ただの思春期 おい、と一度声をかけても丸い後ろ頭は振りむかなかった。
波の音と丁度重なって聞こえなかったのだろうか?
「おい、紬!」
もう一度、丞がそう呼びかければ、今度こそその後ろ頭はこちらを振り向いたのである。
きょとんとした顔の紬と目が合う。
だが紬は海岸沿いの岩場で、人が何人か座れるくらいにはなだらかになった場所にぽつんと座って暗い海を眺めていたものだから、振り向いた拍子に丞の立つ島側の街灯の明かりにちかっと目を突かれる。
「うわっ」
小さく声を上げてゆらりと肩を揺らして体勢を崩す。
一歩一歩足場を確認しながらその紬のもとへと歩いて行っていた丞は、紬!と声を上げて駆け寄ろうと勢いづくがごつごつとした岩が簡単にはそうさせない。
このまま紬が海に落ちてしまったら?
座っている岩場から海面までの高さはそこまでなく、波も穏やかではあったがここは深夜の海なのだ。
昼間の青い水面とは全く顔色を違えた、底の知れない暗さなのである。
そんな中に紬が飲み込まれたらひとたまりもないと丞は真っ青になって岩場を飛び越えたけれども、当の紬はなだらかな岩場に上半身だけぺしゃりと伏せただけですぐにまた起き上がったのである。
「紬!怪我はないか?!」
「え、丞?もうこっちこれたの?」
慌てる丞に対して驚いたような面持ちで紬は言った。
「俺、向こうからここまで来るのに十分くらいかかったよ?」
「そんなにかかるわけあるか。いやそんなことはいい。大丈夫か?」
「あ、うん。ちょっと街灯がまぶしかっただけ」
びっくりした。と言って紬は緩く笑った。
そんな紬の顔を見て、丞はようやく胸をなでおろすとそのまま紬の隣に座った。
「海、静かだよね」
「ああ」
「もうちょっと漁船とか見えないかなと思ってたんだけど、船もないね」
「行きのバスで見た漁船は向こう側の海岸だったろ」
「そっか、じゃあ向こうなら見れたかもね」
残念。と言いつつもさほど残念そうではない紬は、もちろん船を見るためだけに深夜の海岸に来たわけではないだろう。
「さっき何してたんだ?」
「俺?先生に体育館の鍵を返しに行ってたんだ」
「こんな時間にか?」
「うちのクラスのレクリエーションがプラネタリウムだったからね」
俺実行委員だったんだ。と紬は言って笑った。
夏休みも終わりに差し掛かるころ、丞と紬の通う高校は毎年一年生が二泊三日でクラス合宿を行うという行事が組まれていた。
場所は学校からバスでニ時間ちょっと行ったところにある海沿いの宿泊施設であり、その周りには小さな公民館など町の施設が建っている。
紬の言った体育館はその町の施設の一つで、宿舎のほとんど目と鼻の先に位置しているのだった。
「本当は日付変わる前に終わる予定だったんだけど、機械がうまく動かなかったりしてね。先生に許可をもらって一時くらいまで使わせてもらって、やっと片付けが終わったんだ」
「そうか、何とかなってよかったな」
「うん、でも丞だったらすぐ解決できたかも」
紬が直面したプラネタリウム用の映写機に起きた機械トラブルは結局一度機械の主電源を落として再起動させると解消したのだった。
マニュアルを見ながら四苦八苦していたのが嘘みたいだとほかの実行委員は笑っていたものの、丞だったらすぐにそこに気づくだろうなと思っていたのである。
「機械って借りたのか?」
「そうそう。この町の町会長さんが趣味で持ってた古い機械を借りたんだ」
「ならトラブルの対応も町会長さんに聞けばよかっただろ」
「それが、町会長さんも一緒に悩んでたんだよね」
「なんだそれ」
持ち主なのにか?と丞が眉を顰めれば、まあずっと使ってなかったみたいだし…と紬は笑った。
何はともあれレクリエーションが成功したからよいのだろう。
プラネタリムすごかったよ。と話す紬の表情からそれは見て取れる。
「丞のクラスは何したの?」
「肝試し」
「そうなんだ。うちのクラスでも案出たなあ」
準備大変そうだよね。と紬は言ったが、丞はそのまま口ごもってしまった。
宿舎の裏側に荒れたグラウンドと古い倉庫がいくつか建っており、例年そこで肝試しをするクラスがいくつかある。
丞は雑草だらけのグランドを歩いて倉庫に行くのが何の肝試しになるんだ。と思っていたが、実際に参加してみると想像以上に大変な思いをしたのである。
まず丞のいた班は五人で形成されているが何故だかうち三人がどこかにはぐれ、丞は自分と残った班員の女子と二人になってしまったのだった。
暗くて手入れのされていない荒れた土地であるとはいえ、学校の校庭よりもはるかに狭い場所だ。
そんなところで三人がどこかに消えるだなんて、意図的以外の何でもない。と思った丞は眉間にぐっとしわを寄せた。
「とりあえず行くか。もうすぐゴールだろ」
そう言って振り向いた丞に、うつむいた班員の女子生徒が小さく頷いた。
二人の間にはちょうど人間一人分の間が空き、ずんずんと歩いていく丞の後ろを女子生徒が黙ってついていく。
虫の声と風の音以外には何も聞こえない、沈黙で満ちた時間だった。
「あ、あの、高遠くん、ちょっと待って…」
背中から震えた声が聞こえる。
丞が振り向けばいつの間には二人、三人が間にいても窮屈ではないくらいに距離を離してしまっていた。
「悪い、早かったな」
ざりっと砂を踏みながら丞が足を止めると、女子生徒が小走りに距離を詰める。
