ブルース・ウェインとお酒の話 芳醇な琥珀色の液体が優しい音を立ててガラスの器へと落ちてゆく。
二つの杯が満たされると、アルフレッドは片方をブルースに渡した。
「スーパーマンに」
ブルースが小さく杯を掲げる。
「英雄に」
アルフレッドも杯を掲げ、スコッチを喉に流し込んだ。豊かな香りとアルコールの熱が鼻腔に広がり胸を満たしてゆく。
今日、戦いの果てに斃れた英雄はカンザスの小さな町で葬列に送られて永遠の眠りについた。
アルフレッドはスピーカー越しに聞いた誠実そうな声を惜しんだ。もし彼が生き延びていたなら、ブルースに大きな影響を与えたかもしれないのに。たぶん、それは概ね良い影響だったに違いない。
いや、スーパーマンと出会っただけでも、ブルースは変わったと長年仕えてきた執事は認めていた。
戦いに赴く前の鬼気迫る緊張感は鳴りを潜め、手の中のグラスをそっと揺らして琥珀色の波を見つめている。アルフレッドはおやと思った。今夜の彼には酒が必要だろうと踏んで用意したのだが、ブルースは自分のグラスに口をつけずただ物思いに耽っているようだった。
親しかった人の葬儀や、犯罪に巻き込まれた被害者の葬儀に参列するような日は、ブルースは眠れないのか大抵深酒してしまう。スーパーマンの死に彼はひどく責任を感じているようだった。ならばアルフレッドはできるだけ自分の目の届くところで飲ませようと思っていたのだ。
数年前であれば、そもそもアルフレッドは酒を用意することもなかっただろう。
蝙蝠の翼を纏った日から酒を飲まないとブルースは宣言していた。
少量のアルコールでも摂取すれば僅かなりと判断力に影響がある。一瞬の判断を誤ればあっさり死に至る、水際の戦いに身を置こうとブルースは選択し、そのためにセレブレティの華やかな生活の陰で酒精を極力避けて通ってきた。
接待の場なら飲んだふりをしてこっそりと植木に酒をやり、パーティーの席ならグラスを片手に真っ先に酔っ払った演技をすればそれ以上勧めてくる者もいない。女性とのディナーですら、一滴の酒も口にしなかった。バットシグナルはブルースの私生活など考慮しないようにできており、いつ点灯するかわからないのだ。
アルフレッドにとっては、適度な酒は人生における歓びのひとつだ。ウェイン邸のワインセラーやキャビネットに並ぶ年代物の酒瓶が手をつけられず勿体無いとこぼしたこともある。ブルースは君が飲んでも構わないぞと笑ったが、アルフレッドはウェイン家の次代からお裾分けを期待しましょうと澄まして返した。
そんなブルースがまさか慣れない酒を浴びるほど飲んで倒れるなど、当日まで予想もできなかった。初めて見る光景に絶句したことをアルフレッドは覚えている。
早朝、冷たいコンクリートの床にぐったりと座り込んだ主人の足元にワインボトルが三本ほど転がっていた。ウィスキーの瓶も半分程が空になり、残りはこぼれてスラックスの裾を濡らしていた。嘔吐した跡まであった。
アルフレッドが立ち尽くしていたのは一瞬で、状況を把握すると慌ててブルースに駆け寄り、呼吸と脈を確認した。幸いにも命に別状はなかったものの、大いに肝を冷やした出来事だった。
ベッドで点滴を打たれながら、ブルースは虚ろな目でケイブの岩天井を見つめていた。普段なら主人の無茶な行動に嫌味のひとつでも言っていただろうが、ひとつも言葉が見つからなかった。ロビンという名を与えられた少年が非業の死を遂げてからひと月程が経った頃だった。
転がる空き瓶を片付けながら、アルフレッドはやるせない思いに駆られた。
ブルースが背をもたれかけていたのは、ロビンのスーツが納められたガラスケース。一本のワインボトルには、十数年前の年号が印刷されたラベル。あの少年の誕生年だ。
厳格な師としてのバットマンは、年若いロビンにも当然飲酒や喫煙、薬物使用を固く禁じた。それでも成年した時のお祝い用にと、本人には内緒でアルフレッドにワインの購入を頼んでいた。その時がきたら飲むか飲まないかはあの子に任せるさ、と愛しそうに目を細めて。
そうしてひどい悪酔いを経験した日から、ブルースは年を経るごとに頑なになり、自らの殻に閉じこもるようになった。新しく誰かを受け入れようとはしなくなった。
一時は荒れに荒れた。毎夜悪夢に魘され眠れなくなり、睡眠導入剤が必要になった。休息を取ろうとせず無謀な作戦を立てては怪我を増やした。
アルフレッドは主人を死なせないよう必死だった。傷を縫い合わせながら、時には鎮静剤を打って無理やりに休ませることもあった。
悲しみは完全に癒えることはなかったが、ゴッサムという町は変わらずバットマンを必要としており、ブルースの強靭な精神はそれに応えた。慟哭にすべてを投げ出してしまえればむしろ幸せなのではないかとアルフレッドは思ったものだ。
時間をかけて悪夢の回数は少しずつ減り、数年が経った頃。メトロポリスを宇宙からの災厄が襲った。
大損害を受けたウェイン社の立て直し、亡くなった社員と遺族への補償、停電によって寸断されたインフラと悪化したゴッサムの治安…対処すべきことは山のようにあった。
昼間はブルース・ウェインとして自社とゴッサムの復興のために駆け回り、夜はバットマンとして増えた犯罪者達を追いかける。
ブルースは常に過労状態で、その上隣の都市に居座った異星人の存在は彼の精神に大きな揺さぶりをかけた。
