それはまるで ドラルクの父、ドラウスがアポイントメントを取らずに事務所へ来訪するのはいつものことであった。ドラウスの辞書にアポイントメントという単語が載っていないのか、はたまた未だメッセージアプリを使いこなせていないのか、とにかく実父の来訪はいつも突然であった。
と、いうのも、過去の話である。最近はようやっとメッセージを送ることを覚えたのか、今からそっちに寄るね、と明らかに内容に適していない謎のスタンプと共に予告してされることも多くなった。何故ドラウスもロナルドも事前報告ばかりなのか。今からと言われても既に予定が入っていることを考えないのか。それではアポ無し訪問と大差ないではないか。そういった旨の説教は一度や二度で済んだ試しがない。
けれどもまあ、ごくたまにタイミングが合う日もある。
メッセージを受信した一分後に全開笑顔のドラウスが大荷物を抱えてやってきたのは、今日のことだ。
「ドラルク! ポール! パパが来たよ!」
「ほんっと急だな!?」
たまたまロナルドが休みで、たまたまドラルクもゲーム関連の用事もなく、たまたま住居スペースでのんびりしていた。事務所の門番であるメビヤツを背後に、ドラウスはやって来た。一応、メビヤツ的に無害認定されてはいるらしい。
ロナルドが案内ありがとうなあ、とメビヤツの頭を撫でる。ビッ、ビッ、と嬉しそうに誇らしげに電子音を鳴らしたりメビヤツはキャスターでころころと移動し定位置に戻った。
然程大きくはないダイニングテーブルにどさどさと紙袋が置かれる。土産物は頂きたいのでプレイ途中のゲームをセーブし、のそのそと腰を上げた。
すれ違わずウェーンと泣かずに済んだからか、ドラウスはいたくご機嫌だった。元気にしてるか、最近はどうだ、と毎度の質問に適当に頷く。今朝も小石に躓いて死んだし、短いスパンでポンチ騒ぎが起こっているが、それが新横浜の日常でありドラルクの愉快な日常であった。と、あれ、と首を傾げる。何がとまでは不明だが、違和感があったような。
魚の小骨を喉に詰まらせたようなそれを飲み込んで、紙袋を勝手に漁る。お高い血液ボトルはドラルクの。アルマジロサイズの服はジョンの。そしてドラルクの趣味ではない派手な色合いのブランケットや他国の高等吸血鬼について書かれた古書は。あれ?
「親父さん、スタンプ使うのはいいけどさ、よくわからん場面でよくわからんスタンプ使うのやめろよ」
「何故だ。ああいうのでコミュニケーションを取るのが正しい使い方なのだろう?」
「いや合間合間にハムスターがヘッドスピンしてるスタンプ送られても、どうしたらいいんだよ。何を思って送ってんだ」
「可愛いかなって……」
「可愛いけどさ……」
亀より遅い歩みで進んでもいない原稿を諦め、パソコンを閉じたロナルドが呆れ顔でドラウスと話している。あれ、と再度ドラルクは首を捻った。内容を聞くに、まるで、二人でメッセージのやり取りをしているかのような、そのような口ぶりだが。
そうだ、と手を叩いたドラウスが、紙袋の山から一つ抜き取る。ドラルク宛でもない、ジョン宛でもない、派手な赤のブランケットと古書の入った袋だ。
「ポール君、前に欲しいと言っていた本を持ってきてやったぞ」
「え、マジで? 助かるわ」
「翻訳が難しい文なんかは紙に書いておいたから、それを使うがいい」
「わー、ありがと、親父さん!」
「それから、こっちはブランケットだ。原稿中に肩が冷えると言っていただろう? 人間はすぐに体を壊すからな。気をつけなさい」
「お、覚えてたのか……わざわざ悪いな。あんまお返しとかできなくてごめん」
「そうではない。ほら、教えただろ」
「……ん。さんきゅ、嬉しい」
「うむ」
何何何何。何が起きている。紅茶を淹れそうと手に取った茶缶を思わず取り零す。
何だ、あの、仲睦まじい感じは。いつ。一体。どこから。
相変わらずのポール呼びではあるが、ドラウスの表情は柔らかく、ロナルドも幼く笑っている。ケトルに溜めた水がだはだばと溢れ出していた。側でジョンがヌーヌーと教えてくれているが、ドラルクは微動だにできない。
