きんと空気の冷えた夜。吐く息は白く空は暗い。星明かりに照らされながらぎゅむぎゅむと踏む雪道に、富永は疲れを感じて足を止めた。しっかりとしたコートはあたたかいけれどどうにも重くて仕方ない。早く帰りたいと願いながらも時はしんしんと過ぎていく。
このまま雪に埋もれたら、きっと朝には冷たくなっている。星がゆっくり空を廻るように、この身体では心臓がゆっくり止まるのだろうと詮ないことを考える。今の今まで意識することではなかったが、死にたくないなと肺から息を吐き出した。
まだやるべきことも学ぶべきことも山ほどあって、それをここに降り積もる雪に埋めるつもりはまるでない。頼りない星の光より、ずっと明るい診療所からもれる灯り。目指すべきものがそこにあるのだから行かなければと、富永は凍える足を踏み出した。誰かの足跡に自分の足跡が重なって、それが固められた道になっていく。
自分のよりも少し大きめな靴の形。滑って転んだ跡はさすがにどこにもないようだが、不自然な雪の崩れはマントがこすれた跡だろうかと想像しながら帰路を行く。森の暗さと雪の明るさがまじる夜。途中見かける小さな獣の足跡は、診療所がある方へとのたのた続いていた。
「たぬきかな……」
富永は乾いた唇をふっとゆるめ、その足跡を追いかけるように歩調を少し早くする。頬に当たる風の冷たさも、凍てつく道の歩きづらさも、もふもふとした獣の姿を思い描けば少しは紛れるものだった。ついでにそんなたぬきをお供にしているマントの男を想像すれば、なんだか楽しくなってくる。ふ、ふふ、ともれる笑いが白く大気に漂って、玄関の前に立つまでのわずかな距離を彩った。
「ふぅ、ただいまっと」
小さく呟き靴についた雪を軽く落とす。見るからに冷えきった扉は触れる勇気を試してくるが、身体ごとぶつかるように押し開けてなかに入り込む。人のいない廊下に暖気はろくに感じない。それでも雪も風もないだけ外よりずっとましだった。
コートを着たまま奥へ進む。自室ではなくまず診察室へと足を向け、ドアノブに手をかけた。かちゃりと軽やかに響く音。ここでは足跡は見えないが、なかにいるはずの人のことは、扉越しでも確かに感じられた。
「ただいま戻りましたー」
あらためて、帰ったことを今度は大きな声で告げる。ふわりとあたたかな空気。身体のなかで凍りかけていた血液が、溶けて流れていくような感覚。じんじんと痺れる手を握ったり開いたりしていると、やわらかな声が同じく痺れる耳をくすぐった。
「おかえり、今日は寒かったな」
マントを脱いで、白衣も着ていない夜の姿。部屋着と呼んでいいかは知らないが、くつろいだ様子でコーヒーを飲んでいたKは、湯気の立つカップを静かに置くと席を立った。がたりと椅子が動く音。かすかな衣擦れと、迷いなくこちらへ来る足音。あらゆる音が雪に吸われる外とは違い、ここではひとつひとつの音がよく響く。富永はKという存在が放つ音を深く味わうように耳を傾けた。
「お前もコーヒーで構わないか?」
ゆったりとした足取りが、いまだ扉の前にいる富永の前でついと止まる。台所へは、というよりどこへ行くにもここを通らなければこの部屋からは出られない。だから当たり前ではあるのだが、目の前に迫る身体に思わずどきりとしてしまう。見上げた先で、冬の夜空を丸く切り取ったような青みがかった瞳が瞬いた。
「は……いや、Kにしてもらうなんて悪いですよ。それくらい自分でやりますって」
「だが帰ったばかりでお前の手は冷えているだろう」
Kの指先が、富永のかじかんだ手にそっと触れる。そして握ったままでいた往診鞄をやさしい手つきで奪われた。Kにとってはきっと大事なものであるだろう。そう思わせる丁寧な仕草で片付けていく、ほんの数秒ほどの時間。見守るだけの富永はやはり申し訳ないとも思ったが、そんな恐縮とともに少しだけ実家の母のことも思い出した。世話を焼かれる懐かしさ、あるいは贅沢さを感じながら、Kが戻ってくるのを待つ。
