲んだ酒は、思わず目を見張るほど美味だった。
ブラッドリーはそんなネロを見て無邪気に、愉快そうに笑った。
「うめえだろ。なかなかの上物だ」
空を飛んで帰ってきたばかりだというのに、鼻歌まで歌いながらチキンを齧っている。余程腹が減っていたのか、酒を飲むより皿に手を伸ばす回数が多かった。
「随分、ご機嫌だな」
「そりゃあそうだ。うまい飯にうまい酒がある」
訳もなく言い放つのに苦笑した。この男は、そういう男だった。自分の機嫌を取るのが上手い。感情に素直で、偽らない。それは自身だけではなく他者へもそうだった。士気を鼓舞することに長けていたのだ。ふとすれば呑み込まれそうにもなる寒い北の国では大事な能力だった。
「うまい飯」を提供した側からすると、心地よくなる。意味があって理由があったのだと安心できる。揺らぎそうになる意識の中で保ち続けてきた存在意義は、どうあったって、こんなにも単純に気分を高揚させた。
放り投げた脚を組んで、ブラッドリーは歌うように言った。
「それに、お前もいる」
「……ああ、そう」
素っ気ない物言いとは裏腹に、一瞬で耳朶は赤く染まる。これでは目敏い彼にはバレバレだ。くくく、と喉の奥で笑うブラッドリーをひと睨みし、自棄混じりにグラスを傾けた。
少し前のことだ。ブラッドリーがネロの元に赴き、ネロに頭を下げたことがあった。つまみ食いでもなく、夕飯のリクエストでもなく。今の二人の関係がボスと子分ではなく、相棒でもなく、ただの賢者の魔法使いであることは理解していた。そのつもりだったが、あのブラッドリーがネロに頭を下げたという事実に心底驚愕した。驚いたことにもまた驚いた。彼の隣を離れたときから、二人の関係はイーブンだとしていたのに、心のどこかでは昔を引きずっていたのだ、と。全くもって、未練がましいことだ。
そうしてそれからというものの、ブラッドリーは稀に、思い出したように、ああいうことを言う。ああいうこと、というのはつまり、先述のような。口説かれているのかと勘違いしそうにもなる言葉。
「ネロ、これ。これまた作れよ。うまかった」
「気が向いたらな」
すっかり綺麗に片付いた皿を指差し、ブラッドリーがせがんだ。その言葉にも、瞬く間に完食した事実にも、胸がいっぱいになる。ふとすれば苦しいほど。満たされて、満たされすぎて、溢れそうになる。
不自然に、会話が止まった。
楽しげに、気安げに会話をしていても、空いた隙間から忘れ得ぬ楔が打ち込まれる。まるで、お前はブラッドリーの相棒のネロではないと言い聞かせるように、
他愛無い話題が思いつかず、黙りこくる。ネロばかりが気まずそうにするだけで、ブラッドリーは平気な顔をしていた。
「……つまんないだろ」
「あ?」
「いや……今の俺と、飲んでても。それとも、何か用事があったのか」
口の中でもごもごと言い募る。沈黙に耐えかねてのことだった。昔ならば、それことサシで飲むことなど多々あった。しかし今は最早昔のネロではなく、昔のブラッドリーでもない。手下の誰が何をしただの、今日は何があっただの、適当な会話など思いつくはずもなかった。意味のない話。あの頃はぽつりぽつりとでもできたのに、今は声一つにすら意味を求めずにはいられない。
意味も、理由もなくなってしまえば、ネロは丸裸にされてしまう。守るものも、抗う術も持たずに。
乾いたため息が聞こえて、機嫌を損ねたか、と俯いた。隠れて上目で表情を窺う。怒ったような、傷ついたような目をして、それから静かに伏せた。決まり悪そうに、唇を曲げている。
「俺は別に、ただ酒を飲みたくて来たんじゃねえよ。……あー、さっきも、言っただろ」
「……言ってねえ」
「違う、ええと、……ああ、クソ。お前もいるから、って、言った。言っただろ」
確認するように、ブラッドリーが指をさす。数刻前の会話だ。ちょっとやそっとで忘れるような軽口でもない。言ったし、言われた。目を逸らして、小さく頷く。
「お前がいなきゃ、意味がない。俺は、お前に会いに来たんだよ。ネロ」
丁寧に丁寧に、わかりやすく、誤解のないよう。細かく噛み砕いて、ブラッドリーは告げた。真意など、裏など、ありはしない。ただひたすらに真っ直ぐで、鋭い。口説かれているかのような、なんてものではない。
