嵐が来た 嵐の最中に生まれたのだと、母から聞いたことがある。陣痛が始まって病院に行く途中、タクシーのなかで雨と風が作り出す轟音を聞きながら、無事に生まれてきますようにと祈ったと母は言っていた。
そんな日に生まれたから、いつも心のなかで嵐のような感情が吹き荒れていたのだろうか。嵐はなにかをきっかけに膨らんで一虎の理性とか常識をすべて飲み込んでしまう。制御できない怒りや憎しみをまとった自分をいつも透明な壁越しに眺めていた。
ガラス製のドアを開けてテラスに出た。途端にぬるく湿った風が一虎の頬を撫でていく。
テラスには二人掛け用の席が三つ設置されていて、テーブル毎に照明がひとつずつぶら下がっていた。それらの電源を入れながら奥に進んでいく。
手摺りの近くに小さな台がある。一虎はその台の上にある香立てに、一本の香を立てて火を灯した。すっきりした香りの煙が上っていく。気休めの蚊避けである。テラスの下には川が流れていて、猛暑の間は身を隠していた蚊が九月になるとこちらまでやってくるのだ。
こんな蚊だらけの蒸し暑い場所で飯を食うやつの気が知れない。一虎はそう思うのだが、意外にもテラス席は人気だった。
夕暮れに浮かぶ黄色い照明を眺めながら、柑橘と薄荷の香りが混じった煙を吸い込んでみれば、その気持ちも理解できなくはない。正面口のある表通りの喧騒はここには届かず、虫の声とかすかな川のせせらぎ、それから風で揺れる草が擦れ合う音しかしない。まさに天国みたいだと思う。
うっかりぼうっとしていると、店内から窓を通りこして怒号が聞こえてきた。
飯が美味くて、雰囲気が良い。客にとっては天国のような店でも、働く者にとっては地獄だった。
テラスから室内に戻れば、より鮮明に怒声が耳に届く。
「てめえらみたいな犯罪者はこんなこともできねえのか」
店主はキッチンでそんなことを怒鳴りながら、見習いの加藤をめん棒で殴っていた。腕や腰など服で覆われていて痣が見えないところをきちんと選んでいるのがこの男の陰険なところだ。
他の従業員は自分にとばっちりが来ないように目をそらして仕込みをしている。
「あの、テラスの準備終わりました」
一虎が声をかけた途端に店主がわずかに肩を震わせた。
「次は何すればいいですか」
受刑者だった頃から、命令されて動くことには慣れている。この店主も奴隷を作り上げたいのか、自分で考えて行動することを好まない性質だったので一虎はいつも次の指示を仰いでいた。
「もう表に看板出して、オープンにしていいから」
店主は一虎のほうを見ずにそう言ってからめん棒を放り投げ、持ち場のコンロへ向かった。加藤が小さな声でありがとうと言った。
一虎は言われたとおり、立て看板を外に出した。それを見てすぐに二人組の女性がやってくる。一虎は笑顔に見えるように目を細めて口角をあげた。
「もうオープンしてますか?」
「はい。二名様ですか?」
キッチンに客が来店したことを伝えると硬く強張っていた雰囲気が和らいだ。横暴な店主も客がいる間はさすがに怒鳴らない。ずっと客がいればいいのに。みんなそう思っている。だけど飲食店はオープン前の仕込みがあり、クローズ後の片付けがある。
一虎が働くこの店はカジュアルなイタリアンの店だった。立地がよく、味も悪くないので繁盛している。
美味そうにワインを飲み、料理を食う客は、この店で働く従業員のほとんどが刑務所の出所者だなんて知らない。知っていたら恐らく足を運ばないだろう。そして厨房で悪質なパワハラが横行していると知られたら、この店は閉業に追い込まれるはずだ。もしかしたら罪を犯したのだから、それくらい当たり前という人間もいるかもしれないが。
一虎がこの店に就職したのは十ヶ月ほど前のことだった。服役中に面接を受け、無事に合格したので出所後すぐにこの店にやってきたのだが、怒号が飛び交うさまに驚いて閉口した。