「ほら、こんなに冷たくなっている」
「わ……」
空いた両手を包みこむように握られた。じわじわと移る熱。咄嗟のことで戸惑いというより驚きが喉からこぼれ出たが、それは拒む響きにはなり得ない。手の甲が、指先が、むず痒いけれど心地いいと訴える。与えられるぬくもりに歓喜する。
「は〜Kの手はあったかいっスね」
「うむ、いいだろう」
「?」
「医者の手はあたたかい方がいい、と昔教わったのだが……違ったか?」
「ああ、それはそう、たしかに」
軽い触診をするにも凍えた手では患者に悪い。それに感覚の鈍った指ではメスなどとても握れない。思い返せばあの吹雪のなかで出会ったKがすぐさまオペに踏み切れたのは、この手のあたたかさのおかげでもあると今さらながらに気づかされる。ぎゅう、と握り返すと小さな笑みが降ってきた。
「とはいえお前に熱を分けてやるには足りんがな。さぁ、もういいだろう。しばらくストーブにあたっていろ。その間にコーヒーを淹れてくる」
あっけなく放されて、富永の手は宙ぶらりんに残される。ふたりの溶け合いかけた体温が、雪が解けるように消えていく。
「あ……」
思わず、ドアノブに伸びる手を掴んでいた。Kの視線が向けられる。振りほどかれることはない。ただどうしたと問うその瞳が瞬いて、言葉に詰まる富永を静かに映していた。
「なんだ、やはりコーヒー以外がよかったか?」
紅茶はあったか分からないが、たしか玉露ならあったはずだと真面目な顔がそう告げる。K自身は基本コーヒーばかりの生活のため、それ以外のものはあまり把握してはいないのだ。富永はぐっと唾を飲みこんだ。慣れないことであるくせに、それでも富永を思って選択肢をくれる男にぐわんと心を揺さぶられる。ただ名残惜しさで触れたつもりでいた肌が、もっとと欲を掻き立てる。まずいと思いながらもなんとか理性を手繰って声を絞り出した。
「いや、あの、やっぱりオレが自分でやりますよ」
「……だめだ。かじかんだ手でカップを割るくらいなら別にいいが、それで怪我や火傷をされては困るからな」
「そ、それくらいなら自分でも処置できますってぇ」
「……そういうことではない」
少しだけ拗ねたような声音。おや、と思う間にふいと視線を逸らされる。斜めに見上げる横顔は、ともすれば不機嫌そうにも見えるものの、そうではないことくらいはすぐに察せられた。表情の変化は乏しくとも、感情は存外に分かりやすいのだ。もしKが本気で怒っているのなら、雰囲気はこんなに穏やかなものではない。
「Kェ?」
だから恐る恐る、ではなく純粋な疑問から語尾を上げて呼びかける。冬に閉ざされたこの村で、たったひとり──今はふたりの医者は忙しい。そうでなくとも若く体力のある人間というだけで、それなりに貴重で重宝されるものだ。今日も往診ついでに雪かきの手伝いをさせられた。それはKも変わらないだろう。あるいは富永などよりもっと重労働を引き受けているに違いない。それならなおさら余計な仕事はさせたくないと強く思う。
「あなたの手を煩わせるつもりは」
「……だから、そうではなく」
流れる星がこちらを見た。そんな錯覚を、瞳に煌めく白い光が起こさせた。蛍光灯は瞬きもせず落ちる沈黙を照らし出し、ふたりの重なる影を作り出す。Kの一度開いては閉じ、再び開いた唇をじっと見つめると、富永もまた何か言いかけた口が固まった。音のない時間、触れた肌と肌がじわりと温度を上げていく。
