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    仁川にかわ

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    仁川にかわ

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    #ブラネロ
    branello

    カーテンコールをもう一度⑵ お前が悪いんだ、と言われたので、ああ自分が悪いのか、と思った。
     ネロの髪と瞳の色は、実の母親とそっくりらしい。お前はあの女によく似ている、と。夜毎うっとり囁いて、粘ついた視線で幼いネロの身体を弄った。父親にいいようにされているネロを、血の繋がらない歳の離れた兄弟は見て見ぬ振りをしていた。興味がないのだ。互いに同じ家に住んでいるだけの他人。ネロとて目の形も肌の色も似つかぬ兄弟にさして関心はなかった。
     女のように肩の下まで伸ばした髪。着古した丈の長いシャツ。歪んで骨張った、硬い大人の掌が肌をべたべたと触るのは気持ちが悪かった。けれども、父親が言うには、ネロが悪いらしい。それならば仕方がないか、と、抵抗する気にもならなかった。拒んだところで代わりにやってくるのは暴力だ。痛いのも気持ちが悪いのもどちらも嫌だったが、後者は我慢していれば終わりが訪れる。比べて少しでもマシな方を選んでただひたすら玩具として黙っていた。
     昼も夜も問わず家族は女を家に連れ込んだ。それぞれ香水の違う、布地の少ないドレスを纏った女たち。壁一枚の向こうで行われる行為の詳細は知らずとも、音や声を聞くと何だか吐き気がした。夜は綿の少ない布団を被ってやり過ごす。昼は、外へ飛び出して夕暮れまで時間を潰す。それがネロの日常であった。
     ──その建物へ訪れたのは偶然だった。たまたま、足を向けた先にあったのは小さな劇場。色とりどりのポスターは煌びやかで、眩しくて、目を惹かれる。入り口付近でぼうっとしていると、背後から声をかけられた。
    「なあ」
    「……えっ、あ、何……」
    「入んねえの?」
     振り返ると、ネロよりやや背の高い少年が入り口を指差していた。真っ直ぐ伸びた背筋は堂々としていて、何故だか時代錯誤な古びたデザインの衣服を身につけている。それも妙に似合っていて、果たしてこの少年は本当にこの世のものなのだろうかだなんて疑問を抱いた。
     格好も白と黒の入り混じった髪も印象的だが、何よりその下の宝石みたいな瞳。赤い陽光が、夕暮れの空を照らすような色。目が焼けそうな、熱い色。その瞳に見つめられると焼け焦げてしまいそうだった。
     少年が顎をしゃくる方、矢印の書かれた看板は中へと誘導しているけれど、ネロのポケットには小銭一つもない。劇場に入ったことはないが金がいることはわかる。
    「お金、ない、から」
    「金? あー……お前、いくつ?」
    「え、と……」
     年齢を聞かれているのは理解している。が、しかし、正確な歳は自分自身もよく知らなかった。記憶がある限りロクデナシの父の元で暮らして数年経つ。学校へもまともに通ったことのないネロが何歳なのかって、恐らく誰もわからないだろう。
     日々生きていくだけの飯を腹に詰め込むだけでは背も伸びない。肉もつかない。壊れかけのテレビを時折つけて見るだけでは、知識もつかない。頭も良くならない。言葉に詰まるネロを見て、少年はポケットから紙を一枚差し出した。
    「ま、いいか。おら、受け取れ」
    「わっ」
    「金はいらねえよ。ここで俺様に出会ったことを幸運に思えよな」
    「でも……」
     押し付けられた紙……チケットを見て先の質問の意図を悟った。金額設定の下に小学生以下無料の文字が踊っている。しかし見目で判別がきかず問われるも無料の恩恵を受けられる歳ではないことは確かだ。五つ、六つよりは長く生きている自覚がある。