天使と呼ぶ者もいれば、支配者と呼ぶ者もいた。彼を人間の上位存在と考える者も多かった。ゴッサムを襲う犯罪や自然災害には、全力で備え、戦い、立ち直ることもできる。それが意志を持ってたった一人でも都市を壊滅させられる異星からの来訪者となると、これは次元の違う話だ。
スーパーマンは、幸か不幸か強権的な性格ではなかったらしい。破壊された街で行方不明者の捜索と救助に飛び回り、略奪や抗争が起こりそうな場には止めに入った。「スーパーマンのいる都市」メトロポリスは大災害の後でも犯罪率が上がらなかった。皆スーパーマンの足元で犯罪を犯すリスクを恐れた。
対照的にゴッサムの犯罪率は跳ね上がった。実際のところ、メトロポリスがスーパーマンの保護下にあるからといって犯罪を生業にする輩がそう簡単に消えるわけでもない。彼らは地下に潜り、拠点を別の都市に移した。例えば湾を挟んで向かいの大都市に。宇宙からの移住者をヒーローと讃える新聞記事を眺めながら、全能のエイリアンも犯罪の本質については無知のようだ、とブルースは低く呟いた。
そうして昼夜を問わず走り回るブルースの元に不眠と悪夢が戻って来た。なお悪いのは、前回と違ってじわじわとブルースを蝕んでいったことだ。
アルフレッドが気づいたのはキャビネットから久しぶりにお気に入りのブランデーを取り出した時だった。記憶では半分ほど残っていたはずの瓶が随分と減っている。
お飲みになられましたかと訊くと少しだけ、とばつが悪そうにブルースは答えた。どうしても寝つきが悪かった時に、少しずつ貰っていたのだと。
いつぞやのように急性アルコール中毒になるほどがぶ飲みするよりはずっと良い。むしろ自己に厳しすぎるきらいのある主人の息抜きになるのならとアルフレッドは安堵した。
だがそれは間違いだった。一年ほどの間に酒量は徐々に増え、ブルースはアルフレッドの酒を盗み飲む代わりに自分でワインセラーからボトルを持ち出すようになった。
朝にはアルコールの匂いを芬々とさせた状態でベッドにいることも珍しくなくなった。空のワインボトルと睡眠薬をサイドテーブルに見つけたとき、とうとうアルフレッドはなんということを、と声を荒げた。
その無茶な飲み方を自殺行為だと、今日限りやめるべきだと何度も言い募った。ブルース本人も分かってはいたのだろうが、やめなかった。やめられなかったのだ。それほどゴッサムの闇の騎士は心も身体も疲弊していた。
アルフレッドは己の力不足を歯がゆく、哀しく思った。口にこそ出さずにいてもアレフレッドとブルースの関係は主従というよりは父子に近いと自覚はしている。それでもあくまで執事は執事であり、ブルースの意志を強制的に変えさせるだけの影響力はない。本当の父親であったならブルースを叱りつけ、縛りつけてでも彼の無茶を止めることができたのだろうか?自問し続けたが答えは出なかった。
本当に必要なものはアルコールよりも心から信頼できる友人や恋人だったのだろう。だがバットマンとして活動してきた二十年の間にある者は去り、ある者は死に、裏切られ悲劇に終わった関係のなんと多かったことか。
スーパーマンへの怒りに駆られ自ら死地に赴こうとする主人の背をアルフレッドは見送ることしかできなかった。バットマンのカウルに仕込まれたマイクの音声を聞きながら後悔と絶望ばかりを抱いていたあの夜を思うと、今こうしてスコッチを手にして静かに向かい合っているのが奇跡のようだ。
アルフレッドのグラスが空になっても、ブルースのグラスの中身は減らないままだった。
「お飲みにならないのですか」
問うと、遠くを見つめていた瞳が夢から醒めたかのように瞬いた。
「ああ……いや、やめておこう。まだやることがある」
ブルースはグラスを置いて立ち上がった。
「アルフレッド、コーヒーを頼む。それとアマンダ・ウォラーについて調べてくれ。メタヒューマンの情報を引き出せるかもしれない」
「例のルーサーのファイル絡みですか」
メタヒューマンと呼ばれる、人間を超えた力を持つ者たち。スーパーマンが死んでからブルースは彼らの所在を突き止めることに没頭していた。
「まさか彼らとも戦おうと仰るわけではないでしょうね」
「戦うわけじゃない」
ちらりと苦笑を覗かせ、ブルースは肩を竦めた。
「彼らを仲間にするんだ」
我々の世界を、未来を守るために。
昏い怒りに代わって強い決意を宿した声にアルフレッドははっとした。
思った以上にスーパーマンは―――クラーク・ケントはブルースを変えていったのだ。悲しみが深く深く降り積もって凍り付いた孤独な魂に太陽を当てていったのだ。
彼が生きていてくれたら、と改めて思わずにいられなかった。
もしかしたらブルースと穏やかに笑い合う間柄になっていたのかもしれない。お互いの正体を知り仲間と呼べるような、もしくはそれ以上の関係になっていたのかもしれない。
二人分のコーヒーをトレイに載せてケイヴへのエレベーターを降りたアルフレッドは、ガラスケースに飾られたロビンの衣装の前で足を止めた。
「ウェイン様がお仲間を連れてこられたら、ここはまた賑やかになるのでしょうね」
あなたが居らした時には及ばないでしょうが、と喉の奥で笑う。
「これから忙しくなりそうです」
片手にトレイを持ち直し、空いた方の手でハンガーから作業着を引き下ろす。
さて、まずはバットモービルの助手席を使えるようにしなくては。