誕生日馬鹿 いつもわかりづらい、まどろっこしいと言われるので今回ばかりはとはっきり言っておいたつもりだった。
この日は俺の誕生日だから絶対に帰ってこい。とドミニクはわざわざ誕生月のカレンダーを印刷してオリバーの目の前でキッチンの壁に貼り付けたのである。
「そんなの別にスマホでリマインダすればいいだろ」
「あんたみたいなアナログ人間にはこっちがちょうどいい。というかリマインダなんてよく知ってたね?」
使ったことあるの?なんて嫌味は言われる。
もちろん使ったことはない。
記憶力には自信があったし、オリバーはスマートホンもあってないような気持ちで持っていたからそもそもそんなものを頼る必要もなかったのだ。
「仕事をするなとは言ってない。仕事はして来い」
「そりゃあな」
「でも夕飯の時間には帰ってこい」
「お前は俺のママか?」
「はあ?何言ってんだ」
俺はあんたの彼氏だろ。とドミニクはじっとオリバーを見上げながら言った。
そのはっきりとした物言いに、オリバーは思わず、まあそうか…と気圧されるように返事をした。
「とにかくこの日だけは帰ってこい」
いい?とドミニクが聞けば、わかったわかった。とオリバーが返事をする。
本当にわかっているのか?とドミニクは思ったが、いくらオリバーでもここまではっきりと伝えて、キッチンのこんなに目立つ場所にカレンダーを貼ったのだから覚えていてくれるだろう。
と思っていた。
誕生日当日の夜を迎えるまでは。
すっかりと冷めてしまったテイクアウトの料理を冷蔵庫に詰め終わったドミニクは、ソファーに肢体を投げ出してぼんやりと流行りの俳優のトークショーをテレビで眺めている。
特に何かを口にするわけでもなく、忙しくしているわけでもない。
だが眉間には深いしわを掘っていた。
あの時、夕飯の時間にはと曖昧な表現はしたものの、時刻はもう二十二時を回っているのに玄関の扉は一向に開く気配を見せない。
帰ってこいと言ったのにあの男はいったいどこで何をしている?
電話をしてもSNSでメッセージを送っても返ってこない。
まあ連絡に応答がないのはいつものことなので別にそれがどうというわけではないが、今日に限って約束をすっぽかすだなんてことあるだろうか?
単に夕飯を食べるだけの約束ならまだいい。
今夜はよりによってドミニクの誕生日なのだ。
それも別に自発的に思い出して察しろと言っているわけではない。
前もって約束を取り付け、見える場所にもカレンダーを貼っていたのに、だ。
毎日見ていれば忘れないと思ったが、逆に毎日見すぎて壁から目立たなくなっていたか?
約束は早い方がいいと思ったが取り付けるのが早すぎたか?
そんなことを幾度か考え、しかしそれも落ち着いてからやがて一時間が経とうとしていた。
本当ならばテイクアウトしてきたもので軽く食事を済ませ、ドミニクが気に入っているバーにオリバーを連れていくつもりだった。
もてなされるより、もてなす方が好きだったドミニクは、今夜は好きにオリバーを連れまわすつもりだったのにもう何もかも台無しである。
テレビを眺めているが頭には全く入ってきていない。
くっきりとした眉が目に近く、鋭い目線をした人気の俳優が喋っているが、ドミニクはオリバーの顔の方が好みだった。
しかし今はそれを思うだけでも無性に腹が立つ。
ばつっとドミニクはテレビを消してソファーから立ち上がった。
そして壁にかけていた上着に袖を通すと、どかどかと靴を鳴らして部屋から出て行ったのである。
忘れていたわけではない。
今日だと思っていなかったのだ。
この違いと重要さがわかるのは、思い出した本人だけだろう。
ドミニクの誕生日が何月何日であることはちゃんと覚えていた。
だが、その日付が今日だということがさっきまで頭の中で紐づいていなかったのである。
数か月前にこの日は夕飯の時間に帰ってこいと念押され、キッチンにカレンダーまで貼られた。
それなのに何故今の今まで今日だということに気づかなかったのか?
普段からあまりカレンダーを意識しない生活をしていたからだろうか?
