香る朝 真っ黒に塗り潰された意識が白い場所へと浮上する。重い瞼が細かに震え、鈍い動きで持ち上がった。若葉色の長い睫毛がゆっくりと上下に動く。葉が風に揺られるような様相だった。
未だ覚醒に至らぬ視界は朧げで、実像を結ばない。それでも、日が差し込んでいるのは部屋の明るさから分かった。闇からいきなり放り上げられた身体には、明るい陽光は毒に近しい。眩しさに、どうにか開いた目を細めた。
寝返りを打ち、ヘッドボードに手を伸ばす。充電ケーブルに繋げていた携帯端末を手に取った。電源ボタンを軽く押すと、暗い液晶画面がパァと輝き出す。煌々と光る盤面には、普段の起床時間から二時間も過ぎた時刻が映し出された。
もうこんな時間か、と少年は重い瞼をこする。本当ならば寝坊も寝坊、遅刻確定どころの騒ぎではない。しかし、今日は土曜日、補講も無い休日である。慌てる必要など一つもなかった。もう一眠りしてもいいくらいだ――さすがにそこまで怠惰なことは己の性格上できないけれど。
くぁ、とあくび一つ。ブルーライトを真っ向から浴びた目はもうすっかりと開いてしまった。起床からしばらく経った身体は、空腹を訴え始めている。起きるべきだろう。
そういえば、と隣に目をやる。いつもならばいるはずの朱はそこにはおらず、白い枕が一つ転がっているだけだった。珍しい、と碧はぱちりと瞬きをする。昨晩、『寒いから』などとのたまって布団に潜り込んできた兄だが、今目の前にあるのは枕とシーツ、掛け布団だけだ。どうやら、今日は己の方が後に起きたらしい。休日は陽が中天に昇るまで惰眠を貪る彼がこんなに早く――それでも十二分に遅いが――起きるだなんて、今日は雨でも降るのではないだろうか。
そんな他愛も無いことを考えながら、少年は身を起こす。瞬間、掛け布団の代わりに被さってきた冷気に、思わず身を縮こませた。デスクチェアに掛けていたパーカーに手を伸ばし、急いで羽織る。厚手のそれは、低い室温から己の身を守ってくれた。
ノブを回し、扉を開いて部屋から出る。漏れ出そうになるあくびを噛み殺し、洗面所を目指す。ペタペタとどこか間の抜けた音が朝の廊下に落ちた。冷えたフローリングが、足元から覚醒を促す。
冷水に耐えながら顔を洗い、今度はリビングを目指す。今週の食事当番は自分だ。それでなくても、己の文の朝食ぐらい己で作らねばならない。小さな鳴き声をあげる腹の虫を気にかけながら、少年はリビングに続く扉を開いた。
まず反応したのは聴覚だ。ジュウ、と何かが焼ける音が耳に飛び込んでくる。続いて嗅覚。肉の焼ける甘くて香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
もしや、とパタパタと足早に歩みを進め、キッチンへと飛び込む。翡翠の瞳に映ったのは、青いエプロンと揺れる朱い髪だった。聞き覚えがあるメロディーが鼓膜を揺らす。音が止むとともに、紅玉がこちらを射抜いた。
「お? 起きた?」
おはよ、とエプロンを付けた少年は、フライパン片手に挨拶を飛ばす。パチン、と火にかけられたベーコンが鳴き声をあげて跳ねるのが見えた。
おはようございます、と反射のように返す。その声は少しずつ萎んでいっていた。天河石に罪悪感が宿る。整えられた眉は下がり、ゆるく八の字を描いた。
「すみません。今週の食事当番は僕なのに」
「いーのいーの、オレの方が早く起きたんだし。つーかオレもさっき起きたとこだしなー」
握った菜箸をくるくると回しながら、少年はニカリと笑う。屈託のないそれは朝日と同じぐらい眩しく、陽と同じぐらい温かだ。
「僕も手伝いますよ。何をすればいいですか?」
「あー、じゃあパン焼いてスープ作っといて」
ベーコンを皿に取り分けながら朱は言う。分かりました、と返しながら、碧はキッチンの奥、冷蔵庫へと向かった。
下段の冷凍庫から食パンを二枚取り出し、トースターに入れる。タイマーをセットし、今度は電気ケトルに水を入れた。台にセットし、スイッチを入れる。湯が沸く低い唸り声をバックに、棚を漁る。愛用のマグカップを二人分並べ、インスタントスープの粉を入れた。
皿を用意し、マーガリンとバターナイフを食卓に置く。戻ったところで、カチン、とスイッチが戻る音が聞こえた。仕事を終えた白いケトルを手に、中身をカップに平等に注いでいく。真っ白な湯気とコーンの甘い香りがリビングにふわりと舞った。続くように、トースターがチン、と高い声をあげる。皿片手に向かうと、香ばしい香りと狐色に焼けた食パンが出迎えた。心地のよいそれに、思わず頬が緩む。美しく磨かれた皿に乗せ、食卓へと向かった。
「できましたよ」
「こっちもできた。食べよーぜ」
机の上には、ベーコンとスクランブルエッグ、ブロッコリーが乗った皿が用意されていた。傍らにはマヨネーズと食卓塩が並んで立っている。
ニコニコと子どものような笑みを浮かべて座る兄の前に皿を置く。己の席にも手にしたそれを置き、静かに椅子に座った。
「いただきます」
二人分の声が重なる。続いて、箸を持つ音とマーガリンの蓋を開ける音が重なった。
香ばしい茶色に焼けたベーコンに箸を伸ばす。口に運び、歯を立てる。カリ、と小気味よい音とともに、程よい塩気が口の中に広がった。焼けた肉特有の香りが鼻孔をくすぐる。
咀嚼しつつ、向かい側でパンをかじる兄を見る。キッチンに入った時、フライパンの上にはベーコンは六枚焼かれていた。そして、皿に乗っているのは三枚ずつ。つまり、初めからきっちり二人分作っていたのだ。
おそらく、朝食を作り終えたら己を起こすつもりだったのだろう。自由奔放に見せかけて、こういうところでさり気なく気を回してくるのだからこの兄はずるい。こういうところがあるから、普段の無鉄砲な行動を許してしまうのだろう。我ながら単純だ、と内心で溜息を吐く。憎めないやつなのだ、この片割れは。
「美味い?」
向かい側から声が飛んでくる。視線を上げると、まあるい炎瑪瑙がこちらを見つめていた。もしゃもしゃと柔らかな頬が動いている。色とりどりに飾られた皿は、もう半分以上元の白を取り戻しつつあった。
「えぇ、美味しいですよ。ありがとうございます」
「そっか」
よかった、と微笑み、目の前の少年はスクランブルエッグを口に運ぶ。んめー、と自画自賛の言葉とともに、箸を進めた。
無邪気な様に思わず口角が緩く持ち上がる。誤魔化すように、未だ湯気をあげるマグカップを手に取った。ふぅふぅと息を吹きかけ、小さく一口。熱とともに、野菜特有の甘みが舌を楽しませた。
さて、今日は何をしようか。洗濯物と風呂掃除を終わらせるのが最優先だ。二人ですればすぐに終わるだろう。その後は、久しぶりに二人で映画でも見るのもいいかもしれない。先日、以前話題を呼んだ映画が配信されたということは友人から聞き及んでいた。
急ぐ必要はない。二人でゆっくりと考えよう。なにせ、休日は始まったばかりなのだから。
穏やかな一日に思いを馳せ、少年はマーガリンを塗った食パンにかじりつく。香ばしい風味が口いっぱいに広がった。