     受け取るか受け取るまいかまごつく。それでも少年はぐいぐいとネロの掌に押し付け無理矢理握らせた。仕方なしに若干皺のついたチケットを広げる。本当にいいのか、と無言で訴える。不安そうなネロに、少年は胸を張って言い放った。
    「俺様の舞台を見ねえと、後悔すんぞ。せっかくの幸運なんだ。ありがたく貰っておけ」
    「ぶた、い」
    「そう。俺が主役の物語だ。まだ全部席が埋まるほどじゃねえが……絶対、俺はスポットライトが似合う男になる。だから、タダで見る機会なんざこれを逃したら二度はねえぞ。俺の……ブラッドリー様の姿を目に焼き付けろ!」
     少年──ブラッドリーは、大仰に両手を広げる。その様は美しい鳥が翼を広げ飛び立つようにも見えて。咄嗟に目を瞑った。光が虹彩に、直に飛び込む気配がしたからだ。
     その自信に満ち溢れた物言いは、ネロが持っていないものだった。ここはまだ舞台上でなく、入り口の外だというのに、言葉に、振る舞いに魅了される。眩しい日差しが、スポットライトのように彼を照らす。
     気付けば、中に足を踏み入れていた。赤い絨毯が敷かれた廊下を、少年の後ろを着いて歩く。平坦だった胸が、初めてばくんばくんと高鳴っている。見たことのない景色を見せてくれるのだという期待に打ち震えている。それはどんな色をしているのだろうか。どんな空気の匂いがするのだろうか。今まで感じたことのない感覚が、そわそわと背を後押しした。
     ふかふかの椅子に腰掛けて。両手を膝の上で握って。帳が蓋をするステージの上。その幕が上がるのを、今か今かと待ち望む。
     諦めてばかりの短い人生の、初めての期待。初めての希望。それが、今訪れようとしていた。



    「どうだった?」
    「すごかった!」
    「うわっ……お前、でかい声出せたんだな」
     殆どの観客が去った客席で、舞台を降りたブラッドリーが肩を叩く。弾かれて立ち上がったネロはゼロ距離に詰め寄って歓声を上げた。
     物語はオリジナルの脚本のようで、寂れた街の片隅に住む少年たちが、子供を抑圧する大人と闘い未来を勝ち取る単純明快なストーリーだった。
     少年たちのリーダー役を務めていたのがブラッドリーだ。壇上に立つ彼とは数メートルも距離が離れていたのに台詞はよく通り、すぐ隣で語られている錯覚がした。演技で、作られた台詞なのに本物の心を感じた。闘う少年の中にネロも入っているかのようで、彼らが剣を取るシーンではずっと前のめりに拳を握っていた。
     ブラッドリーは誰よりも自然体だった。ボス、と呼ばれた姿と今目の前にいる姿に差異はない。虚構の世界の中で、ずっと生身の人間であり続けた。すごい、すごい、とはしゃぐことしかできないのが苦しいが、それ以外の言葉が出てこない。
     無邪気に両手を上げ飛び跳ねるネロに気を良くしたのか、ブラッドリーは口の端を吊り上げて鼻の頭を擦った。
    「そうだろ、そうだろ。また見に来いよ。チケットならくれてやる」
    「いいの?」
    「お前は俺様のファン一号だからな! 特別だ」
    「とくべつ……」
     何てことない風に与えられた特別、という単語。騒ぎっぱなしの心臓が、更に大きく脈打った。
     居てもいなくても変わらないネロではない。知らぬ女の身代わりのネロでもない。ブラッドリーのファンの、ネロ。特別なネロ。それはひどく甘美な響きをしていた。未完成で未熟な器には合わぬほど。硝子より繊細な心には毒になるほど。そのことを、まだ、ネロは知らない。
     ぐう、きゅるるる。
     間の抜けたタイミングで、ネロの腹の虫が暴れた。劇場内では特に大きく反響し、しかと聞いたであろうブラッドリーが目を見開いている。恥ずかしくなって、腹を押さえて俯いた。いつもは誰かの食べ残しや缶詰などを拝借して空腹を満たすのだが、昨夜は棚を漁っても机の下を覗いてもどこも空っぽだった。故に胃袋には水道の水しか入れていない。
     ブラッドリーはしばし黙り込み、耳まで赤くしたネロの手を引いて歩き出した。
    「こっち」
    「あっ、えっ、え?」