面接をしてくれたのが穏やかな初老の女性だったからギャップが大きかったのだ。よく思い返せば、その人は一虎の適性を見て就職先を斡旋してくれる立場の人だった。
はじめのうちは一虎も店主から殴られたり、蹴られたり、罵られた。ただ不思議と怒りの感情はなかった。
この店主と対峙するとき、いつも一虎のなかにある嵐は凪いでいた。それだけの価値はないと判断したのかもしれない。刑務官や反グレ出身の受刑者に比べれば威厳も圧力もない。ただヒステリックに喚いて暴れているだけだ。一虎にとっては物言う蠅みたいなものだった。
しかし今ではもう店主が一虎に暴力を振るうことはない。
そうなったきっかけはすぐに思い出せる。
窃盗で服役していた加藤のことを店主が「こそ泥」と呼んで詰っていたのを一虎は黙って見ていた。目が合ったとき、店主は顔を歪めて「羽宮はなにやって捕まったんだ? 美人局か?」と聞いてきた。
まさか雇用主が自分の犯罪経歴を知らないとは思わなかったので、一虎はからかわれていると思った。こうやって人の目がある場所で自分の罪を言葉にさせるという嫌がらせなのだろうと。陰険で救いようのないやつだと思った。
「人を殺しました。友達と友達のお兄さんを」
裁判では殺人未遂だった気がするが、自分が場地を殺したのに変わりはない。刺さなければ死ななかった。
胃が熱くなって、喉の奥がつかえる。いつの間にか目を閉じていた。胸のなかに小さな渦が生まれる。小さく息を吐いて、熱を逃して、渦が大きくならないように気をつける。数秒経ってから、まぶたを開けた。
氷のように冷えた空気がそこにあった。その空気を作っているのは手を震わせている店主だった。
「人殺しって、冗談だろ」
店主の声はか細くて聞き取りにくかった。いつものばかみたいな大声はどうしたのだろう。
「冗談じゃないです。知らないわけないですよね」
雇用主なんだから。そう思ったが、店主は首を振るばかりだ。そのあとは青ざめた顔のまま、従業員に後片付けを任せて帰っていった。
「羽宮君、すごい。あいつ帰っていったよ。いつも最後の最後までいびんないと帰んねえのに」
何がすごいのかわからなくて、一虎は首を傾げた。
「羽宮君にびびったんだって! 羽宮君はオレらのヒーローだな!」
そう言って加藤たちは楽しげに片付けを始めた。本来はこんなに明るい青年たちだったのかと、悲しく思うと共に戸惑う気持ちがあった。
こんなに薄汚いヒーローなんているわけがない。
翌日には一虎以外へのパワハラは復活していて、店主の妙な肝の太さに感心した。
その数日後に面接をしてくれた女性から電話が来て知ったのだが、就職を斡旋する団体は雇用主へ出所者の経歴を知らせてはいないらしい。偏見を持って欲しくないから、と女性は言った。つまり店主にとっては寝耳に水だったのだ。パワハラについて報告すれば良かったと気付いたのは、電話を切って一時間以上経ってからだった。
あのとき電話をかけ直していれば何か変わっただろうか。物思いにふけりながら一虎は客を席に案内し、料理を運ぶ。すっかり体に染みついているから、考え事をしても失敗することはなかった。
あと一時間でラストオーダーというとき、ドアについているベルが鳴った。なぜかいつもより音が澄んで聞こえて、思考が途切れる。そちらに目を向けると、細身の男が一人で立っていた。うつむいて、服についた何かを払っている。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
顔をあげた男と目が合う。薄い色の瞳と、つり上がった猫みたいな目を見た瞬間に、ほこりっぽさと男子中学生特有の制汗剤と汗の混じった匂いを思い出した。それから少し遅れて人間を殴打する音が耳の奥で響く。