オリバーにとって、暑くなれば夏だし、寒くなれば冬。
街がごちゃごちゃと着飾りだして雪が降ったらクリスマス。というように、おおよその感覚で季節を過ごしてきたせいだろう。
ともかく今が何月で、何日であるということを考えながら生きていなかったから、こんなことが起こるのだろう。
オリバーがドミニクの誕生日が今日であることを思い出したのは二十三時を過ぎたころ。
もう今日はあと一時間で終わってしまう頃だった。
スマートホンを覗けばドミニクから大量の不在着信やメッセージが来ていたが、それも二十一時を過ぎるとぱたりと止んでいる。
これが逆に恐ろしい。
気づいた今の時点でも連絡の猛攻が来ている方がずっと良かった。
しかしもう、それ止んでから二時間以上が経過している。
ぎゃんぎゃん怒鳴られるなんてかわいいものではきっと済まない。
部屋に入った瞬間に頭を鉛玉でぶち抜かれるかもしれない。
少し震えた。
だが今のオリバーには無いようであり得るこんな妄想をしている暇などないのだ。
今すぐに家に帰らなければならない。
一分でも一秒でも早く。
そう思ってオリバーはがたんっと椅子から立ち上がると、テーブルの上のグラスが揺れた。
少し手こずった仕事を片付けたら珍しく仲間が一杯奢ると言ってきたものだからついていったのが運の尽きだった。
ちなみに今そいつはカウンターでひっかけた女の肩に手を伸ばし、ばしんとその手をはたかれている。
「金はあいつの財布から払う」
オリバーは店員にそう言って店から出ると、数杯ひっかけた酔いも忘れて走り出した。
時間を見る余裕もなかったがそんなことをしているうちに日付を超えてしまったら元も子もない。
そうやってまっすぐ自分のアパートに向かって走ったが、ふと思い立ってオリバーは突然ぱたりと立ち止まったのである。
いや待て。
あのドミニクが誕生日をすっぽかされて大人しく家にいるだろうか?
ベッドでふて寝なんてしているはずもない。
怒り狂ったドミニクが行きそうなところはどこだ?
オリバーは止めていた足で小石を踏みつぶし、そして踵を返した。
アパートの近くに狭いバーがある。
懐かしい酒が置いてあるとドミニクが話していたのはいつだろうか。
アパートに近い最後の大通りを横切らずに夜中も店を開けている花屋の隣の路地に入ると、ぼんやりとした明かりに灯された看板を見つけた。
人がいる気配がするからいつも通りやっているのだろう。
ばたんっと大きな音を立てて扉を開け、店に入っても誰もオリバーを振り向かない。
客はもういくらか酔っぱらっている人間ばかりなのだろう。
大きな音くらいではもう動じないのだ。
「お、兄ちゃん良いところにきたね」
「あ?」
オリバーが店の奥にあるカウンターまで歩いていこうとしたら、近くのテーブルに座っていたらしい酔っ払いが声をかけてきた。
「今夜はタダ酒が飲めるぞ。そこの金持ちの奢りらしい」
「金持ち?」
酔っ払いが、ほらそこ。と指指した先には見知った後姿があった。カウンターに寄り掛かるように背中を丸めているようである。
「二時間くらい前か?店に来るなり今日は俺の奢りだ!てな。何があったかは知らねえが俺たちはおこぼれに預かるまでよ」
へっへっ、と下品に笑う酔っ払いの話でオリバーはだいたいの状況を把握した。
カウンターにいる店主はちょくちょくドミニクを気にかけてくれているのだろう。
オリバーがドミニクに近づこうとすると、ちょっとと声をかけてきてくれた。
「ドミニクさんのお連れですか?」
「ああ、まあ…」
「それはよかった。あの様子だとカウンターから梃子でも動かないようで…」
「すまない、迷惑かけた」
オリバーがそう言えば店主はにっこりと人のよさそうな笑顔を浮かべた。
年齢としてはオリバーやドミニクの父親くらいだろうか、きりりとスーツを着こなしてとても落ち着いて見える。
「あいつの分の支払いは俺から建て替えとくが、客への奢りの分は後で払いに行かせるでもいいか?」