血液が沸騰するようだった。羞恥か、歓喜か、否。戸惑いであり、怒りであり、悲しみであった。それは、己に向けて。
「なん、で」
「……そんなに、理由が欲しいか?」
「だって、俺は」
お前を裏切ったのだ。ブラッド。
そう出てこなくて、喉をヒュウヒュウと鳴らすだけ。
相棒と名乗るに足りる者になれず。そばにいることも叶わず。全てを捧げることさえ、ままならなくて。拾い上げることも、捨て去ることも、割り切れなくて。このままブラッドリーの中から消えてしまえたらと、本心で思えないくせに逃げ出した。そうして、腹も決まっていないのに再会した。
自分は、ブラッドリーが求めるほどの存在ではない。
「俺だってわかんねえよ。何が正解で、何が間違っていたかなんざ。百年経っても、このザマだ」
それは、ネロとて同じだった。
あの日の選択は間違っていたのか。ならば正解とはなんだったのか。今ここにいる己も、正しいのか、否か。正しくないのであれば、一体いつから間違っていたのか。兎にも角にも、あるのは過去だけで、現在だけ。正しい未来とやらを掴めそうもない。その正しさすら解き明かせないのだから。
「ああすりゃあよかったのか、だとか。考えることもある。けど、どうやったって過去は変わんねえんだ」
ブラッドリーは、放り出されていたネロの手を取った。驚くほど繊細に、壊物を扱うように。カサついた掌は暖かくて、じわりとその体温が指先から染みていった。
「今の俺は、お前を大事にしたいんだ。矜恃だとか、生きる意味だとか、そういうものの前に、ネロが欲しい」
「……く、口説いてん、の?」
「口説かれてくれんのか?」
揶揄い混じりの口調のくせに、眼差しは乞うようだった。未だ奪われたままの片手が、高価な宝石の如く、隠された宝物の如くそっと包まれる。心は、困惑の渦の中にあった。
「愛してるって言えば頷くような奴ならそうしてるさ。けど、てめえはそうじゃねえだろ」
愛してる、だ、なんて。不意に落とされた言葉に、息が止まる。生まれたときから焦がれていたもの。求めるのに受け取れないもの。愛とはそういうものだった。ああ、今更そんな綺麗なものを欲しがるだなんて。自嘲して、唇を歪めてみせた。
「もし、そうだったら、キスの一つでもしてたか?」
「あ?」
「ほら、そうだろう。……愛だとか何だとか、軽々しく、ッ」
ぴくりと眉を曲げたのを、ほら見たことかと嘲笑う。けれど怒るでもなく怒鳴るでもなく、きっと醜い顔をしていただろうネロに、ブラッドリーは噛み付くようなキスをした。否、噛み付くような、ではない。噛み付かれていた。唇から血が滲んで、舌先に鉄臭さが広がる。
そのまま体重をかけられて、ずるずると腰が落ちる。緩やかに、シーツに背中が触れて、仰向けに転がされた。乗り上げたブラッドリーの表情は、逆光でよく見えない。
「ブラッ、ド、」
「……こんなもんで繋ぎ止められンなら、いくらでもしてやるよ」
そう言い放って、また顔を近づけてくるものだから慌てて押し退けた。
「ま、って。待て。いや、あー……その、えっと、ブラッド?」
「何だよ」
「今、キスした?」
「したけど」
「したけどじゃねえんだけど」
「煽ったのはそっちだろ」
それは、そうではあるのだが。
どうせ出来やしないだろうと、言い負かすつもりでの発言だった。反発や意趣返しだろうか、とも考えた。考えたものの、そうではなかった場合──つまり、ブラッドリーの意思でキスをした場合、は。完全に完璧に想定の範囲大いに外れている。その場合の対処は引き出しにない。脳内であれやこれやとひっくり返しても、思考は回転をやめ、宙ぶらりんであった。
「何が欲しい。何なら欲しがれる? どれを渡せば、お前は怯えずにいられるんだよ」
ブラッドリーは、痛む傷を堪えるようにネロの肩を柔く掴んだ。
怯えて、いるのだろうか。失うことに。失う痛みに。ああ、そうだろうとも。怖気付いて、後ずさって、子供の夢みたいな幸福を夢見ている。