    「これも何かの縁だ。弁当が余ってるだろうから、食ってけよ。舞台に立つと腹が減るからよ、いっつも多めに買ってんだ」
     すたすたと歩くのに追いつこうと、足をもたつかせつつ、関係者用と張り紙のある一室へ連れて行かれた。我が物顔で勢いよく扉を開けたブラッドリーは大声で誰かを呼んでいる。関係者、と書いてあるのだから当然中には見知らぬ大人と舞台上で見た役者たちがちらほらとパイプ椅子に腰掛けており、明らかに無関係であるネロを物珍しそうに観察していた。
     自然と、皆の視線が自分に集まってくる。後ろめたくてブラッドリーの背中に慌てて隠れた。凝った作りの衣装の裾を握って肩口から様子を窺う。
    「何だ、ブラッド。その歳でナンパか? 悪い男だな」
    「うるせえよ、ナンパじゃねえし。弁当寄越せ。二つな」
    「はいはい。全く、わがままな坊ちゃんだ」
     口髭を蓄えた、すらりとした色男がブラッドリーの頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。唇を尖らせて不満げにするも弁当を受け取れば大人しくなる。机の上に並べられたペットボトルのお茶も二本手にして、大人用の椅子に座って、隣の椅子をぽんぽんと叩いた。
    「ほら、ここ」
     座れ、と暗に命じられて背の高いパイプをよじ登ってネロは腰掛けた。膝の上に乗せられた弁当は食べたことのない品々ばかりだ。黄色いソースのかかった肉。真っ赤なプチトマトにポテトサラダは緑が鮮やかなレタスが敷いてあって、カットされたオレンジや大きな苺まで敷き詰められている。四角い枠の中、真っ白なご飯はネロなら三日はかけて食べ進める量が盛ってあった。
     ブラッドリーが手を合わせていただきます、と言うのに倣って同じ動作をする。蓋を開けて、箸を割る。見様見真似で、続いてネロも箸を割ろうとする。力が弱くうまくできないでいると、ひょい、と隣から取り上げられて綺麗に真っ二つになった箸が戻された。
     恐る恐る、肉を小さく千切って、口に運ぶ。箸なんか数える程度しか使ったことがないのでどうにも下手くそだ。
     パサパサに乾いていない。冷えて固くなってもいない。適温に温められたおかずは、今まで食べたどれよりも美味しかった。顎の下がきゅう、と縮まって痛い。いつまでも味わっていたくて何度も何度も咀嚼する。ネロが一品一品をちょびっとずつ食べ進めている間に、ブラッドリーは肉と白米の器を空にしていた。野菜は手付かずである。
     先程の口髭の男が、けらけらと揶揄ってブラッドリーの頭を小突いた。
    「こら、野菜も食えよ。お隣の可愛い子ちゃんに示しがつかねえぞ」
    「だから、ナンパじゃねえっつの」
     ふてぶてしく鬱陶しそうにブラッドリーは腕を跳ね除ける。
     ネロはといえば、何だか誤解をされている気がするなあ、どうしようかなあ、と思案していた。髪を伸ばして、中性的な服を着ているからややこしいのはこちらの方である。今更本当のことを言っても、何故と聞かれると答えづらい。父親のことを話さねばならなくなるからだ。世間ではあまりよろしくない扱いをされていることは自覚していた。あまり面倒事に巻き込みたくはない。
     ブラッドリーも、ネロを女と思って話しかけたのだろうか。じいっと隣を見上げる。他意はなかったが、ぐぅ、と喉を詰まらせたブラッドリーは渋々ポテトサラダを頬張った。
    「まじぃ……」
    「偉いぞ〜」
    「うるせえうるせえ。黙ってろ」
     男がまたケタケタと笑う。やや離れたところから見守っていた美人の役者らしき女もくすくすと笑みを漏らしている。あんなに格好良くて凛々しかったブラッドリーが裏では子供扱いをされていて不思議な気分だ。
     その傍ら、半分も、三分の一も食べないでネロは蓋を閉じた。意地汚い真似かもしれないが、残りはまた明日明後日に取っておきたい。いつ食べられなくなるかわからないのだ。
    「何、腹一杯なの?」
    「違う……明日、食べようと思って。明日もご飯あるかわかんないから」