「お前に何かあればやはり俺がやるべきだったと後悔するし、痛まないか、治りはどうかと心配する。患者はお前だけでなく、当のお前はなんでもないと言うに違いないのにずっと気にかけてしまうだろう。だから、困る」
最後の言葉は恥じ入るような響きを帯びていた。富永は抱き寄せたいという衝動のままに一歩を踏み出すが、着たままのコートが少し邪魔だった。頬が寒さを忘れて熱くなる。Kから移された熱が身体のうちで燃えている。
それは、あなたにとって俺が特別ってことですか。掴んだ手首のうち側を親指でそっと撫でるとびくりとKの肩が跳ねた。今はもう、どちらがどちらに熱を与えているのか分からない。
「ぁ、富永……?」
「だめですよ、K。そんなことを言われたら、あなたのために怪我をしてみたくなる」
「な、んだ、それは……っ」
手首から肘のうち側へ、我ながらひどいことを言っていると思いながらもゆっくりと肌に触れていく。隆々とした筋肉は、抵抗の意思を見せないうちはなんら脅威になり得ない。くすぐったそうに上擦る声を上げられると、富永としてはむしろ煽られる心地がする。されるがままでいるKは、あまりにも妄想に都合がいい。どこまで富永を許してくれるのか、試してみたくなってしまう。
「おかしなことをするなら、二度と台所にいれてやらないぞ」
「わぁ、それは困っちゃいますね」
おかしなこと、というのはたった今していることなのか、あるいは怪我をしてみたいと言ったことなのか。Kならばおそらく後者だろうと分かるから、どうにも心配になってしまう。もっと警戒してくれと、ずっとそのままでいてほしい。どちらの気持ちも本物で、どちらも自分勝手と自覚しながら富永は、Kの身体からゆっくりと手を離した。そしてKの代わりにドアを開ける。
「じゃあ、一緒に行きましょう。牛乳余ってましたから、あれでホットミルク作りましょう」
「む……あれはシチューを作る用ではなかったか?」
「あれ、そうでしたっけ。まぁ大丈夫、足りますよ。足りなかったらカレーにしちゃえばいいですし」
そんなことを話しつつ、ふたり並んで廊下を歩き出した。診察室よりはだいぶひんやりしているが、Kがそばにいるからか、不思議と寒さは感じない。途中コートを置きに自室へ寄った富永は、それを待つKが触れられた前腕のあたりをそろりと撫でていたのを見ることができなかった。小さな秘密はため息とともに冬の廊下に残される。
「そういえば、さっきそこでたぬきの足跡見ましたよ」
「たぬき……? そうか、あいつらは冬眠しないのだったか」
「ええ、だからたぶん今の時期だと冬毛でまるっとしてますよねぇ。いいなぁ足跡だけじゃなくそのうち本体も見たいです」
「そうだな。そうめずらしい生き物でもない。そのうち見ることもあるだろう。だが見かけてもあまりおどかすなよ、あいつらは臆病なわりにどん臭い」
「んふふ、Kにびっくりして転んじゃうたぬき、なんだか想像できますね」
戸棚から出したマグカップに、Kがとぷとぷと牛乳を注いでいく。結局、自分でやると言っても聞きいれてもらえなかったがそれはいい。砂糖は好きなように入れろ、と渡されたのを少しこぼしたのでなんの文句も言えはしない。ブゥン、と電子レンジが低く呻る。なんとなくなかを覗いてしまうのを、隣にいたKが真似て腰を屈めてくる。
「今度、Kがオレより遅く、凍えて帰ってきた日はオレがあたためてあげますね」
「……うむ、その時は俺もホットミルクを作ってもらおうか」
そんな日が来るのかはまだ分からない。だがガラスの向こうで回るカップを見ていると、またこうしてふたりで過ごす無為な時間があるように思えてくる。それは上手く言えないが幸福なことだろう。冬のにおいに甘いミルクの香りがまざる夜。すぐそばに、触れられるくらい近くにKがいる、それが何より甘い夜だった。