「あと、人気のケーキ屋でクレームブリュレを買ってきたから、皆で食べなさい」
「く、れーむ……ぶる、りゅ……」
「お前が言うところの、強いプリンだ」
「ああ、あれ! 美味いやつ!」
普段ドラルクはロナルドを五歳児と揶揄っているが、お菓子の土産を無邪気に喜ぶ様は最早三歳児である。いい加減に名前が覚えられない食べ物を強いか弱いかで分別するのやめなさいだとか、もしかして前にも買ってやったことがあるのだろうかとか、ドラルクの頭はパンク寸前だった。
冷静沈着に振る舞う他所でカタカタと震える指先を、ジョンだけが見ていた。紅茶を出すと、ドラウスがぱたぱたと寄ってくる。それはいい。別にいい。視覚的には、ロナルドが問題だ。既に貰ったばかりのブランケットを肩にかけていたのだ。ごく自然に。気遅れすることなく。ドラルクは、無言で暖房の温度を上げた。
派手な色合いだが、センスは良い。同色の細やかな刺繍が裾に施してあり、暖かそうな裏起毛の布地はダークレッド。花の模様が彫られたボタンはロナルドのイメージにぴったりだ。よくよく思い返せば、洗濯物の中にちょくちょくロナルドらしからぬ上等な衣服が紛れ込んでいた。てっきり読者からのプレゼントなり何なりと思い込んでいたが、もしや、もしや。贈り主はドラウスではないのだろうか。
ロナルドが適当に買ってくるある意味ハイセンスなTシャツなどと違い、桁が多いが、目玉が飛び出るほどではない。それ即ち、ロナルドの気質を理解してのことだ。あんまりに高価なものや希少なものを貰うと、自己評価の低いこの青年は自分にはもったいない、と躊躇ってしまうのだ。いい塩梅の、ちょっとだけ上等な、ちょっとだけ仕立てのいい服。考えれば考えるほど、ドラウスしかありえない。
「……紅茶が、入りましたよ」
「すまないね、ドラルク。ありがとう」
「なあなあ、ドラ公、プリン食べたいプリン」
「プリンじゃなくてクレームブリュレだ、ポール」
食欲旺盛、食い気盛んなロナルドはさておき。そう言うだろうと思い事前に用意していたスプーンを差し出す。ケーキ屋の箱をジョンと共ににこにこと開ける様は退治人ロナルドの顔をしていない。家の顔だ。
住居スペースで、休日で。だからという理由はあれど、体裁や他人からの目を気にしがちなロナルドが、客人の前でそういった振る舞いをするのはなかなかない。同居人の父、というだけでない気の許しように愕然とする。
「もしかして、私のいない間にも、ロナルドくん……ここに来たり、してました?」
「だ、だめだったかい? ごめんよ、ドラルク。ドラルクは忙しくて時間がないようだったから、暇そうなポールに付き合ってやっていたのだ」
「逆だろ。俺だって忙しいわ。暇なオッサンに付き合ってんのは俺だっつうの」
「先日見た映画はお前も楽しそうに見ていたじゃないか!」
「面白かったけど! 代わりに何処ぞの吸血鬼が改札にバッタバッタ挟まるから無駄に時間食ったわ!」
「だってあのカード買えばどの電車も乗れるってノースが言ってたんだもん!」
「残高ってもんがあんだよ! それにそのカード買うの手伝ったのも俺だろ!」
「待て待て待て待て。待ちたまえ。ふ、二人で映画行ったの? いつ?」
想定外の情報量が多すぎる。先日っていつだ。ドラルクがゲーム大会に赴いたり買い物に行ったりジョンの散歩がてら色んな厄介事にちょっかいを出したりしている間に、二人で、しかも頻繁に出かけていそうな。
よく似たおとぼけ面を二つ並べて、ロナルドとドラウスは答えた。さも事無げに。ドラルクにとっては大有りなのだが。
「先週じゃなかったか?」
「違う。一昨日だろ。先週はスナバ行った」
「ああ、そうだったそうだった」
「お、一昨日……先週……?」
「何だよ、てめーも行きたかったの? でもいなかったし。べつにお前の好きそうなクソ映画でもなかったからなあ」
「寂しい思いをさせてごめんようドラルク! 次は一緒に観に行こうね!」
違う、そうじゃない。いや、そうなのだろうか。
寂しい。寂しいのか?