この男は中学の頃、場地の後輩だった松野千冬ではないだろうか。
「ひとりです。テラス席って空いてますか?」
男の言葉が信号のように脳に届く。一虎はほとんど反射といってもいい速度で「空いています。ご案内いたします」と言った。
テラスの一番奥、虫除けの香が近い席に案内する。考えがまとまらないまま、一虎は今日のおすすめを諳んじた。メニューが決まりましたらお呼びくださいと言い終わる前に、松野千冬らしき男は定番のコースとノンアルコールのドリンクを頼んだ。
にこやかに感じよく対応する様子を見ていると、どうやら相手は一虎だと気付いていないらしい。彼にとってはたまたま入ったレストランの店員なのだろう。そう思えば、幾分気が楽になった。
男はゆっくり食事を楽しみ、閉店時間近くに帰っていった。ごちそうさまですと言った声が涼やかだった。
店主がレジ閉め作業をしている間、一虎は看板を仕舞って各テーブルを拭いてまわった。床のモップ掛けを終わらせて花瓶の水を取り替えたとき、ちょうど店主のレジ閉めが終わったらしく帰っていいと言われた。居残る理由はないので、更衣室で上衣だけ着替える。キッチンから聞こえてくる怒鳴り声をBGMに、正面の出入り口から出た。
「一虎君」
さっきの松野千冬に似ている男が立っていた。
「松野千冬です。覚えてる?」
本物だったんだと思いながら、一虎は頷く。店内から店主のひときわ大きな怒号が聞こえてきた。なんだか恥ずかしい気持ちになって一虎は自分の靴を見た。
松野千冬はなぜ店の前で待っていたのだろう。そんな疑問が湧き上がる。
「もしかしてヤバい店なの?」
松野千冬は遠慮なくそんなことを聞く。
「まあ、パワハラ当たり前って感じ」
「ヤバい店じゃん! ちょうどいいから一虎君、うちで働かない?」
「はぁ? なに言ってんだお前」
自分が慕っていた先輩を殺した人間を誘うやつがいるかよ。松野千冬の意図がわからない。気味が悪くて、一虎は眼前の男を睨み付ける。体の真ん中でごうごうと風が吹き荒れる。
「だってずっとこの怒鳴り声のなかで働くつもり? やでしょ、そんなの」
嫌に決まっている。うるさい蠅と思えど、毎日飽きもせず人間を殴打する音や怒声を聞かされるのはうんざりだった。だからといって急に目の前に現れた人間に縋り付くこともできない。それが因縁のある相手なら尚更だ。
「オレだったらもっと大事にするよ、一虎君のこと」
「大事にって」
なにか裏があるのかも。そう思ったけど松野千冬の目は素直そうな光を放ち、一虎を見つめている。不思議なことに松野千冬の瞳を見ているうちに気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「ちなみにペットショップなんだけど動物アレルギーとかある?」
そういえばずいぶん昔に場地がペットショップで働きたいと言っていた気がする。
松野千冬の執念深さとか、呆れるほどの一途さが垣間見えた。もしかしたらこいつは物事を選択するときに場地ならどうするかという指針を持って決めているのかもしれない。
「できない」
そんなふうに松野千冬が、心に場地を住まわせて大事にしてきたかもしれない場所に、足を踏み入れていいわけがない。
「なんで? アレルギー?」
「だって、オレは場地のこと殺した」
「そんなこと知ってるよ、そこにオレもいたんだし。そのうえで誘ってんの」
「なんで……」
喉が震えた。こんなふうに優しくしてもらっていいわけがない。自分みたいな人間は暴力と罵声が渦巻く地獄で生きるべきだ。
「一虎君は場地さんの大事な人だから。だから守りたいんだよ」
膝から力が抜け、一虎はしゃがみこんだ。この世から去っても尚、一虎を守ってくれる場地の愛情深さと、それをひたすらに継承しようとする松野千冬に打ちのめされた。自分の影が落ちたアスファルトが歪んで見える。