     顔を覗き込んだブラッドリーにうっかり正直に答えてしまって、はっとした。まずい、変な子供だと思われたかもしれない。ブラッドリーも、名も知らぬ大人も、気の良い人間だとわかっていた。だから、家の事情は知られたくない。掘り下げられて善意から介入されては初めて手にした「特別」すら奪われてしまう。
     どうしよう。どうやって言い訳しよう。途端青くなって汗をかいたネロに沈黙が降り注いだ。顔を上げられない。気性の荒い父親の機嫌を読み取るのが得意になっていたネロは、自分がどう思われているかを既に把握していた。
    「なあ、お嬢ちゃん。君……」
    「待て」
    「……ブラッド」
     ああ、可哀想な子供を案じる声がする。今すぐに逃げ出して、ネロのことなど忘れて欲しかった。何か言いかけた男の台詞を遮って、ブラッドリーがネロの頬を撫でる。温かい、手だった。
    「腹減ってんなら、それ、食っちまえ。誰も取らねえから。そんで、明日も食いに来い」
    「……っ、そんなの、だめだ。悪いよ……」
    「ただし、タダじゃねえぞ。明日から俺様の稽古に付き合え。その報酬として、だ」
     提示された条件に、ぽかん、とした。何も聞かない。施しをしない。逃げようとしていた足が、踏み止まった。
     数時間前まで見知らぬ相手だった人間には破格の条件だ。
    「腹一杯食う代わりに、俺様の相棒として付き添うんだ。光栄だろ?」
     太陽みたいに、白い歯を見せてブラッドリーが笑う。芝居の中で見た、誰かを勇気づける笑顔だ。消えそうな灯火を、止まりそうな足を、惑う手を、救う輝き。
     どうせ手に入らないからと、欲しがることがなかった心がその手を取りたがっている。我慢されすれば良くもならなく悪くもならない安定を捨てて、未知の世界へ踏み出そうとしている。
     もっとここにいたい。もっと、見ていたい。
     ネロは、ゆっくりと頷いた。誰かのためではなく、自分のための意思表示。火がついて燃えそうに熱くなる胸を永遠だと、その瞬間は、無意識に信じていた。



    「そうだ。お前、名前は?」
     相棒に任命された次の日。稽古場に訪れたネロに、ブラッドリーが尋ねた。気が抜けていたのだ。考えなしに答えようとして、Nの字が出る前に押し止まる。返答に困窮した。
     ネロの詳しい事情は知られたくない。けれども、知ろうと思えば探すことは容易だ。ブラッドリーはネロの意思を尊重して踏み込まないでいてくれている。大人たちも、きっと。
     ネロの持つ、ブルーグレーの淡い髪色はこの街ではあまり見かけない色合いである。同じ頭をした人間を未だ見たことがない。性別を敢えて誤解させたままにしているが、名前と容姿が一致すればすぐに何処の誰かだなんて知れ渡るだろう。狭い街ではないが、広い街でもない。何せこの劇場はネロの家から子供の短い足でも歩いて行ける距離にある。
     もし、父親にこの場所がバレたら。
     言うことを聞く大人しい玩具が、自我を持って楽しそうにしていることを知ったら。
     想像するだけでぞっとする。想像よりも、酷い目に遭うかもしれない。ネロだけならばいい。周りの者にまで害が及ぶかもしれない。
     名を明かす訳にはいかなかった。本当は、ブラッドリーの声で名前を呼んでほしかった。相棒なのに、特別なのに、名前も言えない自分が嫌になる。
    「……そんな顔すんな。言いたくねえなら、いいよ」
    「ごめ、ん……」
     沈んで暗い顔をするネロを慰める声が辛かった。涙が溢れるのをすんでのところで堪える。これ以上心配させたくなかったからだ。
    「"薔薇の花を他のどんな名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない"」
    「……?」
    「シェイクスピアの脚本の台詞だ。やたらめったらロマンチックな悲劇の一節さ。お前も一緒だよ。お前がどんな名前でも、名前を知らなくても、姿形に変わりはないだろう」
     大人びた横顔が、台詞を諳んじた。声変わり間際の少年特有の音がいやに重たく澄み渡る。
