「そんな顔初めて見た」【ノムラ視点】
───ちゃんと気づいてる?お互いに惹かれ合ってること。
ある日の夕暮れ。
またガイアが気まぐれを起こして、僕が“戻ってきた”。
アパートの自室のドアを開けて、顔を覗かせると、シコルがこちらを見て目を細めた。
大柄な体躯に不釣り合いなほど、その笑顔はどこか柔らかく、幼さを残してる。
「おかえり、ノムラ」
それだけの言葉が、胸の奥をきゅうと締めつける。
日常に溶け込むような、優しい声音。
けれどそのぬくもりは、僕に向けられたものじゃないような気がして。
ほんの少し、遠かった。
ふたりの間には、僕の知らないやりとりが、きっとたくさんある。
強く、気高い軍人であるガイアが、唯一心を許しているのは──
弱くて、なんの役にも立たない僕なんかじゃなく、君なんじゃないかな。
口に出さなくてもわかる。
過酷な闘いに身を投じるふたりの間には、確かに響き合ってる“何か”がある。
シコルの空色の瞳が、ふとした瞬間、無意識に“彼”を探しているのを、僕は何度も見てしまった。
そんな記憶がふと蘇って、つい、ぽつりとこぼしてしまった。
「なんだか……僕だけ、置いていかれてるみたい」
シコルは何か言いかけて、だけど言葉を呑み込んだ。
久しぶりに会えた“親友”に、こんなことを言いたかったわけじゃない。
困らせたくなんてなかったのに。
でも──
優しさで返されることが、どうしようもなく自分を惨めにさせる。
心配する様に、そろそろと伸びてきた長い指が、僕の頭をそっと撫でた。
その瞬間、喉の奥に震えが込み上げる。
泣きたくなんてなかったのに。
眼は勝手に、じわりと涙の膜を張る。
顔を上げることができなくて、視線を逸らしたまま俯いた。
それでも、優しい彼は、きっと気づいてしまうのだ。
どうにか気づかれまいと、俯いたまま、そっと目線だけを動かす。
ちらりと、睫毛の隙間から彼を見上げた。
不安そうに、こちらを覗き込むその顔。
大きな体を少しだけ屈めて、どうしていいかわからないような表情で。
まるで、母親とはぐれて、声も出せずに立ち尽くす少年のようだった。
僕のことを心配しているのに、彼自身が心細そうで。
その表情が、どうしようもなく、愛おしかった。
「君の、そんな顔。初めて見た」
ぽつりと漏れたその言葉に、彼は一瞬、目を見開いたように見えた。
掌から伝わる温度が、あまりにもあたたかくて。
なのに、そのぬくもりは確かに──
僕のものじゃないと、そう思えてしまった。
◆
【ガイア視点】
───私は、なぜ此処にいるのか。
夜の静けさが、肌にじわり染みる。
不本意な同居人は、いつも通り間抜けな顔をして、彼の寝床となっている壁にその身を預けている。
再び眠りについたノムラから、意識を引き継いだ私は、洗面所の鏡の前に立っていた。
同じ骨格。
同じ肌。
同じ声。
だが、ノムラは人に好かれる。
大切にされるべき存在だと、思う。
不器用で、純粋で、拙いところもあるが……いや、だからこそ。
脆く、守りたくなる存在だ。
私は、同じパーツを使っていながら、その優しさを引き寄せることはできない。
戦うために生まれたようなこの人格は、誰かに甘えるという機能を持たない。
そして今現在、同居人となっているシコルスキーは、ノムラを好いている。
それはもう、見ていれば嫌でもわかる。
ノムラの所在を探すときの、あの真剣な眼差し。
ノムラもまた、遠いロシアから押しかけてきたこの男に、少なからず……
いや、否定したところで意味はない。
大切な半身が誰かに好意を寄せることは、私にとって痛みでしかないが、それを咎める資格も持ち合わせていない。
……ならば、此処にいる私は?
私は、何のために、此処にいる?
