山の怪異あの夏のことを、今でも夢に見る。
蝉の鳴き声が妙に耳に刺さる日があると、胸の奥に、冷たい風のような何かが這い寄ってくる。
湿った土の匂いと、風の中に紛れたあの声。
あれはきっと夢なんかじゃなかった。
◆
たしか、小学四年の夏休みだった。
その日、俺は朝から妙に落ち着かなかった。
きっかけは、図書館で見つけた郷土資料の本だったと思う。
「地元の山には、地図に載らない沢がある」
「誰にも知られていない滝がある」
そんな曖昧な言葉が、子どもなりの想像力に火を点けた。
(もしかしたら、俺にも見つけられるかもしれない)
そう思った。いや、そう思いたかったのかもしれない。
クラスではいつも引っ込み思案で、ドッジボールは当たる前に逃げるタイプ。
でも、そんな自分でも、“誰も知らない何か”を見つければちょっとだけ特別になれる気がした。
母には「友達と遊んでくる」と嘘をついて、小さなリュックに水筒、懐中電灯、ノートと鉛筆を詰めた。
今思えば、それはままごとのような冒険準備だった。
けれど、あのときの俺にとって、それは本物の冒険だった。
舗装された登山道から外れ、小さな踏み跡を見つけて、草木の茂る獣道へと入っていく。
人の手が入っていないその道は、子どもの身長をゆうに超える雑草と枝に包まれ、
何度もクモの巣に顔をしかめながら、それでも足を止めず、前に進んだ。
風が強くなり、葉がざわざわと鳴く。
もう戻ったほうがいいと、本当はわかっていた。
それでも、引き返せなかった。
――そして、足を滑らせた。
湿った土と苔の斜面に足を取られ、ぐるりと視界が回る。
「っう、あ……っ!」
体が転がるたびに枝が頬を掠め、手のひらが地面を引っかいた。
最後に何かにぶつかって止まる。
しばらく、息すらできなかった。
耳の奥がキーンと鳴り、土の匂いが鼻を突く。
擦りむいた膝と肘がじんじんと痛み、どこかを切ったらしく口の中が鉄の味で満たされた。
喉の奥が震える。
でも、声を出したら泣いてしまいそうで、黙ったまま、ただただその場にうずくまっていた。
もしかしたら、もう泣いていたのかもしれない。
――その時だった。
「少年」
耳のすぐ近くで、声がした。
ぴたり、と空気が止まる。
さっきまで喧しく鳴いていた蝉の声が、嘘みたいに消えていた。
ゆっくりと顔を上げると、そこに“誰か”が立っていた。
黒いバンダナを巻き、上下スエット姿の青年。
スニーカーは泥にまみれ、長い道を歩いてきたような風情。
けれど、目だけが、まるで人ではない“なにか”のような。
灰色の瞳。
薄い、霧みたいな色をしていて、まるで底がなかった。光を反射しないその目は、じっと俺を見つめていた。
綺麗な顔をした青年は、整った輪郭のどこかに、人間らしさのようなものが欠けていた。
目の奥の、時間が凍っているような静けさが、なによりも怖かった。
「こんな山奥まで1人で来るなんて……悪い子だ」
そう言って、彼は笑った。
その笑みは、たしかに優しかった。
けれど、背筋に冷たいものがすっと走った。
俺は声も出せず、その場にへたり込んでいた。
青年は、すっと膝をついて、俺の手を取った。
その手の温かさに、安堵した事を覚えている。
確かに血の通った、生きている人の手だった。
◆
その後、どうやって帰ったのかは、覚えていない。
気がついたら、俺は家の布団の中にいた。
泥だらけの服のままで、ぐっしょり汗をかいていた。
そんな俺の姿を見て、顔を真っ青にした母には、酷く叱られた。
「何があったの?」と訊かれても、俺は首を横に振るしかなかった。
本当は、誰かに会ったような気がする。
でも、よく思い出せない。
ただひとつ、今でも胸の奥に焼きついているのは――
灰色の、底のない瞳。
そして、あの夏の午後の風にまぎれて届いた、優しい声。
「悪い子だ」
今も時々、蝉の鳴き声が止んだ際にふと、その声が耳に蘇る。
まるで、また俺のことを見ているかのように。
◆
あれから十数年が経った。
大学を卒業し、就職先も決まり、もうすぐ引っ越しを控えていた頃だった。