     ──どうしてこうも、ブラッドリーはネロが欲しがるものをくれるのだろう。くれた言葉、くれた場所、全てを宝箱に仕舞い込んでいたらもういっぱいになってしまう。抱えきれなくて落としそうになる。
     『特別』に高揚したように。ネロはずっと、きっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。
     ただの、何でもない、何も持たない自分でも、見つけて欲しかった。汚泥に塗れ隠されたネロ自身を誰かに知って欲しかった。見つかりたくない、見つけられたくないのに、それでも自己も曖昧なまま消え去りたくはなかった。
    「お前は俺の相棒だろ。そのことに胸を張ってりゃいい」
    「うん。……うん」
    「……それ、に」
     すらすらと滞りなく言葉を並べていたブラッドリーが、不意に口籠った。首を傾げていると、櫛も通していないぼさぼさの頭が優しく梳かれる。ゆっくりゆっくり丁寧に解きほぐして、頭の後ろでちょん、と髪が結われる気配がした。後ろ手に確認すると、ひらひらした紐が垂れているのがわかる。分厚いカーテンのようだった横髪が無くなって、視界が開けた。
     明るくなった世界を見せるためか、ブラッドリーがネロの柔い頬を持ち上げた。少し不機嫌そうに眉を吊り上げて、でも顔を赤くして。
    「せっかく、髪も眼も綺麗な色をしてんだ。上を向いて、もっと笑ったら、もっと美人になるぜ」
     それは、台詞ではなかった。
     脚本の中の文章でもなかった。
     ネロのために紡がれた、ブラッドリー自身の声。
     ずっと嫌いだった。こんな髪をしていなければ、こんな目をしていなければ、ただの薄汚い子供であれたのに、と。年々母親に似ていくと父が語る顔立ちも好きになれなくて、鏡が嫌いだった。楽しいことなんかないから笑い方も知らなくて、俯いてばかりで。
     でも、ブラッドリーがそう言うのならば。価値が生まれるような気がした。生まれてきた意味がある気がした。上を向いて、笑えるようになりたいと思えた。
     綺麗、だなんて自分には似合わない。綺麗というのはもっと、寒い日の朝焼けだったり、雲のない夜の星空だったり、燃え盛る炎だったり。ブラッドリーのような、自分だけの光を持った人だったり。そういうのを言うのだ。けれど、けれど、ブラッドリーのことを嘘つきだと否定したくなんかない。他の誰でもない彼がネロを綺麗と言うのなら、同じ景色に立てようか。綺麗なものの隣に立って、同じ生き物になれようか。
     ああ、世界とは、こんなにも眩しいものだったのか。モノクロめいた記憶も塗り替えていく。僅かに鮮やかさを吹き込んだ今が、もっともっと色彩に埋まる。
    「あー……その髪紐は、やる。プレゼントだ」
    「……何も返せないよ」
    「何か欲しくてやるんじゃねえよ。プレゼントだ、つったろ。だから、つまり……」
    「つまり?」
    「……明日も来い、ってことだ! わかったな!?」
    「わ、わかった、わかった、わかったから。近い、ブラッドリー……」
     鼻先が触れそうな近距離で叫ばれる。念を押して指先を突きつけられた。
     ブラッドリーは、初めてのことをたくさん教えてくれる。
     プレゼントもそうだ。初めて貰った。嬉しくて嬉しくて何度も髪飾りに触れる。滑らかでつやつやした手触りは綿雲のようだ。強制的に伸ばされた髪や気紛れに着せられる女物じみた服はちっとも嬉しくなかったのに、可愛らしく揺れる髪紐は胸を高鳴らせた。
     まるで、リボンの結えられた花束にでもなったかのような心地だ。名もなき雑草で、道端に転がる石ころで、踏み潰されるだけだったネロを、ブラッドリーが飾り立てる。
     少しだけ。
     少しだけでも、ほんのちょびっとだけでも、彼にとって自分が大切なものの一つであると、信じてみてもいいのだろうか。
     片隅でいい。端っこでいい。ブラッドリーの抱える大きな宝箱の中に、ネロも足を踏み入れても許されるだろうか。