寂しいというのは、もっと、胸の中が空っぽで、乾いた風が吹き荒ぶ心地のことを言うのではないだろうか。こんな、熱した針で心臓をグサグサと刺されているような、脳みそがぐらぐらと強火で煮え沸くような、そんな感覚ではなかったと思うが。
「何だかんだ言って、親父さんのこと好きだよな、お前」
「嬉しいよ〜ドラルク〜パパもドラルクのこと大好きだよ〜」
ドラウスが嬉し泣きをして抱きついてくる。正直、若干暑苦しい。右肩がしっとりしてきた。しっとりというか、じっとり。正面には幸せそうにクレームブリュレを頬張る五歳児否三歳児。それぐらい、ドラルクも作れるが。バーナーで表面を焦す際死ぬ恐れが大いにあるが、作れるのだ。そのケーキ屋のものより、ロナルドが好きな味に合わせて作ることが可能であるが。
心に仄暗い靄がかかる。何故だろう。この後の夕飯が入らなくなるからだろうか。いや、ロナルドならば完食した上でおかわりもしてくるだろう。ならば、どうして。こんなにも、苛立って仕方がないのだろう。
いよいよ肩の濡れが酷くなってきたのでそれとなくドラウスを引き剥がす。スプーンを咥えてその様子を見ていたロナルドが、ぽつりと呟いた。
「……いいなあ」
「ん? どうした、ポール」
「あ、いや、別に」
焦って言葉を濁して、ロナルドは目を逸らす。けれど、逸らされる前の瞳に憧憬が宿っていたことをドラルクは見逃さなかった。それは、ドラウスも同じようで。
長命の種からすればまだ赤子同然の歳であるのに、ロナルドは一人で立とうと甘えを振り切る。もう大人だから、と。一人でいい。一人で大丈夫だ、と。
きっと、もっともっと幼い頃でさえ、家族を支えようと奔走する兄の背中を見送ったのだろう。小さな手で、裾を掴むこともせずに。
力を抜くことも、誰かに縋ることも、誰も咎めやしない。けれど、ロナルド自身がそれを許さない。その姿は痛ましくもあり、また、美しくもあった。だからこそ、単純に諌められない。硝子に似て儚く、鋼より強く、宝石のように美しい矜持を、ドラルクは好いていたからだ。
だが、こうしてただのロナルドであるときくらい、年相応に子供らしくあればいいのに、と思う。人間社会で成人としても、それでも歳若いのだ。
ドラルクが口を開く前に、ドラウスが先に手を伸ばしていた。ロナルドの、柔らかそうな、ふわふわの銀髪に。
「うぇ!?」
「え、ち、違ったか?」
「や、え、な……なに、急に」
狼狽するロナルド──と、ドラルクだったが、ドラウスは手を止めることなく頭を撫で続けている。慈しむような、可愛がるような、優しい手付き。
首からじわじわと赤く茹っていくロナルドに腹が立った。退治人だというのに、警戒心はどうした。敵対種族だぞ、と自分の存在を全力で棚上げする論理的な理由としては己はひ弱で大した能力もないが、ドラウスは大概何でもできる基本的に万能で強大な吸血鬼だから、ということにしていた。その裏側に何があるか、など、そもそも裏側が存在するかさえドラルクは知らない。
ドラウスもドラウスだ。最初は敵対心を剥き出しにしていたではないか。それなのに、一緒に出かけたり、ロナルドのために贈り物をしたり、頭を撫でたりなんて。
ロナルドはドラルクの──ドラルクの、そう、友人、である、のに。
「いいなあって言うから、お前もこうして欲しいのかと」
「そ、ぁ……いや、ええっと……」
「このくらいのこと、いつでもしてやるというのに。妙な奴だな。ニンニクラーメンは強請るくせに」
「あれはちょっとだけ悪かったと思ってる」
「かなり悪かったと思え。あの後服からニンニク臭が全然取れなかったんだぞ」
「何でもいいって言ったじゃん」
「限度があるだろ!」
盛大に照れているものの、ドラウスを跳ね除けることもせずロナルドは大人しくしている。そうやって家の中で、仕事モードではない素の表情をして、騒がしく言い合いをするのはドラルクの特権ではなかったのか。
そうやって甘やかすのだって、本当は、本当は、ドラルクが。ドラルクだけが。
あれ。
音もなく塵になる。ジョンがヌーヌーと泣くのが聞こえた。辿り着いた感情の意味を知る前に、砂になる。ドラウスの泣き声も聞こえてくる。