そして照らしていた懐中電灯の明かりが問題なく届く範囲まで近づくと、その子が何か言いたそうにしているのに気づかないまま、丞はまた前を向いてしまったのである。
そこからすぐにぼんやりとした明かりの灯るゴールを見つけたので、ようやくだな…と津美焼きながら淡々と歩いて行ってしまったのだった。
紬の機械トラブルの話程面白くなかったな。と丞はそんな自分の肝試しの記憶をたどりながら思う。
しかし紬は、大変だったね。とやわらかく声をかけた。
暗がりにだいぶ目が慣れてきたのか、丞の目には紬の顔がしっかりと映っている。
紬の表情は朗らかで、もしかしてこの時間だし半分寝被っているんじゃないか?とも丞は思いもする。
「二人になっちゃった子って、さっき一緒にいた子?」
「ああ、まあ…そうだ」
「何かあった?」
「何かってなんだよ」
何かって、なんだろ。と紬はふふっと笑った。
体育館の鍵を返しに行った紬と肝試しから解散した丞は今から10分ほど前にばったりと出くわしていたのである。
そのとき紬は丞が一人ではないことは見えていたし、その後ろにいるのが女子であることもわかっていた。さすがに同じ学年の誰かまではわからなかったけれども。
反対方向からそれぞれに現れて顔を合わせた時、なぜかお互いに慌ててしまい、紬はといえば「あ!ごめん、じゃあね!」と丞の横を駆け抜けていってしまったのだった。
「急に走っていなくなるから何かと思ったぞ」
「ごめんごめん。夜だし、なんか二人なのって意味あるのかなあって思っちゃって」
「意味なんてあってたまるか。宿舎まで送っただけだ」
「そうなの?」
そう言って顔を覗き込んできた紬に、そうだ。と丞は紬の頬をくいっと軽くつまんだ。
「それだけ?」
「当たり前だ」
「なーんだ」
取れるよ。なんて言いながら紬は自分の頬をつまんでいた丞の手をぽい、と跳ねのけようとした。
しかしその丞の手は投げ出されることはなく、今度は紬の手をぱしっとつかむ。
「なんだ。ってなんだよ」
「うん?まあ合宿だし、そういうこともあるのかなーって」
思春期でしょ、俺たち。と紬は言う。
「お前までそんな話に興味あんのか」
「正直なところそこまで…」
「は?」
「でも先月丞が渡り廊下に呼び出されたのは知ってるよ」
紬の言葉に、丞はなぜかぎくりと背中を震わせる。
知られてまずいことはないのだが、紬には知れ渡っていないと思ってたからである。
部活の前に違うクラスの女子に呼び出され、告白を断ったばかりだったのだ。
用事が終わった後もいつもの変わらず部活に勤しんだはずだし、紬に何かを問われることもなかったのだがそういう噂は知らぬ間に広まるものらしい。
これも思春期だからなのだろうか?
「今日は告白された?」
「されるわけないだろ」
何言ってんだ。と丞は言うが、紬は目をぱちくりとさせてその丞を見る。
本気で言ってる?と言わんばかりの目線だ。
丞の肝試しの話を聞く限り、二人きりにされたその女の子は周りからの後押しなのかはたまた少し強引に舞台を仕立て上げられたのかもしれないものの、丞に思いを伝える機会をうかがっていたのではないだろうか?
結果としてそれは不発に終わったのかもしれないが、その子としては好きな人と肝試しをして宿舎まで送ってもらった良い夏の思い出になったのかもしれない。
「あれ、でも宿舎まで送ったんだよね?ここからそんなに近かったっけ?」
「あー、クラスの女子が固まって帰ってたからそこに任せてきた」
「えっ」
「じゃないとお前を見失うだろ」
颯爽と、とまではいかないが慌てて走っていく紬の後ろ姿を見逃すことができず、丞は途中まで送った女子生徒を自分たちと同じく肝試しから帰る集団によろしく頼んできた。というのである。
それはさすがにやっちゃだめだよ…と紬は困ったように眉を下げるが、丞はなぜ紬がこんな顔をするのか今一つわからない。
「夏の思い出なのになあ」
紬は女子生徒の乙女心を思う。そういえばこのまえ部室で見つけた台本に似たような話があったっけ。
「肝試しはうまくいったぞ」
「そうじゃなくて…まあ、それもそっか」
これ以上この話題を膨らませる必要はないだろう。
丞にとってはなんてことのない出来事。
そしてここまで自分を追いかけて今こうして海岸に座っているのが、丞の夏の思い出になるのだろう。
そう思うとなんだかこそばゆい気持ちにもなるし、紬はここではたとまだ丞が自分の手を握っていることを思い出した。
「その手はまた俺の顔をつまむ?」
「つまむかもな」
「じゃあ…このままでいいかな」
当然のことながら背後に足音が聞こえることもなかった。
波にちかちかと映る街灯の灯りと、十分じゃない光量にぼやっと浮かび上がる二人の影。
お互いの顔は慣れた目によくよく映ってた。
いつも通り、思いついた話をぽつぽつと話題にし、それがわずかに止むと波の音が聞こえる。
なんとなく、朝が来るまでここには二人しか存在しないんだということがわかる。
紬は少しだけ眠かったが、握られた手がじんわりと熱くてそのまま寝落ちるということはなさそうだった。
「合宿から帰ったらちょっと部室に行きたいかも」
「何か持って帰るのか?」
「ううん、昔の台本を覗きたいだけ」
紬の言葉に、丞はいいぞ。と返事をする。
「ありがとう、すぐ終わるよ」
丞の手を、少しだけ力を込めながら握り返し、紬は言った。
手をつないだことなんて、子どものころから何度でもある。
でも思春期は格別だと、思わざる得ないのだった。