きっと確かな安心感だったり、信じられる平穏だったり、馬鹿げた愚かしいものを求めている。けれども信じることは盲目で、それ以外のものが見えなくなることだと学んだ。確実など、絶対など、不変など、ありはしない。信じたいのだ。今、ブラッドリーが目の前にいて息をしていることを。その裏で、信じなければ不確かな未来に怯えることもないと諦観している。
愛なんて。情なんて。空模様のようなものだ。
簡単に移ろい、晴れたと思えば曇り、荒れて、吹雪く。北の空は常に白く冷たかった。東の空は常に曇り陰っていた。刹那現れる晴れ間を、どうして永遠だと思えようか。
「……あんたが、欲しかった。けど、もう、欲しがれない」
一度、とうに諦めた。手には入らないのだと、思い知ったからだ。だから、これは、終わった話だ。
言い切って、閉口する。空気が冷え込むのがわかった。キスをして、ベッドに雪崩れ込んでそのままなのに、甘ったるさなど一ミリもありはしない。双眼のピジョンブラッドが細められる。ぞわりと、肌が粟立つほどの怒りがその先に見えた。
「……勝手に終わらすなよ」
「ッ、じゃあ、何だ? あの時聞かなかった話を今なら聞けるのか?」
不服そうな声音に噛み付いた。まるで、地団駄を踏む幼子のように。どうせ、何を言われたって、どう返されたって、結局傷ついて泣くことしかできない。それをわかっていて、声を上げることをやめられない。
「聞いて欲しいなら、言え。話せ。口に出せ。黙ったままで逃げんな」
「どの口が…ッ!」
かあっと目の前が赤くなった。言って聞かなかったのはブラッドリーなのに。黙ったまま逃げるしかできなかったネロを咎めるようなことを言う。
ふつふつと沸いた感情は喉奥の堰を壊した。言いたいことは山ほどある。それらを全て吐き出すつもりで口を開いた。
だのに、言えない。怪我をするな、無茶をするな、無理をするな、盗賊なんかやめてしまえ。もう堰き止めるものはないのに、声にならない。ブラッドリーに聞いて欲しいネロの声はこれではないと本能が抑えるように、はくはくと空気だけが逃げていく。
願うものは、何だろうか。欲しいものは、何だっただろうか。繋ぎ止めようと必死にもがいたのは。ネロが怯えていたものは何だっただろう。
「……死ぬ、な」
「おう」
「死なないで……置いて、行かないで」
「おう」
「生きて、俺のそばに、」
あの日渡し損ねた愛が、流し損ねた涙が、一雫、落ちた。
「隣に、いてくれ」
「……ああ」
慈しむようなキスを、今度は押し退けなかった。触れ合った唇に、焦がれていた温もり染みたものを感じてしまった。
いつまでも胸をじくじくと刺していた楔が溶けていく。すとん、と落とされた肯定は、あまりにも抗いがたく拒む隙もない。こんなものでよかったのか。声に出しても、許されたのか。お前が欲しいと、隣にいてくれと、何も考えずただ乞うだけで。あの頃に同じ言葉を言ったとして、この男は頷いただろうか。ふと考える。是、とは言えない。ブラッドリーを忘れようとした百年間、ネロと離れた百年間、それらが無意味だったとは思えないのだ。やはり、過去の正誤は不明だった。
今日のことでさえ、明日には後悔するかもしれない。百年後に、あれは間違っていたと悔やむかもしれない。
ただ、今だけは。このひとときだけは、不確かな未来のことなど考えたくなかった。
「聞こえるだろ。心臓の音が」
ブラッドリーが、ネロの右手を己の胸に押し当てる。どくり、どくり、確かに脈打つ鼓動を聞いた。
「信じろとは言わないさ。疑うな、とも。けど、俺が今ここに生きていることはわかるだろ」
血の色が赤いことを信じるとは言わない。涙が透明なことを信じるとは言わない。事実は、疑いようもない。今、囁くように語るブラッドリーの存在は、幻でも夢でもなく、真実で事実だ。
「ブラッド」
「おうよ」
「もっと……もっと、近く、で」
言い切るが早いか、抱き寄せるが早いか。腕を回して、体の上に引き摺り込んだ。バランスを崩したブラッドリーがよろめいてネロの上に伸し掛かる。大の男二人分の体重にベッドは跳ねた。胸の上が重たい。けれど、その重ささえ愛おしかった。
鼓動が共鳴する。どくんどくん、とくりとくり。首筋も耳元も、触れる全てから生きている音が鳴る。