「ドラルクーーーッ! な、何故! ニンニクラーメンの話をしたからか! ニンニクのトラウマが蘇ったか! パパが悪かったよ〜! ごめんよ〜!」
「大声出したら余計死ぬぞ」
「はわわ……ドラルク……!」
何もかもが空回っていた。ドラウスも、ドラルクも。生きた台風みたいな男にかき乱されてしまったのだ。夜の支配者が、昼の世界を知ったからか。青空に焦がれたからか。赤い瞳は反転して、緑。
鈍く尖り肉を刺す苛立ちが、胃に鉛を詰めたが如く重たい不快感が、鼓動を無理矢理に速める焦燥が、何なのか。
それは、緑の目の化け物が知っていた。
「スナァ…………」
「ドラルクがまた死んだー!」
*
結局、死んだドラルクが再生するまでドラウスはおいおいと泣いていたし、それに付き合ったロナルドは疲弊していた。また来る、と言って帰る背中に次はもっと早めに知らせろと言って送る。ブランケットや本のお礼も言っておいた。
事務所に戻ると、メビヤツがロナルドを見上げてにっこりと笑ったので嬉しくなる。似合っている、と言ってくれているのだ。多分。ロナルドにはメビヤツの言いたいことが何となくわかる。多分。合っているはず。多分、多分。
仕事着と同じ色のブランケットは暖かくて肌触りが良かった。だが華やかな刺繍模様がロナルドに果たして似合っているか不安になってメビヤツに視線を合わせる。
「なあ、これ、似合ってる?」
「ビッ!」
「……とても、よく、似合っているよ……」
「うわっ、何で死にかけてんの」
「心労だよ、心労」
「あー……親父さん、急に来たもんな」
「……まあ、そう……そうだね……」
メビヤツが語尾に音符が付く勢いで頷いてくれたことに安堵する間もなくドラルクが幽鬼のように背後から現れた。顎が砂っている。そういう類の妖怪みたいだった。もしかすると、もしかしなくても前例があるが、新横浜にまことしやかに語られる怪談のどれかはドラルクが正体かもしれない。
げっそりした様子のドラルクは、深い深いため息をついた。ロナルドは家族と会うとなるとテンションが上がるものだが、ドラルクはそうでもないらしい。家族仲はいい風だが、如何せん父母共に親バカだ。ユーチューバー事件や幼児化誘拐事件などを鑑みるとドラルクが疲れるのもわからなくもない。おまけに祖父はサイクロン大怪獣。
まあ、ドラウスもミラもドラルクを愛しているからこそああなるわけで。ロナルドとしてはドラルクにあしらわれるドラウスを不憫に思ったりもするのだが、祖父に関してはどうしたって自ずと巻き込まれる羽目になるのでどうにかして欲しいものだ。
と、ふと、ドラウスの土産について思い出したことがあった。
「な、お前、あれ作れねえの」
「あれじゃわからん」
「強いプリン」
「クレームブリュレな。作れるが」
「食べたい」
「さっき食べたのにか?」
「お前が作ったやつが食べたい」
メビヤツを一撫でし、頭に乗せたジョンと共に強いプリンをリクエストする。にっぴき並んで足を進めていたが、先頭のドラルクが死んだので頭からジョンが転がり落ちた。主人を哀れんで泣いている。可哀想に。どうせ死因はいつものくだらないものだろうに。
「なー、作れよ」
「……作ってやるさ。ああ、作ってやるとも」
「やった」
「チョコレートのやつも作ってドラドラちゃんスペシャルにしてやるわ! 覚悟しろ!」
「チョコの!? 食べたい!」
クレーム、何とか。そう、クレームブリュレだ。既に美味しいクレームブリュレに美味しいチョコレートを合わせたらすごく美味しいことになる。料理に妥協のないドラルクのことだ、すごくすごく美味しいことになる。浮き足立ってスキップ混じりに床を蹴る。ロナルドと同じくチョコレートのクレームブリュレにわくわくしたジョンが鼻歌を歌いながら踊っていた。可愛い。
ジョンはこんなにも可愛くしているのに、何故だかドラルクは渋面を晒していた。今回はただいつも通り唐突にドラウスがやってきて大量の土産を置いて帰っただけだ。そこまで疲れることはなかったように思うが。