     ぽかぽかと体中が暖かくなる。陽だまりに包まれて、昼寝をしているときみたいに。心臓から、中心から広がる血がとくとくとなだらかに脈打つ。掌でそれを感じ取ると、無理矢理に作った笑顔じゃない、自然な笑顔が花開いた。
    「ありがとう、ブラッドリー」
    「おー……おお」
     顔を合わせた途端目を逸らされたのが寂しかったが、代わりに頭を撫でてくれたので、魔法のように、すぐにネロは嬉しくなった。





     二度と飲みすぎない、と誓ったのは果たして何度目か。
     信じてもいない神に祈るも不信仰な者に恩恵はない。ハンマーで頭蓋骨を思い切り叩かれる痛みに耐えつつ、昨夜の記憶を呼び起こそうとしては失敗していた。どう見ても自宅ではない、他人のベッド。そして、自分のものではない体温。同じ布団でぐうすかと健やかに眠る男を見下ろし、盛大にため息をついた。
     やってしまった。
     燻る感情から逃げるために酒を頼る癖はやめろと同じ事務所のファウストには口を酸っぱくして注意されていたと言うのに。この悪癖で何度後悔したことか。歴代の後悔でも最大の失敗だ。酩酊状態のネロが何を言ったのか、何をしでかしたのか、眠る男──ブラッドリーも忘れてくれているといいが。こっそりベッドから抜け出そうとするも、壁際に位置するネロはどうしてもブラッドリーを跨いで行かねばならない。
     起きるなよ、起きるなよ、と念じる。そうっと、そうっと抜き足差し足立ち上がり、ベッドの縁へ。
    「……ゔ、ぅん……ぁ? ネロ……?」
    「…………」
    「……何処行く気だ、てめえ」
    「……おはようございマス……」
    「おはよう」
    「うん……」
     懇願虚しくブラッドリーは起きてしまった。脳の覚醒が早いのか寝惚けた様子もなくしっかりネロを見てしっかり言葉を発している。カタコトに朝の挨拶を交わして、しばし無言。気まずい雰囲気が漂った。
    「招いたのは俺だが、酔い潰れて寝床借りて先輩置き去りにして帰っちまおうってのは如何なもんかね」
    「仰る通りで……」
    「座れ。戻れ」
    「う、はい……」
     抜き足差し足、逆戻しでスタート地点。よくよく考えずとも芸歴も浅く畑違いの場で共演するネロが働いていい行為ではなかった。怒鳴られなかっただけブラッドリーの懐の深さに感謝しなくてはならない。小さく纏まって命令通りに座る。朝から心臓に悪い空気だ。
     きっとこの短時間で寿命が大幅に減った。キリキリと痛む胃をさすり、ブラッドリーの横顔に目配せをする。悪気はなかった、との意思は伝わっただろうか。ぎこちないネロを特に気にも止めず、映画のワンシーンのように華やかな仕草でベッドサイドから煙草を取り火をつける。紫煙が一筋立ち昇り、灰を落とした。
    「ま、吐いちゃいねえし暴れてもいねえから安心しろ。俺様は寛大だからな、潰れたくらいじゃ怒んねえよ」
    「そ、か……あの、俺、昨日変な事とか言ってなかったか?」
    「…………」
    「……え。言って、た? ブラッドリー……ブラッド。何か言ってくれ」
     沈黙が一番恐ろしい。肯定とも否定とも取れぬ無表情からは測り取れる情報がない。しかし何もなかったならばこんな反応はされないはずだ。途端に肝が冷えて汗が首筋を伝う。
     考え得る限りで最悪なことは過去のこと。それを持ち出していたら一巻の終わりだ。例えば、あの日のネロの裏切りを……交わした約束を守れなかったことを、思い出していたならば。撮影はまだまだ続くのに、今まで通り変わらず話せはしないだろう。失望か、軽蔑か。どれが来たってこの心臓は凍りつく。二度と、名前なんて呼べない。
     自身の鼓動が、鼓膜に直接響いた。呼吸がうまくできない。今更できる弁解もないのだ。今更、合わせる顔もない。煙草の火を消し灰皿に捩じ込むのが、やけにスローモーションに映る。
     堂々巡りの思考のループを断ち切ったのは、不意に手の甲に触れた指先だった。ブラッドリーの指が肌を擽り、重ねられる。不測の事態に体が動かない。
