インターバル 夜の砂浜を滑る風が、焚き火の香りと笑い声を乗せてきた。
こんな時間までまだ起きて飲み食いしている冒険者がいるのだろうか。どんな胃袋の持ち主なんだ。
こっちはパンパンに膨れた腹が苦しくて眠れもせず、砂浜で大の字に転がっているというのに。
波に隔てられた海の向こうには千年の時を超えて大陸とともに浮き上がってきた黄金城の尖塔が見えている。
迷宮が崩壊し、悪魔と三つ首の魔物が現れ、どちらもが姿を消し、ひとりの男が王となった。激変の一日もとうとう夜を迎え、寝袋を広げてキャンプを張る者や街に戻る者などそれぞれに過ごしている。
カブルーは胃に圧迫されて苦しい肺をなんとか動かして息をついた。
自分でも信じられないことに、この腹を膨らませているのは竜の肉をふんだんに使った料理の数々だ。
竜。ドラゴン。最大最強クラスの魔物の代表格。正直言って食べたくはなかった。なのに今カブルーは祝いの席の丸焼き鶏のように腹いっぱい竜の肉を詰め込まれて転がっている。
危険すぎるが故に迷宮へ封じられていた欲望の悪魔を消滅させるなんて、とんでもない快挙をやり切ったのはライオス達だった。彼らが大切な人を取り戻すためにはキメラと化した彼女の下半身(と言って良いのか?)を食べ尽くさなくてはならないのだという。
手伝ってやりたい気持ちはあっても、竜の肉を食べる気にはとてもなれなかった。あんな恐ろしくて悍ましいものを自分の身体に取り込むなんてどうかしている。気持ちが悪い。
もうライオスの興味を引くために魔物を食べてみたいなんて心にもないことを言う意味もない。嘘が暴かれた後の醒めた金の瞳を思い出すと、ちくりと胸が痛んだ。
ならばせめて労働力を提供しよう。料理は得意分野ではないが、その分調理器具や肉以外の食材の調達に駆け回り、血気盛んな冒険者たちの諍いを火種のうちに消し、ありあわせのものでテーブルを作りミスルンを説得し…我ながらよく働いたと思う。
しかしどうしてファリンを救う方法が「竜を食べる」なのか、ライオスから詳しく説明を聞いたカブルーは自分も竜を食べることに決めた。
死を禁じられた迷宮の中でも、食べられて消化されたものは復活できない。不死鳥ですら食べられてしまえば消化されて終わる。竜の部分を食べられるだけ食べて消化し、ファリンがファリンとして復活できるよう比率をなるべく上げるのだと。
圧倒的な暴力と理不尽の塊だった竜は、部位ごとに解体されてひと口大に刻まれ、適切に調理された結果ただただ美味しそうなシチューになっていた。最初の一切れを口に入れるまでは長い葛藤が必要ではあったものの、咀嚼し飲み込んだその肉はするりと喉を通過した。
いつか自分を踏みつけ潰したあの赤い竜が、今この腹の中でゆっくり消化されている。痛かったんだぞあれは。胃の底からは代わりに熱く渦巻く感情がせり上がってきた。
狂乱の魔術師は倒されたし、魔術師を唆していた悪魔はライオスが食べてしまった。西方エルフをはじめ日和見で高慢な長命種たちは、鼻を明かされて今頃天地をひっくり返したような騒ぎになっているだろう。
「ざまをみろ!」
カブルーは夜空へ叫んだ。それから少し泣いた。あの日、何もできずにただ生き残ってしまった小さな自分のために。
何もわからず足が竦んで、変わり果てた母を呼び続ける無力感。迷宮の謎を隠匿していたエルフたちは崩壊する街を救うことができず多大な犠牲を出した。幼いカブルーの心は、たぶんあの日からずっと滅んだ故郷に立ち尽くしていたのだ。
溢れて滑り落ちる涙を拭いもせず星を眺めていると、砂を踏む足音が近づいてきた。
獣とも鳥ともつかぬ毛皮を纏って、ライオスの長身が闇に浮かび上がっている。
「カブルー?こんなところで寝ると風邪を引くぞ」
「寝てませんよ。腹がいっぱいで動けなくなっているだけです」
星灯りで涙が誤魔化せていることを祈りながら、つとめて平静な声を装った。
ライオスは立ち去ろうと反転して、思い直したように振り返り、うろうろとその場で足踏みをした。不審な動きが面白いのでカブルーはたっぷり20秒待ってから口を開いた。
「なんですか?」
「ああ、その、すまない……また魔物を食べさせることになってしまった。地上で食事をしようとは言ったけどこういう意味じゃなくて」
「わかってますよ」
眉尻の下がり切った顔で、ライオスは肩を丸めて真摯に言葉を紡ぐ。
「無理に食べなくていいんだよ。もちろん食べてもらえるならありがたいけど、こんなことじゃなくても君には随分助けてもらってる」
「別に無理はしていないです。自分で決めたことですから。他の魔物まで食べようとは思わないですけど」
心から正直な言葉が出る。愛想のよい笑顔も飾り立てた言葉もこの男相手に今更何の役にも立たないと分かっている。
「とは言えさすがに食べ過ぎました……あの肉、まだまだありますね」
「これだけの人数で食べてもしばらくは無くならないだろうなあ」
しばらくは。その先をカブルーはぼんやりと考える。
俺はこれから何のために生きればいいんだろう?
今ならどこにだって行けるし、何だって始められる。滅んだ故郷に囚われて立ち尽くしていたあの子供もやっと歩き出すことができる。
自分でミスルンに言った通りだ。今はち切れるくらい満腹でも明日には腹が減るように、人の欲求は新たに生まれてくる。いや、もしかするとずっと前から、これからも。俺は。
金の瞳が海に浮かぶ尖塔を見つめて思案に暮れている。
この人の傍にいたいとカブルーは思った。今一番したいことだ。
人類のためとか短命種のためとか、なんとでも言い訳はできるけれど、全部剥ぎ取られて結局残ったのがこれなのだからしょうがない。
追いかけて、声をかけて。何度も何度も。ずっと予感がしていたのだ。ライオス・トーデンはきっと世界の在り方を変えてしまう。良い方向か悪い方向かはわからなくても、カブルーは世界が姿を変えるその時、その場にいたかった。俺にも何かができるかもしれないと思った。そしてこれからも目まぐるしく変わっていく、その中心にこの人がいる。
強情で善良で変わり者で、目を離せない。俺の友人。俺の王。
半身を起こしたカブルーにライオスが手を差し伸べる。助けを借りて立ち上がり、服についた砂を手ではたく。
「近隣の街からも来られる人がいないか声をかけてみます。タダ飯が食えるとなれば少しは集まるかも」
「魔物の肉でも?」
「新王戴冠のお祝いに竜の肉が振舞われたなんて、後世まで語り草になりますよ」
カブルーが笑うと、ライオスも困ったように曖昧に口元を緩める。降ってわいた王という立場にまだどう向き合えば良いか迷っているのだろう。これからもっと多くの街や国から使者が様子を見に来るだろうから、きっと力になれるはずだ。
「腹も落ち着いてきたのでそろそろ寝ます。また明日、ライオス」
「ああ、また明日。おやすみカブルー」
明日を約束するライオスの穏やかな微笑みがカブルーの足取りを確かにする。
この人の隣で、同じ未来を見てみたい。ようやく、ようやく顔も名前も覚えてもらえて、話も聞いてもらえるようになったのだ。チャンスを逃す気など毛頭なかった。