はああ、と腰に手を当て、項垂れ、大きなため息。天井を見上げ、うーん、と唸り。首をぶんぶんと振っては、またため息。挙動不審なドラルクを訝しく思っていると、ジョンがヌーンと口元に手を当てて鳴いた。やれやれ、と言いたげなポーズだ。
妙ちきりんな儀式を行うドラルクを放ってお茶でも飲もうと冷蔵庫を開ける。小分けにされたタッパーがずらりと整頓されていた。自分の家の家電なのに、これはロナルドが触ると元に戻せなくなる。冷蔵庫に限らず、台所はドラルクの領域だ。以前は電子レンジぐらいしか活用していなかったが今は用途の不明な調理器具まで揃っている。キッチンを見ると、ドラルクがどれほどロナルドの生活に介入しているか思い知らされるのだ。
コップにお茶を注ぎ、一口。儀式が終わったのか、ドラルクが苦々しい顔でこちらを見ている。ややたじろぐも、お茶を飲んだだけだ。つまみ食いはしてないし、明日のご飯も食べていない。
「ロナルドくん」
「な、んだよ……」
「私、見たい映画があるんだけど」
「……あ? ああ、何だよ。結局見に行きたかったのか? いいぜ、親父さんはお前から誘って──」
「君と、二人で」
「あん?」
「……いや私が見たい映画、お父様は苦手なやつだから、ね?」
「うん? うん。確かにお前の好みって親父さんは理解不能だろうなあ」
「だから、二人で」
「でもそうしたら親父さん拗ねるから、別の映画は」
「それがすっごく見たいの!」
「お、おお、わかった。あー、じゃあ内緒にしとかないとなあ……」
ドラルクの不可解な態度は継続中だが、納得がいった。羨ましかったのだ、映画を観たのが。引きこもりを極めていた割には社交性の高いドラルクは、感想を共有するのが好きらしく、だからクソゲーレビューなんかも続けているのだろう。一人で映画を観に行くのも飽きが来よう。プライドが無駄に高い故に素直に自分も行きたいと言い出せなかったようだ。
しかし父親と映画の好みが合わないのは致命的である。せっかくの機会なのにロナルドしか同行できない。その辺りは後々ドラウスにもクソ映画に慣れてもらう他ないが、大丈夫だろうか。
高慢ちきな吸血鬼の子供っぽい一面を目にし、ロナルドはニヤニヤと意地の悪い笑みを作る。よいからかいネタが見つかった。常日頃の仕返しをするチャンスだ。
「嫉妬かァ? 可愛いもんだなぁ、二百歳児。寂しかったでちゅか〜?」
「しッ…………」
ドラルクは二の句を告げず絶句した。勝った。ロナルドは胸を逸らす。ここまで何も言い返せず完膚なきまでに勝利できたのは初めてだ。小うるさいドラルクらしからぬ言葉を失った表情は、だんだんと羞恥を帯びたものになっていく。
図星か、とロナルドは内心またニヤついた。もう一声かけるか、と意気込むも、それはドラルクの絶叫にかき消された。
「そうだよ! 嫉妬だよ! だって、知らなかったんだもん! 君たちがそんなに仲良くなってるなんてさあ!」
絶叫のち、のたうちまわり。海老反りで頭を抱えるドラルクは、涙目だった。流石に、これは予想していなかった。思いっきり開き直る方向に来るとは。
しかし、次のドラルクの言葉に、今度はロナルドが絶句することとなる。
「ロナルドくんと一番近いのは、私なのに! 映画とか、スナバとか!」
「はぇ、へ……?」
「君もなーにしっかりちゃっかり貢がれてんの! 似合ってるけど、私の方が、もっと似合う服選べるし!?」
「みつ、いや、あれは、そういうんじゃ」
「大人しく頭撫でられちゃったりしてまあ絆されまくりじゃないかチョロルドくん! チョロさに磨きがかかってないかね!? 幸運の壺とか勧められても買うんじゃないぞ!」
「チョロくねえし、買わねえよ! っじゃ、なく、て……」
言葉が頭に入って来なくて、すり抜けていく。すり抜けてから、戻って、頭の上でぐるぐると渦巻いている。嫉妬、は、父親をロナルドに取られたと、そういう意図で揶揄したのだ。反対の意味は、考えていなかった。だって、それほど、ドラルクは、ロナルドのことを。
意識が宇宙に飛び立ちそうなロナルドの脚を、柔らかく小さな手が触れた。ジョンだ。
ヌヌヌヌヌ、ヌヌヌシ。
ふたりとも、なかよし。
どらるくさまは、ろなるどくんのことが、だいすき。
ろなるどくんは?