    「なあネロよ。お前は酔えば誰とでも手を繋ぐ癖でもあんのか?」
    「……うん?」
     ダンスを誘うような仕草で、恭しく手を取られる。薬指の爪の先にキスを落とされ、ひ、と悲鳴が迫り上がった。驚愕と、毒々しいまでの色気を喰らったが故の惑いから。
    「や、わかんね……あんま誰かと飲まねえし、ファウスト……よく飲む相手からも、んなの言われたことない、けど」
    「ほぉー……」
    「……俺、そんなことしてた?」
    「してた」
    「うわぁ」
    「がっつり握ってきやがった。お陰で運ぶときも苦労したぜ」
    「わぁ、わー……」
     考え得る限りの最悪の事態、ではなかったものの考えてもいなかった事態、は最悪に限りなく近かった。
     この様子ならば、昔のネロと今のネロは、ブラッドリーの中ではイコールで繋がっていない。そも、昔のことを覚えているかも定かではないが、だとしたらブラッドリーはまあまあ付き合いの浅い無愛想な男にべたべたと付き纏われた哀れな被害者だ。己はスキンシップが苦手であると自覚しているのに、どうしてそのようなことをしてしまったのかは昨日のネロに聞くしかない。しかし昨日のネロは寝落ちると共に消えたので聞く手段はない。
     申し訳なさと罪悪感がひしひしと迫る。
    「えっと、色々、ごめん。迷惑かけた」
    「……別に、怒ってねえって。誰にでもやってんなら、気ィつけろよって話だ。特に女関係にはな」
    「ああ、うん……ご忠告どうも」
     確かに、今回は相手が良かったものの女優やなんかに同じことをしたらセクシャルハラスメントで訴えられてもおかしくはない。気心知れない人間と酒を飲む際は飲み過ぎないようセーブしているつもりだが、ネロは基本酒好きだ。酔っ払いの理性ほど信用ならないものもない。
     忠告をありがたく受け取り、それはさておき。未だ触れ合ったままの手が宙ぶらりんに真ん中に落ちていた。引っ込めるべきか、否か。どぎまぎとして落ち着かず、尻の座りが悪い。一瞬のキスも、ブラッドリーなりの悪戯やら揶揄やらであっても軽くいなせるほどネロは経験豊富でもない。
     遅効性の恥じらいが頬を熱くした。こんな過敏な反応をされても困るだろうに。否、明らかに人馴れしていない者に過剰な戯れをするブラッドリーだってよろしくない。責任をあちらこちらに放り投げて、ぐるぐる悩む。まだ、手は離れない。
    「あの、ブラッド……手ぇ……」
     戸惑いがちに、隣をちらりと見遣る。ピジョンブラッドの瞳がすうっと細められて、やがて、嘘だったかのように体温が離れていった。何故だか、苦虫を数匹纏めて噛み潰したような表情をしている。寝起きだというのに顎のラインも目元もすっきりと整った男が美貌を歪めて奥歯を噛むのを、ネロはおろおろとして見守るしかなかった。
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    そして何より、特筆したいのはリケの腕を振り解けないボスですよね…なんだかんだ言いつつ、ちっちゃいの、に甘いボスとても好きです。
    リケが、お勤めを最後まで果たさせるために、なのかもしれませんがブラと最後まで一緒にいたみたいなのがとてもニコニコしました。
    「帰ったらネロにもチョコをあげるんです!」と目をキラキラさせて言っているリケを眩しそうにみて、無造作に頭を撫でて「そうかよ」ってほんの少し柔らかい微笑みを浮かべるブラ。
    そんな表情をみて少し考えてから、きらきら真っ直ぐな目でリケが「ブラッドリーも一緒に渡しましょう!」て言うよね…どきっとしつつ、なんで俺様が、っていうブラに「きっとネロも喜びます。日頃たくさんおいしいものを作ってもらっているのだから、お祭りの夜くらい感謝を伝えてもいいでしょう?」って正論を突きつけるリケいませんか?
    ボス、リケの言葉に背中を押されて、深夜、ネロの部屋に 523

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