「いえ結構ですよ。ほかのお客様からもお支払いいただきますから」
こういうことはよくありますからね。と店主は言う。
よくあるのか?とオリバーは驚くが、すまないそうしてもらえるか。と素直に店主の言葉に甘えることにした。
「それに自棄酒の奢りより、もっと気分よく奢られた方が酒も美味いでしょう」
「確かにな…あいつは引き取っていく」
「ええ、お願いします」
オリバーはポケットに突っ込んでいた紙幣を数枚店主に渡して会計を済ませると、ようやくドミニクのもとへと近づいて行った。
「おい、帰るぞ」
オリバーがそういえば、カウンターに頭を伏せていたドミニクがゆっくりとこちらを見上げた。
じっとりとした視線。
瞳の奥はまだまだ煮えたぎる活火山の中央を覗くようでやはり恐ろしかった。
しかしドミニクはその場で何を言うこともなくゆっくりと身体を起こすと、オリバーから目をそらして店主を呼ぶ。
「すまない、勘定を頼む」
「先ほどいただきましたので結構ですよ。気を付けてお帰り下さい」
店主の言葉にドミニクはオリバーをじろりと睨んだ。
なんで奢ったのに睨まれなきゃならんのだといつものオリバーは思うが、今日はその殺意のこもった視線にただ生唾を飲み込むだけだった。
ドミニクは、そうかと言ってふらふらと店の出入り口まで歩き出す。
足取りは危うい。
オリバーはドミニクの肩を持とうとしたが、とりあえず店を出るまでは触れない方がいいだろうとその手を引っ込めた。
何かを起こすのも店を出てからだ。
あの気のいい店主にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
ゆっくりと店の扉を開けてドミニクが外へ出ていき、オリバーもそれに続く。
路地の先にはまだあの花屋の明かりが煌々と輝いていたので、狭い通路でその先を目指すように終始無言で歩いていく。
このままアパートにつくまで何も言ってこないのか?
その可能性は大いにあるし、それはかなり気まずい。
だったら一発殴られるくらいあった方が…とオリバーが思ったその時だった。
「なあ」
花屋の明かりが広がる通りに出た時、ドミニクがこちらを向いた。
そして投げつけられた拳がオリバーの頬にがっつりとめり込み、受け身を取れなかったオリバーの身体は近くのビルの壁にどすんと叩き付けられる。
「いって…急だな」
「次は左だ」
そう言ってドミニクは倒れこんだオリバーの腰に馬乗りになると反対側の拳を振おうとする。
「待て!殴ってもいいがちょっと待て!」
「お前に遺言なんて残す権利はない」
「ドミニク!」
大声で名前を呼ぶと問答無用と拳を握りしめていたドミニクの動きがぴたりと止まる。
「誕生日、おめでとう」
「……はあ?」
ぼこんっとその瞬間にオリバーの左頬にフックが入った。
防ぎきれるとは思ってなかったので身構えたもののやはり痛いものは痛い。
「ってえ…首から変な音したぞ」
「誕生日って…今何時だと思ってんの?」
「あー…過ぎてたか」
オリバーが腕時計を見れば、長針はもうとうにてっぺんを過ぎていて、午前1時をやがて迎えようとしていた頃だった。
「忘れてたわけじゃない…今日、いや昨日だと思ってなかっただけなんだ」
「意味が分からない」
「まあ、確かにな…」
悪かった。とオリバーがそう言えば、ドミニクは気が抜けたように怒らせた肩をしゅんと落とし、なんだそれ…と呟いた。
誕生日くらいでそうカッカするな。と窘められるのがオチだと思っていた。
だからせめて、頬に衝撃だけでも残してやろうと思ったのにこうも素直に謝られてしまうと返ってやるせなくなってしまう。
「誕生日の話は前からしてたしカレンダーにも書いた」
「ああ」
「あんたは夕飯前に帰ってくればいいだけだったんだ、別にケーキとかいらないし…」
「ケーキか、子どもの誕生日かよ」
すっかりと大人しくなったドミニクを前に、オリバーはゆっくりと半身を起こしながら言ったがもう拳は降ってこなかった。