無垢な黒い瞳に見上げられ、酸欠の金魚のように口を開閉させる。問いかけるジョンは、答えなどわかりきっていると言わんばかりの笑顔だ。
ジョンにどう返事をしたらいいのか迷っている暇もなく、ドラルクがロナルドに指を突きつける。人差し指を、ビシッと。
「君と一番一緒に居るのも、一番仲が良いのも私だろ!? なら、私に甘えるのが道理ではないかね!」
「あ、まえる、って」
「私も二百年は生きているんだ、君みたいな若造なんて赤ちゃんみたいなものだ。いつだって側に居るんだから、好きなときに好きなだけ甘えに来たらいいじゃないか。たまに来るお父様じゃなくて! 私に!」
超理論展開でもこうも自信満々ではっきりと断言されてはこちらがおかしいような気持ちになる。ロナルドはドラウスに甘えているという自覚はなかったが、完全に無自覚でもなかった。
そこはかとなく自分と似ているような、ずっとずっと歳上の、同居人の親。初めはさりげなく差し出される手に戸惑ったものだが、ドラウスは躊躇うロナルドにこう言った。
──お前はきっと、息子の生涯を彩る。息子にとって、かけがえのない存在なのだ。
ドラルクにそっくりの顔で、けれど全く違う、父親の表情で、語った。
それが、まあ、うん。とても、とても嬉しかった。反発する余裕もなく、ただ、するりと落ちて、抱き止めて。認めてもらえている、と感じた。誰かにとって大切な者の、唯一になれているのだ、と。九割方は情けない顔だったり親バカ丸出しのデレデレとした顔だったりしか伺えないが、そのときのドラウスは、大事な子を持つ親の顔をしていた。
ああ、父親って、こんな感じなんだなあ。みたいなことを思ったりして。ドラウスが、ロナルドにもそういう眼差しを向けるものだから。気を張るのが馬鹿らしくなって。それで今に至るわけだ。つまり発端はドラルクであるのだが、詳らかに話すわけにもいかない。脱稿ハイに強めのアルコールをキメるくらいはしないと話せない。
それでもって、ロナルドの中で、ドラルクとドラウスは全く違うポジションにいるので。言われるがままに同じように接することもできないのだった。
「で、でも、お前に、その……甘えるのは、何か」
「ご不満がおありかねこの私に! 一族郎党甘やかされに甘やかされたエリート可愛がられ特級の私は、逆に甘やかしのエキスパートだが!?」
「……か、揶揄ったり、しねえ?」
「ちょっとする」
「するんじゃねえか!」
「ある程度いつも通りじゃないと、君、キャパオーバーで死んじゃうだろ」
「ゔ」
その通りだった。仮に、と想定するも、揶揄う台詞の一つもなければ憤死する。あるいは正気を失って気絶する。
「君のことはよく知ってるつもりだ。だから、ロナルドくんが受け止められるラインぎりぎりまで、誰よりも優しく、甘やかしてあげられる」
「それ、って、さあ。お前にメリットがあんの」
「打算が無けりゃ納得できないか? よかろう、いくらでも都合のいい理由を作ってやる。君が納得するまで言い聞かせてやる。率直に話したところで君は信じないだろうからね。だがな、耳をかっぽじって拝聴しろ若造」
語気の荒いドラルクに、びくりと肩が跳ねる。先程から、言われていることも、その真意も、さっぱりなのだ。納得できる材料が欲しかった。なーんだ、そういうことか、と腑に落ちるだけのものが。
また毎回の如く吸血鬼の仕業だとか。のっぴきならぬ事情でやむを得ず、とか。ドラルクの意思が介入しない理由ならば、恐らく得心がいく。
だって、そうでなければ、まるで。まるで、ドラルクが、ロナルドのことを。──まだ、その先は蓋を開けられない。