ブラッドリーは呆れたように息を吐いた後、何も言わずにネロの好きにさせた。
背筋を掌で撫ぜる。熱い頬にそっと指を這わせる。瞬きをする大きな瞳の中に、己を見る。欠けた片耳を、鼻筋の傷を、大事に確かめていく。百年経てど、いっそ千年経てども、変わらぬ輝き。魂の、輝き。それを、辿っていた。
凍える北の大地では、ブラッドリーは眩い光だった。暗く澱んだネロの道筋を照らす、灯りだった。一度出逢えば見過ごせない輝きが、ブラッドリーにはあった。ずっとずっと恋焦がれていたのだ。その光に、惹かれていた。消えぬように、必死だった。
手を伸ばしても許されるだろうか。この腕に抱き留めても裁かれないだろうか。ふとマナエリアの麦畑を想う。諦めたふりして、失いたくないから手放そうと躍起になっていても、ああ、ネロはいつからか暖かな黄金を追い求めていた。
ちっぽけな自分を包み込む輝きを、愛していたのだ。
「なーあネロ。……ネロさんよ」
「……ん?」
「仮にもベッドの上でよ、そういう触り方をされっと……あれ、あれだ」
「うん?」
「妙な気分になる」
ぎくり、手を止めた。
冷静になって、我に返って、自分のしていたことを思い返す。わなわなと唇が震えて、気まずそうに目を逸らすブラッドリーを反射で突き飛ばした。
「なるな!」
「無茶言うな!」
尻餅をついたブラッドリーが叫ぶ。好き放題したのは確かにネロだが、抵抗しなかったのはブラッドリーだ。よってネロに非はないはず、である。
と、いうか。妙な気分とは何だ。言外に示唆された通りの認識でよいのならば、一体全体どうなって妙な気分なんかになるというのか。そんな素振りなど見せたことなどないのに、と思いかけて、はた、と止まる。素振りも何も、先刻キスをした。二回も、だ。しかも二回目は完全に受け入れている。どういう意図で、どういう意味で、どういった色の持つキスか、など考える余裕もなかったが、今更になってそのツケがきた。
「言っとくがな、どうでもいい奴にくれてやるほど俺様の唇は安かねえぞ」
「う、ぁ、だ、だって、でも」
「そんで、お前もどうでもいい奴にキスされてあんな顔しねえだろ」
「あんな顔、って」
どんな顔をしていたと言うのだ。やたらめったらと頬が熱くて、視界がぼやけそうに目が潤んでいた。そういうことだけはわかる。ブラッドリーに言わせるとあれは「どうでもよくない」奴にキスをされたときの顔、とやららしい。非常に情けなく、何も取り繕うことのできなかった表情だ。
ネロはそこまでわかりやすい性質をしていないと、自分では思っている。喜怒哀楽然り、感情の浮き沈み然り。けれども、どうしてか、ブラッドリーはわかって欲しくないときに限ってネロの心の奥を見透かす。隠したくて隠しきれない一欠片を拾い上げてしまう。
ほんの僅か、細やかに感じた温もりを、知られている。
「ブラッ、っ、ん、ッ!」
声は、奪われた。
無遠慮に、我が物顔で舌が這入り蠢く。子供でもあるまい、清廉潔白でもない。誰とも知らぬ女とキスの一つや二つ、ないことはなかった。けれど、こんなキスは初めてだ。
呼吸も、熱も奪われて、支配するようでいて抱きすくめるような、口付けは。唾液すら甘味に感じられる情交は。なす術もなく、暴かれる。曝け出す。びくついて震える舌も絡め取られて吸い出される。
「ぅ、……っ、ン、ぅ」
「……ネロ、息しろ」
「は、ぇ……?」
「酸欠になるぞ」
それだけの忠告を残して、一瞬解放された唇はまた塞がれる。息、息、呼吸。既に思考すらままならない頭でそれだけを考える。稀に開く唇の隙間から必死に空気を取り込んで、鼻で息をする。いたずらに上顎や舌先をくすぐられて、上手にできない。熱っぽい、湿ったブラッドリーの吐息にくらくらする。麻薬のように、余計なことなんか消し去っていく。
熱い、熱い。気持ちいい。怖い。
砕けそうになる体を支えるように目の前の方に縋りついた。お気に入りであろう、紫色のシャツが皺になる。相手が「ボス」であるならばこんなことは許されない。そう思うことも、背徳感に繋がった。