問いかけるたび、“半身”の名前が胸に浮かぶ。
私の存在意義は、ノムラを守るため──そう、信じてきた。
これまでも、これからも。
──しかし。
二人きりだった世界に、“不純物”が混ざってからというもの、わずかにズレ始めたその信念の輪郭が、胸の奥で軋む。
奴が私の半身を求めるたび、
その名を呼ぶたび、
ただそれだけのことが、どうして、これほどまでに心を乱すのか。
もし、ノムラのために生まれた存在であるはずの私が、
その“ノムラが欲しがるもの”を、同じように欲しがっているのだとしたら──
「こんな思いをするくらいなら……知りたくはなかった」
私は、こんなにも弱かったのか。
誰より強く在るべき自分が
誰より脆い場所を、自身で見つけてしまった。
鏡の中には、酷く憔悴した顔の男が立っていた。
ノムラと同じ輪郭。だが、その目の奥にあったのは、紛れもなく“私”の弱さだった
「……はは、そんな顔、初めて見たな」
自傷的な笑いが漏れる。
自身の中に、こんな表情が眠っていたことすら知らなかった。
それに気づいた瞬間、私はそっと、眼を逸らすしかなかった。
◆
【シコルスキー視点】
───俺は、誰に嫉妬している?
目を覚ました時、四畳半の部屋はまだ薄暗かった。
一瞬の静寂が耳を刺す。
ノムラの気配を探すように室内を見回すが、彼の姿はどこにもなかった。
代わりに、窓際にひとつの影。
奴は、無言のまま壁にもたれ、外の気配をじっと伺っていた。
同じ顔、同じ声、同じ背丈。
けれど、それでも、決定的に異なると、すぐに分かる。
ノムラは、光だ。
柔らかくて、人の懐に自然と入りこむ。
その笑顔を見るたび、俺は守りたいと思う。
一方で、ガイアは刃だ。
誰も寄せつけず、警戒を全身に張り巡らせながら、ただそこに居る。
戦闘に周囲の環境を利用するという癖が、その佇まいにすら滲んでいた。
けれど──俺は、そのどちらにも、視線を奪われていた。
ノムラの笑顔を見ると、胸が温かくなる。
ガイアと目が合うと、試されている気がして、呼吸が浅くなる。
そのどちらにも、胸の奥がざわついていた。
奴らが言葉を交わす場面を、俺は一度も見たことがない。
それでも理解できる。
2人は“通じ合っている”。
言葉など必要ない。
互いを支え合い、補い合い、信頼し合っている。
俺は、その中に入れるのか?
割って入ってもいいのだろうか?
ノムラを心配するたび、ガイアに刺すような目で睨まれる。
ガイアの鋭い目を見返すたび、ノムラの優しい笑顔がよぎる。
あの2人の絆は、戦場という場所で築かれたものかもしれない。
俺が遠い北の母国からこの地に辿り着くまでにも、ガイアとノムラは、それぞれの役割を背負い、共に過酷な任務へと身を投じてきたのだろう。
その繋がりは、他人には到底踏み込めないほどに深く、濃い。
俺は、ノムラを想っていると思っていた。
けれど、ガイアに向ける自分の視線はなんだ?
拒絶されてもなお、なぜ近づこうとする?
理解しがたい。
けれど、無視することもできない。
それはきっと、敵意でも、殺意でも、ましてや友情でもなかった。
思考が渦を巻く中、奴がようやくこちらに顔を向けた。
ほんのわずかに伏せられた切長の目元が、普段よりも深く影を落としている。
「……寝てないのか?」
何気ない問いが喉をついて出た。
返ってきたのは、短く吐き捨てるようなひと言だった。
「お前には関係ないだろ」
それだけで、胸の奥がかすかに痛んだ。
歩み寄って、隣に立つ。
しばらく、言葉のない時間が流れた。
ふと、奴の横顔が視界に入る。
いつも凛と張っていたはずの表情が、どこか揺らいで見えた。
険しさの奥に、怯えのようなものが、かすかに滲んでいた。
その顔を見た時、また言葉が溢れた。
「……お前の、そんな顔は初めて見た」
ガイアはゆっくりと、こちらに目を向ける。
その視線には怒りも威圧もなく、
ただ、静かに何かを閉ざすような、脆さがあった。
俺は、それ以上、言葉を続けられなかった。
一歩踏み込めば、日常と呼べるこの均衡が崩れてしまいそうで。
けれど気づけば、無意識に手を伸ばしていた。
理屈も覚悟もなく、ただ、その存在を確かめるように。