「あんた最低だ。だからモテないんだよ」
「俺がいつモテないって言ったか?」
「顔だけの男は結局モテないんだよ」
ドミニクはそう言ってオリバーの腹に手を置いて立ち上がろうとする。まあ身体も悪くないな。と呟いた。
「自棄酒代出したからってチャラになったと思うなよ」
「わかってる。あんなのはした金だ」
「あんたのせいで俺の誕生日は台無しだ。こんなにさんざんなのは生まれて初めてだよ」
「いつもどんな誕生日だったんだよ」
「去年はクルーザーでシャンパン開けて、7段くらいのケーキと牛一頭のステーキで祝ったかな」
「はあ?」
「嘘に決まってるだろ」
あんたが考えそうな金持ちの誕生会を言っただけ。とドミニクは言って、ふふっと笑った。
腹の上からドミニクの重みがなくなり、オリバーもようやくその場から立ち上がると、さすがに深夜の花屋も閉店準備をしていた。
どうやら夜通し開いてるわけでもないらしい。
「あー、待ってろ」
「なに?」
オリバーはドミニクにそう言って花屋まで走っていくと、しばらくしてまた走って戻ってきた。
暗がりでよく見えないが、明らかに花束であろうシルエットを伴って。
「今年はこれで勘弁してくれ」
「え、なにそれ」
「金持ちはこういうの好きだろ」
からかうようにそう言って、オリバーが寄越してきた花束は全部赤いバラで束ねられている。
いくらドミニクでもこんな花束をもらった経験はなかったらしく、一瞬面くらってしまったがすぐに破顔してオリバーを見た。
「あんたさ…本当に最低だよね」
言葉のわりに上ずる声の様子から、オリバーのこの一手は気に入ってもらえたのだろう。
「これ何本あるの?」
「さあな。とりあえずあるだけ全部って言ったらこうなった」
「雑な金持ちでもそうはしないでしょ」
「じゃあ今度丁寧な金持ちのやり方を教えてくれ」
オリバーが言えば、そんなのないよ。とドミニクが返す。
まだオリバーの頬は両方ともひりひりと痛んでいたが、ドミニクはもう落ち着いているようだった。
まだまだ空は暗く、朝が来るのはまだ先だったが日付が変わってしまった以上ドミニクの誕生日はもう終わってしまっている。
だからこのバラの花束も誕生日プレゼントとしては埋め合わせのような意味しか持たないのだが、ドミニクはもう眉を顰めることはなかったのだった。
「来年は前夜祭から祝ってやるよ」
「数か月前から言ってたことが覚えられてないのに一年後なんてもっと無理だろ」
「だから覚えてはいたんだが昨日だと思ってなかったんだよ」
「ふうん」
「信じてねえな?まあ今はそう思ってろ」
来年吠え面掻くぞ。とオリバーが言う。
「それじゃあ喧嘩だろ、殴り合いはもうやった」
「殴り合ってはねえな。俺が一方的に殴られた」
「俺も手が痛いからそこは平等だよ」
「どんな理屈だ」
なに?喧嘩したいの?とドミニクが言えば、そんなわけあるか。とオリバーはドミニクを軽く小突く。
だが、そこで思いついたようにあーと小さく声を上げた。
「お前と喧嘩するならソファーかベッドだな」
「はあ?…ああ、なるほど」
オリバーの顔を見上げると、意地汚い笑みを浮かべていた。
せっかくの良いだけの顔がもったいないとドミニクはよく思う。
「俺はもう帰ったら寝るからひとりで喧嘩の自主練だけするといいよ」
「正気か?」
「冗談だって。シャワーは浴びるからね」
「いいだろ別に、酒臭いのはお互い様だ」
「そういうところだよ、まあもういいけどさ」
やっぱりこいつもどこかで飲んでたな?とドミニクはじろりとオリバーを軽く睨むと、なんだ。と今度はじっと睨み返される。
「ねえ」
「なんだ」
「ベッドがいい」
「考えとく」
考えとくもなにも決定だ。とドミニクがオリバーの踵を蹴れば、何すんだと尻をつままれた。
二人の背後ではもう花屋が完全に店を閉めてしまっている。
鳴り響く靴音が遠くなり、話し声もかき消えていく。
そして静まり返った道に響くアパートの扉の音が真夜中の空気を振わせると、また長い夜に戻っていった。