びりびり、首筋から背骨まで痺れる。産毛の先が空気に揺れるのさえ感じ取れた。飲み下しきれなかった唾液が顎を伝う。とうとう立っていられなくなって、ベッドに倒れ伏した。そうしても、尚も口付けは止まない。
腰の辺りがずん、と重たくなる。戯れに髪をすいて撫でられるのが心地いい。次第にせがむようにブラッドリーの舌を追っていた。ようやっと離れて、ブラッドリーが笑う。
「欲しがれンじゃねえか。ネロ」
「……あ」
無意識のうちにされるがままではなく応えていたことに赤面する。はしたなくも、深く交わうキスを楽しんでいた。欲しがっていた。
「流されただけとは言わせねえぞ」
「言わねえよ……」
押しに弱いと自覚している部分はあるが、今がそうでないことくらい理解している。嫌だったなら蹴ってでも殴ってでも抵抗できたのだ。抗うことは、いくらでもできた。そうしなかったのは、ネロだ。
両脇についた腕の中に閉じ込められたままの体を、指先が焦ったくなぞる。その後のことを予想して慌ててブラッドリーの顔を見上げた。
「ブ、ブラッド!」
「安心しろ。これ以上は、今はしねえよ」
「今は、って」
今じゃなかったら、これ以上があり得るのか。落胆か、安堵か。微かに強張った肩が弛緩する。その陰で密かに期待していた頭を叱咤して冷静を装った。
「お前がごちゃごちゃ考える奴なのはわかってる。簡単に落とし所を見つけられないのも。だから、時間をやる。待たせてばかりだったから、今度は俺が待つ」
「……あんたが?」
「そうだ。考えて、悩んで、そんで俺に会いたくなったら、来たらいい。北のやつと喧嘩してても、飯食ってても、寝てても、お前を出迎える。何を放り出しても、ネロを待っていてやる」
「できんのかよ」
「俺はやるっつったらやる。絶対だ。約束したっていい」
はっとしてブラッドリーの目を見た。魔法使いにとって、約束がどれほどのものかわからない男ではない。それを口にする重さを知らない男ではない。今まで手に入れてきた力を、血を流し疲弊しそれでも生き抜いてきた全てを、ネロに委ねている。
疑えるはずもなかった。
「お前が置いて行くなと言うなら、置いて行かない。だから、……お前も、置いて行くな」
「……っ」
「何処にも、行くな。行かないでくれ」
悲壮な声は、初めて見るものだった。他の誰でもない、ネロを、求められている。ブラッドリーが、ネロを欲している。そう訴える声だった。
ちぐはぐだった。吊り合わなかった。あれだけ隣にいたのに、わかり合えなかった。それが結論で、それまでだと思っていた。共にはいられないことが答えだと、嘆いていた。
六百年の不可能は、可能にはなり得ないと、思っていた。
ああ、少しだけ。ほんの少しだけ。前に進んでもいいと、足を踏み出してもいいと、己を赦した。ぬるま湯のような不変から抜け出すことを、心に描いた。
「……きっと、あんたに会いに行く。明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。もっと先かもしれない」
「構わねえよ」
「けど、会いに行く。ブラッドに、会いに行く、から。だから」
「ああ」
賢者の魔法使いであれることも、絶対ではない。長く生きていても、明日の命も絶対ではない。まだ、気持ちは揺らぐ。感情は上に下に浮いては沈んでいる。差し出された手を、すぐに握り返すことはできない。
それでも、未来を夢見る。希望に焦がれる。明日かもしれない、一ヶ月後かもしれない、もっと先かもしれない、不確定な未来にコインを賭ける。
「そのときは、また、あんたと酒が飲みたい」
夜を繰り返し、繰り返し。月を見上げて、願う。恐ろしくも美しい月の、現れる夜に。友人のように、仲間のように。家族のように、恋人のように。グラスを交わせたならば、間違いも、正しさも、思い出だったと肯定できるかもしれない。
「……上等だ! うまいツマミを持ってこいよ? 俺様も、特別にうまい酒を用意してやる」
児戯のように語る未来。幼くて拙い、稚い"約束"。ネロの胸は逸っていた。焦燥ではない。ただ、高鳴る。これが期待であるかあるいは緊張であるかは不明だ。
骨を突き破りそうに鳴る、鼓動。ブラッドリーも、同じ鼓動であればいい。そう祈って、ネロは小さく微笑んだ。