春の歌 おい危ないぞ。と言っても紬はまるで聞いていないようだった。
「見て!こっちも咲いてる!」
紬は嬉々としてそう言いながら丞の方を振り返る。
店を出たすぐそばの街路樹は桜が植わっていて、今まさに見頃を迎えていたのであった。
今夜の宴会の目的は花見だったが、集まった先は安定してガイのバーだった。
大きな窓からちょうど見える桜がとてもいい具合だという報告を朝食の席で受けるや否や、花見をするならば今だ!と誉が主宰を務めたのである。
二十時ごろから始まった緩やかな宴会は、春の新メニューとすっきりとした味わいのアルコール、そして話に聞いていた通り窓の外に見える見事な桜がこれでもかというほどに花見気分を演出してくれた。
「桜は集まって咲くからにぎやかだよねえ」
紬は桜の木を見上げ、くるくると幹の周りと丸く歩きながらふふっと笑う。
良い感じに酔っぱらっているのだろう。
きっと店に入る前に、ここにも桜があるね。と既に丞に言っていたことを完全に忘れている。
「ほら紬こっち来い。道路に出るなよ」
遅い時間で車が走るような音は聞こえないとはいえ、歩道と車道の境目に植わる桜の木のそばで紬にふらふらとされると丞は気が気じゃない。
今日は久しぶりに自分もある程度飲んだつもりでいたが、目の前に自分よりも酔っぱらってふにゃふにゃと笑う紬がいるとなると今は危なっかしいという気持ちばかりが逸るのだった。
さすがの紬も酔っているとはいえ道路に踏み出したりはしないが、はらはらとしている丞の様子にはそう気も止めていないようであり、あっちの桜もすごいよ!と駆けだす始末だった。
紬は酒が入ると元気になるからいけない。
あの様子じゃ何もないところでつこけかねないと丞もとうとう駆け足になったその時だった。
ざっとぬるい夜風が身体を煽るように吹く。
街路樹の桜の木々が揺れ、ばらばらと花びらが街灯の灯りの中に飛んで行った。
そして、どさっと丞の胸に暖かいものがぶつかる。
「うわーっ、びっ、くりした…」
それは目をぱちくりとさせて気の抜けた声を漏らす紬の丸い頭だったのである。
もう数歩先にいたはずの紬が先ほどの突風にあおられて丞の元まで戻ってきたらしい。
丞は、紬の頭の乗っかった桜の花びらをぽいと避けると、はーっと大きくため息をついた。
「だから言っただろ」
「ふふ、丞が木だったら俺激突してたね」
「それこそ笑えない」
気をつけろよ。と言いながら丞が紬を胸から起こして立たせると、あ、丞も…と紬が丞の前髪をちょいと指先で掬った。
白っぽく、ほんのりピンクの花びらが紬の爪にかぶさるように踊っている。
「丞は桜に攫われたりしないから安心だなあ」
「なんだそれ」
「この前咲也くんと行った芝居の話だよ」
言ってなかったっけ?と紬が言うので、確かにそれは聞いたな。と丞は相槌を打つ。
「桜に姿を眩ませられる様子がすごかったんだよ」
光とリボンで演出しててね。と紬は身振り手振りを加えて話す。
「なるほどな。でも桜に攫われるならどっちかといえば紬だろ」
「えー?俺は丞が受け止めてくれるから大丈夫だって」
ねえ?と尋ねられるので、丞はまあ確かにな。となんとなく頷いた。
「頼もしいね。丞といれば安心だ」
「でも今日はお前飲み過ぎだ。早く帰って寝るぞ」
「コンビニ行こうよ」
「何しに」
「目的無くてもいいじゃない」
春なんだから。と言った紬の耳にまだ花びらがちょいと残っていたことに気が付いた。
しかし丞はなんだかそれを取り除いてしまうのがちょっと惜しくて、まあ春だしな…と自分の手を引く紬について歩いたのである。