まごついて、足が竦んで、後退して。そうしているのに、ドラルクはあっさりと蓋に手をかける。
「ロナルドくん、私はな、君が縋る先が私であればいいと……私だけであればいいと、そう願うのだよ。君が強いことは知っている。けども、一人では立てなくなったとき手を伸ばす相手が私であれば。全力で手を握ってあげたい。そうでなくたって、心寒い夜があるなら、肩を貸してあげたい。何でもない日にだって、名前を呼んで欲しい。そうしたら、振り返ってあげられる。私は君を──」
「ま、待って、ドラ公、ちょっ、タンマ!」
「待つか! 聞けコラ!」
「待って欲しいヌー」
「ジョンを盾にするな!」
いつもとは立場が逆だ。ジョンを抱き上げて顔の前に持ってくる。勝手にアテレコされたジョンは半眼でロナルドを見遣った。申し訳ない。
ジョンガードを使っても、赤い耳は隠れていない。穴を掘って入りたい気分だった。ただでさえ困惑真っ只中であるのに、濁流のように言葉を注がれて揺らがないはずがないのだ。
「……急に、いっぱい言われても、わかんねえんだもん……」
消え入りそうに呟く。俯いて背中を丸くしたロナルドの頭上から、ドラルクが歯軋りするのが聞こえた。ぬう、とか、ぐう、とか唸っている。何なんだ。
はあ、と息を吐くと、少しだけドラルクの口調が落ち着いたものに戻った。
「……焦っているのさ、私も。君の唯一が私であると慢心していたから。自覚すらしていなかったくらいにね」
「や、慢心……では、ない、けど」
「……は?」
「わかるだろ。お前みたいなの、他にいないし、いなかったし……これからも、いないと思うし。友達とか、家族とか、仕事仲間とか、そういうんじゃないっつうか、いや、全部そうだって気もするけど……」
「え、えっと、ということは?」
「……言わせてえの?」
言外に、わかるだろう、と繰り返す。
兄の背中を追って、退治人として生きてきたロナルドの人生にこれほど痕を残して食い込んだ吸血鬼が他にいてたまるか。本来、ロナルドウォー戦記の主人公は一人だけだったのに、ドラルクが現れてからはダブル主人公と言われるまでになっている。修正混じりで美化された自伝であるけれど、ロナルドの生き様を記した本に、ドラルクはかなりのページ数を食っている。
それが唯一でないなら、何だと言うのだ。
独り立ちしてからは忘れていた、おかえりと言う声。手作りの温かいご飯。ぴかぴかに洗われた服。自分のものじゃない寝息。退屈しない休日。増えていく住人。帰る場所に、誰かがいるということ。もう子供ではいられないロナルドにそれらを教えたのは、ドラルクだ。
ふわり、頬を掌で覆われた。気付かず目の前にいたドラルクが、ロナルドの顔を覗き込んでいる。影が、落ちる。見上げた先の瞳は、深い血の色が乱反射して。ごくり。唾液を飲み下す音。
「……言って。君の言葉を、ちょうだい」
ぐらぐら、ゆらゆらと。揺れる声はあまりにも熱っぽくて、切ない。
ドラルクはロナルドの形ある言葉を欲する。ロナルドは、既に、ドラルクからたくさんのものを貰いすぎていたから。自分にも返せるものがあるのか、と。それならば、明け渡したいと、口を開いた。
「お……お前は、俺の、唯一だよ。お前以外じゃ、お前の代わりにならない、から」
これでいいか、と確認するようにドラルクを見上げ、られなかった。すっぽりとマントに包まれてしまったからだ。真ん中に挟まるたジョンが一瞬驚いて、暗闇から脱出する。残念ながらロナルドはアルマジロサイズではないので抜け出せない。
「……何も見えねえんだけど」
「ごめん、ちょっと待って、ちょっとだけ。五分……十分だけ」
「長えわ」