なにかを忘れている気がして、落ち着かなかった。
何を――と訊かれたら、うまく答えられない。
ただ、胸の奥でずっと何かが燻っていて、それを見ないふりをしてきたような、そんな感覚だけが残っていた。
きっかけは、たまたま机の奥から出てきた、子どもの頃のノートだった。
震えるような字で、「ひみつのやま」「あしあとがふたつ」なんて書いてある。
覚えていなかったはずの言葉を目にしたとき、背中がぞわりと冷えた。
そして俺は、再びあの山へ足を踏み入れることにした。
◆
梅雨明けが早く、すでに街は真夏の陽射しだった。
駅からバスに乗り、そこから歩いて登山口まで向かう。
昔と違って、地図もスマホもある。でも、俺はあえて紙の地図だけをポケットに入れてきた。
登山道を外れ、小道に入る。
草が伸び、道はさらに細くなっていた。
それでも俺の足は、まるで呼ばれるように迷わず進んでいた。
(思い出した……体が、覚えてる)
あのとき転げ落ちた斜面の手前で、足を止めた。
空気がぬるく湿っている。
蝉の声が遠く、風が吹いていないのに、草だけがざわざわと揺れていた。
まるで、山全体が、俺に気づいているかのようだった。
――そして、見つけた。
昔、身体をぶつけて止まった岩。
そのすぐそばの、木陰に。
“彼”が、立っていた。
◆
全身が一瞬で冷えた。
そこにいるはずがない、と頭では理解している。
けれど、目の前にいるのは、十数年前と全く同じ姿の男だった。
黒いバンダナとスエット。泥にまみれたスニーカー。
背丈も、肩幅も、声も、なにもかも、あの時のまま。
「やあ」
そう言って、彼は微笑んだ。
あの夏と、同じ声。
たしかに、あの声だった。
「君は、あの時の少年かい?」
背筋が凍る。
十年以上前の記憶と、いま目の前にある現実が、音を立てて重なった。
俺は、咄嗟に言葉を返せなかった。
ただ、息を呑んだまま、彼の目を見た。
薄灰色の瞳。
深く、底がなく、まるで人の感情を映さない湖面のような目。
あの時、子どもだった自分は、それを“きれいだ”と思った。
でも、いまの俺はわかる。
これは、人間の目じゃない。
「覚えていてくれて、嬉しいよ」
彼は、穏やかに笑った。
十数年の時を経て、まったく同じ声。まったく同じ顔。
時間だけが、俺の中で勝手に進んでしまったような錯覚。
「でも、またこんなところまで来るなんて」
彼は草の揺れる音も立てず、一歩だけ近づいた。
その動きさえ、風の一部みたいに自然だった。
「……どう、して。あなたは、変わらないんですか」
息を呑むように問いかけると、彼は首を少し傾けて――
懐かしむように、語った。
「私は、自然そのものだから」
それは、朝露が落ちるのと同じくらい当たり前に響いた。
疑う余地も、肯定も拒絶も入りこめない言葉だった。
「風も、石も、水も……ここにあるものは、変わらない」
その声には、悲しみも怒りもなかった。
ただ、事実があるだけだった。
「君だけが、ずっと遠くに行ってしまっただけだよ」
そう言って、彼はふわりと笑った。
その笑みは、どこか子どものようで、
拗ねた弟のようで、
それでも、どうしようもなく――おそろしかった。
「でも、戻って来た」
そしてもう一歩、俺に近づく。
灰色の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜くようにのぞき込んできた。
その唇が、懐かしくて、ぞっとする言葉を紡ぐ。
「少年。こんな山奥まで、また1人で来るなんて……悪い子だ」
ぞくり、と背中が粟立った。
十数年前とまったく同じ声。
まったく同じ台詞。
俺は、彼のことを“忘れていた”はずだった。
なのに、彼は俺のことを、“覚えていた”。
俺は何も言えず、その場に立ち尽くした。
逃げる理由も、残る理由も、まだ見つけられないまま。
そんな俺を、あの目が見ていた。
風のない山の奥で、灰色の湖面のように、あの夏からずっと。
まるで、忘れられることを許さないように。