「自分から良くない環境に身を置こうとすんなよ」
肩にあたたかな重みを感じる。顔をあげたら松野千冬が目を細めて笑っていた。こういった優しい微笑みを、他人から向けられるのは久しぶりな気がする。
「一虎君、泣いてんの? 泣くなよ、アラサー」
「うるせ」
涙声がかっこ悪い。なにか拭くものはないかと探していたら、松野千冬にティッシュで目と鼻を拭われた。こんなの年齢が二桁になってからは親にもされたことがない。ガキ扱いかよ。一虎は心のなかでつぶやいて口を尖らせた。
「汚えからいいって」
「犬とか猫と思えばどうってことないよ」
子供どころか動物扱いだった。
「動物にペットショップ手伝わせんのかよ。それともオレを売る気か」
「売れるわけないでしょ、虎なんて。ペットショップの仕事はオレがびっちり教えてあげる。立って」
腕を引っ張られ、立たされた。強引なのに痛くない。
「よし、行くよ」
松野千冬は一虎の腕を引っ張ったまま、レストランのドアを開けた。一体なにをするつもりなのか──。疑問に思うが意外と不安はなかった。
隔たりがなくなると店主の嫌味と従業員たちのすすり泣きが鮮明に聞こえてくる。声につられるように松野千冬はキッチンに進んでいく。
アーチ型の入り口からキッチンの中に入ると水浸しの床の上に加藤や他の従業員が正座をさせられていた。彼らの前に仁王立ちしている店主はこちらに背を向けているから一虎たちに気がついていない。
「てめえらゴミクズはこうされて当然だ」
そう言った店主は加藤に蹴りを入れた。首に入ったから相当痛いはずだ。加藤は床に倒れた。他の従業員は一心に床を見つめて震えている。
耳の奥でざあざあと音がする。頭が重くなって、些細なきっかけで爆発してしまいそうだ。
「すいませーん」
緊迫した空気のなか、松野千冬の呑気な声が響く。耳の奥の音が途切れた。
「誰だ、てめえ」
店主が目を剥いて振り返った。
「羽宮一虎君なんですけど今日付で退職します。ね?」
「やめまーす」
「はぁ? 待てこら」
店主に胸倉を掴まれた。体の中心にある渦が大きくなる予感がした。
隣からカシャと音がする。松野千冬がこちらにスマホのカメラを向けていた。それからすぐに正座を強要されている加藤たちの写真も撮っている。
「これ、労基に送るわ」
松野千冬は撮ったばかりの写真を店主に見せびらかしながら言う。真っ青になった店主がスマホを奪おうと飛びかかった。すんでのところで一虎は松野千冬に伸ばされた腕を掴む。頭のなかに渦を縮小するようなイメージを描いて、手に力をこめる。悲鳴の合間に硬いものが軋む音がした。
「離せ! あーもう、さっさとやめちまえ!」
裏返った声で店主が叫んだ。
「円満退社だね。行こう、一虎君」
未だ店主の腕を握り続けていた一虎の手を、松野千冬が軽く撫でる。途端に空気がほどけた気がした。
「羽宮君」
泣きそうな顔をした加藤たちと目が合った。
「オレやめっから。おまえらもさっさとやめちまえ、こんなとこ」
それだけを言って、背中を向ける。後ろからありがとう、と聞こえた気がした。
外はいつの間にか秋の気配をまとっていた。風がさらりとしていて、どこかで鈴虫が鳴いている。
「一虎君、今からうちの店見に行こう! 明日から出勤できるように」
手首を引っ張られたので、そのままついていく。剥き出しの皮膚に当たる手のひらがあたたかい。
松野千冬はあまりに強引で、熱くて、まるでドデカい嵐みたいな男だということを初めて知った。
「なんの動物が好き?」
初めて会った小学生同士みたいな質問に一虎は大笑いする。
大きい嵐に近付いたせいなのか、体のなかにあったはずの一虎の嵐がいつの間にか消えていた。