大きめのカップラーメンが二個できてしまう。恥ずかしかったのを我慢して、ドラルクのために言ったのだから、もっと何かあってもいいのではないだろうか。マントの中で唇を尖らせていると、突然視界が明るくなる。マントの裾を持って駆け抜けるジョンが見えた。
「じょ、ジョン!」
「ヌァー!」
くるり、ドラルクの頭に飛び乗ったジョンがぺちぺちと額を叩いている。何やら憤慨している模様。覆いがなくなったことで見えるようになったドラルクを、今度こそ見上げる。
「……見ないでぇ……」
しっかりばっちり手で顔を隠していたが、下がった眉で情けない声を出していた。朱を一刷け塗ったような尖耳も、への字の口も、隠れていない。
その姿をおちょくれたらよかったのだが、ロナルドにそこまでの余裕はなかった。
室温がやけに高い。いや、高くなっているのは体温か。湯気が出そうだ。まっかっかの男が二人、アルマジロ一匹。これ以上ない恥ずかしい空間の完成だった。
「なんで、そんな、照れてんの」
「……思ってたより、ずっと嬉しくて、びっくりした」
「あ、ぁ、そお……」
さらさらさら、と静かにドラルクが死んでいるが、ジョンは泣くことなくにこにこと見守っていた。ロナルドの方も負けず劣らず情けない面になっていく。復活される前にマントの中に引きこもりたかった。だが、ジョンがしっかりとガードしているためにそれは叶わない。
「私も、ね。君を唯一の存在だと思うよ」
相変わらず掌の位置はそのままに、ドラルクが語る。ちらり、と指の隙間から覗いた目と目が合った。ぱちり、火花が散る。星屑が弾ける。眩しくて、目を開けられない。
「君しか座れない椅子が、私の中にあるみたいなんだ」
瞬いて、瞼を開く。くしゃり、目尻に皺を作って、はにかむドラルクがそこにいた。困った眉だけれど、少しも困っていない顔で、笑う。不慣れな動きで腕が頭に伸ばされて、数グラムの重さが天辺に乗った。
「こうしたら、嫌?」
「や、じゃ、ない……」
「うん。ふふ」
「ドラ、ルク」
「なぁに、ロナルドくん」
毛先で遊びながら、ゆっくりと、何度も、頭を撫でられて。そんな、そんな、蜂蜜たっぷりのホットミルクみたいな声で、呼ばれたら。
「……もっと、して……?」
頭に乗っていない方の、片手を引いて、自らの横髪に押し当てた。時間が止まる。ドラルクの時間も止まったし、ロナルドの時間も止まった。
ぶわ、と一気に汗が噴き出した。あれ、今、そういう雰囲気じゃなかったか。甘えていいって言うから。優しい顔をしたから。存外に心地よかったから。もっと、とねだってもいいんだって、そう、思って。
泣きそうになる。上手な甘え方なんて知らないのだ。正しい方法もわからない。洟を啜って、唇を噛んだ。途端、ドラルクの手がぴくりと跳ねた。
「ごめん、ごめん、違う、違うから」
「……何がだよぉ……」
「いや、これは……ああ、そうか、そうだったか……」
「一人でぶつぶつ言ってんじゃねえよ、クソ雑魚」
「こんなときでも口が悪いな、君は」
笑いながらぐしゃぐしゃに両手で髪をかき混ぜるから、うわ、と声を上げた。こちとら大型犬ではないのだ。
不満げに頬を膨らませてみるが、実の所それほど嫌ではなかった。けたけたと楽しそうな笑い声が聞こえるからというのもあるだろう。幼い戯れじみて、親愛を込めて。それが伝わってきていたから。
ロナルドの髪を好き勝手に乱す間、尚も、ぶつぶつとドラルクが小さく呟いている。詳細は聞き取れない。だが、楽しそうであるから、まあいいか、とロナルドは短い息を吐いた。
──ああ、こんなの、まるで、恋みたいだ。
そんな独り言は、ロナルドの耳には届かず。彼の使い魔であるジョンだけが、ヌッシッシと笑っていた。