8.22 かの悪逆非道なせむしの王は、己が命運をかけた決戦の前夜、悪夢に苛まれた。
苦しめた人々に、殺した人々に、次々と呪いの言葉を浴びせられた。
国が誇る偉大な劇作家は、彼を題材にした作品の中でそう書いている。
眠れぬまま明け方には支度を始め、国王軍は丘陵に陣を敷いた。
兵達がぶつかり合うこと約二時間。昼には勝敗は決していたのだそうだ。
リチャードは薄暗い室内の冷たいソファーに腰をおろし、窓の外に広がった夜が開ける前の空を見上げていた。
王冠を、国を手に入れて、二年と少し。
手に入れた以上のものを失い、裏切りが我が身に巡ってきた王は、絶望しながら死んだのだろうか。
安眠を知らず、愛を得ることがなく、寂しい心のまま死んだのだろうか。
幼い頃、父に連れられた劇場で彼の人生の一部を観た。
それ以来、時おり彼を思い出す。
「どこに行ったのかと心配したぞ」
ふいに聞きなれた声が耳に届き、顔を向ける。
いつもより少しぼんやりとした表情の男が、部屋の戸口からリチャードを見つめていた。
「随分と早起きだな」
「たまたま目が覚めただけだ」
「湯を沸かそう。コーヒーか……いや、紅茶でも……」
「ヘンリー」
首を横に振り、手を伸ばして名を呼ぶ。
キッチンへと向かっていたヘンリーは、方向を変えてリチャードのそばに寄り、背を丸めて唇の端へ口付けを落とした。
「いつから起きていたんだ? 冷たいぞ」
隣に腰を下ろしたヘンリーの腕がリチャードを抱く。
ぬくもりに触れ、身体の芯が解けていくのを感じた。
夜と朝の狭間の澄んだ空気が心地よかったが、思っていたよりも冷えてしまっていたらしい。
熱い腕に手を添え、身体をぴたりと寄せる。
リチャードは甘い眠りを知っている。
燃えるほどの愛も、愛ゆえの寂しさがあることも知っている。
血と泥に塗れた同じ名の王には、本当に何も無かったのだろうか。
書き伝えられた事が全てだとは限らない。
非情で孤独な王。
だったとしても、誰も知らない、誰も語り継がず、書き残されもしなかった本当の彼は、一時の安眠も、儚い愛も、永遠の忠心も、手に入れていたかもしれない。
彼を思うたび、リチャードの胸に去来する感情があった。
正体がわからず、子供時分は不快でたまらなくて目を背けていたが、今ならわかる。
これはきっと、いとおしさだ。
リチャードは、『リチャード三世』と呼ばれる男がいとおしかった。
髪に口付けを落とされ、一層深くヘンリーへと凭れる。
冷たい甲冑ではなく、ぬくもりに包まれて眺める窓の外は、次第に明るさをましていく。
遠く離れた平原にも、まもなく太陽が昇るだろう。
決戦の時は近い。
彼の命が、終わりへと進んでいく。
五三七年の昔を憶い、リチャードはゆっくりと瞼を下ろした。
おそろしくもかなしい人。
多くに愛されていた人。
時を経て、さらに数多の愛を得た人。
今はどうか、安らかに。
絶望と裏切りの果ての安寧の地で、美しい夢を見ていますように。